『屋上』島田荘司(講談社文庫)★★★★☆

『屋上』島田荘司講談社文庫)

 『屋上の道化たち』(2016)の改題文庫化です。

 U銀行の屋上には、作者をはじめ関係者が次々と怪死しているという曰くつきの盆栽が並べられていました。ある日、行員の岩木俊子が盆栽に水をやりに屋上に行って転落死します。近くイケメンと結婚すると自慢していた俊子が自殺するとは思えませんが、屋上にはほかに人はなく、目撃者の証言からも俊子が一人で落ちていることは確実と思われます。それからも屋上に行った行員が転落死する事件が相次ぎます。転落死した行員は強盗未遂事件に関わっていたらしいのですが……。

 もったいない。プルコの看板がどういう位置関係にあるのかがわからないので、捜査の経過もトリックもイマイチよくわからずもやもやとした感覚が残ります。連続自殺という怪異性や、島荘ならではの無茶な物理トリック、銀行強盗や痴漢といった偶然の絡ませ方など、道具立て自体は往年の傑作を偲ばせるものであるだけに、ほんとうにもったいないと思いました。図版にするとトリックがモロバレなのでしょうけれど。

 盆栽がただの怪奇ムードの道具立てではなく、さりとて盆栽自体に問題があるわけではなく、盆栽から派生するあれやこれやがトリックを成立させるための材料となっているという距離感が上手いです。そのほか、停電の理由も【】がミスディレクションになっているなど、とんでもトリックのわりには細かい工夫が張りめぐらされているのが、巨匠いまだ衰えずという感じでした。

 御手洗シリーズ50作目という位置づけで、御手洗と石岡がまだ馬車道にいたころのお話です。御手洗讃美一辺倒ではない石岡視点がやはり語り手としていちばん安心できます。ハインリッヒやサトルはカルト信者みたいで気持ち悪いんですよね。御手洗がケーキを作っていたり、俺流ラーメンという変なラーメン屋が出て来たり、笑える描写がたくさんありました。俊子の婚約者・田辺信一郎もよくわからない人物でした。

 親本刊行時のインタビューに「日本人の愚劣な威圧体質や隠蔽体質が、廻り廻って、こんな不可解な悲劇を引き起こすんです」と書かれていましたが、なるほど盆栽作者の自殺も、田辺信一郎の転落も、遡ればそうなんですね。

 自殺する理由がない男女が、次々と飛び降りる屋上がある。足元には植木鉢の森、周囲には目撃者の窓、頭上には朽ち果てた電飾看板。そしてどんなトリックもない。死んだ盆栽作家と悲劇の大女優の祟りか? 霊界への入口に名探偵・御手洗潔は向かう。人智を超えた謎には「読者への挑戦状」が仕掛けられている!(カバーあらすじ)

  

『仮面幻戯』佐々木俊介(東京創元社Webミステリーズ!)★★★☆☆

『仮面幻戯』佐々木俊介東京創元社Webミステリーズ!

 回想の殺人ものの青春ミステリ『繭の夏』の著者によるWeb連載です。2010年にWebミステリーズ!(→)で連載され、現在のところ書籍化はされていません。長篇ではなく、工芸家藤江恭一郎が作った仮面にまつわる連作短篇集でした。
 

「第一話 訪問者」★★☆☆☆
 ――推理作家の青木謙造の書斎に「もう一人の青木謙造」が現れるようになった。大学時代の青いコートをまとい、青木の顔を写し取った鉄仮面をかぶっていたが、しばらくすると立ち去ってしまう。相談を受けた旧知の時代小説作家・三輪が青木とともに書斎で待機していると、果たして鉄仮面は現れた。青木の妹・澄子によれば、青木には双子の兄弟がいて幼いころ両親に殺されたのではないかと考えているという。

 本格ミステリを期待すると肩すかしを食います。なぜか仮面をかぶっている謎めいたドッペルゲンガーの出現こそ幻想的ですが、その真相が、作品となる出来事を体験したい作家の狂気と認知症というのでは、人生の悲哀は感じられてもミステリのカタルシスは感じられませんでした。
 

「第二話 シンデレラ」★★★☆☆
 ――大道寺家の別荘が火災に見舞われ、娘の美紗らしき女が黒焦げで見つかった。全身火傷、顔には美紗の顔をした鉄仮面。命は取り留めたが記憶を失い、仮面もすぐには外せない。美紗の恋人と称する藍沢が見舞いに訪れ、友人である工芸家藤江が美紗をモデルに仮面と靴を身につけたガラスのシンデレラを制作していたことがわかった。だが仮面と靴は盗まれ、藤江も行方不明だという。自分は恋敵の女に襲われたのではないか……。

 火傷で記憶喪失の娘を語り手に『シンデレラの罠』をやる趣向が嬉しい一篇です。さすがに「私は探偵で犯人で被害者で証人」とはいきませんが、入れ替わり立ち替わり現れる新証言や新事実に二転三転する推理や鉄仮面の正体には、予断を許せずどきどきしました。
 

「第三話 黒百合(前篇)」「第四話 黒百合(後篇)」「最終話 軛」★★★★☆
 ――不慮の事故で顔を喪い、鉄仮面で生活している芸術家がいるという話を聞いて、退屈屋で猟奇者の能登新月は、出版社編集員の白石光に会いに行く。白石の口から藤江恭一郎という名を聞いて新月は驚愕する。十年前、友人同士の旅行中に殺された姉・七海の容疑者だった男だ。現場付近では仮面に黒装束の男が目撃されていた。その姿は藤江が劇団で演じていた「黒百合番太郎」の姿そのままであり、姉が遺した血文字「黒百合番太郎」とも一致していた。

 後半の三話は三つで一つの中篇になっていました。最終話は犯人の告白です。第一話に出て来た作家・青木謙造の編集者・白石光が再登場します。第二話の記憶喪失の娘の正体も、火傷に加えて仮面があるからこそ第三者にも判断できなかったわけですが、この「黒百合」の【人物入れ替わりトリック】も日常的に仮面をかぶっているからこそ成立するトリックでした。【元の文字に書き加えて別の言葉にする】というダイイング・メッセージの処理自体はよくあるものですが、それをこの規模でおこなったのは大胆不敵というほかありません。

    

『狼の王子』クリスチャン・モルク/堀川志野舞訳(ハヤカワ・ポケミス1876)☆☆☆☆☆

『狼の王子』クリスチャン・モルク/堀川志野舞訳(ハヤカワ・ポケミス1876)

 『Darling Jim』Christian Moerk,2007年。

 デンマーク出身の在米作家。

 ここまでただ読むだけで苦痛な本は久しぶりでした。

 どうでもいいレトリックでだらだらとくだくだしい文章が最初から最後まで続きます。文体に凝っているわけでも心理描写でも風景描写でも状況描写でもなく、本当にただ無駄なだけ。

 任意のページを引用します。

 「あの人はわたしに話を――」

 そこで口をつぐんだ。ジムはいったい何を話したというのだろう? 聞いたのは既に知っていることばかりだった。わたしはどうしてそんなことになったのかもわからないうちに、彼に引き寄せられていた。

 「きみになんの話をしたって?」フィンバーが見ていないうちに、エルメネジルド・ゼニアのパープルブルーのネクタイが喉の渇いたウナギみたいに紅茶の中に浸かっていた。(p.67)

 内的独白にするほどでもない内容と、下手くそ過ぎて不快な譬喩。全篇こんな感じです。

 笑っちゃうのは、地の文だけでなく被害者の日記すらこんな調子の文章だということです。死を待つしかない状況のなか、事実を記すでも復讐に燃えるでも許しを請うでもなく、ひたすら自分語り。

 もっと上手な作家が書けば十分の一くらいの長さで済むか、同じ長さでもっと密度のある小説が書けたと思います。

 二十一世紀の翻訳なのにパンティって単語が出て来た(それも頻出した)のにも笑っちゃいました。

 登場人物は全員クズですが、ノワールというわけでもないので、ただただウザイだけなのも気が滅入りました。

 作中作として、アイルランド語り部が語る狼の物語が登場します。狼の王子というタイトルはそれに由来しますが、もう一つある登場人物が姿を消していた理由にも掛けてあることが最後に明かされて、そこだけはよく作られていました。【※レイプされて出来た子ども=狼の子

 謎の死を遂げたフィオナ・ウォルシュの秘密は、決して明かされることがないはずだった――彼女の日記が郵便局員ナイルに見つからなければ。そこには、悪魔的な魅力を持つ男ジムに出会った様子がつづられていた。アイルランド中を旅して、パブで物語を披露し聴衆を夢中にさせたジム。彼の周りに漂っていた暗い影が、フィオナやその家族に悲劇的な運命をもたらしたのだろうか? 彼女の死をめぐるすべての真相を突き止めようと、ナイルは彼女の故郷に向かう。デンマークの新鋭が鮮やかに語り上げる幻惑のミステリ!(裏表紙あらすじ)

  

『絶望図書館 立ち直れそうもないとき、心に寄り添ってくれる12の物語』頭木弘樹編(ちくま文庫)★★★☆☆

『絶望図書館 立ち直れそうもないとき、心に寄り添ってくれる12の物語』頭木弘樹編(ちくま文庫

 絶望図書館とはものすごいタイトルですが、編者によれば本書は「絶望的な物語」でも「絶望から立ち直るための物語」でもなく、「絶望して、まだ当分、立ち直れそうもないとき、長い「絶望の期間」をいかにして過ごすか? そういうときに、ぜひ館内に入ってきてみていただきたい」アンソロジーとの由。「漁師と魔神の物語」に見られる、絶望を感じる視点の取り方が興味深かったし、李清俊「虫の話」といった拾いものはあったものの、ほかの作品の場合は好きな作家のものは好きといった当たり前の感想で、アンソロジーとしてはお得感がありませんでした。
 

「第一閲覧室 人がこわい」

「おとうさんがいっぱい」三田村信行作/佐々木マキ(1965)★★★☆☆
 ――電話がなった。もしもし、パパだよ、おそくなりそうだからママにそういっておいてくれないか。受話器をおいてから気がついた。へやにもどると、三十分まえ帰ってきていたおとうさんがいた。全国いたるところで父親がふえるという現象が起こっていた。当局はすばやく事態の収拾をはかった。

 SFでもホラーでもまったく同じ人間が――というのは使い古されたパターンですが、この作品の場合は増殖するのがおとうさんばかりです。当時は今より専業主婦も多かったでしょうし、父親というのは家族なのにふだん家にいない人だったりするのでしょう。母親はしたたかでしたが、語り手の少年はしたたかというより実感として意外と他人事だったのかもしれません。
 

「最悪の接触《ワースト・コンタクト》」筒井康隆(1978)★★★☆☆
 ――マグ・マグ人と本格的な交流を始める前に、地球とマグ・マグの代表がひとりずつ一週間だけ共同生活することになり、基地内ではましなおれが地球代表に選ばれてしまった。「よろしく」と挨拶した途端、ケララというそのマグ・マグ人は棍棒でおれの脳天を一撃した。「何をする」「よかった。死ななかったね」「死ぬところだったぞ」「殺して何になる。死なないように殴ったよ」

 これを笑えるかイライラするかで、その人の心の余裕が計れるような気がします。わたしはイライラしてしまいました。余裕がありませんね(^^;。言葉がわからないとか文化が違うとかではなく、言葉は同じなのにああ言えばこう言う式で屁理屈を言って話をそらそうとするところが、現実にいそうでイライラしました。
 

「車中のバナナ」山田太一(1977)★★☆☆☆
 ――初夏に鈍行で帰って来たことがある。斜め前に座った気の好さそうな男がバナナをカバンから取り出し、お食べなさいよ、とさし出した。横の娘さんも前の老人も受け取ったが、私は断った。遠慮ではない。欲しくないのだ。ところがしまいには老人が私を非難しはじめる。

 親切を押しつける人、拒む人、受け入れる人、受け入れを強制する人、というだけなら、あるあるで済んでいたのに、戦争と結びつけた途端に安っぽい老人のたわごとになってしまいました。
 

「第二閲覧室 運命が受け入れられない」

「瞳の奥の殺人」ウィリアム・アイリッシュ/品川亮訳(Eyes That Watch You,William Irish,1939)★★★☆☆
 ――ミラー夫人は全身が麻痺していた。裏のポーチで椅子に座っていると、息子の留守中にベルが鳴り、息子の妻ヴェラが扉を開けた音がした。男の声がする。息子の声ではない。「うまくいくと思う?」「知り合いのところからこっそり拝借した」……拝借したのはガスマスクで、夫とミラー夫人を事故に見せかけて殺そうとする計画だった。話を聞かれたところで夫人にはどうすることも出来ないことを、二人は知っているのだ……。

 「じっと見ている目」「眼」の邦題で知られる作品の新訳。絶体絶命の危機と気のいい青年・刑事の登場というのはアイリッシュの様式美の一つですし、自分で歩くことも話すこともできない老婆がまばたきの回数で会話するという意外でも何でもない展開にもかかわらず、サスペンスを感じられるのだからさすがです。
 

「漁師と魔神の物語」(『千夜一夜物語』より)佐藤正彰訳 ★★★☆☆
 ――漁師が四度目に網を打ったところ、高そうな壺がかかっておりました。鉛の封を開けると、中から魔神が現れて言いました。「きさまに一ついいことを聞かせてやろう。好きな死に方と、いちばんいい殺されぐあいを選ぶがいい」

 三つの願いではなく、漁師の機知の話です。壺に何百年も閉じ込められた魔神の方に絶望を感じているのは、編者でなくてはあり得ず、本書に収録されていなければこのような感じ方はできなかったでしょう。
 

「鞄」安部公房(1975)★★★★☆
 ――私は青年に、半年も前の求人広告に応募した理由を尋ねた。「この鞄のせいでしょうね。歩く分には楽に運べるのですが、急な坂とかにさしかかるともう駄目なんです。おかげで選ぶことの出来る道が制約されてしまうわけですね」「すると、鞄を持たずにいれば、うちの社でなくてもよかったわけか」「鞄を手放すなんてあり得ない仮説を立てても始まらないでしょう」

 強制されているのではなく自発的にやっているのだからと語る青年と、選ぶ道がなければ迷うこともないと独語する語り手では、鞄に対する感じ方に違いがあるようです。無論、編者が共感したのは語り手の方です。理解不能な他者のことも経験してみればまた違った自分なりの理解が得られてもおかしくはありません。
 

「虫の話」李清俊《イ・チョンジュン》/斎藤真理子訳(벌레 이야기,이청준,1985)★★★★☆
 ――小学四年生になったばかりのある日、アラムは帰宅時間を過ぎても帰ってこなかった。誘拐かと思われたが、犯人からの連絡はないまま二か月半が過ぎた。そしてとうとう、塾のそばにある建物の床下から、むごい死体となって発見された。絶望と自虐に倒れた妻も、すぐに復讐の念によって立ち直った。復讐心のおかげで妻はまだ耐えていられた。

 韓国がキリスト教社会だということを忘れていました。似たようなことはやはり誰もが考えるようで、『日本探偵小説全集 名作集1』に収録されている菊池寛「ある抗議書」を思い出しました。ただしキリスト者ではなないがゆえにストレートな怒りで作品を書けた菊池寛に対し、この作品の妻は信仰を持ってしまったがゆえに隘路に立たされてしまいます。最後に残されたわずかながらの逃げ道を断たれた絶望たるや、想像を絶します。死刑囚やキリスト教よりも、信仰こそ絶対と信じて他人の心を思いやれないキムさんのことを薄ら寒く感じました。
 

「第三閲覧室 家族に耐えられない」

「心中」川端康成(1926)★★★★☆
 ――彼女を嫌って逃げた夫から手紙が来た。(子供に毬をつかせるな。その音が聞こえてくるのだ。)彼女は娘からゴム鞠を取り上げた。また夫から手紙が来た。違う差出局からだ。(靴で学校に通わせるな。その音が聞こえて来るのだ。その音が俺の心臓を踏むのだ。)

 離れても離れても聞こえて来るのは、家族を捨てた男の良心の呵責でしょうか。音を立ててはならないのでは当然の帰結を迎えます。母親が「お前達」と三度つぶやいたのは、それまで子どものことだけ書かれていた手紙のなかに「お前達」という家族であることを連想させる言葉があったからかもしれません。
 

「すてきな他人《ひと》」シャーリイ・ジャクスン/品川亮訳(The Beautiful Stranger,Shirley Jackson,1946)★★★★★
 ――最初の違和感は駅でやってきた。一週間前、二人はケンカをしていた。だから夫の出張中は、自分を取り戻すのにちょうどよかった。「出張はどうだった?」「すばらしかったよ」と答える温かい調子に腹が立つ。家に入って振り返ると、夫の姿が目に入った。誰なの? あれは夫ではない。驚きはなかった。この人は、わたしが泣くのを喜んでいたあの人じゃない。

 かつて『こちらへいらっしゃい』に「美しき新来者」の邦題で収録されていた作品の新訳です。ジャクスンを読んでいてさすがだなと思うのは、久しぶりに帰って来た夫が車に触れたのを見て、「許せない。この一週間、この車を運転していたのはわたしだけなのに」と感じるような心の綾をすくい取れるところです。そしてまた、恐らくは妻が変になってしまったのを、世界の方が変わってしまったかのように書くことで(あるいはその逆だったり、どちらとも取れたりして)読み手に恐怖を感じさせるのもジャクスンの巧みなところです。
 

「何ごとも前ぶれなしには起こらない」キャサリンマンスフィールド/品川亮訳(A Married Man's Story,Katherine Mansfield,1923)★★★☆☆
 ――奇妙なことに、息子を、妻や私自身とどうしても結びつけることができない。それに、妻のような“心を傷めた女性”に赤ん坊の世話をまかせられると考えるほうが間違っているのではないだろうか。夫婦はなぜいっしょにいるのだろう? あのとき起こったことを説明するためには、過去へと戻らなければならない。

 読み始めたときには、妻が何らかの疾患を抱えていてそのせいで夫婦仲に危機が訪れているのだと考えました。読み進めていくうちに、何でもかんでも妻のせいにする夫に問題があるのだと思うようになりました。やがて唐突に過去の話に移り、そのまま終わってしまいました。投げっぱなしというよりは、夫の精神的不安定をそのまま一人称にしたのかどうか。
 

「第四閲覧室 よるべなくてせつない」

「ぼくは帰ってきた」フランツ・カフカ頭木弘樹(Heimkehr,Franz Kafka,1936)★★★☆☆
 ――ぼくは帰ってきた。懐かしい? わが家に帰ったという気がする? 自分でもよくわからない。ひどく心もとない。たしかに父の家にはちがいない。しかし、どれもよそよそしく感じられる。

 久しぶりに実家に帰って来た男の、懐かしさとよそよそしさ、戸惑いなどを記した断片。
 

「ハッスルピノコ手塚治虫(1976)★★★★☆
 ――「もうすぐ春だ、おまえも満一歳になるな」「十九でちゅウ」通信教育で中学を卒業し、高校受験を受けたがるピノコだったが、ブラック・ジャックピノコの精神的未熟さを慮って反対するのだった。

 漫画『ブラック・ジャック』の一篇。畸形嚢腫として姉の身体で十八年間生きていたピノコは、ことあるごとに自分はもう大人だとアピールし、ときにそれを行動に移してトラブルを起こします。可愛いだけでも可哀相なでもないし、ピノコ本人は真剣なところがいいです。

  

『黒衣の女 ある亡霊の物語』スーザン・ヒル/河野一郎訳(ハヤカワ文庫NV)★★★★☆

『黒衣の女 ある亡霊の物語』スーザン・ヒル河野一郎訳(ハヤカワ文庫NV)

 『The Woman In Black: A Ghost Story』Susan Hill,1983年。

 霧のロンドンを離れ、ドラブロウ夫人の遺産整理に訪れるキップス弁護士。列車に乗り合わせた地元の者によれば、町の者は誰も夫人の葬儀には参列しないという。町に着いたキップスは、痩せこけた黒衣の女性を見る。だが町の住人はそんな者はいないと言い、恐怖に震え出した。さらには、館を訪れたものの調査は後日にまわすことにして戻ろうとしたキップスは、馬車の音を聞く。馬のいななきと水の音、そして子どもの泣き叫ぶ声。もしや迎えの馬車が沼に落ちたのでは――。

 なぜかハヤカワ文庫の『海外ミステリ・ベスト100』にもランクインしていた、文学者によるホラー作品です。

 何がすごいって、いくら短めの長篇とはいえ、ようやく当初の目的である遺産整理のため館に立ち入るのが、物語が半分以上進んでからだということです。それまでのあいだに、キップスも読者もすっかり町の雰囲気に飲み込まれてしまっているということですね。町に着いて早々いきなりはっきりと姿を見せる幽霊には不意打ちのノックアウトを喰らいました。何よりも、霧のなか馬車が沼地に落ちてしまうのを音だけで表すシーンは、視界も封じられたまま助けの手を差し伸べるために行動することも出来ない、まさに悪夢を見ているようなシーンでした。

 後半まで読むと、本書が『海外ミステリ・ベスト100』に選ばれたのも何となくわかります。幽霊が現れる理由がかなり理詰めで説明されるからです。【母親の見ている前で息子が馬車ごと沼に沈み、母親も狂気のうちに死ぬという】それは陰惨な物語ではありますが、説明されてしまえばたいていの怪異は怖くありません。キップスならずとも、もうすべては終わったのだと考えてもおかしくはないでしょう。

 けれど物語はそれで終わりませんでした。考えてみれば、幽霊が出るくらいで町の住人があれほど怖がるわけはありません。黒衣の女は、呪い、祟り、災厄そのものだったのですね。唐突にキップスの婚約者ステラが出てきた時点で、結末はわかりきってしまうので、驚きやショックはありません。わかってはいても不快な、やりきれない思いだけが残りました。

  


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