『グランド・ブルテーシュ奇譚』オノレ・ド・バルザック/宮下志朗訳(光文社古典新訳文庫)★★★★☆

『グランド・ブルテーシュ奇譚』オノレ・ド・バルザック宮下志朗訳(光文社古典新訳文庫

「グランド・ブルテーシュ奇譚」(La Grande Bretèche,Honoré de Balzac,1832)★★★★★
 ――わたしはグランド・ブルテーシュ館の荒れ果てた庭を散歩するのが好きだった。ところがある日、ヴァンドームの公証人ルニョーがわたしの前に現れ、私有地を散策するのをやめるよう伝えられた。メレ伯爵夫人の遺言により、死後五十年は屋敷をそのままの状態にしておかなければならないという。伯爵夫人は優しい人で、伯爵はやや短気な人だった。わたしは事情を知っているらしい下宿のおかみさんルパにたずねた。以前、下宿に連れてこられたスペインの戦争捕虜がいなくなったことがあったという。逃亡したと思われたが、メレ伯爵夫人が大事にしていた遺品の十字架が、そのスペイン人の持ち物とよく似ていたという。わたしは伯爵夫人の小間使いロザリーに話を聞きに行った。

 勝手に思い描いた幻想のメッキが剥がれることを「わたし自身が作り勝手に酔いしれていた未発表の詩の数々を失うことになる」と形容するその表現自体が、詩的な語り手の性質をずばり表していました。風見がきしむ音を不吉の前兆として描くのも、ベタですが効果的です。公証人の長広舌や衒いを見抜いたうえで上手く乗せて話を聞き出すなど、皮肉とユーモアと機知に満ちていて、そもそもの語り手の(つまりはバルザックの)語り口が魅力的なので、いつまでも読んでいられます。そんな軽妙な語りとは裏腹に、軽々しい誓いの言葉と、過ちを絶対に許さない暗い意思とから生まれた残酷な復讐が待ち受けていました。恐怖譚としての切れ味もさることながら、どちらの気持ちも幾分かは理解できてしまうからこそのやりきれなさみたいなものもありました。
 

「ことづて」(Le Message,1832)★★★★☆
 ――乗合馬車の屋上階で乗り合わせた青年と、四十代の恋人の魅力について花が咲いた。顚覆した馬車から落ちて下敷になって死んでしまったその青年の遺言を守って、わたしは伯爵夫人に青年のラブレターを返しに行った。モンペルサンの城館に着くと、わたしの姿を見た可愛らしい少女が「お母さま」を呼びに行った。夫は田舎風の良識と愚かさとが絶妙に混じり合っていた。ところが伯爵夫人は亭主とは好対照を成していた。わたしはまず伯爵に、伯爵夫妻の知り合いである青年の死を伝えた。それから次に、「あなたをジュリエットと呼んでいる者の代理できました」と伝えただけで伯爵夫人は察したようだった。ジュリエットは食事の席に現れなかった。

 若者特有の真っ直ぐな恋愛感情と、それを受け止める中年女性の純愛とにまつわる悲恋――ではあるのですが、そこに本来であればコキュたる伯爵の病気ゆえの爆食いの描写が加わるため、何だかへんてこな印象の話になっています。コキュの哀れさを和らげようという意図だったとするともうちょっと書きようがあったと思うので、徹底的にぼんくらに書こうということなのでしょう。
 

「ファチーノ・カーネ」(Facino Cane,1836)★★★★☆
 ――当時のわたしは場末の町に住んでいて、住民の様子や性格を観察しに出かけていた。観察眼は直感の域にまで達し、相手の精神のうちに忍び込んでいた。あるとき家政婦の妹が結婚するというので、祝宴に招かれた。そこで演奏していた楽団は、盲人院の三人の盲人で構成されていた。わたしはクラリネット奏者に興味を持った。ヴェネツィアの貴族の出でファチーノ・カーネの末裔ゆえに総督と呼ばれていた。総督はなぜ財産と視力を失ったのかを聞かせてくれた。若い頃、十八歳の人妻に惚れてしまった彼は、逢瀬を亭主に見つかり……。

 共感力の高い語り手が、荒唐無稽な打ち明け話に興味を持つという形を取ることで、噓くささが緩和されている――というわけでもありませんね。名家の末裔で、殺人者で、女好きで、黄金好きと盛り沢山にもほどがあります。とは言え自分の嗅覚以外の手がかりはないが何処かにあるはずの財宝というのはロマンがありました。
 

「マダム・フィルミアーニ」(Madame Firmiani,1832)★★★☆☆
 ――あなたがフィルミアーニ夫人について人にたずねてみたとしよう。人によって見解は異なり、それぞれのフィルミアーニ夫人が存在するだろう。大農場主ド・ブルボンヌ氏は夫人のことをよく思っていなかった。甥っ子のオクターヴ・ド・カンが土地を処分してしまったのだが、件の女性に金を使って破産したあげくに家庭教師にまで落ちぶれたという噂を聞いたからだ。伯父は夫人に会って噂を確かめたうえで、甥っ子にも説明を求めたところ、意外な事実を聞かされ……。

 様々な人々の証言が食い違っている人物の真実の姿――というと面白そうなのですが、後半で明らかにされたその真実の姿というのが……。著者はこれを美談のつもりで書いているのか、皮肉っているのかすらよくわかりませんでした。
 

「書籍業の現状について」(De l'état actuel de la librairie,1830)★★★☆☆
 ――印刷術が誕生した時代、書籍商は尊敬すべき学識者であったのに、十九世紀の書籍商はあまり敬われない人間に堕してしまった。一八一五年になって出版元の資金繰りと書物製作の必要性とのあいだに大きな変化が生じた。ゆきすぎた信用貸しが横行したのだ。

 タイトル通りの問題提起をおこなったエッセイです。出版・取次・小売という形態は、印刷術が広まって発行部数が多くなればやむを得ない部分はあると思うのですが、確かにバルザックが言うように、三つの形態を通せば、三重の「租税」が掛かっているというのもまた事実ではあります。

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 グランド・ブルテーシュ奇譚 『グランド・ブルテーシュ奇譚』 

『大いなる眠り』(1~2)レイモンド・チャンドラー/村上春樹訳(ハヤカワ・ミステリ文庫)

『大いなる眠り』(1~2)レイモンド・チャンドラー村上春樹訳(ハヤカワ・ミステリ文庫)

 『The Big Sleep』Raymond Chandler,1939年。

 2014年刊行。カバーデザイン:坂川栄治+坂川朱音(坂川事務所)。

 創元推理文庫版は1959年初版。カバー撮影:板橋利男、カバーデザイン:小倉敏夫。

 長篇第一作。旧訳と同じ邦題なのは旧訳が早川書房ではないので差別化の必要がないからかと思ったのですが、訳者あとがきによると「個人的にこの訳題に馴染んでしまっている」からだそうです。

 まずは第1章と第2章。村上訳はわりと直訳調のイメージがあったのですが、場面によっては意訳したり説明的に訳したりと、いろいろ訳し分けていました。また、意味のわからない譬喩を無理に解釈せず、原文通りに訳す傾向がありました。アメリカ人が読んでわからない文章を訳すのなら、日本人が読んでわからない文章にするのが確かに正解なのでしょう。

 フィリップ・マーロウはスターンウッド将軍の屋敷に招かれた。将軍には、離婚を繰り返しているヴィヴィアンと子どものように残酷なカーメンという二十代の二人の娘がいた。そのカーメンがギャンブルで負けて証文を取られ、金を払うよう脅迫されている――というのが将軍の依頼だった。
 

 第1章。

 記念すべき初登場。「I didn't care who knew it.」は「さあ、とくとご覧あれ」と意訳している一方で、「I was calling on four million dollars.」は「資産四百万ドルの富豪宅を訪問する」とかなり説明的に補って訳しています。さすがにここまで説明しなくても伝わると思うのですが。

 インド象の大群だってくぐり抜けられそうな入り口扉」とはまたなんとも馬鹿馬鹿しいまでの、まるでお伽噺のような富豪(というより王様)描写です。もともとチャンドラーには、「まつげを、ほとんど頬にぴたりと寄り添うところまで下ろした」というような大げさな表現傾向があるので、ここもただの大げさな表現である可能性もありますが、少し先には「エメラルド色の芝生」「真っ白なガレージ」「黒いゲートル」「黒髪」「えび茶色の」というファンタジックな色彩の洪水があることを考え合わせると、それこそお伽噺のような現実感のないほどの大富豪であることを印象づけようとする意図がありそうです。

 その入り口扉の上にあるステンドグラスを見て、「もし自分がこの家の住人であれば、騎士を助けるために、いつかそこまで上っていくことになるだろう」という感想を持つのは、この時点では依頼の内容は不明ながら、ヒーローがヒロインを救いに行くといういかにも私立探偵小説らしい要素のメタファーではないかと、思わずにはいられません。

 肖像画を見たマーロウが感じる、「スターンウッド将軍自身であるはずはない。たとえ将軍がこの何年かの間に、未だ危機をはらんだ二十代の娘二人を抱えるにしては、いささか老いぼれてしまったという噂を私が耳にしていたとしてもだ。」というのは、チャンドラーらしいひねくれた言い回しです。本書のなかでこうしたひねくれた言い回しが出てくるのはこの場面が最初なので、そういう意味ではそこそこ重要な場面だと思うのですが、ここはさすがに新訳によって仮定法過去完了が正しく訳されていました。「It could hardly be the General himself, even though I had heard he was pretty far gone in years to have a couple of daughters still in the dangerous twenties.」双葉訳では「将軍自身ではあるまい。彼はちかごろ、まだ悩ましき二十歳台の娘を二人もかかえているにはぼけすぎた、といううわさだ。」でした。

 それに続いて、カーメン・スターンウッドが登場してマーロウが初めて読者の前で言葉を発する、これまた重要なシーンがあるのですが、「背が高いのね」「それは私の意図ではない」ではいくら何でも直訳すぎだと思います。ここは双葉訳の「背が高いのね」「僕のせいじゃない」の方がしっくり来ます。

 名前をたずねられたマーロウが名乗った「ドッグハウス・ライリー(Doghouse Reilly)」にはどういう意図があったのでしょう? 「犬小屋(ドッグハウス)」の方は、カーメンの目つきに感じた「床に仰向けになり、四つ足を宙にばたばたさせ(ようとしている)」という表現を先取りしたものではあるのでしょう。時系列よりも、飽くまで小説的なレトリックを優先させた表現だと考えます。ライリーの方はどこから思いついたのか不明です。双葉訳だと「ダグハウス」「亀の子みたいに空中に手足をつっぱらせ」とあり、だいぶ印象が違います。

 そのカーメンの目つきを、「それが意味するところはわかる。そういう目つきをされると、私は床に仰向けになり、四つ足を宙にばたばたさせなくてはならないのだろう」とマーロウに語らせることで、カーメンが自分のことを魅力的で権力があると自覚している(少なくとも語り手にそう思われている)ことがわかります。「親指を上げ、それを嚙んだ」という幼児性と併せて、小悪魔的なキャラクターであることが伝わって来ます。

 マーロウが探偵だと聞いたカーメンとのやり取りは、双葉訳の方が直訳に近いです。"You're making fun of me."/"Uh-uh."/"What?"/"Get on with you," I said. "You heard me."/"You didn't say anything. You're just a big tease."。「Get on with you.」をどう解釈するかですね。双葉訳は辞書の語義通りに「あっちへ行きたまえと言ったんだ」と捉え、村上訳ではそこまで強い意味ではないと捉えて「You heard me.」を活かす形で「からかってはいない」と意訳したのでしょう。それはそれとして双葉訳の「うふう」はインパクトがあります。

 執事の目の描写「He had blue eyes as remote as eyes could be.」、村上訳「瞳はブルーで、それ以上は透き通れないだろうと思えるくらい、遙か奥まで希薄だった。」とあるのは、瞳がremoteなのではなく、青さがremoteだという解釈なのでしょう。マーロウとカーメンが抱き合っているのを見ても動じない執事というキャラクターからは、どこまでも透明な存在を思わせるこうした解釈も面白いと感じました。
 

 第2章。

 温室の様子を表した文章のうちの一つである「洗われたばかりの死人の指のような茎」という表現は、その直後に出てくるスターンウッド将軍が死にかけているのを暗示しているかのようです。双葉訳では「ぼってりしたきたない葉を洗ったばかりの死骸の指みたいにひろげていた」とあるので、紅葉や楓のような葉をイメージしていたのでしょうが、原文にははっきりと「stalks(茎)」とあるので、訳し洩れでしょう。

 そしてこれでもかというくらいの死にかけた将軍の様子が詳細に描写されます。「血の気のない唇、尖った鼻、くぼんだこめかみ、近づく解体を匂わせる外向きにねじれた耳たぶ。(The rest of his face was a leaden mask, with the bloodless lips and the sharp nose and the sunken temples and the outward-turning earlobes of approaching dissolution. ……)」。

 しかし「尖った鼻」「近づく解体を匂わせる外向きにねじれた耳たぶ」がわかりません。「尖った鼻」とは恐らく肉がそげている謂でしょう。「approaching dissolution」は双葉訳では「聴覚を失う前徴」なので、「dissolution」を「(機能の)消滅」と解釈したようです。それにしても「the outward-turning earlobes」が死あるいは老化のしるしというのがピンと来ません。他の描写が痩せて干涸らびている表現であるだけに、例えばここだけ老化で耳たぶがたるんでいる描写だと判断するのも文脈に合いません。やはり干涸らびてしわくちゃになっているという意味合いでしょうか。枯葉がねじれているような。「もう少しで朽ち落ちてしまいそうな、外向きにめくれた耳たぶ」かなあ?

 将軍がマーロウと執事に反応せず、「生命のしるしもなく、ただこちらを見ているだけだ。」というのは、原文では「He just looked at me lifelessly.」。双葉訳では「ただ、ぼんやりと私を見ただけだった。」とあるように、「lifelessly」を「活気なく」と捉えていますが、ここまで散々将軍が死にかけていることを描写して来ただけに、村上訳のように文字通り「生命のない」ことを活かして訳したい気持ちはわかります。

 次の執事の行動「執事が湿った柳細工の椅子を、私の脚の背後に押しつけるように差し出したので、そこに座った。彼は私の帽子をさっと鮮やかにさらい取った。」のは、事務的を通り越して失礼ですらありますね。マーロウを見くびっているもしくは招かれざる邪魔者と見なす態度でしょうか。

 次の「How do you like your brandy, sir?」は、「いかがかな?」ではなく、村上訳の「どのように飲むかね?」が正しいでしょう。

 将軍が口を開くときの、「まるで失業中のショー・ガールが最後の無疵のストッキングをはくときのように、残された力を用心深く使いながら。」という表現は、用心深さの譬喩として狙いすぎの気はあるものの、非常にわかりやすく伝わって来ます。譬喩には定評のある村上春樹らしく、「good」をただ単に「良い」のではなく「無疵の」と限定することで、譬喩が格段にわかりやすくなっていました。

 マーロウに上着を脱ぐことを勧めた将軍が、「血管にまともな血が流れる人間にとっちゃ、ここは少々暑すぎるからな」と口にするのも、自分がまともではないことを間接的に告白するいい表現だと思ったのですが、原文は「It's too hot in here for a man with blood in his veins.」なので、ここは村上訳の勇み足でしょうか。

 マーロウが吸った煙草の匂いを嗅いで間接的に煙草を楽しむのを、将軍が「男が悪徳に耽るのに、いちいち代理人を立てなくちゃならんとはな、まったく」とちょっと気取って表現するのも、長女の婚約者の密売業者を気に入っていたことがあとからわかるのでその影響なのでしょう。

 将軍が口唇を舐めて口を閉じる動作に「葬式を思わせる忘我があった。葬儀屋が手をこすり合わせるのと同じだ。」とあるのが、どういうことなのかまったくわかりません。双葉訳では「葬儀屋が空気乾燥器で手をかわかすみたいに」で、やっぱりわかりません。原文は「The old man licked his lips watching me, over and over again, drawing one lip slowly across the other with a funereal absorption, like an undertaker dry-washing his hands.」。双葉訳は「with a funereal absorption(葬式に相応しい一心不乱さで)」が抜け落ちています。

 ただ単に口唇を引き寄せるのではなく、片方の口唇がもう片方を「across」して引き寄せる、とあるので、drawing以下は直訳すれば「片方の口唇を越えるようにもう片方の口唇を引き寄せる」のようになるでしょうか。実際に同じ動きをおこなって確かめてみたところ、歯のないおじいちゃんが何も食べていないのに口をもごもごして唇を嚙んでいるような口許の動きになりました。「absorption」とは「そのことだけに注意を向けること」。

 試訳「老人は何度も上下の口唇をなめた。そのあいだ私を見つめ、片方の口唇に重なるようにゆっくりともう一方の口唇を引き寄せていた。葬式のときの葬儀屋が揉み手しているのと同じように、ただひたすらにそれだけを繰り返しているように見えた。」

 将軍がマーロウの自己紹介を聞いて、「そしていささか拗ねものでもある」と看破しています。読者としてはここまで散々マーロウの拗ねものぶりを目にして来ましたが、初対面の将軍があっさり見抜くのは、将軍に人を見る目がある以上に、この自己紹介がひねこびすぎているということだと思います。

 ノリス執事が将軍からの指示を把握していた理由が、村上訳「ベルを鳴らして指示されたのです」、双葉訳「呼鈴の押し方でご命令がわかるようになっておりますので」ですが、原文は「By the way he rang his bell.(彼がベルを鳴らした方法によって)」なので双葉訳の方がわかりやすいとは思います。

 執事が小切手を管理していると聞いて皮肉ったり、ヴィヴィアンに来訪目的を伝えたことを当てこすったりしたのは、マーロウは誰にでもこういう態度なのか、椅子と帽子のことの意趣返しなのか、この時点では何とも言えません。

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『ファール・プレイ』(Foul Play,米,1979)★★★☆☆

『ファール・プレイ』(Foul Play,米,1979)

 コリン・ヒギンズ監督・脚本。ゴールディ・ホーン他出演。

 “小人に用心しろ”上映中の映画館でグロリア(ゴールディ・ホーン)にそうささやくとヒッチハイクで知り合ったその男は息絶えた。以来、グロリアは怪しい男たちに追われ、果ては命を狙われることに……。

 アカデミー賞受賞のゴールディ・ホーンがチェヴィー・チェイスとコンビを組んだ極上のコメディー。

 グロリアを親身に気遣い警護する刑事をチェイスが演じ、ダドリー・ムーアが笑いを誘う愉快な演技で脇を固めている。(パッケージあらすじ)

 変装した自分に殺されるという衝撃的な暗殺場面に釘付けになりました。

 場面は変わってバツイチのグロリア(ゴールディ・ホーン)がヒッチハイクで拾ったスコッティという男には、尾行してくる車がいるようで、不穏な空気が漂います。そこから畳みかけるようなサスペンスになるのかと思ったのですが、いったん落ち着かせてくれます。ここにかぎらず意外と緩急が上手かったです。

 グロリアが殺し屋からあっさり逃げられちゃうご都合主義はありますが、そのままスタンリー(ダドリー・ムーア)を逆ナンして逃げ続けるというギャグに繋げることでご都合主義など忘れさせ、この作品のコメディ性が明らかにされていました。それにしてもどんな部屋なんだ。。。覗きの気分を味わう小道具だとか、エロに懸ける情熱が凄い。

 最初のナンパ男(チェビー・チェイス)が警察官だったことに驚きです。トニー・カールソン警部補。変なところで意外性を演出していました。

 微妙に聞き間違えるヘネシーさん(バージェス・メレディス)もお約束ですね。

 本名で部屋を借りている殺し屋という間抜けな展開も、そこから小人のドタバタに繋げるところは、ダドリー・ムーアのシーンと一緒です。

 そのダドリー・ムーアやバージェス・メレディスもしっかり最後まで絡んでくるのも笑えました。

 まさかラストバトルが老人と女ボスの徒手空拳だとは思いません。ここがクライマックスでした。

 その後、暗殺を止めるためにオペラ『ミカド』の劇場に向かう場面は、カーチェイスをしているわけでもないのにただ一方的に無謀運転しているだけのドライブシーンが長々と続くかなり退屈なものでした。

 小人役の俳優(マーク・ローレンス)が貫禄充分なのですが、あるのは貫禄だけで出番はあっさりしているのが何だかもったいない。アルビノの方の殺し屋(ウィリアム・フランクファーザー)の白い瞳とひたすら無言なのが怖かった。

 古いコメディ映画ではあるのですが、ベタだったり古くさかったりと油断していると突然ぶっ込んで来たりするので、意外と楽しめる作品でした。

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 ファール・プレイ 

『インスマスの影 クトゥルー神話傑作選』H・P・ラヴクラフト/南條竹則訳(新潮文庫)★★☆☆☆

インスマスの影 クトゥルー神話傑作選』H・P・ラヴクラフト南條竹則訳(新潮文庫

 『The Shadow over Innsmouth and Other Stories』Howard Phillips Lovecraft。

 新訳を機に苦手なラヴクラフトに何度目かの挑戦をしました。新訳だけあって読みやすい。日本オリジナル編集。
 

インスマスの影」(The Shadow over Innsmouth,1936)★★★★☆
 ――私はアーカム行きの旅費を節約するため、インスマス経由のバスに乗った。運転手もインスマスの男で、乗客もインスマスの連中しかいないという。駅員によると、精錬所の持主マーシュ老人が百年前に悪魔と取引して生贄を捧げたと噂されているらしい。一八四六年の疫病で大半があの世に行き、暴動が起こってひどいありさまになり、今では三、四百人しかいない。連中のある者は、頭の幅が狭くて鼻は平べったく、決して閉じそうにないギョロっとした眼に、瘡蓋だらけの肌、頸の両脇は萎びた皺が寄っている。それに若いうちから禿げている。年取った連中はもっとひどいが、うんと年寄りは見たことがない。視察に来た人間によると、宿はひどいもので、住人から見張られていると感じたそうだ。

 まずは何度も挫折したこの作品から読みました。収録順では一番最後です。

 冒頭の謎めいた囚人の話や周りの住人から避けられているというエピソードなどは引きとして申し分なく、不穏な空気だけに留まらずまるでミステリーゾーンのようなわくわく感すら覚えました。後半の脱出劇も、なかなか克明に段階を分けて窮地を描いていて、こんな(ある意味で)派手な描写もできるのかと驚きました。ただしそれはクトゥルーの魅力とはまた別の、ごく当たり前のサスペンスの魅力だという気もします。ゼイドック老人が語る〝深海のものら〟への生贄と交配のインスマスの歴史もおぞましい奇譚として興味深いですし、終盤に語り手を襲う事実にしても他人事だった恐怖から自分事へと怖さの質が変わり、手を替え品を替えた様々な恐怖を繰り出して来ることに感心しました。

 けれど肝心の住人たちのおぞましさとなると、やはり独特の文章が受けつけませんでした。いくら言葉では表しがたいものを描いているとは言え「何か」「妙な」「恐ろしい」「名状しがたい」といった曖昧な言葉を多用されては、雰囲気も何もあったものではなくうんざりしてしまいます。そんなだから、かの「インスマス面」や住民たちの描写もやはりピンと来ず、実際に目の前にいたら怖いに決まっていますが、魚や両棲類や人間といった既知なるものの組み合わせでしかないのでは滑稽ですらありました。
 

「異次元の色彩」(The Colour out of Space,1927)★★★★★
 ――アーカムの西にあざれが原と呼ばれる何も生えていない土地がある。私は近くに住むアミ・ピアース老人から当時の話を聞いた。ネイハム・ガードナー農場の井戸近くに隕石が落ちてきたのが始まりだった。その大きな岩は学者が来た頃には縮んでいて、研究室に持ち帰ったビーカーごと消えてしまったという。やがて収穫の時期が来たが、果物はどれもひどい臭いがして、ネイハムは隕石が土を毒したのだと考えた。農場の周りでは畸形の動植物が見つかり、馬が怯えるようになった。そしてガードナー夫人が発狂したという報せが届いた。ネイハムは妻が暗闇の中で光るという考えに取り憑かれた。次に水を汲みに行った次男サディアスが発狂し、「井戸の底で色が動いている」とつぶやいた。

 鬼門だった「インスマス」を克服したあとで、巻頭の「異次元の色彩」に戻って読みました。田辺剛による漫画化『異次元の色彩』で初めて読んで、とんでもない傑作だと驚いたものです。放射線や地球外物質や地球外生命の可能性を留保しつつ、怪異の発現を飽くまで「色彩」という形で表現し切っています。
 

「ダンウィッチの怪」(The Dunwich Horror,1929)★★☆☆☆
 ――ウィルバー・ホウェイトリーがダンウィッチで生まれる前夜、夜通し山鳴りがし、犬という犬が吠えてやまなかった。母親は畸形で白子の女だった。父親が誰かはわからない。祖父に当たるホウェイトリー老人は黒魔術を行うと噂されていて、父親についてこう語った。「あの子供がお父っさん似なら、思いも寄らない顔形になるだろうよ」。ウィルバーは生後すぐに立ち上がり、一年も経たないうちに口を利いた。長じたウィルバーは祖父の遺した「ヨグ・ソトホート」という名前と完全版『ネクロノミコン』を探し始めた。ある深夜、ミスカトニック大学のアーミティッジ博士は犬が吠えるのを聞き、図書館に向かい、悪臭を嗅いだ……。

 これはクトゥルー不得手な人間にはちとつらい。ヨグ・ソトホートや『ネクロノミコン』といったいかにも厨二めいたクトゥルー用語、意味をなさないカタカナの呪文、グロテスクなどろどろの怪物など、あまりにも安っぽさが目立ちます。そうは言っても見えない怪物とそれを可視化させる怪物退治の様子や、引き合いに出された「パンの大神」邪神と人間との交合、そしてそれによって生まれたウィルバーよりさらに父親似だった兄弟という怪物の正体など、見どころもたくさんあるのもまた確かです。
 

クトゥルーの呼び声」(The Call of Cthulfu,1928)★☆☆☆☆
 ――大伯父エインジェル教授の遺品のなかに、彫刻家のウィルコックス青年が見た夢の記述があった。青年は夢に見たまま蛸か龍のようなものを彫った。夢のなかでは「クトゥルー」「ル・リエー」という音が頻出していた。教授は以前、その言葉を聞き、彫り物と同じ外見を見たことがあった。十七年前、警察が邪教の集会で押収した石像の由来を知るため学会に持ち込んで来たのだ。頭は蛸に似て、顔は触手のかたまりであり、鱗に覆われた胴体はゴムのようで、後足と前足に長い爪があり、背には細長い翼が生えていた。大伯父が死んだのは、あまりに多くのことを知りすぎたためではないか。そんなとき私はオーストラリアの古い新聞に、同じ石像の写真が載っているのに気づいた。それはエマ号の乗組員が遭遇した恐ろしい怪物についての記事だった。

 クトゥルーの外見に関する「ゴムのよう」という表現がいまいちわかりません。石像であるからには質感や弾力ではないでしょうし、「rubbery-looking」という原文からも見た目の描写のようです。ゴムとはゴムタイヤのことでミシュランマンのような胴体ということでしょうか。「ダンウィッチ」にあった怪物退治の要素も、「インスマス」にあった脱出劇の要素もなく、ひたすらクトゥルーに淫した作品のため、好きな人にはたまらないのだろうとは思うのですが……。
 

ニャルラトホテプ(Nyarlathotep,1920)★★★☆☆
 ――ニャルラトホテプ……這い寄る混沌……何ヵ月も前、大変動の時節に、人々は不安そうな蒼ざめた顔で歩きまわった。ニャルラトホテプがエジプトから来たのはそんな時だった。古いエジプトの血を引いており、風貌はファラオさながらだった。土地の農夫たちは彼を見ると跪いた。自分は二十七世紀にわたる暗黒の中から立ち現れた者で、この惑星にはない場所からの言伝を聞いている、と彼は言った。

 わたしとしては「ナイアルラトホテップ」という表記が語呂がよくて好きなのですが、語呂がよくて響きがいいのは邪神には相応しくないとも言えそうです。群衆とともに部屋のなかでスクリーンを見たり夜の闇のなかを歩いてゆく無音の悪夢のようなイメージは、夢を題材にしていると言われればなるほどそのまんまでした。
 

「闇にささやくもの」(The Whisperer in Darkness,1931)★☆☆☆☆
 ――私が新聞紙上に書いた怪異についての論文を知って、エイクリーという研究家から手紙が届いた。「怪物のような生き物が実際に棲んでいる証拠を私は持っているのです。あの怪物たちは他の惑星からやって来るものです。人をあの山から遠ざけるために、あなたの主張をこれ以上世間に広めないで欲しいのです」手紙には写真が同封されていた。それからしばらくして、今度はレコードが届いた。森の中の洞窟のそばで録音したというそのレコードには、人間の声と、人間の声を真似るブンブンという声が入っていた。そして最後の手紙が届いた。「私は誤解していた。初めから平穏かつ理性的に話し合っていればよかったのだ。君も来たまえ……」

 相変わらずそれっぽいクトゥルー用語で盛り上げようとするところに萎えます。「異次元の色彩」や「ニャルラトホテプ」のような作品を書ける人が、どうして宇宙怪物の出てくるB級オカルト映画みたいな本篇や「ダンウィッチ」や「呼び声」に辿り着いてしまったのか。とは言えラストシーンのおぞましさ一つで記憶に残り続ける作品ではあります。宇宙人による手術という要素は脳手術のあった「パンの大神」を連想しますし、「ダンウィッチ」同様に影響を受けているのでしょう。
 

「暗闇の出没者」(The Haunter of the Dark,1936)★☆☆☆☆
 ――ロバート・ブレイクは遠い彼方の物恐ろしい教会を、奇妙に関心をつのらせてながめていた。スランプで小説が行き詰まったブレイクは、その教会に行ってみることにした。教会に忍び込んでみると、忌まわしい書物の数々と人間の骸骨があった。紙入れにはメモが残されており、どうやら幽霊の噂を探るべく教会に侵入した新聞記者であるらしかった。部屋には金属の箱がり、箱の中には赤い縞の入った黒い多面体の石が収められていた。ブレイクはふと、形を持たぬ異界の存在が石を通して視覚とは違う認識力によって自分を見ていたことに気づいた。

 ニャルラトホテプの化身に魅入られた、ということらしいのですが、相変わらず思わせぶりな描写で勝手に盛り上がってるなあという印象です。

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 インスマスの影 クトゥルー神話傑作選 

『あぶない刑事リターンズ』(東映・日本テレビ,1996)★★★★☆

『あぶない刑事リターンズ』(東映日本テレビ,1996)

 監督:村川透、脚本:柏原寛司大川俊道。爆弾魔に倉田てつを、犯罪組織のボスに伊原剛志、港署の事務に島崎和歌子

 リターンズの名の通り、『もっともあぶない刑事』で完結したシリーズ久々の復活作品です。

 久々の作品ということで、冒頭はレギュラー陣の顔見せ、それに続いて『もっともあぶない刑事』のラストをなぞるような爆発シーンで事件は幕を開けました。

 爆破事件の関係者が病院から連れ去られそうになるところを鷹山と勇次が防いだが、犯人には逃げられてしまう。犯行に用いられた爆弾に豆電球が使われていることを知った勇次は、昔パクった爆破犯に会いに行き、次の犯行現場を知る。一方、薫は捜査中にカメラマンにナンパされて浮かれていた。

 亡くなった中条静夫に代わり課長役には小林稔侍、新人刑事役に関口知宏。二人ともまだ馴染んでませんが、シリーズに必要な課長役とは違って新人刑事はこの一作きりで退場となったようです。元々映画では主役の二人以外のレギュラー陣はあまり出番がなく、全員に見せ場を作るために断片的にギャグシーンが挟まれる傾向があったので、馴染んでないのは致し方のないことではあります。それでも、思っていたよりはバランスが良かったです。

 犯行の手口からあっさりと次の犯行現場が明らかになるなど、謎や意外性よりもアクションを重視しているのが潔く、銃撃シーンやカーチェイスシーンは健在です。そのアクションとギャグが交互に描かれているのもテンポよく、なんだかんだでだいぶ以前に見たときの記憶よりは楽しめました。敵の最終手段がミサイルというのも、ギャグなのかスケールの大きさなのか判断に迷うところでしたが、最終的に完全にギャグになっていました。

 完全にいじられ役の関口知宏や、変なキャラ付けをされた伊原剛志より、一爆弾魔かと思われた倉田てつをの方が存在感がありました。薫がチェロを弾くのは完全にギャグシーンかと思いましたし、薫をナンパした入江雅人も怪しそうに見えて実は無関係なパターンかもと思いましたが、ここら辺は読めませんね。小林稔侍は最後の瞬間まで憎まれ役に徹していて、これはこれでいいキャラでした。最後は最後で真面目な人がぷっつんしやすいと思えば性格も一貫しています。木の実ナナが汚れ役をやるのは珍しいシーンでした。

 当時のスタッフとキャストが揃っているのだから当たり前ではあるのですが、どこまでも『あぶない刑事』でした。無駄に手数の多い格好良さに徹したアクション。爆破の危機が近づいているというのに「静かにするんだBaby」だったり、仲村トオルのおバカだったり。何より舘ひろし柴田恭兵がやるから、何をやっても、ふざけていても格好いいことに尽きました。

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