『ダロウェイ夫人』バージニア・ウルフ/土屋政雄訳(講談社古典新訳文庫)
『Mrs. Dalloway』Virginia Woolf,1925年。
訳者のこだわりにより、ヴァージニアではなくバージニア表記です。
開巻早々ダロウェイ夫人クラリッサが随分とうきうきしています。久方ぶりにピーター・ウォルシュが帰って来る。恋人でしょうか。思春期の乙女を想像していたところ、「五十を超えている」……? この時点ではピーターが本当に存在するのか怪しくなって来ました。妄想ではないのかと疑ってしまいました。
さてヴァージニア・ウルフと言えば、意識の流れです。一人の人間の意識を追うのではなく、街に出たクラリッサが出会う人々の内面を順番に移動してゆきます。さながら街ゆく人々に順番にカメラを向けてゆくミュージックビデオのようでした。
そしてしばらくすると、ピーター登場。元恋人。実在しましたね。このピーターというのが何だか人間くさいというかウザイというか。新しい恋をしていると宣言したかと思えばクラリッサに未練があるような内的独白を始めたり、老いていないと自分に言い聞かせる一方で若者と自分を比較してしまったりと、考えることの取り留めのなさがリアルでした。
著者による自序によれば、「セプティマスは結果的にダロウェイ夫人の分身のような存在」だということです。シェルショックの後遺症に負けたのがセプティマスだとするなら、思い出という過去の後遺症に縛られながらも今を生き続けるのがクラリッサなのでしょう。
意外なことに最後はクラリッサの視点では終わりません。最初にクラリッサの考えていることを妄想ではないかと疑ってしまったくらいですから、飽くまで主観でしかないクラリッサ視点よりは、第三者から見たクラリッサという(ある程度の)客観視点の方がクラリッサの現状を表現し得るということなのでしょうか。
6月のある朝、ダロウェイ夫人はその夜のパーティのために花を買いに出かける。陽光降り注ぐロンドンの町を歩くとき、そして突然訪ねてきた昔の恋人と話すとき、思いは現在と過去を行き来する。生の喜びとそれを見つめる主人公の意識が瑞々しい言葉となって流れる画期的新訳。(カバーあらすじ)
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