『大いなる眠り』(3~4)レイモンド・チャンドラー/村上春樹訳(ハヤカワ・ミステリ文庫)
『The Big Sleep』Raymond Chandler,1939年。
ヴィヴィアンに呼ばれたマーロウは、将軍の依頼はラスティー探しなのではと探られるが、ヴィヴィアンの高飛車な態度が腹に据えかねた。マーロウが脅迫者ガイガーの店に行くと、店にはセックス・アピールを振りまく女がいた。包みを持った客が店に入ってきて、別の包みを持って店を出たのを尾けてゆき、マーロウは包みを手に入れた。
第3章。
ヴィヴィアン・リーガンに呼ばれて部屋に入ったマーロウ。屋敷の色づくしから一転、モノクロの世界です。屋敷の描写と反したものにすることで、将軍の言うことなど聞かない跳ねっ返りであることを示唆しているかのようです。ヴィヴィアンの服の色が書かれていないのは意図的でしょうか、次に色が登場するのは指のエメラルドでした。この章だけで三度も脚に言及していることからも、マーロウにとってはヴィヴィアンとは生意気な性格の美しい脚の持ち主でしかないのでしょう。将軍に対するものとは違い、受け答えもかなり素っ気ないものです。
それにしてもヴィヴィアンが行方不明になった夫のラスティーを気にしているとは意外です。これだけ高慢ちきで自分中心っぽいのに。とにかくこれでマーロウは、ヴィヴィアンとカーメンの双方に関わることになってしまいました。
双葉訳では「背は高く、色は浅黒く、好男子のけだものさん」は、村上訳では「まったくもう。あなたは大きくて、ハンサムで、どす黒い獣みたいなやつ」。原文では「My God, you big dark handsome brute!」です。「どす黒い」は外見にも内面にも使えるいい表現だと思います。
「"That wasn't what he wanted with you at all," she said in a strained voice that still had shreds of anger clinging to me. "About Rusty. Was it?"」の前半の台詞が平叙文なのか、「Was it?」まで繫がった付加疑問文なのかで訳し方が違って来るのだと思いますが、少なくとも双葉訳のように「That」は「ゆすりのこと」ではないと思います。ヴィヴィアンは依頼の内容を知らないはずです。
「"They found the car in a private garage somewhere."/"They?"」。普通こういうTheyは訳さないので、双葉訳は「あとで自動車はどこかの私用車庫でみつかったわ」「誰がみつけたんです?」としたのに対し、村上訳は「彼らはとある家のガレージでその車を見つけた」「彼ら?」と原文のやり取りを活かしています。
村上訳にしても双葉訳にしても、「段丘を抜けて」「テラスの間をぬけ」となっていてterraceとフェンスの位置関係がわかりづらかったのですが、原文だと「from terrace to terrace」でわかりやすかったです。
第4章。
相手に舐められないように虚勢を張るのはわかります。けれどどうでもいい場面でも「それが価値のあるものなのかどうかまではわからなかった。未払いの請求書を別にすれば、骨董品の蒐集にとくに興味はない。」というひねくれた言い方をしてしまうところにニヤニヤしてしまいます。
店の入口が奥にあり、ウィンドウの奥には屏風が立てられていて、しかも暗いから店内をうかがうことが出来ない――とくれば、屏風の奥では店長が死体になっていたという展開を予想しましたが、そんなことはありませんでした。
店とその周辺の間取りがよくわかりません。
「A・G・ガイガーの書店は、ラス・パルマスに近い大通りの北側に、道路に面してあった。入り口のドアは中央のかなり奥まったところにあり、ウィンドウには銅の縁取りが施され、その奥には中国製の屛風が立てられていた。だから店内をうかがうことはできない。(中略)入り口のドアはガラスでできていたが、内側はやはりほとんど見えなかった。店内が暗すぎたせいだ。店の片側にビルディングのエントランスがあり、それを挟んで反対側には、派手ばでしい割賦販売の宝石店があった。」
A. G. Geiger's place was a store frontage on the north side of the boulevard near Las Palmas. The entrance door was set far back in the middle and there was a copper trim on the windows, which were backed with Chinese screens, so I couldn't see into the store. (...) The entrance door was plate glass, but I couldn't see much through that either, because the store was very dim. A building entrance adjoined it on one side and on the other was a glittering credit jewelry establishment.
日本語訳を読んだ時点では、ガイガーの店はビルのテナントの一つであるようにも読めたのですが(双葉訳では「この建物への入口があり」とあり、そのようにしか読めません)、その場合だと「ビルのエントランス」は「A building entrance」ではなく「The building entrance」になるような気がします。「A building entrance」とあるからには、このビルのエントランスはガイガーの店とは別の建物のもので、マーロウはガイガーの店の道路から奥まったドアの前に立ち、(例えば右)には隣のビルのエントランスがあり、(例えば左)隣には宝石店がある、という立地なのでしょう。
それにしても、店にいた女のこれでもかという外見描写と比べると、ヴィヴィアンへの視線と態度はまだおとなしかったのだとわかります。よほど派手な女なのでしょう。
女の「腿が長く」というのがイマイチわからないのですが、双葉訳でも「股(もも)は長く」で、原文でも「She had long thighs」でした。単純に足が長いということなのか、ミニスカートということなのか。少なくともスタイルの良さを表しているのは確かであるようです。
村上訳「玉縁をつけたようなまつげ」、双葉訳「まつげは数珠みたい」とあるのは、原文では「beaded lashes」。さすがにまつげの状態として玉が連なっているのはおかしいので、ここは「玉縁《たまぶち》」であり、ごてごてしすぎて太い線みたいになっているということでしょうか。
村上訳「そんな身なりにもかかわらず、女にはどことなくホテルの安部屋を思わせるところがあった」、双葉訳「そのスタイルにもかかわらず、ひどく閨房のにおいをさせている感じだった」。「ホテルの安部屋」と「閨房」ではだいぶ違いますが、原文では「In spite of her get-up she looked as if she would have a hall bedroom accent.」。「hall bedroom」は「廊下の端を仕切った小寝室」(リーダーズ)、「廊下の端にある小寝室」(ランダムハウス)とあるので、見た目はゴージャスなのに雰囲気は粗末ということのようです。『The Annotated Big Sleep』の註釈によると、「An accent associated with it would be lower-class;」とあるので、まさに村上訳のように「安部屋」そのものなのでしょう。
このときのマーロウがサングラスを掛けているという情報が唐突に飛び出しました。「声を高くし、そこに小鳥のさえずりのような響きを加えた」ともあることから、サングラスも探偵であることを隠す効果があるという位置づけのようです。それにしても、どういう声なんでしょうね。マーロウが実際にこんな声を出していたとしたら笑ってしまいますが、恐らくは実際にさえずっているわけではなく、「声音を変えた」と言いたいのを、いつものようにひねくれた言い回しで表現しているのではないかと思います。
マーロウが書店の在庫をくさす台詞が、村上訳「色彩も安直、一丁上がりのやっつけ仕事で、一山いくらの値打ちしかない」で、双葉訳「陳腐だよ」とあまりにも違うので訳し洩れか補い訳かどちらかかと思いましたが、原文は「tuppence colored and a penny plain. The usual vulgarity.」で、前半は「色がついていようと無地だろうとどうせどっちも安物」という意味合いの慣用句なので、双葉訳が後半と一つにまとめて「陳腐だよ」にしたのも理解できます。
村上訳「おたふく風邪にかかった議会の長老みたいにぷりぷりしていた」、双葉訳「仏頂面の市参事会員みたいに憤慨していた」も訳によってだいぶ印象が異なります。原文は「She was as sore as an alderman with the mumps.」。「alderman」とは「a senior member of a local council who was elected by other councillors.」(Collins COBUILD)ですが、このseniorとは年長ではなく上級という意味のような気がします。いずれにしてもチャンドラーがわざわざイギリス英語の「参事会員。議員から選ばれた長老議員」を使ったのではなく、アメリカ英語の「市会議員」の意味で書いたと考えた方が自然です。「mumps」は「おたふく風邪」、もしくは古い英語で「不機嫌。渋面」、どちらにしてもほっぺたを膨らませた状態ですね。説明的に訳すなら、「彼女がいらだっているのがわかった。議員みたいなしかめ面を、おたふく風邪みたいに膨らませていた」のような感じでしょうか。
マーロウが探りを入れたことにより、「彼女は稀覯本のことなど、私が蚤のサーカスの運営方法を知らないのと同じくらい、何も知らないのだ」ということがわかりました。もとより脅迫者の店に来ているのですから、ただの書店だとは思っていなかったでしょうが、マーロウの読み通り女は少なくとも書店員としてここにいるのではないようです。
ガイガーの店のあるラス・パルマス付近と、マーロウが尾行したハイランド・アヴェニューですが、どちらの通りも南北に長い道路なので正確な場所は見つけられませんでした。
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早川
創元
Annotated