『インスマスの影 クトゥルー神話傑作選』H・P・ラヴクラフト/南條竹則訳(新潮文庫)★★☆☆☆

インスマスの影 クトゥルー神話傑作選』H・P・ラヴクラフト南條竹則訳(新潮文庫

 『The Shadow over Innsmouth and Other Stories』Howard Phillips Lovecraft。

 新訳を機に苦手なラヴクラフトに何度目かの挑戦をしました。新訳だけあって読みやすい。日本オリジナル編集。
 

インスマスの影」(The Shadow over Innsmouth,1936)★★★★☆
 ――私はアーカム行きの旅費を節約するため、インスマス経由のバスに乗った。運転手もインスマスの男で、乗客もインスマスの連中しかいないという。駅員によると、精錬所の持主マーシュ老人が百年前に悪魔と取引して生贄を捧げたと噂されているらしい。一八四六年の疫病で大半があの世に行き、暴動が起こってひどいありさまになり、今では三、四百人しかいない。連中のある者は、頭の幅が狭くて鼻は平べったく、決して閉じそうにないギョロっとした眼に、瘡蓋だらけの肌、頸の両脇は萎びた皺が寄っている。それに若いうちから禿げている。年取った連中はもっとひどいが、うんと年寄りは見たことがない。視察に来た人間によると、宿はひどいもので、住人から見張られていると感じたそうだ。

 まずは何度も挫折したこの作品から読みました。収録順では一番最後です。

 冒頭の謎めいた囚人の話や周りの住人から避けられているというエピソードなどは引きとして申し分なく、不穏な空気だけに留まらずまるでミステリーゾーンのようなわくわく感すら覚えました。後半の脱出劇も、なかなか克明に段階を分けて窮地を描いていて、こんな(ある意味で)派手な描写もできるのかと驚きました。ただしそれはクトゥルーの魅力とはまた別の、ごく当たり前のサスペンスの魅力だという気もします。ゼイドック老人が語る〝深海のものら〟への生贄と交配のインスマスの歴史もおぞましい奇譚として興味深いですし、終盤に語り手を襲う事実にしても他人事だった恐怖から自分事へと怖さの質が変わり、手を替え品を替えた様々な恐怖を繰り出して来ることに感心しました。

 けれど肝心の住人たちのおぞましさとなると、やはり独特の文章が受けつけませんでした。いくら言葉では表しがたいものを描いているとは言え「何か」「妙な」「恐ろしい」「名状しがたい」といった曖昧な言葉を多用されては、雰囲気も何もあったものではなくうんざりしてしまいます。そんなだから、かの「インスマス面」や住民たちの描写もやはりピンと来ず、実際に目の前にいたら怖いに決まっていますが、魚や両棲類や人間といった既知なるものの組み合わせでしかないのでは滑稽ですらありました。
 

「異次元の色彩」(The Colour out of Space,1927)★★★★★
 ――アーカムの西にあざれが原と呼ばれる何も生えていない土地がある。私は近くに住むアミ・ピアース老人から当時の話を聞いた。ネイハム・ガードナー農場の井戸近くに隕石が落ちてきたのが始まりだった。その大きな岩は学者が来た頃には縮んでいて、研究室に持ち帰ったビーカーごと消えてしまったという。やがて収穫の時期が来たが、果物はどれもひどい臭いがして、ネイハムは隕石が土を毒したのだと考えた。農場の周りでは畸形の動植物が見つかり、馬が怯えるようになった。そしてガードナー夫人が発狂したという報せが届いた。ネイハムは妻が暗闇の中で光るという考えに取り憑かれた。次に水を汲みに行った次男サディアスが発狂し、「井戸の底で色が動いている」とつぶやいた。

 鬼門だった「インスマス」を克服したあとで、巻頭の「異次元の色彩」に戻って読みました。田辺剛による漫画化『異次元の色彩』で初めて読んで、とんでもない傑作だと驚いたものです。放射線や地球外物質や地球外生命の可能性を留保しつつ、怪異の発現を飽くまで「色彩」という形で表現し切っています。
 

「ダンウィッチの怪」(The Dunwich Horror,1929)★★☆☆☆
 ――ウィルバー・ホウェイトリーがダンウィッチで生まれる前夜、夜通し山鳴りがし、犬という犬が吠えてやまなかった。母親は畸形で白子の女だった。父親が誰かはわからない。祖父に当たるホウェイトリー老人は黒魔術を行うと噂されていて、父親についてこう語った。「あの子供がお父っさん似なら、思いも寄らない顔形になるだろうよ」。ウィルバーは生後すぐに立ち上がり、一年も経たないうちに口を利いた。長じたウィルバーは祖父の遺した「ヨグ・ソトホート」という名前と完全版『ネクロノミコン』を探し始めた。ある深夜、ミスカトニック大学のアーミティッジ博士は犬が吠えるのを聞き、図書館に向かい、悪臭を嗅いだ……。

 これはクトゥルー不得手な人間にはちとつらい。ヨグ・ソトホートや『ネクロノミコン』といったいかにも厨二めいたクトゥルー用語、意味をなさないカタカナの呪文、グロテスクなどろどろの怪物など、あまりにも安っぽさが目立ちます。そうは言っても見えない怪物とそれを可視化させる怪物退治の様子や、引き合いに出された「パンの大神」邪神と人間との交合、そしてそれによって生まれたウィルバーよりさらに父親似だった兄弟という怪物の正体など、見どころもたくさんあるのもまた確かです。
 

クトゥルーの呼び声」(The Call of Cthulfu,1928)★☆☆☆☆
 ――大伯父エインジェル教授の遺品のなかに、彫刻家のウィルコックス青年が見た夢の記述があった。青年は夢に見たまま蛸か龍のようなものを彫った。夢のなかでは「クトゥルー」「ル・リエー」という音が頻出していた。教授は以前、その言葉を聞き、彫り物と同じ外見を見たことがあった。十七年前、警察が邪教の集会で押収した石像の由来を知るため学会に持ち込んで来たのだ。頭は蛸に似て、顔は触手のかたまりであり、鱗に覆われた胴体はゴムのようで、後足と前足に長い爪があり、背には細長い翼が生えていた。大伯父が死んだのは、あまりに多くのことを知りすぎたためではないか。そんなとき私はオーストラリアの古い新聞に、同じ石像の写真が載っているのに気づいた。それはエマ号の乗組員が遭遇した恐ろしい怪物についての記事だった。

 クトゥルーの外見に関する「ゴムのよう」という表現がいまいちわかりません。石像であるからには質感や弾力ではないでしょうし、「rubbery-looking」という原文からも見た目の描写のようです。ゴムとはゴムタイヤのことでミシュランマンのような胴体ということでしょうか。「ダンウィッチ」にあった怪物退治の要素も、「インスマス」にあった脱出劇の要素もなく、ひたすらクトゥルーに淫した作品のため、好きな人にはたまらないのだろうとは思うのですが……。
 

ニャルラトホテプ(Nyarlathotep,1920)★★★☆☆
 ――ニャルラトホテプ……這い寄る混沌……何ヵ月も前、大変動の時節に、人々は不安そうな蒼ざめた顔で歩きまわった。ニャルラトホテプがエジプトから来たのはそんな時だった。古いエジプトの血を引いており、風貌はファラオさながらだった。土地の農夫たちは彼を見ると跪いた。自分は二十七世紀にわたる暗黒の中から立ち現れた者で、この惑星にはない場所からの言伝を聞いている、と彼は言った。

 わたしとしては「ナイアルラトホテップ」という表記が語呂がよくて好きなのですが、語呂がよくて響きがいいのは邪神には相応しくないとも言えそうです。群衆とともに部屋のなかでスクリーンを見たり夜の闇のなかを歩いてゆく無音の悪夢のようなイメージは、夢を題材にしていると言われればなるほどそのまんまでした。
 

「闇にささやくもの」(The Whisperer in Darkness,1931)★☆☆☆☆
 ――私が新聞紙上に書いた怪異についての論文を知って、エイクリーという研究家から手紙が届いた。「怪物のような生き物が実際に棲んでいる証拠を私は持っているのです。あの怪物たちは他の惑星からやって来るものです。人をあの山から遠ざけるために、あなたの主張をこれ以上世間に広めないで欲しいのです」手紙には写真が同封されていた。それからしばらくして、今度はレコードが届いた。森の中の洞窟のそばで録音したというそのレコードには、人間の声と、人間の声を真似るブンブンという声が入っていた。そして最後の手紙が届いた。「私は誤解していた。初めから平穏かつ理性的に話し合っていればよかったのだ。君も来たまえ……」

 相変わらずそれっぽいクトゥルー用語で盛り上げようとするところに萎えます。「異次元の色彩」や「ニャルラトホテプ」のような作品を書ける人が、どうして宇宙怪物の出てくるB級オカルト映画みたいな本篇や「ダンウィッチ」や「呼び声」に辿り着いてしまったのか。とは言えラストシーンのおぞましさ一つで記憶に残り続ける作品ではあります。宇宙人による手術という要素は脳手術のあった「パンの大神」を連想しますし、「ダンウィッチ」同様に影響を受けているのでしょう。
 

「暗闇の出没者」(The Haunter of the Dark,1936)★☆☆☆☆
 ――ロバート・ブレイクは遠い彼方の物恐ろしい教会を、奇妙に関心をつのらせてながめていた。スランプで小説が行き詰まったブレイクは、その教会に行ってみることにした。教会に忍び込んでみると、忌まわしい書物の数々と人間の骸骨があった。紙入れにはメモが残されており、どうやら幽霊の噂を探るべく教会に侵入した新聞記者であるらしかった。部屋には金属の箱がり、箱の中には赤い縞の入った黒い多面体の石が収められていた。ブレイクはふと、形を持たぬ異界の存在が石を通して視覚とは違う認識力によって自分を見ていたことに気づいた。

 ニャルラトホテプの化身に魅入られた、ということらしいのですが、相変わらず思わせぶりな描写で勝手に盛り上がってるなあという印象です。

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