『世界ショートショート傑作選1』各務三郎編(講談社文庫)★★★★☆

『世界ショートショート傑作選1』各務三郎編(講談社文庫)

 1978年初刊。
 

「クライム&ミステリー」

「走れ、ウィリー」ヘンリー・スレッサー矢野浩三郎(Run, Willie Run,Henry Slesar,1959)★★★★★
 ――ウィリーは監房の寝床に腰かけて、足を前後に動かしていた。子供のころから耳からはなれないあの声が聞こえた。走れ、ウィリー。お袋に言われて買い物に走った。上司に言われて注文を届けに走った。けれど、それだけだった。「あつらえ向きの楽な仕事なんだ」とその男は言った。「大金をもった年寄りだ」

 走ることだけが取り柄の男を評価してくれたのは犯罪社会だけでした。監房に閉じ込められた死刑囚のラスト・ラン。走ることが喜びであり生きている証拠だったウィリーだからこそ、たった五十ヤードが胸を打ちます。
 

「失礼、番号ちがい――ではありません」チャールズ・アインスタイン/各務三郎(Sorry, Right Number,Charles Einstein,1958)★★★☆☆
 ――スローン夫妻はマーティンスン夫妻についてくわしくならざるを得なかった。過去十二年おなじ共同電話を使用してきたのである。電話をかけようとして受話器をとると、マーティンスン夫人が話し中ということがよくあった。そのたび「盗み聞きはやめてよ」とかみついてくる。あるとき受話器をとると、マーティンスン氏の声が聞こえた……。

 迷惑で不快な隣人に対する良心と悪魔の囁きとのせめぎ合いの果てに、最後の最後にすでに思い出話にしてしまっているのが可笑しかったです。
 

「五人目の客」G・G・フィックリング/小鷹信光(The Fifth Head,G. G. Fickling,1963)★★☆☆☆
 ――ジョージ・マレイが死んだ。十二の斧傷が見つかった。床屋のフレッドは午前中で五番目の頭に取りかかりながら、ジョージの話ばかり繰り返していた。店に入ってきたログ・メルトンにもその話をした。「ジョージがきらいだったな、あんた」「いやなやつだった」よそ者である五番目の客も「誰が殺したと思う?」と会話に参加した。

 果たして殺人犯なのか否かというリドル・ストーリーのような不気味さが魅力的な話だったのですが、オチのある話にしてしまったことで辻褄すら合わなくなってしまいました。ただの狂人ということでしょうか。
 

「とんだ災難」ジェームズ・M・アルマン/石田章訳(I Never Felt Better,James M. Ullman,1964)★★★☆☆
 ――ラリー・スプルーイルは、自分が死んだのを知った。ラジオのニュースが飛行機事故の被害者を報じている。「ヘレン、すぐにマイアミのルディーを呼び出せ。わしがエルパソにいることが知れたら,取引がおじゃんになる」「社長と同じ名前の人物が飛行機に乗っていたのでしょう……」「だまれ、役立たず」

 比較的長めの作品ですが、社長がいかにむかつく奴であるかをしっかり書けば書くほど効果的なので、この長さも必然なのでしょう。抜きん出たところはありませんが、平均的なオチのあるショート・ショートでした。
 

チェックメイト」サミュエル・W・テーラー各務三郎(Checkmate,Samuel W. Taylor,1939)★★★☆☆
 ――保安官助手は自分が追っている殺人犯に命を助けられた。二人は冬の間、チェスをして過ごした。「おい、トレンチ。どうして仲間を殺したんだ?」「ビルのやつ、靴下を洗おうとしなかったんだ」「お前を逮捕する」たっぷりと時間をかけたが、トレンチは猟銃を取ろうともせずチェスを続けた。

 ひとたび恩義を感じてしまうと悪いようには出来ないのが人情でしょう。だからこそやむを得ず逮捕せざるを得ない状況を作り出そうとしているわけですが、なかなかうまくいきません。最後にはついに目的適うわけですが、保安官の機知が光ったわけでも落とし噺ふうにサゲているわけでもなく、サイコもののような味わいでした。
 

「死刑囚監房」ウィリアム・P・マッギヴァーン/中上守訳(Peter Fereney's Death Cell,William P. McGivern,1941)★★★☆☆
 ――あと一時間もすれば、ピーター・フェレニィは電気椅子にしばりつけられる。女房と親友の手で罪に陥れられたのだ。独房の中で、拳がごつんと固いものに当たった。目に見えない何かがあった。「ワレワレハ四次元ノ者ダ。アナタガ次元通路ノどあヲ開ケテクレタ

 進んだ文明を毒する野蛮な現実世界という発想自体はありきたりですが、罪に陥れられたことや死刑という制度があることがフェレニィの決断の理由になっているという点で完成度の高い作品です。
 

「危険な曲り角」ジム・ボズワース/小鷹信光(Around Any Turn,Jim Bosworth,1950)★★★★☆
 ――ジェイとマーガレットを乗せた車は、美しい町を通り抜けた。サンタ・バーバラ、ヴェンチェラ、サンタ・モニカ……。カーブにさしかかったとき、手を振っている男女が眼にとまった。ジェイは急ブレーキをかけた。「なぜとめるの?」「ただのヒッチハイカーさ」「危険じゃないかしら?」ラジオからは銀行強盗のニュースが流れてきた……。

 オチの予想がついてしまいますが、つまりそれだけよく出来た作品だと言えるでしょう。しかもオチについては言わずもがなのことは書かずに留めているのも優れています。
 

「心あたたまる記事」M・C・ブラックマン/各務三郎(A Good Little Feature,M. C. Blackman,1929)★★★☆☆
 ――五千五百ドルを持っていた老人が、七五セントの食料品を盗んで逮捕された。農場を売って町に来たばかりで信用できる銀行をさがしているという。居合わせた新聞記者は記事にしたがったが、巡査部長から釘を刺された。記事になんかしたらじいさんが強盗にあってしまう。

 目の前のことだけで頭いっぱいで、その前後関係にまで頭が回らない人や場面、いますしありますね。盗まれるお金がなければ強盗には遭わない……それはその通りなんですが、相手と会話が成り立って事情を聞いてくれる可能性の方が低いわけです。
 

「名人気質」ロン・スティーヴンス/竹内俊夫訳(King of the Meat Cleavers,Ron Stevens,1956)★★★★☆
 ――二等寝台室で道連れになった小柄なフランス人から完全犯罪の話を聞いた。寄席演芸で肉切庖丁投げをしていたアルフォンスと若い妻リタというのがいました。リタの嘲りの笑い。夫の顔には血の色がのぼってきます。リタを満足させることのできない夫。誇張された演技が見物人の満足感を満たしました。そしてクライマックス――。

 ストーリーも話の肝もまったく違うのですが、どことなくロアルド・ダール「南から来た男」を連想するのは、刃物と妻のあれが共通するからでしょうか。夫がおこなったのは完全犯罪というよりは賭けという方が相応しいのも一因でしょう。原題は「~Meat Cleaners」となっていて何のことやらと思いましたが、「Meat Cleavers」の誤植のようです。
 

「拝啓 ケスター様」ギルバート・ラルストン/藤田保訳(I am Not a Thief, Mr Kester,Gilbert Ralston,1961)★★★★☆
 ――ケスター農場S・J・ケスター様 拝啓 おれは泥棒なんかじゃないぜ、ケスターさん。あんたがおれとあんたの娘ミリーが金を持ち逃げしたとしゃべっているのを新聞で読んだんだ。いきさつを教えといたほうがいいな。おれとミリーはサンタモニカの美人コンテストで出会ったんだ。泳ぎにさそった次の日、ミリーと暮らすことになった。

 ミリーが花をぜんぶ切ってしまったという出来事が、いかにもかしましい女のいくつもあるエピソードの一つのように説明されているので、ありがちな結末のわりには先が読みにくくなっています。金を盗んじゃいないという言葉の真意は最後で明らかになります。フィニッシング・ストローク作品は多々ありますが、追伸という形は手紙形式だからという必然性もありこうした衝撃にはぴったりだと思いました。
 

「宇宙探偵小説作法」H・F・エリス/浅倉久志(Space-Crime Continuum,H. F. Ellis,1954)★★☆☆☆
 ――凶器はイプシロン光線かそれに類似した手段で、被害者から二光年以内の距離から発射されたものだ……。近く出る私の小説『点と線と面』からの一節だ。白状するとアリバイをどう処理するかがむずかしかった。

 『奇想天外 復刻版 アンソロジー』にも収録されていました。出オチの身内ネタです。
 

「ミニー伯母さんと事後従犯者」サミュエル・ホプキンズ・アダムス/各務三郎(Aunt Minnie and the Accessory After the Fact,Samuel Hopkins Adams,1945)★★☆☆☆
 ――ぼくたちのアパートの同じ階に住んでいるハンス・ゴマー老人は四十年の乞食生活で大金を貯めていた。五、六十代の身寄りが一人いて、名前はフィニー。弁護士資格を剥奪された人物だった。月曜日の夜、ハンスじいさんが殺されたが、凶器のナイフが見つからない。

 ミニー伯母さんといっても実の伯母ではなく、同じアパートの最上階に住んでいる元教師です。観察眼の鋭い暇な老人というのは安楽椅子探偵にはもってこいなのでしょう。自殺に見せかけるのならともかく、殺しておいて凶器だけ隠してもしょうがないと思うのですが……。身近なネタを使った物理トリックでした。勝手に捜査したり犯人扱いしたりする傍若無人な語り手の職業が明記されていませんが、探偵なのか記者なのか、これがシリーズものなのかどうかも不明です。『怪奇小説傑作集2』の「テーブルを前にした死骸」の著者なんですね。
 

ツグミの巣」ヒュー・H・ケーヴ/藤田保訳(The Catbird Nest,Hugh B. Cave,1965)★★★☆☆
 ――町から一マイルほど離れた湖の両端に小屋が建っている。クズニック氏が借りている小屋に自動車が到着した。乗客を殺したクズニックは計画通り湖に死体を沈めたが、もう一つの小屋のピーブル教授が双眼鏡で鳥を見ているのに気づいた。もしや見られたのでは……。

 タイトルも「ツグミの巣」で、野鳥観察をしている描写がありながら、鳥ではなく釣りにも造詣が深くて釣りに関するクズニックの不自然な発言に気づくところが、意外性といえば意外性です。邦訳ではミドル・ネームが「H」となっていますが正しくは「B」のようです。
 

「黒板に百回」シド・ホフ/各務三郎(A Hundred Times,Syd Hoff,1966)★★★★☆
 ――コンプトン先生は美人だ。「フィリップ、先生の話をきいていましたか?」「い、いいえ」「だったら黒板に『授業ちゅうはぼんやりしません』と百回書きなさい」。ほかの生徒は算数の授業を続けていたが、隣の席のアランだけは見抜いていた。「フィリップは先生を愛してる」と言われてアランをなぐった。フィリップは黒板に逆もどりとなった……もうアランをなぐりません。もうアランを……

 前ふりからオチまで、ショート・ショートのお手本のような作品です。叱られ方がうまくなっていたという何気ないひとことも、罰を受ける前に自分から始めることにつながり、オチを補強していました。
 

「では、ここで懐かしい原型を……」ロバート・シェクリイ伊藤典夫(Meanwhile, Back at the Bromide,Robert Sheckley,1960)★★★☆☆
 ――お尋ね者ヴィラディンも年貢の収めどきだ。FBIに追われ、森を抜け山を登り、採石場に出た。まだチャンスはある。器用に偽物の石を作り始めた……。/秘密諜報員ハドリイが捕えられた。目の前には秘密警察長官とその下男、そして冷酷なマダム・ウィ。マダムたちが部屋を出ると、長官がすぐさまハドリイの縄をといた。「急ぐんだ、相棒」……

 タイトル通り古典的なショート・ショート三篇から成ります。『ミステリマガジン』2012年10月号()にも再録されています。「その一 必死の逃亡者」はイマイチでしたが、どんでん返しもののパロディである「その二 変装したスパイ」、密室もののパロディと思いきやホラーに転じる「その三 密室殺人」と、どんどん面白くなってゆきます。
 

「特別サービス」エド・レイシイ/大井良純(Pick-up,Ed Lacy,1959)★★★★☆
 ――デトロイトまで行きたがっているヒッチハイカーを乗せた。「職さがしねえ。いままでどんな仕事をしていたんだい?」「なにもしていません。スリをやって懲役刑を終えてきたところですよ」脱獄囚ではないだろうか。高速道路を避けて小さな町をいくつも通ってゆこう。時間は食うがスピードをあげはしなかった。わたしに誇れることがあるならば、それは安全運転である。

 どこかで読んだか観たかしたことがありますが思い出せません。ロアルド・ダール「ヒッチハイカー」が同じような話らしいのですが、オチのきれいな作品なので、類話はいくらでもあるのかもしれません。
 

「怪奇&幻想」

「風のなかのジェレミイ」ナイジェル・ニール/長島良三(Jeremy in the Wind,Nigel Kneale,1949)★★★☆☆
 ――わたしがはじめて彼に会ったのは、風の強い日でした。彼は野原のまん中に立ち、地面にまかれた種をついばむ黒い鳥に腕を振り回していたのです。「ジェレミイ、一緒に散歩しない?」わたしはジェレミイの腕をとり、足をひっぱり出してやりました。

 案山子を友人と思い込むサイコパスの一人称で綴られる犯罪記録で、飽くまで案山子を人間として描き自分を善意の人間だと思い込んでいるところに恐怖を感じます。
 

「浮遊術」ジョセフ・ペイン・ブレナン/各務三郎(Levitation,Joseph Payne Brennan,1958)★★★★☆
 ――〈モーガンの驚異の見世物〉の催眠術師が客の若者を舞台に上げ、催眠術をかけている最中、だれかの投げたポプコーンがとんできた。ポプコーンは若者の頭に当たり、術は失敗した。催眠術師はポプコーンを投げた男を舞台に上げて改めて術をかけた。「眠れ、眠れ……浮き上がれ!」

 ジョン・コリア「登りつめれば」やコッパード「消えちゃった」のような不条理な読後感でした。実際に魔術というものがあった場合、果たしてスイッチはオンの状態のままなのか、電源自体が落ちるのか、興味のあるところです。
 

「夢の家」アンドレ・モロア/矢野浩三郎(La Maison,André Maurois,1931)★★★★☆
 ――五年前、大病をしていたときのことでした。毎晩おなじ夢ばかり見るのです。田舎道を歩いていくと、遠くに白いひくいお家が見えます。繰り返し見つづけたので、子供の頃これと同じ庭園と家を見たことがあるに相違ない、その家をつきとめてみたいと考えるようになりました。そして遂に、夢の家を捜しあてました。

 いくつかのアンソロジーにも収録されている名篇で、『幽』7号()にも小林龍雄訳「幽霊屋敷」が掲載されていました。生死の境をさまよった折りの臨死体験や離魂体験はよく聞くところですが、表向きはそれを穏やかで美しい「夢」として描き、最後に裏から怪談として反転させる構成は、怖いかどうかはともかくとして衝撃と余韻を与えることは間違いありません。視点が違えば見え方も違うという当たり前のことだけで優れた幽霊譚ができあがるのだと感心しました。
 

「二〇〇〇年」ロバート・アバーナシイ/浅倉久志(The Year 2000,Robert Abernathy,1956)★★☆☆☆
 ――元旦の朝はすがすがしく明けた。ジョゼフ・ブロークは目をあけて回春ルームへ歩いていった。電子走査機が老廃分子をとり除き、新しい分子を補充していった。朝刊によれば、わが国の驚異的繁栄にかんがみ税金の全廃法案が可決、カゼの完全治療法発見……。

 オチがわかりづらいのですが、「いまでは見なれたものになった奇形」という表現があることから、どうやら核戦争か何かがあった未来のようです。「いつからの勘定だい?」という台詞から、キリスト紀元2000年ではなく原始時代の2000年かとも思ったのですが、この台詞はただの皮肉なのでしょう。
 

深夜特急」アルフレッド・ノイズ/高見沢芳男訳(Midnight Express,Alfred Noyes,1935)★★★★★
 ――それは赤いバックラム装幀の痛んだ古本。モーティマーが十二歳のとき父親の書斎で見つけた本だ。題名は『深夜特急』。五十頁目に一枚の挿絵があったが、眺めることができなかった。こわかったのである。その絵には恐ろしいものはなかった。夜の鉄道のプラットホームに一つの人影があり、トンネルに顔を向けていた。

 「続いている公園」であり「うしろを見るな」であり『ドリアン・グレイ』でもあり、その他いろいろこれだけ詰め込みながらうるさくなっていません。この手の作品の極北でしょう。モダンでありながらも導入は「子どものころ恐ろしくて開けなかったページのある本」というクラシックな恐怖。『もっと厭な物語』()に「深夜急行」の訳題で収録されているのですが、内容をまったく覚えていませんでした。当時の感想も「よくあるタイプの作品」と書いてますね。
 

「ふるさと遠く」ウォルター・S・テヴィス/伊藤典夫(Far From Home,Walter S. Tevis,1958)★★★☆☆
 ――管理人が、奇蹟をうすうすと意識したきっかけは、そのにおいだった。それは、海のにおい――大きな海草の生いしげる、みどりの塩水をたたえたあの海原のにおい。こんな砂漠の町の、朝の市営プールの更衣室で――。プールの中にいるのは、たしかにクジラだった。

 アンソロジー『冷たい方程式』新版()にも収録されています。この作品が面白いのは、実は有名なある型【※三つの願い】であるにもかかわらず焦点がその【願い】の内容と顛末にはなく、その型をオチ(というか真相)に使っているところでしょう。そうでありながら結末を落とし噺ふうにではなくノスタルジックなところに持っていくのも非凡です。著者は『ハスラー』『地球に落ちてきた男』の原作者だそうです。
 

「ルーシーがいるから」ロバート・ブロック/各務三郎(Lucy Comes to Stay,Robert Bloch,1952)★★★☆☆
 ――「こんなことしてちゃいけないわ」ルーシーはわたしより頭がいい。けっして酒など飲まないし、身動きとれない立場に追いこまれたこともない。「ジョージやお医者さんたちはあなたになおってほしくないのよ。看護婦のミス・ヒギンズは見張り役。それにジョージと……」

 ロバート・ブロックらしい、とも言えます。よく出来ているとはいえ、今となっては陳腐な内容なのは致し方のないところでしょう――けれども、最後の一文によってそんな感想は吹き飛ばされます。飽くまで「のように」と書いてあるのが怖い。
 

「一ドル九十八セント」アーサー・ポージス伊藤典夫($ 1.98,Arthur Porges,1954)★★★☆☆
 ――ウィルがいたちから救ったねずみは小さな神さまだった。「わたしは神だ。チェスでインチキした罰として、百年ごとにねずみの姿に変えられるのだ」「なにか、ご褒美とか――」「いかにも。しかし小さな褒美で我慢してくれ。見てのとおり、小さな神なのでな、一ドル九十八セント分が限度だ」

 普通は人間の側が知恵や悪知恵を絞って得をしようとするものですが、神さまの方で知恵を絞ってくれるところが変わっています。恋する主人公からすればがっかりなオチであるとともに、一ドル九十八セントの価値の意外性と、小さくてもさすが神さまという現象の、三つの味わいがぶつかり合う何とも言いがたい結末でした。
 

「遅すぎた来訪」ジョン・コリア/矢野浩三郎(Are You Too Late or Was I Too Early,John Collier,1951)★★★☆☆
 ――田舎でならば決まりきったありきたりの生活もいいものだ。私は部屋のカーテンを四六時中閉めたままにして、思い出したときに食べ、読書と喫煙にふけった。目を覚ましたとき、コルクのマットの上に、濡れた素足の足跡をみつけた。それは女の足跡、ニンフの足跡だ。私のさまよう精神が、幸運の貝殻から伴侶をつれて帰ってきたのだ。

 これを「遅すぎた」と表現するところに毒があります。たとえ早かったとしても語り手には何も起こらず運命は変わらなかったでしょうから。【語り手が幽霊だったという】よくあるタイプのオチですが、幻想譚ふうの本文とタイトルの毒のギャップによって月並みな作品ではなくなっていました。
 

「ふだんの一日」ウィリアム・F・ノーラン/竹内俊夫訳(One of Those Days,William F. Nolan,1962)★★★☆☆
 ――青と黄のまだら蝶がラ・ボエームの「おお、わが愛しのミミよ」をひらひらと唄っているのを耳にしたとき、ぼくはふだんと変わらぬ日になりそうだと思った。これからすぐに精神分析医に診てもらったほうがいいだろう。バスから降りたとき大きなぶち猫がとび出してきた。「どいた、どいた! 道をあけてくれ。この赤ん坊を通してくれ!」

 語り手ははじめから「ふだんと変わらぬ日」と言っているのだから、それを無視して何かあるだろうと思うのは、読者が小説の起承転結というものに知らず知らず縛られているからなのでしょう。頭がおかしいと思ったら頭がおかしかったというそれだけのことが意外な結末になり得るというのは新鮮です。
 

「選択」W・ヒルトン-ヤング/高見沢芳男訳(The Choice,W. Hilton-Young,1952)★★☆☆☆
 ――未来へいく前にウィリアムズはカメラとレコーダーを買い、速記も習った。「いってこいよ、でもあまり長くなるなよ」とぼくは言った。「そうするつもりだ」とウィリアムズ。実際すぐに戻ってきた。「どうだった?」「じつはなんにも思い出せない」「どういうわけだ?」「たったひとつだけ思い出した」

 ところどころ意味が通らないので原文で確認したところ、「He must have made a perfect landing on the very second he had taken off from.」なので、「きっちり離陸一秒後の時間に着陸したに違いない。」タイムマシンで未来に行ってから、出発直後の時間めがけて戻って来たということですね。「He seemed not a day older; we had expected he might spend several years away. 」「一日も年取っていないように見えた。数年間は向こうで過ごすものと考えていたのだが。」。「"And you chose not to? But what an extraordinary thing to?" "Isn't it?" he said. "One can't help wondering why."」「『それで忘れる方を選んだのか? だけど何てことを――』『だよねえ。人間って不思議な選択をしてしまうものだよ』」。でしょうか。
 

ヒューマニスト」ロマン・ギャリ/大友徳明訳(Un Humaniste,Romain Gary,1962)★★★☆☆
 ――ヒトラーが権力の座についたころ、ユダヤ人の血を引くカルル・レーヴィというおもちゃ製造業者がミュンヘンに住んでいた。ユダヤ人の友人たちは荷物をまとめて亡命を勧めたが、ナチの制服をまとっていようと人間性に全幅の信頼を置いていた。戦争が起こり事態が急速に悪化したときも信念は変わらなかったが、予防手段を講じて地下室にこもった。

 そりゃ人との交わりを絶って自分だけの世界で生きていればいくらでも理想を信じ続けることはできるでしょう。家政婦と庭番のシュッツ夫妻に裏切られていることも知らず、戦争が終わったこともわからず、現実ではなく自分の頭のなかだけの理想を信じたまま死ねるのは、本人にとっては幸せには違いありません。
 

「金色の霧」ピーター・カーター/藤田保訳(The Mist,Peter Cartur,1952)★☆☆☆☆
 ――小男は言った。「わたしは幽霊などの専門家です。どうしても今夜その現象を見たいのです」。「土曜の夜は町に出かけることにしてるんだ」と大男は答えた。「その現象は今夜が最後かもしれないんです」「あんた、いい指環をしとるねえ」。二人は指環を取引して金色の霧のなかに足を踏み入れた。

 オチのわりには全体的に間延びしていますし、オチに持っていくための筋運びが強引なのも否めません。押し問答を短くして、指輪の部分がもっと自然に見えればまだしもだったでしょうが、どっちみち心霊ものかと思ったらSFだったというのが意外性ではなく落胆にしかなってませんでした。
 

「メリー・クリスマス」L・P・ハートリー/大井良純(Someone in the Lift,L. P. Hartley,1955)★★★★★
 ――「ママ、エレベーターにだれか乗ってるよ」「ただの影でしょ。ほら、空でしょ」いつもこんな調子だった。マルドン夫妻とその息子ピーターは、クリスマスをホテルで過ごす計画だった。エレベーターなるものを初めて見た息子はすっかり魅せられてしまった。ピーターは一つの仮説を立てた。父親と一緒のときは人影を見ることがないのなら、それは父親かもしれない。

 別訳題「エレベーターの人影」でも知られる作品です。子どもの空想上の存在をサンタクロースとからめて、エレベーターという場所ゆえの悲劇にまで持ってゆく展開に、いっさい無駄がありません。初めから静謐な雰囲気は漂ってはいるのですが、サンタクロースに期待する子どもを見て、読んでいる方としても同じように温い結末を期待してしまうんですよね。だからこそ結末がいっそう効果的でした。
 

「コント」

「人生の楽しみ」オルガ・ロズマニス/石田章訳(Scared to Life,Olga Rosmanith,1947)★★★☆☆
 ――小屋を建て直すあいだおじいさんは、ぼくの家に来ることになった。「噂話もないしケンカもない。なんとつまらんところに住んどるんだろう!」。おじいさんは手はじめに家じゅうを修繕してまわった。おじいさんの連れて来た犬が役に立つことがわかって、ママが犬を飼ってもいいといってくれたので、メキシコ人労働者の部落に仔犬を見つけにいった。ゆうべ、光って気味の悪いシャレコウベが走り去ったとかで、大さわぎだった。

 何ということはない、平凡の日常のなかに突然現れたおじいちゃんとのひとときです。こういうちょっと面白い親戚のおじさんってのはどこにでもいるものです。
 

「蛇踊り」コーリー・フォード/竹内俊夫訳(Snake Dance,Corey Ford,1934)★★★★☆
 ――「もしもし、ママかい。ジェリーだよ……先週送った金のこと? もちろん奨学金さ。フットボールの選手がもらうやつさ。部屋代は一セントもいらない。もう切るよ。じきに仲間たちがやってくるんだ」バンドの音楽が大きくなってきた。蛇踊りのかけ声がブラスバンドを打ち負かしそうになった。

 北村薫宮部みゆき編『教えたくなる名短篇』()で読んでいたはずなのにすっかり忘れていました。「snake dance」とは(優勝)パレードの行列のことです。都会に出て夢破れる話は数多くありますが、若くしてというところに何とも言えない悲哀を感じます。嘘は言ってないからこそ、落差が切ない。
 

「昨日は美しかった」ロアルド・ダール矢野浩三郎(Yesterday was Beautiful,Roald Dahl,1946)★★★★☆
 ――捻挫した足をさすって、崩壊した家のあいだを縫って海辺へおりて行くと、一人の老人がいた。「飛行機が撃ち墜されたんだ。小舟で本土に帰りたい」「イギリス人《イングレスス》かね。小舟はヨアニスが持っている。だが家はもうない。ドイツ人《ゲルマノイ》がけさ爆弾を落とした。家のなかには娘がいた」

 水槽というのがよくわからなかったので原文を見ると「drinking trough」家畜用の水飲み槽のようです。一瞬にして日常が失われてしまったときの、怒り・悲しみ・虚無……ありとあらゆる感情が、母親と父親の二通りの態度によって表現されていました。憎しみというわかりやすい感情を剥き出しにする母親に対し、父親のどうにもならないやるせなさこそ胸を打ちます。果たして語り手の飛行士は所詮は自分も同類だと自覚しているのかどうか。
 

「ゲームは公平に」テリー・サザーン稲葉明雄(Fair Game,Terry Southern,1957)★★★★★
 ――美容院にすわったグレイスは鏡にうつった自分にあらためて讃辞をおくる。すばらしい! 金髪にするとこうまで変るとは。ラルフはなんというだろう? 彼の好きな金髪の女が今後は自分のものになるのだ。帰り道でハリーを見かけた気がしたが、とにかく今は夫のラルフより先に帰宅しなくては。ハリーのことなどラルフは想像したこともないはずだ。二人の夫婦関係は機械的な友達づきあいに堕していた。が、はじめて出会ったときのラルフのすがたが突然ちらっと浮かぶ。ずっと昔のことだが、まだ遅すぎやしない。

 脚本家としては『博士の異常な愛情』『イージー・ライダー』の作家として著名なものの、小説家としては古くさいお色気コメディ『キャンディ』のみで知られる著者ですが、これが思わぬ拾いものでした。ちょっといい話ふうに落ち着きかけた道筋を裏切るオチは衝撃的ながら、やっぱり男はみんな金髪が好きなんですね……という笑いもあり、シリアスな人生の真実と間抜けなユーモアを同時に描き出すという技巧が凝らされていました。
 

「脚光」バッド・シュールバーグ/常盤新平(Spotlight,Budd Schulberg,1938)★★★☆☆
 ――「テストする候補者を何人か選んでくれ」監督がそう言うと、エキストラのあいだにざわめきが起こった。助監督は老人ところへやってきた。「おじいさん、あんたにおねがいするよ。にっこり笑ってこう言うだけでいい。『わしは待っていたのだ、三十年間も』」老人はうなずいてみせた。

 束の間だけ脚光が当たってからすぐに消されてしまった冴えない老人の、明らかにされた人生は、あまりにもクサく陳腐でした。著者は映画『波止場』の脚本家として有名です。
 

「赤色の悪夢」フレドリック・ブラウン小鷹信光(Nightmare in Red,Fredric Brown,1961)★★★★☆
 ――最初の“地揺れ”から一分後に襲ってきた二度目の“地揺れ”がベッドを揺さぶる。開いた窓から点滅する明りが見えた。夜の音が聞こえた。どこかでベルの音。こんな時間になぜ? 破滅を告げる警鐘なのか? 彼は走り出した。廊下のドアから外にとびだし、ゲートに通じる長い小径を走った。

 まさかこんな視点で語られる物語だとは、発想力に脱帽します。話の内容自体はたいして面白くないのですが、こんなことを思いついてやってしまえるんだという驚きとも呆れともつかないインパクトがありました。
 

「オスカー賞の夜」ジョン・マクレーン/石田章訳(Crybaby,John McClain,1946)★☆☆☆☆
 ――オスカー賞が授与されるころには深夜になりかけていた。わたしは神経質になっていた。この手で発掘したマイラが隣りにすわっている。通路のまむかいにはジョーン・ウェイランドがいる。最優秀助演女優賞の発表が目前に迫っている。勝つか負けるか――二人のライバルが通路をはさんで対峙している。

 アカデミー賞授賞式で流す嬉し涙や悔し涙の意味にはオチがあろうとなかろうと変わりはないはずです。当たり前に思えたものが別の角度から見ることで違って見えてくるのには、批評性や意外性があってこそ面白いのであって、その点この作品のオチにはそれがありません。この作品以外に一切著者の情報が出てこないのも納得の出来でした。
 

「時間厳守」ジョン・オハラ/浅倉久志(On Time,John O'Hara,1944)★★★★★
 ――ローラはつねに時間厳守だった。それは他人を待たねばならないことを意味する。事実、以前ひどい待ちぼうけを食わされたことがあった。そしていま、客車の反対側にその張本人がすわっている。ローラは十年前の屈辱を思い出していた。待ち合わせ場所はバーだった。マスターはたいそう垢ぬけていた。まるで夫を捨てて駆けおちする若い女にあいさつするのが日課であるかのように。。

 失ってしまったものを認めることを拒み、なかったことにするための、なけなしの矜恃が胸を打ちます。相手は悪くなかった、でも自分が負けだなんて認めたくはない――わがままでも自己中でもなく、そうしなくてはどうにもならない瞬間というのが、誰の人生のどこにあってもおかしくはないでしょう。
 

「ヒーロー退場」ジェラルド・ミゲット/竹内俊夫訳(Exit for a Hero,Gerald Mygatt,1946)★★☆☆☆
 ――父親がフレディーにいった。「獣医さんの話じゃ、すぐやってくれるそうだ」「いやだ」「わかっているはずだ、キャップは苦しんでいる。獣医さんは安楽死のやりかたを心得ている」「いつか猫のときは暴れまくったよ」キャップは老犬だった。いちばん思いやりのある方法で苦しみから救ってやりたかった。父親が表に出ていくと、フレディーはショット・ガンを携えてキャップと森に入った。

 いい話ではあるのですが、あまりにも陳腐です。
 

「虹ます」ショーン・オフェイラン/小鷹信光(The Trout,Sean O'Faolain,1945)★★★☆☆
 ――毎年、村に帰ってくるたび、ジュリアがまっさきに駆けつけるお気にいりの場所が〈暗闇の小径〉です。小径のわきの岩に、小さなほら穴があり、一クォートほどの水がたまっていまいた。そのなかに苦しそうにあえいでいる一匹の虹ますを見つけました。どうしてそんなところにいるのか誰にもわかりません。

 情緒不安定で子どもっぽいようでいて、退屈ななかに自分で楽しみを見つけることを知っているのは、才能だと思います。
 

「わかれ」レイ・ブラッドベリ稲葉明雄(I See You Never,Ray Bradbury,1947)★★★★☆
 ――台所のドアにノックがきこえた。オブライエン夫人がドアを開けると、間借り人のラミレス氏が二人の警官にはさまれて立っていた。「どうなさったの?」「ここにごやっかいになって三十ヵ月になります」。「つまり六ヵ月だけ長くいすぎたわけだ」と警官が説明した。「そんなわけでメキシコに帰ることになりました」

 短篇集『太陽の黄金の林檎』には「二度と見えない」の邦題で収録されており、「I see you never」という表現がカタコトに訳されています。その方が警官たちの笑った理由もわかりますし、時間を置いてからオブライエン夫人が「I'll never see Mr. Ramirez again.」と実感するのも効果的です。
 

「ライター」マッキンレー・カンター/大井良純(A Man Who Had No Eyes,MacKinlay Kantor,1931)★★★☆☆
 ――乞食がこちらに歩いてくる。パースンズ氏がホテルから出たときのことだった。「ちょっといいですか」「急いでるんだ。金かね?」「物乞いじゃありません。このライター、たったの一ドルです」。パースンズ氏は溜息をついて小銭を払った。「視力はまるでないのかね?」「あっしはあの爆発のあった工場にいたんです」

 二人を対に描くことで、成功者と落伍者の対比が残酷なほど露わにされていました。才能や運だけではなく、人間性や向上心というものが如何に大事かがわかろうというものです。一応のところは「コツコツと音をたてながら近づいてくるのを聞いていた」というフェアな表現もあるものの、それが冒頭など全篇にわたっては徹底されていないため、最後に明らかになるせっかくの凄みが活かされきれていないのがもったいない。

  

『ザ・ロード』コーマック・マッカーシー/黒原敏行訳(ハヤカワepi文庫)★★★★★

ザ・ロードコーマック・マッカーシー/黒原敏行訳(ハヤカワepi文庫)

 『The Road』Cormac McCarthy,2006年。

 荒廃した世界で旅を続けながら生きてゆく父と息子の物語です。

 いわゆる終末ものの多くで描かれるのが、変容してしまった世界であったりサバイバルアクションであったりするのに対し、本書の終末はSF的要素などほとんどない、生々しいまでの現実でした。

 宇宙人が攻めてきたわけでも放射能に汚染されたわけでもなく、スラムが拡大したような、被災地が復興せず荒廃し続けるような、無残な現実が広がっています。

 盗み、殺し、レイプ、奴隷、人肉食が当たり前となってしまった世界で、父子も生きるために火事場泥棒をしたり他人を見捨てたりしながらも、最低限の矜恃は失わず、父親は息子に教育を施してゆきます。

 台詞のカギかっこがなく、一行空きのブロックが連ねられる形でエピソードが綴られてゆくこともあり、物語自体はとても静かです。静かだからこそ、残酷さが際立つのでしょう。

 ほとんど武器も持たない無力な父子にとって、他人との接触は暴力を受けることや殺されることを意味します。だからそもそもなるべく人に見つからないように用心しているのですが、それでもときには衝突は避けられません。

 カートを盗んだ追放者に対する父親の容赦ない仕打ちにはショックを受けました。そしてすべてを奪われた追放者の選択にも。

 母親がみずから死を選んだように、捕まった場合には自殺するよう息子が命じられているように、弱い者にとってはそれが一つの、ではなく唯一の選択なのでしょう。

 父と息子はことあるごとに「お礼をいったほうがいい?」「そうだな」のような簡単な会話のやり取りをするのですが、最後になって活かされるのが「善い者」「ぼくたちは火を運んでいるから」という二つのフレーズでした。善い者とは父親が生き抜くなかでも守ろうとしたものであり、火とは恐らく希望の火なのだと思われます。父親の教えはきちんと息子に受け継がれていたことがわかり、この暗くつらい物語のなかで一筋の光明でした。

 空には暗雲がたれこめ、気温は下がりつづける。目前には、植物も死に絶え、降り積もる灰に覆われて廃墟と化した世界。そのなかを父と子は、南への道をたどる。掠奪や殺人をためらわない人間たちの手から逃れ、わずかに残った食物を探し、お互いのみを生きるよすがとして――。世界は本当に終わってしまったのか? 現代文学の巨匠が、荒れ果てた大陸を漂流する父子の旅路を描きあげた渾身の長篇。ピュリッツァー賞受賞作(カバーあらすじ)

  

『文豪ノ怪談ジュニア・セレクション 霊』東雅夫編/金井田英津子絵(汐文社)★★★☆☆

『文豪ノ怪談ジュニア・セレクション 霊』東雅夫編/金井田英津子絵(汐文社

「あれ」星新一(1975)★★★★☆
 ――あるホテルの一室で、出張中の男が眠っていた。静かな真夜中。男はふと寒気を感じて目をさました。そばに人のけはいを感じる。一メートルほどはなれて、なにものかが立っている。やがて消えた。本社へ戻った男は、同僚と酒を飲んだ時そのことを話題にした。ただの悪夢とは思えず、ついだれとはなしにしゃべってしまう。そのうち、男は専務に呼ばれた。

 登場人物の一人が「霊魂かな」とは言っていますが、著者自身は霊とも何とも断定していません。オカルト的にはホテルの部屋に出るものは心霊現象と相場が決まっているのでしょうが、飽くまで「あれ」としか呼びようのない存在で、実際引き起こされる現象は幽霊というより座敷童に近いものでした。
 

「霊魂」倉橋由美子(1970)★★★☆☆
 ――死病の床に就いているMが、婚約者のKに「わたしが死んだら霊魂がおそばにまいりますわ」といった。Kのところに霊魂がやってきたのは、葬儀が終わった翌日の夜のことだった。「お待たせしましたわ」という声がして、霊魂が膝にあがってきた。それは半透明の塊で、二、三歳の子どもほどの大きさだった。その日からKはMの霊魂と同棲しはじめた。

 一種の異類婚姻譚ということになるのでしょうか、Mの霊魂といいながら、Mらしさは最初から皆無で、遊びに来た屈託のない女の子のようです。オカルト的な幽霊とも仏教的な死者の霊とも違う、不思議な魅力がありました。
 

「木曾の旅人」岡本綺堂(1913,1921)★★★☆☆
 ――重兵衛という男が、そのころ六つの太吉という男の児と二人きりで、木曾の山奥の杣小屋に暮していました。「怖いよ。お父さん」少年を恐れさせた唄うような悲しい声は旅人のものだった。木曾の山中に行きくれて、焚火の煙を望んで尋ねてきたのであろう。旅人が来てから半時間ほど経っても太吉は怯えたまま隅に小さくなっていた。そのうち猟師の弥七が訪ねて来たが、弥七の飼っている黒犬が旅人に吠えかかった。

 この作品と次の「後の日の童子」は、同じ編者の『日本怪奇小説傑作集』にも収録されているので何だか損した気分です。もしや旅人の正体は怪物《えてもの》なのではないか――という恐怖が、また別の現実的な恐怖に変わり、それがまた最終的に幽霊か何かが存在するのではないかという恐怖に変わるという、贅沢な一篇です。
 

「後の日の童子室生犀星(1923)★★★☆☆
 ――夕方になると、一人の童子が門の前に立っていた。いつも紅い塗のある笛を携えていた。「きょうは大層おそかったではないか。犬にでも会ったのか。」「いいえ、お父さん。ねえお母様。」「なあに。」「僕にそのあかん坊をちょいと見せてください。」童子は赤ン坊を覗きこんだ。「おまえによく似ていると思わないかい。」「少しも似ていない。僕のような顔はどこにもない、似てやしません」

 死者との距離感が独特で、親子の会話からは『蜜のあはれ』の金魚と老作家を彷彿とさせます。童子というのが幽霊というよりは妄想に近い、けれど両親にとっては確かに実在する、という曰く言いがたい存在のように感じました。ゴースト・ストーリーですらないかもしれないジェントルなストーリーでありながら、死者の足許に虫が湧くというところだけが妙に生々しかったです。
 

「ノツゴ」水木しげる(1983)★★★☆☆
 ――妖怪作家のH氏は夫婦の激論で苦戦すると話題を“未知の力”にむける。「心を残して死んだ者は次世代の心にひっかかり、新形式の“生存”をつづける。つまり作家がシゲキをうけて書き、読者の頭に残るのだ」。それから十日ばかりになる。夢で見たのと同じ景色がテレビに出てきた。「なんで四国の山を夢にみるのだろう」。H氏は四国に行って地元のカジ屋にたずねた。「このへんに人にとりつくお化けはいませんか」「ノツゴですたい」

 氏の漫画とまったく変わりない暢気な文章です。書けない言い訳を未知の力のせいにして、奥さんもそれに協力してお祈りをはじめるというのがすっとぼけていて、ユーモアは一級品です。一方で、ふつう怪談というものは怪異が起こる手続きを踏むものですが、視える人や信じてる人はそれが当たり前のように書くので、一般人は置いてけぼりを喰らいます。だからクライマックスの恐怖も、出来すぎの暗合のようにしか感じられませんでした。
 

「お菊」三浦哲郎(1981)★★★☆☆
 ――「八号車は県立病院へまわってください」「了解」。六蔵は車を出した。女は右側のドアが開くのを待つふうで、タクシーとはあまり馴染みのない客だとわかりました。「車を頼んだお客さんですね?」「はい。里村リエです」高校生ぐらいに見えます。「鷹の巣まで」。五十キロ先で二時間はかかります。「患者さん?」「はい……家へ帰ります」「外泊のお許しが出たんですか、そいつはよかった」一時間ほど走ると、女が声をあげました。「菊が……」なるほど菊ざかりです。「菊が好き?」「はい、大好き」

 ストーリー自体は陳腐です。よくあるタクシー怪談でしかありません。けれどタクシーに乗り慣れない描写や、少女がひさしぶりの外の景色を見たときの反応など、確かに「生きた人間以外のなにかだったとは、どうしても思えない」ような、血の通ったリアリティに裏打ちされています。お菊という幽霊としては由緒正しい名前を、一面の菊畑と結びつけた発想に意外性がありました。
 

「黄泉から」久生十蘭(1946)★★★★★
 ――終戦後、仲買人となって八年ぶりに日本に帰ってきた光太郎が、恩師のルダンさんとばったり出会った。ばつが悪い思いをしながら「どなたの墓まいりですか」とたずねると、「この戦争でわたしの弟子が大勢戦死をしたぐらい察したまえ。みんなの霊と大宴会をやるんだ」「おけいも呼ばれているのですか」「ひどいことをいうね。八年の間、手紙も書かずにいて」

 もう読むのは何度目かになる名作です。ラストシーンのインパクトが絶大な作品ですが、おけいの南方での様子もただの思い出話ではなく作品にとって不可欠な要素でした。南方の雪のエピソードは、作法や真贋ではなく思いやる気持という点で、まさに光太郎が現在おこなおうとしていた独自の供養と重なります。そのエピソードを伝えに来たのがおけいの友人でなければ、当然ながら作品自体が成立しません。そしておけいが南方で話していたのが謡曲「松虫」だったという事実によって、霊の導きなのではないかという想像が補強されていました。
 

「幻妖チャレンジ!」

謡曲「松蟲」」
 ――これは津の國阿倍野の市に出でて酒を賣る者にて候。さても此の程いづくとも知らぬ男、酒を買ひ飲み候が、更に歸るさを知らず候。今日も來りて候はば、如何なる者ぞと名を尋ねばやと存じ候。

 かつて松虫の声に誘われて草むらに入ったまま頓死してしまった友人を偲んで、今も松虫の声に惹かれて霊となって現れる男を描いた作品で、久生十蘭「黄泉から」のサブテキストとなっています。

  

『図書館の魔女 烏の伝言(上・下)』高田大介(講談社文庫)★★★★★

『図書館の魔女 烏の伝言(上・下)』高田大介(講談社文庫)★★★★★

 『図書館の魔女』の続編は、マツリカもキリヒトも出てこない場面からスタートします。前作での混乱によりニザマ国の一姫君と近衛兵たちが山の民・剛力の力を借りて亡命行の真っ最中でした。

 前作との関係が薄い人たちばかりが出てくるので、正直なところこのあたりの序盤はあまり乗れませんでした。焼き払われた村に出くわし、ただ一人の生き残りである少年を見つけ出した場面には昂奮しましたが、結局のところ少年との出会い以上の広がりを見せることなく旅は続けられます。

 そうこうしているうちに目的地である港町の遊廓にたどり着きます。そこで姫君は次の担当に引き渡され、剛力たちは報酬を貰って山に帰るはずでした……。

 ここから桁違いに面白くなってきます。

 遊廓が報酬どころか暗殺を目論んでいると気づいた剛力たちは、遊廓を抜け出し地下暗渠を縄張りにする「鼠」と呼ばれる少年たちにかくまわれます。鼠たちが剛力たちをかくまうことにした理由というのが格好よく、こういうことを恥ずかしがらずにできるのが本物の男なのでしょう。主要人物の一人である剛力のワカンが鼠の一人ファンに話す、わきまえについての説明にも心を打たれました。ファンが剛力に憧れた理由は筋肉だけではありません。こういうことを話してくれる大人は貴重ですね。

 同じく遊廓から逃れようとする近衛兵たち、鈴の音とともに現れる不気味な首切りの大男、囚われの姫君救出作戦、目を覚ました少年の身許、剛力の一人の不可解な動き、別働近衛の生き残り兵の隠しごと、遊廓に残されていた手紙、本国や遊廓の目的……新たな事実が明らかになってもそれがどう繋がってゆくのか、前作との関わり云々などいつしか忘れて読み耽っていました。

 遊廓や人斬りなど、今回の舞台は日本っぽいところがありました。人斬りなんてむしろ忍者みたいですし。

 下巻の後半以降には待ちに待ったマツリカたちも登場しますが、それ以外にも前作の影響や登場人物が随所に散りばめられているので、嬉しいやら驚くやらわずかなりともゆるがせにはできません。

 タイトル「烏の伝言」とは、作中に登場する剛力のカラス遣い・エゴンに由来します。カラスは姫君たちの逃亡に重要な役割を演じますし、タイトルの意味するところや言語障害のあるエゴンの存在と才能は容易に前作を連想させます。

 第三作がなかなか発表されません。第一巻の文庫帯では2016年刊行予定でしたがはや数年……。単に著者が忙しいだけなら気長に待つだけなのですが。講談社では同じ2016年頃の荻原規子エチュード春一番』も第三曲が未刊行のまま2021年8月になってようやく角川文庫から刊行ですし、講談社内の人事のゴタゴタが理由でなければと不安です。

 道案内の剛力たちに導かれ、山の尾根を行く逃避行の果てに、目指す港町に辿り着いたニザマ高級官僚の姫君と近衛兵の一行。しかし、休息の地と頼ったそこは、陰謀渦巻き、売国奴の跋扈する裏切り者の街と化していた。姫は廓に囚われ、兵士たちの多くは命を落とす……。喝采を浴びた前作に比肩する稀なる続篇。(上巻カバーあらすじ)

   

『緋の堕胎 ミステリ短篇傑作選』戸川昌子/日下三蔵編(ちくま文庫)★★★☆☆

『緋の堕胎 ミステリ短篇傑作選』戸川昌子日下三蔵編(ちくま文庫)★★★☆☆

 創元・中公の小泉喜美子やちくまの仁木悦子に続いて刊行された、同じ日下三蔵編による戸川昌子の傑作選です。戸川昌子は『大いなる幻影』『火の接吻』『蜃気楼の帯』を読んだことがありますが短篇には初挑戦です。

 選集『緋の堕胎』全作に『ブラック・ハネムーン』から三篇を追加した構成です。
 

「第一部」

「緋の堕胎」(1964)★★★★☆
 ――井田産婦人科医院は七カ月を過ぎた妊婦の堕胎も引き受けていた。書生の健次郎は看護人の資格を持っていない。麻酔のきかない患者を押えつけたり、手術が終ったあとの胎児の始末が主な仕事であった。二十歳をいくらも出ていない中山という患者が苦しがっているので、妾のところにいる医者に電話をかけたが素気なくされただけだった。この女も汗みどろになって男と交わったに違いない……理性が失われ、欲望だけが健次郎の行動の先を走った。

 非合法なことをおこなっている堕胎医院の許で昏い青年が犯した人知れぬ犯罪が、女の嫉妬によって思いも寄らぬ形を取って白日の下にさらされます。当然ながら青年の犯罪と罪悪感が軸になるため、医者の気持や妻の気持は本文中ではさらっとした触れられていません。そうした青年の犯罪の陰に隠されてまぶされていた二人の感情が、最後の最後ではち切れる場面が強い印象を残します。
 

「嗤う衝立」(1976)★★★★☆
 ――判田安夫はベッドの上でまた性欲の昂進を覚えた。入院してからすでに一カ月、日記はまめにつけているが、文面には気をつけていた。中学生の娘の奈津子に読まれるおそれがあるから、性欲の昂まりを死への昂まりと置き換えてごまかしている。自分は右足を切断し動くこともままならないというのに、妻の香代はゴルフのアシスタント・プロと浮気しているに違いない。隣のベッドの患者のところには夜な夜な奥さんが夜とぎに来ているため、判田は昂まる一方だった。

 この手のタイプの作品のなかではよくできています。帯には「官能ミステリの女王」とありますが、恐らくは著者が自分の作風に自覚的なのでしょう、読む側も著者の世界に引き込まれ、その結果こうした仕掛け【※すべて芝居だった】にもしらけることなく意外性として楽しむことができました。妻が浮気しているという疑惑や、成長した妻の連れ子に女を感じてしまうところなど、主人公と読者をその気にさせてゆく細部の外堀も丁寧に描かれています。衝立の向こうの隣の患者が視覚聴覚を失った四肢切断者なのが、単なるエログロ趣味ではなく、仕掛けのための必然である点も見逃せません。
 

「黄色い吸血鬼」(1970)★★★☆☆
 ――表の雨戸を叩いているのが正治郎の耳に聞こえる。吸血鬼はよほど腹を空かせているにちがいない。一カ月のあいだにどれだけの血を吸われたことだろう。寮生が脱走しないように閉鎖してあった玄関が開き、吸血鬼の使い走りをしている御代田という女が入ってきた。無理心中があったという。吸血鬼は血を流している人間を見ると我慢できなくなる。女の方の血液型が、正治郎と同じRhマイナスのAB型だった。

 赤い毛だらけで嘴のある吸血鬼というイメージが斬新でした。それには理由があって、それが平凡といえば平凡なパターンではありましたが、吸血鬼ものとして細かいところまで気を遣って作り込まれているのは特筆すべきです。白い血という表現をしているところから、正治郎の正体には薄々感づいてしまいますが、それもフェアな伏線だと見なすこともできます。
 

「降霊のとき」(1971)★★★★☆
 ――霊媒相談の客が来た。「死んだ人の霊を呼び出していただけますか……」「霊媒のほうは予約制なんですよ。妙空霊女先生はお忙しいのです」未津はそう喋った。「あなたはできないの?」客にそう言われ、自分の霊感を試してみたい……美津は気持を抑えられなかった。妙空霊女のやるとおりにすればいい……すると燃えさかる炎のなかに裸の男が見え、裸になった未津の下半身に巨大なものが押しこまれる感覚があった。

 やたらと官能的に描かれる憑依はともかく、依頼者が性的に満足すると納得して引き上げてゆくというのはよく考えるとおかしいのですが、それをおかしいと感じさせないのが筆力というものでしょう。霊媒師というのが霊と交流する媒介者としてだけではなく本音を引き出す触媒として機能しているということもあるでしょうか。
 

「誘惑者」(1979)★★☆☆☆
 ――河崎先生の別荘まで原稿をいただきにうかがった時のことでございます。奥様のマリアンヌさまのご容態が急に悪くなり、わたしも献血することになりました。原稿が出来上がるまで、二晩ほどのご看病の予定で奥様の病室に泊まりました。三日目の晩です。夜中に目が覚めると、黒いマントの男が奥様を抱きかかえるようにして、首筋に吸いつくようにしたのです。

 また吸血鬼ものです。吸血鬼が存在するに至る経緯が強引なのは否めません。著者はどうしても疑う余地のない吸血鬼を登場させたかったのでしょうが、語り手にまで手を出すのはやり過ぎで、説得力がありません。精神的におかしくなってると言えば何でもありなのは、やはり昔の作品なのでしょう。
 

「塩の羊」(1973)★★☆☆☆
 ――フランスに渡ったまま行方不明になった日本のある政治家の私生児をさがしに、佐伯は料理研究家だと身分を偽ってその娘の働いていたレストランに潜入した。秘伝のソースのために初代の料理長は死んだという伝説が残されていた。女中に乳蜜を搾り取られた佐伯は、次の日には女料理長から修道院に案内され、娘の行方のことや日本人修道僧の過去について聞かされた。

 さすがにこれは、幻想よりも性愛が勝りすぎていて、戦争と迫害とトラウマという題材がエロ描写に負けていました。そこまでのことをしてでも仇を見つけて確定させたかったのでしょうけれど、絵を思い浮かべるとさすがに羊には見えないので、何をやってるんだか……と呆れてしまいました。
 

「第二部」

「人魚姦図」(1978)★★★★☆
 ――俳優研究所の同期生Sが持ってきた求人広告には、美しいマスクと健康的な肉体をした美潜水《ダイビング》の専門家という条件があった。俺は水族館のパトロンからこう言われた。「ここでほんものの人魚を飼育していることは絶対に口外してはならない。人魚との見合いを成功させるのだ」。ジュゴンとファックしろということですか、という俺に、パトロンは「ジュゴンとはなにごとだ。きみはそれでも役者か……」と怒りを露わにした。

 人魚とセックスするというバイトに雇われた俳優の卵の顛末を描くエロティック幻想譚です。あまりに荒唐無稽な内容にもかかわらず、ここまで振り切れてぶっ飛んでいると現実感など忘れてすっかり没入してしまいました。パノラマ島などの江戸川乱歩の諸作を思わせます。体験者の一人称であることや水中の暗闇であることなど、アホらしさが目立ってしまっていた「塩の羊」よりも説得力を持たせる工夫も為されていました。主人公の生い立ちやSとのエピソードなど、構成も細かいところまで考えられています。
 

「蜘蛛の巣の中で」(?)★★★☆☆
 ――検事さま。ほんとうのことを申し上げます。私は高校生の時に義父に犯されました。これを契機に家を出て、アメリカ軍将校の家にベビー・シッターとして住みついたのでございます。奥さまが入院中のことでした、一度だけご主人の自慰をお手伝いをいたしました。その後アメリカ人の主人と離婚し、日本に帰ってまたベビー・シッターをしておりましたが、奥さまが事故で大怪我をして入院中に、ご主人から押し倒されたのです。

 子どもを作れない女の、子ども憎しと性遍歴と犯罪遍歴です。嘘で固めた人生の最後に訴えたのが、果たして「ほんとうのこと」なのかどうか、恐らくは検事の考える通りなのでしょう。告白のどこまでが真実なのかわかりませんが、仮に直近の罪から逃れて立証できない過去の殺人の犯人になるために遠大なストーリーを作りあげたのだとしたら、それはそれで面白い発想だとは思いますが、さすがに非現実的すぎる読み方でしょうか。
 

「ブラック・ハネムーン」(1976)★★★☆☆
 ――三十年間、夢にまで見たハネムーン。母は器量も悪いあたしを心配して結婚相談所に登録していたのでした。そして一カ月前、思いがけず主人から見合いの申し込みがありました。G島の小さな教会で式を挙げ、ホテルに戻って床入りしたのは十時過ぎでした。主人が右手をあたしの腿の内側を滑らせて奥に近づいてくる、その時です。テラスから男たち五人が闖入してきました。

 性的描写が作品にとって必然であるという点では本書中でも完成度の高い作品です。短い作品のなかにヒントも散りばめられていて真相はわかりやすいのですが、真相が単純なだけに実際にそういうこともあってもおかしくはないのかも、と思わされるところもあります。

  


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