『女性とジェンダーと短歌 書籍版「女性が作る短歌研究」』水原紫苑編(短歌研究者)
タイトルに「書籍版」とある通り、雑誌『短歌研究』2021年8月号でおこなわれた特集の増補版です。
「巻頭提言」水原紫苑(2021)
「ムッシュ・ド・パリ 作品一〇〇首」大森静佳(2021)
ムッシュ・ド・パリとは首切り役人の通称であり、ユゴー『死刑囚最後の日』がエピグラフとして掲げられているほか、ギロチン等に言及した作品も幾つかあります。「切り株を木のくるぶしとおもうときくるぶしばかり捨てられた森」「ギロチンの刃って濡れたら錆びるから雨の日だれもかれも首ある」。
「両手をあげて、夏へ 作品一〇〇首」小島なお(2021)
「「ジェンダー」という語の出現と女性の歌」阿木津英(2021)
フェミニズムにおいては、地母神信仰のようなものに対しても女性を母性という型に嵌めているという批判的なスタンスのようです。ただ、エポックメイキングとされる著者の「産むならば世界を産めよものの芽の湧き立つ森のさみどりのなか」という短歌の凄さがよくわかりません。恐らくは「すべてを産む」「何でもあり」「何事からも自由である」というようなニュアンスなのでしょうが、創造神話が男神によるものであることに対するただのカウンターに読めてしまいました。短歌という日本古来の伝統芸能に対し、欧米由来のジェンダー理論をそのまま当てはめることへの躊躇いは、実作者ならではのものでしょうか。
「短歌と僕の生/性について」黒瀬珂瀾(2021)
さすがに個人的すぎると感じました。よくわかりません。
「対談 歌と芸」馬場あき子と水原紫苑(2021)
調べだったり歌の巧い下手だったり男歌や女歌だったり、どうも言っていることが個々人の主観に左右されるようなことばかりで、阿木津論にもあったような欧米由来のジェンダー理論――というよりも学問全般と、短歌の相性は悪そうです。古来優れた女性歌人は大勢いたが歌論を書いたのは男性歌人だったという指摘は目から鱗でした(実際には女性も書いていたそうですが)。当事者がその場にいるこうした対談等では仕方ないことですが、司会者や水原による「馬場あき子すごい!」は興醒めでした。
「素粒子と母 作品三十首」大滝和子(2021)
母親が自分より早く生まれたという当たり前のことを、「ほんの少しだけ私よりビッグバンに近く生まれた母がいない」と、一見無駄にも思えるほど大きなスケールで表現することで、母親の不在もまた大きく感じられます。そしてまた、一首目や二首目で素粒子やビッグバンという言葉を使ったことで、三首目「母のベッドの分解ふせぐ捻子八つ静止しながら光源のよう」にある「ベッドの分解」が、ネジがはずれてバラされるのではなくまるで分子的に分解されたかのように見える効果を上げていました。
「侵される身体と抗うわたしについて」石川美南(2021)
「夢という刃――『幻想と人間』考」川野芽生(2021)
「母という円環を出なかった人・鷗外」今野寿美(2021)
「名誉男性だから」瀬戸夏子(2021)
「「恋の歌」という装置」平岡直子(2021)
恐らく「「郷ひろみの台詞だ」と聞いても歌の情緒がとくに減らないことへの驚き」というのは著者の歌作り観に基づくかなり個人的な感覚ではないでしょうか。本来創作なんてそういうものだとは思うのですが。
「世界文学としての短歌の可能性」堀田季何(2021)
それだけ世界への短歌の紹介が遅れているということなのでしょうけれど、今さらそんなレベルの話なの?と感じてしまいます。
「「パリイ」との遭遇、与謝野晶子の場合」松平盟子(2021)
「紫式部の娘、ヴァージニア・ウルフの妹であるわたしたち」森山恵(書き下ろし)
「片足立ちのたましひ 作品五十首」水原紫苑(2021)
表題作「スペインの騎士に見ゆる朝󠄁な朝󠄁な片足立ちのたましひとして」も、相変わらず難解です。スペインの騎士というとドン・キホーテですが……。一連の歌に詠まれているのは、戦争、コロナ、沖縄戦などであるので、これもそういった関連で解釈すべきなのでしょうか。
「対談 女性たちが持つ言葉」田中優子と川野里子/司会:水原紫苑(2021)
それまで宮廷を中心とした人々の作品だった短歌が、近代になっていきなり普通の人々の声としての短歌になるというのは、言われてみればその通りでした。
「昼と夜と星」飯田彩乃(2021.11)/「月と女」飯田有子/「リフレン、リフレン」井辻朱美/「花・野原・魚の腹」井上法子/「紺の髪ごむ」今橋愛(2021.11)/「むらさきの海」梅内美華子/「アップデート」江戸雪/「二人称」大口玲子/「花の企み」尾崎まゆみ/「篩」小原奈美(2021.11)/「シャドーロール」帷子つらね/「Aとa」川島結佳子(2021.10)/「サービスタイム」川谷ふじの(2021.11)/「変身」北村あさひ/「十韻」小池純代
「地に足を」佐伯紺(2021.11)
夢のなかなのに、いや夢のなかだからこそ、喉の痛みも肉体も脱ぎ捨て声だけに凝縮されたかのような思いが力強い、「叫ぶ夢だったあなたに会いたさを声に全振りした棒立ちで」。恐らく別れがあったのでしょう、それでも人は慣れることができると自分に言い聞かせるつもりで、よりにもよって人は離れると噛んでしまって自爆てしまう、「人は慣れる生き物だから 舌を噛む 人は離れる生き物だから」。「隠し場所にされて困っている森に気負わなくてもいいという土」の歌で、隠されたものは何だったのでしょう。いずれにしても、やがて朽ちるのだからと土は諭しているようです。「橋からは電車が見えて玉結びせずに縫いそこなった夜たち」。ほどけたほころびから光が見えているのでしょうか。
「Geschichte」榊原紘/「いつまであをい」笹原玉子/「春の海まで」佐藤モニカ(2021.11)/「はなばなに」佐藤弓生/「琴線」白川麒子(2021.11)/「花咲く乙女たち」菅原百合絵(2021.11)/「雨と白雷」高木佳子/「馬前に死す」田口綾子/「内線表」竹中優子(2021.7)/「リノリウムの床を濡らす」立花開(2021.7)/「紐を引いて」田中槐(2021.11)/「冒頭の杖」谷川由里子(2021.10)
「花降る」田宮智美(2021)
日常を詠んだあるある系とも言える作品のなかで、ある種のエグさというか棘のある作品の方がやはり心に引っ掛かります。「新人をパートが潰すと転職のたび同じ愚痴吐きおり友は」というそれこそ愚痴のような内容よりも、「履歴書の写真しかない二十代のわたしに生えていたのか脚は」という過去を見つめる視点にこそ共感を覚えました。
「夏至を終え」塚田千束(2021.11)/「退路」道券はな/「存在しない音が聞こえる」戸田響子/「ゆうがたの風」富田睦子/「残火」鳥居(2021.11)/「うすめる」永田紅/「二盃口」野口あや子/「そらみみ」花山周子/「アンチ・アンチ・クライスト」初谷むい(2021.10)/「その後の僕ら」早坂類/「夏の噓」林あまり/「夜が明ける前に」松村由利子
「霧と空港」松本典子(2021.10)
霧と空港というありがちな取り合わせのなかから、カブール国際空港のテロ事件が飛び出して来ました。「しがみついた米機から堕つサッカーを続けたかつた十六歳のゆめも」という歌自体は表現としてありきたりの部類に入るのでしょうが、空港という共通項で何でもない風景と並べられ結ばれることで異化されていました。
「真夜中の偏食家たち」睦月都/「狼煙」盛田志保子/「くわうこん」柳澤美晴(2021.11)
「甘夏」山木礼子(2021)
ただの風景描写のような作品から始まりながら、何かが、どこかが、危うい作品群です。「この式は正しいでなく危ないの意として記される赤い丸」とはどういう状況なのか。「スリープに入りし画面を膝のうへ揺り起こしては働くよ、まだ」だけなら仕事で疲れているだけですが、その次に「もういいよだれも返事をしないならメロンひとりで食べてしまうよ」と来られると、もう体力的精神的に限界が来ているのではないかと思ってしまいます。
「メルヘンと慰霊塔」山崎聡子/「宇宙一の宝」雪舟えま(2021.11)/「層」横山未来子(2021.11)
「長恨歌」紀野恵(2021)
白楽天『長恨歌』を題材に、楊貴妃(玉環)と玄宗皇帝(降基)を中心にして短歌の形で歌われています。玉環、降基(武則天の孫)という表記からもわかるとおり、一個の人間の生の声として再話(?)されていました。
「座談会「現代短歌史と私たち」」穂村弘・大森静佳・川野里子・永井祐・東直子・水原紫苑(2021.11)
この座談会は特集号とは別の号に掲載されたものなので、直接的にはジェンダーとは関係ない内容です。穂村「塚本だって、晩年は歌に余裕があって皮肉おじいさんみたいなところが出てくるけど。(中略)ずっとリスペクトされるようなぎりぎりした感じでいてほしいの?(以下略)」、水原「塚本さんや山中さんにはぎりぎりでいてほしかったなあ。(中略)本当の理想は、ギリシャ悲劇の主人公みたいに、人間の孤独な誇りで残酷な神々に立ち向かって斃れることなの」というのは、まあわかるというか、世間一般の塚本のイメージとはそういうものだろうし、短歌に限らず、ファンとしてはファンになったとんがっていたころを貫いて欲しいというのはあります。
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