『逃走迷路』(Saboteur,米,1942)★★★★☆

 アルフレッド・ヒッチコック監督。ロバート・カミングス、プリシア・レインほか出演。

 ヒッチコック映画を続けて鑑賞。『疑惑の影』と比べると格段にサスペンスに富んでいました。

 工場の波板壁の背景に男の影が少しずつ近づいてくるオープニングクレジット、そして本篇が始まり火事が起こると、同じ工場の壁を背景にもくもくと黒い煙が画面を覆い尽くす場面を初めとして、かっこいいシーンや印象的なシーンがいっぱいです。

 記憶とともに画面に浮かび上がる、フライの手紙の宛名。

 テロ組織に追いつめられて舞踏会場でダンスをしてやり過ごしながら対応を考える場面の優雅さ。

 監禁場所を知らせるために部屋の照明を明滅させるという機転には思わずアッと声をあげました。白黒の画面のなかで一点だけがチカチカと瞬いている様子は、まるで啓示の光のようで、ゾクリとしました。

 自由の女神の松明の上という意表を突く場所でのクライマックスには、高所恐怖症でなくとも生理的恐怖を催されます。そしてそれが無音という効果音と結びついて、見ていて気が気ではありませんでした。

 軍用機工場から出た火を消そうと現場に向かったケン・メイスンとバリー・ケインは、フライという男から消火器を受け取り、鎮火しようとしたが、直後に工場は炎に包まれ、ケンは亡くなってしまった。悲しみにくれるバリーだったが、警察の調べで消火器からガソリンが見つかり、ケンに消火器を手渡したバリーに破壊活動の容疑で逮捕状が出されることになった。事件後に姿を消したフライを見つけるため、バリーは警察の目を逃れ、フライが落とした封筒の宛名にあった住所を目指す。親切なトラック運転手、盲目の老人、移動サーカスの団員たちらの助けを借り、老人の姪パトリシアと恋に落ちながら、追っ手から逃れ、真犯人に近づこうとするが――。

 1942年という製作年を見れば、ファシズムの信奉者であるテロ組織幹部や、バリーがぶちまける愛と憎しみについての演説などが、今とは比べられないほどの重みや迫真性を持っていたであろうことは想像できます。面白いのは、テロ組織幹部でもあり牧場主でもあるトビンが語るファシズムの理想が、全体主義による効率的な「自らの金儲け」にある点です。ここらへんが、腐ってもアメリカ、という感じですが、このおかげで、本来的な意味の「ファシズム」に留まらず、たとえば「ブラック企業」などにも通ずる現代性を持ち得ている、と思うのは穿ちすぎでしょうか。

 バリーが語る「愛」の側を代表する人々が、トラック運転手や盲人やフリークスなどの社会的弱者ばかりなのは、富豪夫人や牧場主がテロ組織の一員であるのとは対照的です。

 幹部であるトビン(オットー・クルーガー)の嫌味ったらしさといい、真犯人フライ役のノーマン・ロイド(『いまを生きる』の校長先生!)が、小者のプーチンみたいでいい味だしているほか、実行犯に指示を出す背広組のフリーマン(アラン・バクスター)が、クールな大物ぶりから一転、トビンの前に出ると途端にドジっ子みたいになるところなど、組織の人間が個性的で、こういう見ていて飽きない役者さんたちは良いです。

 映画のラストに裁判や説明を延々と続けるわけにはいかないので、多くの映画では「犯人の自白」や「犯人の死亡」をもって、「すべてが丸く収まった」という印にしているのだ、という約束事はわかるのですが、それにしてもあまりにも唐突すぎてすっきりしないラストでした。結局テロが成功してしまっていることもあるし、これはハッピーエンドではなく、「戦いはまだまだ続く……」的なラストなのかもしれません。

  


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