『両京十五日Ⅱ 天命』馬伯庸《マー・ボーヨン》/齊藤正高・泊功訳(早川書房ポケミス2001)★★★☆☆

『両京十五日Ⅱ 天命』馬伯庸《マー・ボーヨン》/齊藤正高・泊功訳(早川書房ポケミス2001)

 『两京十五日』马伯庸,2020年。装幀:水戸部勉、装画:ヤマモトマサアキ。

 朱瞻基は連れ去られた呉定縁らしき人物を見て、予定を変えて助けようとする。目的地の臨清では待ち伏せされているのではないかという蘇荊渓の言葉もあり、朱瞻基は于謙の反対を押し切って于謙とは別行動を取り済南に向かう。自分の判断で行動できたことに上機嫌の朱瞻基だったが、意外な黒幕を知って窮地に陥ってしまう。

 一方、白蓮教の昨葉何と梁興甫に連れ去られた呉定縁は、自身の意外な出生【※当時燕王だった明の永楽帝の謀叛に最後まで抵抗した済南の名将・鉄鉉の息子】を知らされ、妹も洗脳され、白蓮教の仏母の跡を継ぐよう迫られていた。

 黒幕【漢王】の息子・朱瞻域に追われた朱瞻基たちは作戦を変更し、呉定縁と昨葉何が一足先に京城まで太子の無事を知らせに行くことになった。だが北京は大雨に沈み、京城では太子不在のなか後継を巡って睨み合いが続いていた。

 邦訳版では二分冊となった二冊目。なので特に第二部らしい導入というわけでもなく、朱瞻基が太子ぶりたがったり、呉定縁出生のどろどろの因縁など、いきなり胃もたれしそうな展開でした。

 一冊目を読んでから本書を読むまでだいぶ読む間が空いてしまい、マンガチックなノリに改めて馴染むまでだいぶ時間がかかりました。だから白蓮教と協力する展開や蘇荊渓との恋路といった人間関係にも興味が持てず、太子奪還戦や朱瞻域との船上戦も一冊目の繰り返しにしか感じられませんでした。

 ようやく半分も過ぎた紫禁城で政治的判断から三すくみ状態になっている辺りから、やっと面白くなって来ました。太子の生死が不明なせいでどちらの陣営も押すに押せず引くに引けない膠着状態とは、思いも寄らない事態でした。さらにはそんなふうに飽くまで規則に汲々としている体制側を尻目に、呉定縁がやりたい放題で、マンネリ気味だったストーリーに風穴を開けてくれました。

 そうして一段落ついたところで、さらにもう一波乱あるというか、真の目的が隠されていたことが判明するのですが、本書のような大仰なキャラクターというのはド派手なアクションだと映えるのですが、人間ドラマや社会派展開になると途端に薄っぺらくなってしまいます。呉定縁と朱瞻基の因縁なんて(出生の秘密を知った後なので事情が違うとはいえ)いいかげん見飽きてしまいましたし、蘇荊渓の動機にしてもたいした伏線もなく降って湧いたようにまくし立てられても心に響いて来ません。

 史実という縛りがあるなかで各々の確執を集約しようとする意気込みは評価しますし、その結果に対してこぎれいにまとめられてしまったと愚痴るのは贅沢な不満なのでしょうが、少なくとも本書を読んだかぎりでは、著者は完成度の高い精緻なミステリよりも荒唐無稽な痛快スリラーに才のある作家だと感じました。

 宿敵の白蓮教徒・梁興甫によって分断されてしまった皇太子・朱瞻基一行。攫われた呉定縁を救出すべく朱瞻基は一計を案じるが、予想だにしない過酷な危機が彼を襲う。一方、呉定縁の前についに姿を現した白蓮教徒の指導者は、衝撃的な真相を語り始める。明王朝の存亡が決まるまでに猶予は残り七日。朱瞻基の大義、于謙の策謀、呉定縁の運命、蘇荊渓の秘密……。彼らはそれぞれの天命を背負い、最終目的地である北京・紫禁城へと向かっていく――。かつてない興奮と衝撃が訪れる、華文冒険小説の傑作、万感の完結。(裏表紙あらすじ)

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 両京十五日2 天命『両京十五日Ⅱ 天命』 

『二人で探偵を』アガサ・クリスティ/野口百合子訳(創元推理文庫)★★★☆☆

『二人で探偵を』アガサ・クリスティ/野口百合子訳(創元推理文庫)

 『Partners in Crime』Agatha Christie,1929年。

 2024年発行。カバーイラスト:ますこひかり。カバーデザイン:柳川貴代+Fragment。解説:古山裕樹。

 トミーとタペンス・シリーズ二作目の新訳です。原題は「partner in crime(共犯者・犯罪行為の仲間)」のもじりで、「犯罪捜査の仲間」と洒落たもの。ハヤカワ版では旧訳新訳ともに『おしどり探偵』の訳題でした。

 スパイの手がかりを摑むため探偵に扮した二人が、今までに読んだ探偵小説に倣ってどうにか探偵活動をしようとするパロディ集でもあります。

 新訳なので訳語がアップデートされているほか、パロディ元に関して補い訳をしていたり、言葉遣いがフランクになっていたりしますが、言い回しはハヤカワ・ミステリ文庫の旧訳の方がこなれているしわかりやすい箇所もあると感じました。
 

「1 フラットの妖精」(A Fairy in the Flat,1924)★★★☆☆
 ――「あーあ、なにか起きないかな」ミセス・ベレズフォードはあくびした。「わくわくするようなこと。もし妖精でも見つけられたら――」「妙な偶然だな」トミーが立ちあがって写真を持ってきた。「このあいだの写真ね」「見せたかったのはここだ」トミーは写真の白い斑点を指さした。「フィルムの傷よ」「違うよタペンス。妖精だ」そんなやり取りをしていると、アルバートがミスター・カーターの来訪を告げた。スパイ活動により所長が勾留されている国際探偵社でブラント所長のふりをしながら、16という数字を口にした者が来たら知らせてほしい。ついては気晴らしに通常の探偵業務もやってはどうかね――。

 プロローグ。妖精とはわくわくすることの象徴であるようです。二人はいつもいつでも冒険に飢えています。
 

「2 お茶を一杯」(A Pot of Tea,1924)★★★☆☆
 ――数日後、一人目の依頼人が国際探偵社を訪れた。「その――スミスと申します」「それはいけません! ご本名を」。客はすっかり感心してトミーを見た。「セント・ヴィンセントといいます。行方知れずの人を探してほしいんです」そのときブザーが鳴った。タペンスが引き継ぎたがっている合図だ。「失礼」と言って電話を取ると、「首相ご自身が? 申し訳ありません。急用ができたため個人秘書にお話しいただけますか。ミス・ロビンソン」。タペンスが入ってきた。「関心を持たれているご婦人が失踪したというこということですね」「ジャネットは帽子店で働いているのですが、昨日から出勤していないというんです」「二十四時間サービスをご希望ですか」

 雑誌には「フラットの妖精」とまとめて発表されました。Wikipediaによると「マルコム・セージのパロディ」と書かれていますが、元諜報員が探偵事務所を設立するという設定が似ているということのようです。これもプロローグ的な内容ではありますが、探偵小説は真相から逆に仕込んでいるんだから――という理屈からタペンスが思いついたアイデアが、一応の伏線のように働いています。言ってみれば探偵小説そのもののパロディと言えなくもないような。
 

「3 ピンクの真珠の謎」(The Affair of the Pink Pearl,1924)★★★☆☆
 ――ミス・キングストン・ブルースは、安物だが目を引く服装をしていた。「昨夜、うちに泊まっているご婦人が高価なピンクの真珠をなくしたんです。警察には知らせていません。母に言われてここへ来ました」。依頼人が出ていったあと、タペンスが言った。「さあ、トミー、だれのの流儀でやるつもりなの」「今日はソーンダイク博士でいくよ」「この事件に法医学は必要ないと思うけど」「新しいカメラを使いたくてたまらないんだ」。二人はキングストン・ブルース大佐に話を聞いた。留め金が壊れたので置いておいた、ミセス・ベッツのペンダントがなくなったのだという。レディ・ローラには盗癖の噂があった。ミスター・レニーは悪名高い社会主義者だった。

 トミーがソーンダイク博士にチャレンジする――とは言っても科学の知識は皆無で、新しいカメラを使ってみたいだけ――というのが解決に活かされていました。古典的ですがよくできています【※疑わしい人物にカメラのガラス板を触らせてさり気なく指紋を取った】。恋人同士がお互いに疑り合っていたせいで第三者からは怪しく見えるというのも古典的ですね。地味ながら手堅い小品だと思います。
 

「4 不審な来訪者」(The Adventure of the Sinister Stranger,1924)★★☆☆☆
 ――アルバートが封印された小包を持ってきた。「封印された小包の謎だな」「実はフランシス・ハヴィランドへの結婚祝いなの」荷物には郵便物もあった。整理していたトミーが口笛を吹いた。「ロシアの切手が貼られて青い封筒だ」興奮して話すトミーとタペンスは、いつの間にかドアの前に男が立っていることに気づいた。ドクター・バウアーと名乗るその男は、自身の研究を盗むために身内が部屋を漁っているらしいと訴えた。依頼人が帰ると二人は話し合った。「手紙をちらちら見ていたもの、悪党の一味よ」「じゃあぼくたちの役はオークウッド兄弟だな」そうこうするうち、アルバートが今度は警部の名刺を運んできた。マリオット警部の友人ディムチャーチ警部とある。

 今では忘れ去られたヴァレンタイン・ウィリアムズのオークウッド兄弟(トミーがデズモンド、タペンスがフランシスに)。冒頭の伏線はスマートですし、そこにオークウッド兄弟【の名前】も絡めているのは無駄がありません。とは言えトミーは途中で意見を変え、この事件はスパイもののオークウッド兄弟ではなく冒険小説のブルドック・ドラモンドものだと反省しています。【初めにわざと怪しい人物を登場させたあとで、警官に扮した二人目の悪役が出てきて安心させるという、】トミーたちには通じた二重の囮も、現代の読者には見え見えなので面白味には欠けます。
 

「5 キングの裏をかく」「6 新聞紙の服を着た紳士」(Finessing the King/The Gentleman Dressed in Newspaper,1924)★☆☆☆☆
 ――「トミー、またダンスに行かない?」「奇妙な事実がわかったんだがね、このデイリーリーダー紙の題字を見ろよ。白い点が毎日違う場所にあるんだよ」「話を戻しましょう」「何だっけ」「舞踏会よ」「ぼくはもう若くないんだ」「じつはこの広告が気になったの」『ビッドはスリー・ハートで。12トリック。スペードのエース。キングをフィネスする必要あり』。「〈スペードのエース〉店で開かれるスリー・アーツ舞踏会で12時に何が起こるか探りたいと思ったの」翌日の夜、おしのびのマッカーティの仮装をして、二人は舞踏会に向かった。「どれかしら、くだんのカップルは」「あの悪人面と戦艦のご婦人かもな」「ハートの女王、すてきな衣装ね」その相手は『鏡の国のアリス』に出てくる〝紙の服を着た紳士〟に扮していた。二人は隣の小部屋に入ったが、男だけがすぐに出てどこかへ行った。そのまま戻ってこない。「トミー、なにかおかしい」

 これまた今では忘れられたイザベル・オストランダーの元警官マッカーティと消防士リオーダンに、タペンスとトミーが扮装します。警官と消防士の扮装をして仮装舞踏会に乗り込む衣装程度の関連に思えますが、クリスティー文庫版の割り注によれば、『おしのびのマッカーティ』自体、マッカーティが変装して活躍するという内容だそうです。アリスづくしでもありました。

 新聞の題字にある白点が日によって違っているというやり取りは、クリスティとは思えないくらい伏線としてあからさま過ぎて啞然とします。或いは実際にあるネタが元なのでしょうか。その伏線を元にした真相もまたどう考えても不可能なもので、ミステリとしてはどうしようもありません【※罪を着せたい人物と同じ仮装をした犯人が、被害者にちぎり取られた仮装の一部とまったく同じ形に生贄の衣装をちぎり取った】。仮装していた人物が別人だったというのも、意外でも何でもないでしょう。

 本書はどうやらSirとLordをサーと卿のように訳し分けているようです。

 ミステリ文庫版の訳者あとがきによれば、本書収録作の幾つかはなぜか単行本化の際に前後編に分けられていて、「ピンクの真珠の謎」「不審な来訪者」等はタイトルも同一ですが、「キングの裏をかく」「新聞紙の服を着た紳士」は前後編でタイトルも違っているそうです。前後編に分けられた話がほかの話と比べて特に長いわけでもなく、犯人当てなどの趣向があるわけでもなく、分けられた理由が謎です。ハヤカワ版は、内容も二つに分かれている「フラットの妖精」「お茶を一杯」を除いて前後編を一話にまとめていますが、本書創元版ではタイトルの違うものは別立てとなっています(※章立ては本書オリジナルではなく、どうやら底本によって本書と同じ章立ての版があるようです)。
 

「7 失踪した婦人の謎」(The Case of the Missing Lady,1924)★★★☆☆
 ――ブザーが鳴り、トミーとタペンスはのぞき穴へ飛んでいった。「ミスター・ブラントは多忙でして」「待ちますよ。ゲイブリエル・スタンヴァンソンと申します」。トミーは心を決めてドアを開けた。「数分ならお話をうかがいましょう。ご用件は? 緊急であること、タクシーでいらしたこと、北極圏か南極圏におられたこと以外、ぼくは知りませんので」「鮮やかなものだな。探偵がそういうことをするのは本の中だけかと思っていました。三日前に北極探検から英国に戻りました。友人のヨットに乗せてもらわなければ、あと二週間は戻れなかったでしょう。二年前にこの探検に出発する前に、ミセス・モーリス・リー・ゴードンと婚約しました。さっそくハーマイオニーが滞在しているレディ・スーザンの屋敷に行きましたが留守でした。ところがハーミーは友人のところに行く予定を変更していて、どこにいるのか見当もつきません」

 これもクリスティにしては伏線が見え見えですが、全体としてホームズ譚らしい雰囲気は出ていると思います。
 

「8 目隠し遊び」(Blindman's Buff,1924)★★☆☆☆
 ――「訓練を積むべきだ。偉大な巨匠たちの模倣だよ。たとえば――」トミーは引き出しから深緑の眼帯をとりだし、両目をおおった。「ソーンリー・コールトンのつもりね」「そのとおり。ドアのそばに杖があるだろう」トミーは立ちあがり、勢いよく椅子にぶつかった。「くそ! そろそろ昼飯どきだ。〈プリッツ〉へ行こう」「ねえトミー、面倒なことになるんじゃないの」。抗議は退けられ、十五分後にはトミーとタペンスは〈プリッツ〉でくつろいでいた。近くのテーブルに座っていた二人の男が声をかけてきた。「ミスター・ブラントとお聞きしたのですが?」「そうです」「昼食のあと、お訪ねしようと思っていたんです――目をどうかされたようですね」「じつは目が見えないんです」「なんですと?」「それで、ご用件は?」「いますぐ一緒に来ていただきたい」トミーとタペンスは別々の車に乗せられた。

 クリントン・スタッグの盲目探偵ソーンリー・コールトン。トミーとタペンスの茶目っ気がピンチを救ったとも言えますが、それにしても唐突に出て来た感電トラップのやっつけ感がひどい。
 

「9 霧の中の男」(The Man in the Mist,1924)★★★★☆
 ――ブラントの優秀な探偵たちは敗北を喫していた。「ブラウン神父的な事件じゃなかったわ」タペンスが慰めたところで、だれかの手がトミーの肩をたたいた。「トミーじゃないか。聖職者になったとは、さぞかしひどい神父だろうな」タペンスが爆笑した。「やあ、バルジャーか」そのときトミーたちは四人目の人物に気づいた。女優のギルダ・グレンだ。英国一の美女で、英国一の知性のなさ。「神父さんなの?」ギルダ・グレンは立ち去ったが、ボーイがトミーに言伝を持ってきた。『助けていただけますか。ホワイトハウスで六時十分に』「まだ神父だと思ってるのかしら」「いや――あれはなんだ?」あれとは赤髪の若者だ。「ギルダ・グレンめ、俺を愛していたくせに。だがあのクソ貴族に身を売るなら――絞め殺してやる」と吐き捨てて出ていった。トミーたちは指定された家に向かったが、外は濃い霧が覆っていた。霧の中から不意に警官が現れた。「××はどちらですか?」「ここですよ」そのとき悲鳴が聞こえ、若い男が家から飛び出してきた。

 チェスタトンの逆説的探偵法だけでなく、作品全体がブラウン神父ものへのオマージュになっていました。「失踪した婦人の謎」もホームズ・オマージュ度が高かったし、わたしが知らないだけでほかの短篇にも元ネタ要素がふんだんに盛り込まれているのかもしれません。冒頭あたりの「バルジャー(本名はマーヴィン・エストコート)/Bulger (whose real name, by the way, was Marvyn Estcourt),」というカッコの使い方もチェスタトンの書き癖を意識しているのだろうと思われます。二人の実質的なデビュー戦である「ピンクの真珠の謎」からしてそうでしたが、形から入るトミーの悪ノリを、毎度毎度ただのコスプレではなくちゃんと事件に絡めてあるのには感心します。

 野口氏の訳はここまででも表現の硬い箇所がいくつか見受けられて気になっていたのですが、ちょっと雑なところが目についてきました。

 pp.146-147「反戦詩集を出している」「反戦詩?」「いけないか」ミスター・ライリーはけんか腰で突っかかってきた。

 ここはやたらと物騒な言動の男が平和主義の詩集を出しているということに、タペンスが思わず突っ込んでしまう場面ですが、これではタペンスがなぜ聞き返したのかがわかりづらくなってしまっています。一応、次の台詞に「おれはずっと平和を求めてきた」とはあるものの。旧訳二書ではいずれも原文の意図を捉えた訳になっていました。

 "I wrote a little volume of Pacifist poems"/"Pacifist poems?" said Tuppence. /"Yes --why not?" demanded Mr. Reilly belligerently.

 ミステリ文庫の橋本福夫訳では「平和主義の詩の小さな詩集を一冊出した」「平和主義の詩をね?」「なぜいけないのだ?」とリーリーは開き直って詰問した。

 クリスティー文庫の坂口玲子訳では「反戦詩集を一冊だしている」「反戦詩集ですって?」「悪いか?」ライリー氏の口調は好戦的だった。
 

 p.150警官の台詞「ああ! では、わたしは先へ行ったほうがよさそうだ」

 確かに「had better do」で「~する方がいい」ですが、この場面では別に何かと比べて「その方がいい」と言っているわけではなく、「I'd better be getting along.」で「もう失礼しなくては」のような意味合いの慣用表現です。

 "Ah!" said the policeman. "Well, I'd better be getting along."

 ミステリ文庫「さて、わたしはさきへ行くとしましょう」

 クリスティー文庫「さて、わたしはそろそろ失礼します」
 

 p.154「あまりにもとっぴで信じられなかった。それから、ギルダ・グレンの天使のような美しさは長年にわたって変わっていないのだと思い至った。子どものころから彼女の演技を見てきた。そう、ありえないことではない。だが、なんと痛烈なまでに対照的な姉妹だろう。」

 見るからに中年の姉と、美しく若く見える妹。似ていない姉妹を見たトミーの感想です。ここは解釈が難しいのか、訳文は三者三様でした。個人的にはミステリ文庫版が正しいと思います。クリスティー文庫版はむりやり辻褄を合わせた感じですが、本書の訳では日本語の意味すら取れません。

 The thing seemed fantastically impossible. Then he remembered that the angelic beauty of Gilda Glen had been in evidence for many years. He had been taken to see her act as quite a small boy. Yes, it was possible after all. But what a piquant contrast.

 ミステリ文庫「どう空想を逞しゅうしてみても、考えられもしないことのように思えた。ついで彼は、ギルダ・グレンの天使的な美貌が衆目をあつめだしてからでも、もう何年もたっているという事実を思い出した。彼はまだほんの小さな子供だった頃から彼女の舞台を観に連れて行ってもらっているのだった。そうだ、よく考えてみると、ありえないことではないわけだ。それにしても、なんというきわだった対照だろう。」

 クリスティー文庫「どう考えてもありえない。しかしギルダ・グレンのあの天使のような美しさは、長年の修業の結果であることを、彼は思い出した。まだ幼い少年のころから、彼はずっと彼女が演じる数々の役を見てきたのである。そう、やはり美女をつくるのは不可能ではないのだ。それにしても、なんという好対照だろう。」
 

「10 ぱりぱり屋」(The Crackler,1924)★★★☆☆
 ――「エドガー・ウォーレスを揃えるには大きな本棚が必要だ」「まだウォーレス風の事件には遭遇してないわね」「彼の著作は本職ばかりで素人探偵は出てこないだろう」そこにマリオット警部の来訪が伝えられた。「じつは提案があるんですよ。偽金ギャング団を一掃するんです。競馬関係者のレイドロー夫妻は金回りがよいのだが誰も金の出所を知らない。お二人には、潜入して証拠をつかんでほしいのです」マリオットは立ち去った。「では、ぱりぱり屋《クラックラー》を捕まえにいこう」「なにそれ?」「ぼくが発明した造語さ。紙幣はぱりぱりと音がするだろう」クラブに潜入し、トミーはマルグリット・レイドローに気に入られ、タペンスはマルグリットの取り巻きと親しくなった。確かに紙幣はクラブで出回っているようだが、肝心の出所がわからない。

 エドガー・ウォーレス作品の模倣。恐らくは元ネタもこうしたお気楽な冒険小説だと想像するので、ある意味トミーとタペンスにはしっくり来ているのだと思います。何だかんだで二人がいちゃついているのも楽しい。

 この話も翻訳のまずさが気になります。

 p.166「素人の犯罪、静かな家庭生活で起きる犯罪――そういものがぼくの得手だとうぬぼれているんですよ。家庭内の利害関係の強烈なドラマですね。そうなんです――タペンスがちょっとした女らしいこまやかな目線を提供してくれて、それがじつはとても重要なことなのに、この頭の鈍い男は見過ごしてしまうんだ」

 どうも野口氏はジョークや軽口の類が苦手なようで、ここもよくわからない日本語になっています。

 "The amateur crime, the crime of quiet family life --that is where I flatter myself that I shine. Drama of strong domestic interest. That's the thing --with Tuppence at hand to supply all those little feminine details which are so important, and so apt to be ignored by the denser male."

 ハヤカワ文庫「素人犯罪、もの静かな家庭内での犯罪――そういう事件でなら、僕の才能が光を放ちそうなうぬぼれはある。家庭内の根強い利害関係を含んだドラマ――そういったものならもってこいだ――タペンスがそばに控えていて、神経の鈍い男性の見のがしがちな、きわめて大切な、女性的でもある、こまかな事実を供給してくれるときているしね」

 クリスティー文庫「素人の犯罪、静かな家庭内の犯罪――それだったらぼくも異彩を放っているという自負があるよ。身内の利害関係が激しく衝突するドラマ。そういうやつさ――鈍感な男は些細なことを見落としがちだが、それがじつはとても重要なことだったりする。でも、いつもタペンスが女性の視点でそこをチェックしてくれるしね」
 

 p.169「少佐の奥さんのほうを忘れないで。それに彼女の父親のムッシュー・エルラード。偽札は英国海峡の両側で使われているんです」/「マリオット警部」トミーは非難するように叫んだ。「〝ブラントのブリリアントな探偵たち〟の辞書には怠慢という言葉はありませんよ」

 相変わらず、これではトミーがなぜ憤慨したのかがわかりません。

 "But don't neglect the lady, and her father, M. Heroulade. Remember the notes are being passed on both sides of the Channel."/"My dear Marriot," exclaimed Tommy reproachfully, "Blunt's Brilliant Detectives do not know the meaning of the word neglect."

 ハヤカワ文庫「だが、あの男の細君やその父親のエルラードのほうもおろそかにはできないよ。にせ札が英仏海峡の両側でつかわれていることを忘れないように」/「これは心外だね、マリオット君」とトミーは不服そうに言った。「ブラントの優秀な探偵たちはおろそかなんて言葉の意味を知らないのだからね」

 クリスティー文庫「しかし、奥方のほうを見逃しちゃいけない。それと彼女の父親のM・エルラード。贋札はイギリス海峡の両側で使われているんですからね」/「親愛なるマリオット君」トミーは非難がましく声を上げた。「〝ブラントの腕利き探偵たち〟の辞書には〝見逃す〟という言葉はないよ」
 

 p.170「わたし自身はかさかさ屋ラスラーがいいかな」

 話し言葉やくだけた表現のなかに唐突に「わたし自身」という硬い表現が出てくるのはこの訳者の特徴です。

 I like the Rustler myself.

 ハヤカワ文庫「わたしならさらさら屋ラスラーのほうがいいと思うけど」

 クリスティー文庫「でもわたしはカサコソ屋ラッスラーのほうがいいなあ」
 

 p.172「すべてぴんとした新札だな」

 ここだけ読んだら、「ぱりぱりした新札」じゃないの?と思ってしまったのですが、意外なことにこの箇所は本書が原文に忠実でした。

 "All new and crisp,"

 ハヤカワ文庫「全部真新しくてパシパシしている」

 クリスティー文庫「ぜんぶ新札でパリパリだ」
 

 p.173陽気なフランスラ・ゲ・フランスにはかなわないね?」

 Can't beat la gaie France, can you?

 ここはどの訳でも「陽気なフランス」としか書かれておらず、「gaie france」で検索しても同性愛雑誌ばかりヒットしてしまうのですが、どうやら「merry England(素晴らしき英国)」という決まり文句のフランスバージョンであるようです。
 

 p.181「きみを監禁しておくだけだ」「ぼくは〝監禁される〟気なんかない」というやり取りは、ちょんちょんカッコでくくられているくらいなので、恐らく「監禁」に当たる俗語なんだろうなというのは原文を確かめずとも想像はつきます。ミステリ文庫では「監禁状態」、クリスティー文庫では「拘束」。直訳すれば「人を制限下に置く」ですが、日本語には適した訳語がなかったようで、ただ意味もなく繰り返した人みたいになってしまっているのは致し方のないことだと思います。

 "Just keep you under restraint, " "I've no intention of being 'kept under restraint,' as you call it."
 

「11 サニングデールの謎」(The Sunningdale Mystery,1924)★★★★☆
 ――「今日の昼食はここだよ」トミーはABCショップにタペンスを連れこんだ。「隅の老人ね? ひもはどこにあるの?」トミーはポケットからとりだしたひもに結び目を作った。「いまもっとも大衆の関心を集めている謎に挑戦しようじゃないか」「サニングデールの謎ね」。トミーはポケットから新聞記事を出した。「三週間前、ゴルフ場で戦慄すべき発見があった。七晩ティーで倒れているセッスル大尉の死体が見つかった。いつもと同じ鮮やかな青のゴルフ用上着を着ていた。検死の結果、婦人帽の留めピンで心臓を刺されていたという事実が判明した。当日の昼間、セッスルは共同経営者のホラビーとプレーしていた。ホラビーが六番ホールのピンを直している間、七番ティーの辺りで背の高い女がセッスルに話しかけた。それからのセッスルのプレーはひどいものだったという。ドリスという小柄なタイピストが逮捕されたが、では背の高い女は何者なのか?」

 隅の老人シリーズは、喫茶店で紐をいじりながら新聞などで話題の事件について聞き手に語ればいいので、スタイルを真似やすいというのもあるでしょうが、この作品も全体にわたって隅の老人らしさが出ていました。トミーとタペンスものとしても、女性ファッションについてのタペンスの知識と、ゴルフコースについてのトミーの知識がともに活かされている、バランスのよい作品でした。途中まではトミーが口先だけ隅の老人を真似ているだけで、事件の真相については見当もついていないのも可笑しいですし、タペンスもそんなトミーに乗っかってあげている仲の良さが微笑ましい。

 p.184「彼はさっさと妻を〈ABCショップ〉に連れこみ」。「さっさと」が気になりましたが、意味的には間違いではないのか。「He drew her deftly inside an establishment of the kind indicated,」。ミステリ文庫「彼は器用に彼女を引っぱって、いま口にした種類の店に連れこみ」。クリスティー文庫「彼は今いった系列の店舗の中へ要領よくタペンスを引っ張りこみ」

 p.186「トミーはポケットから新聞記事を出してテーブルの上に置いた。」

 「新聞記事」ということは新聞の切り抜きでしょうか。原文を見てみると、記事の載った新聞の一ページということのようです。日本語で表現するなら「新聞紙」が近いと思いますが、ここはどれが間違いとも言えないと思います。

 「Tommy drew a crumpled piece of newspaper from his pocket and laid it on the table.」

 ミステリ文庫「トミーは皺くちゃの新聞をポケットからとりだし、テーブルの上にひろげた。」

 クリスティー文庫「トミーは皺くちゃの新聞をポケットから出してテーブルに広げた。」
 

「12 死の潜む家」(The House of Lurking Death,1924)★★★☆☆
 ――依頼人は完璧なまでの美人だった。メースンが描く女のように。「ロイス・ハーグリーヴスと申します。一週間前、家に送られてきたチョコレートを食べた家の者の具合が悪くなったんです。砒素が検出されました。ドクター・バートンによれば、近くで似たような事件が起こっているそうです」。家にあった包装紙が使われていたことから、一連の犯人は身内ではないかと疑っていた。ロイス・ハーグリーヴスは伯母のレディ・ラドクリフに引き取られていた。甥のデニスが伯母と大げんかしてしまい、全財産はロイス・ハーグリーヴスに遺されることになったが、申し訳ない思いから、彼女は二十一歳になったときすべてデニスに遺すという遺言書を作成した。屋敷には彼女の友人メアリー・チルコット、伯母のコンパニオンであるミス・ローガン、料理人のミセス・ホロウェイとキッチンメイドのローズ、伯母のメイドのハナ、小間使いのエスター・クアントがいた。依頼を引き受けた翌日、トミーたちは新聞で毒殺事件が起こったことを知る。

 E・W・メースンのアノー探偵ものですが、当の二人にも「あまりアノー探偵らしい事件じゃなかったわね」「お芝居するには重大すぎる事件だった」とコメントされています。チョコレート事件の犯人が身内だと判明するきっかけ【※依頼人が癖で落書きした包装紙が再利用されていた】も強引ですが、犯人にとって何のメリットもないどころか結果的にはそれで中毒ではなく毒殺を疑われているのだからお粗末です。タペンスの看護婦としての知識が役に立ちましたが、二人が出張らなくても解決できた事件ではあるでしょう。セイヤーズ『毒を食らわば』は1930年の作品です。

 最後の引用は、原文には「a familiar quotation」としか書かれていないため、本書では「『薔薇荘にて』のアノーの言葉を引用すれば、」と補って訳されてありました(『薔薇荘にて』第三章冒頭で、アノーが死体の第一発見者ペリシェ巡査に言う台詞)。ハヤカワ版には新旧とも補い訳も註釈もないので、これは助かります。
 

「13 アリバイ崩し」(The Unbreakable Alibi,1928)★★★☆☆
 ――ミスター・ジョーンズは言った。「彼女はとても賭けごと好きな女性で、ぼくと同じく探偵小説のファンなんです。そこで、アリバイをでっちあげる話になりました。ウーナはアリバイをでっちあげるのは簡単だと。『だれにも破れないアリバイをわたしが作りだせたら、なにを賭ける?』『なんでもきみの好きなものを』。チャンスなんです。偽のアリバイを見破ってほしい」。同じ日の同じ時刻、ウーナはソーホーで友人と食事をし、トーキーのホテルに泊まっていた。トミーとタペンスは聞き込みを開始したが、誰も噓をついているようには見えなかった。

 フレンチ警部のパロディです。物真似の悲しさゆえ本職と違って聞き込みに苦労するというくすぐりがあり、真相もこのシリーズらしくゆるいもので、パロディ要素の強い作品でした。

 この作品のみ連載終了数年後に単発で発表されました。連作を補完するような内容でもないので、恐らくは単行本刊行前の宣伝も兼ねたボーナストラックのようなものだったのでしょう。
 

「14 牧師の娘」「15 レッドハウス」(The Clergyman's Daughter/The Red House,1923)★★★☆☆
 ――「モニカ・ディーンと申します。父は牧師をしていましたが、三年前に亡くなって、病気の母とわたしは困窮しました。ところがある日弁護士から手紙が届き、父の伯母が財産をすべてわたしたちに遺してくれたと知りました。お金はほとんどありませんでしたが、わたしたちには家がありました。買いたいという申し出もありましたが、母の健康のためにも快適な部屋で過ごすのがいいと考えて断ってしまいました。そうして貸間を始めましたが、掛けてある絵が落ちたり、陶器が飛んで割れたりして、滞在客は怖がって出ていってしまいました。三日前に心霊研究家が家を買いとって実験したいというのですが、そのドクター・オニールという男は、前に家を買いたいと言ってきたのと同じ男でした。見た目は違っていましたが、金歯が同じだったんです」

 シリーズ連載前の第一作。ロジャー・シェリンガムものですが、シェリンガム要素はさほどなく、二人は暗号解読に勤しみます。屋敷を相続すると怪しい買手が現れるというのはホームズ譚の趣がありました。

 トミーが最後に引用する「クリスマスは年に一回しかない」は古くからある英語の言い回し。だから楽しみましょう、とか、だから慈愛の心を持ちましょう、くらいの意味。

 暗号に添えられた聖書の一節「探しなさい。そうすれば、見つかる」は、意味合いから言って「求めよ、さらば与えられん」に該当するのだろうと見当を付けましたが、現行の聖書ではこういう訳になっているんですね。しかも原文は「Seek and ye shall find.」なので、「求めよ、さらば与へられん。尋ねよ、さらば見出さん。」の二番目の方が本来の引用でした。だから正しさで言えば本書の訳が正しい。ただ、一番目も二番目も意味的には変わらないので、ハヤカワ版は新旧とも日本人には膾炙している「求めよ、さらば与えられん」が採用されていました。
 

「16 大使の靴」(The Ambassador's Boots,1924)★★★☆☆
 ――約束の時間ぴったりに、駐英アメリカ大使ランドルフ・ウィルモットがミスター・ブラントのオフィスに招き入れられた。一週間前にノマディック号で到着した際、同じイニシャルのラルフ・ウェスタラムのかばんととり違えられた。すぐに間違いに気づき、お供の者がかばんを返しにきた。この件はそれで終わったはずだった。ところが後日、ウェスタラム上院議員と会っときにその話をすると、先方には覚えのないことだった。大使のかばんの中身は靴だった。もちろん秘密文書などが隠されているはずもない。大使の従者に話を聞いたところ、船のなかでアイリーン・オハラという女性が大使の船室のそばで具合が悪くなったことがあったことを思い出した。

 H・C・ベイリーのフォーチュン氏に、タペンスがなりきっています。かばん取り違え事件の裏に隠された犯人の真の目的を探る当初こそ探偵小説的ですが、アルバートの活躍や追手を撒いたりなど、スパイ・冒険小説要素も強い作品でした。
 

「17 十六号だった男」(The Man who was Number Sixteen,1924)★★☆☆☆
 ――トミーとタペンスは長官の私室で密談中だった。「モスクワの本部がスパイたちから連絡がないことを騒ぎだしたらしい。国際探偵社でおかしな事態が起きていると疑われはじめたようだ」。戦術を話し合ったあと、若夫婦はオフィスへ戻った。ウラディロフキー公爵と名乗る依頼人が現れた。「友人の娘さんにかかわることなのだ――十六歳の」「閣下、弊社は十六年間、秘密を厳守してきました」「そうか、これ以上芝居を続ける必要もあるまい。同志よ、なにが起きている?」「裏切りです」「やはりな。わたしは〈ブリッツ〉に滞在している。マリーズを連れていく」。ロシア人はタペンスを連れてオフィスを出た。ミスター・カーターと部下たちが尾行していた。ところがブリッツに着くと、二人は張り込んでいた二階ではなく三階に向かった。慌てて三階の部屋に踏み込んだが、二人の姿は消えていた。

 最後はクリスティ自身によるエルキュール・ポワロもの。といってもやはり冒険小説要素が強く、犯人が逃げる時間的余裕があったかどうかに気づくのは、ポワロに限らず名探偵なら誰でも出来そうな推理です。何より、十六号の正体の取って付け感が台無しでした。『秘密機関』のラストシーンはお洒落でしたが、本書のラストシーンはさすがにタペンスが逞しすぎて少しびびります。せめて事件の翌日とかの会話ならよかったのに。

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チェスタトン「人間の返答」とイェイツ「さらわれた子ども」

チェスタトン「人間の返答」とイェイツ「さらわれた子ども」

 チェスタトンという人は随分とひねくれた書きぶりをするので、どんな文章でも名言みたいに見えてしまうのはさておき、実際に山ほどの名言を残した人でもありました。

 今の日本での知名度なら、『名探偵コナン』に引用された「犯人は創造的な芸術家だが、探偵はそれを批評する評論家に過ぎない」や、ミステリ好きなら知らぬ人はない「賢い人間なら、木の葉はどこに隠す?」「森に」「では小石は?」「浜辺に」あたりが双璧でしょうか。評論の代表作からの「狂人とは理性以外のあらゆる物を失った人である」は知名度では一歩及ばなさそうです。

 何しろ名言の宝庫ですから、ネット上にも名言を集めたサイトには事欠きません。しかし、これも当然といえば当然ですが、ネット上のサイトには怪しいところも山のようにあります。孫引き曾孫引きは当たり前、出典も原文も明記されていなければ、前後の文脈も不明、翻訳の信頼度も定かではなく、果ては本人の言葉かどうかも疑わしいものまでありました。

 

 おとぎ話は真実以上のものだ。おとぎ話は子どもたちにドラゴンがいるということを教えるのではない。ドラゴンは倒すことができるということを教えるのだ。

 

 確かに名言です。

 しかし残念なことに、チェスタトンはこんなことは言っていません。正確に言うと、同じようなことは言っているものの、こうした表現は用いていません。

 ではこの文章は何なのだ、というと、作家のニール・ゲイマンが自著『コララインとボタンの魔女』の冒頭に、このように改変した形で引用したもののようです。
 

 チェスタトン本人の文章は、『棒大なる針小(Tremendous Trifles)』「赤い天使(The Red Angel)」ではこうなっていました。

 

 したがって、おとぎ話は、子供の心に恐怖、あるいは恐怖の形をとったいかなるものも作り出す原因とはならない。おとぎ話は、子供に悪、あるいは醜さの観念を与えるものではない。すでにそれは子供の中にある――すでに世界の中にあるのだから。おとぎ話が子供に与えるのは、お化けはやっつけられるという最初のはっきりした観念である。赤ん坊は、想像力を持つようになった時から、龍のことはよく知っている。おとぎ話が教えてくれるのは、龍を退治する聖ジョージである。(別宮貞徳訳)

 Fairy tales, then, are not responsible for producing in children fear, or any of the shapes of fear; fairy tales do not give the child the idea of the evil or the ugly; that is in the child already, because it is in the world already. Fairy tales do not give the child his first idea of bogey. What fairy tales give the child is his first clear idea of the possible defeat of bogey. The baby has known the dragon intimately ever since he had an imagination. What the fairy tale provides for him is a St. George to kill the dragon.

 

 名言サイトで見つけて気になった名言がもう一つありました。

 

 世の中は、君が理解する以上に栄光に満ちている。

 

 チェスタトンがこんなこと言うかなあ?というのが最初の感想でした。

 原文も出典も不明なので探すのに少し苦労しましたが、どうやら原文は「But the world is more full of glory Than you can understand.」であるらしい、とわかったところで、ピンと来る方もいるでしょう。明らかにW・B・イェイツの代表作の一つ「さらわれた子ども」の一節「For the world's more full of weeping than you can understand.」が下敷きにされています。

 そうやって手繰ってゆくと、この文章がイェイツ「さらわれた子ども」へのいわば返歌・アンサーソングである「The Mortal Answers」の一節だということがわかりました。

 イェイツの原典は、ケルトの伝承にある子どもをさらう妖精、チェンジリングを詠んだものです。妖精が人間の子どもを妖精の国へといざない、「だってこの世界は君の理解を超えた悲しみに満ちているから(For the world's more full of weeping than you can understand.)」とそそのかします。

 それに対してチェスタトンの返歌は、人間が妖精に対してノーを突きつける内容でした。「でもこの世界は君たちの理解を超えた/神の栄光に満ちているのだ(But the world is more full of glory/Than you can understand.)」。

 「the world」は「世の中」ではなく、「妖精の国」に対する「人間の世界」。「you」とは「君たち妖精」。そしてこの「glory」は、文脈から言っても、ケルトのアニミズムに対するキリスト教側からの返歌という形から言っても、世俗的な栄光などではなく、「神の栄光・神の恵み」のことにほかなりません。

 小説や評論ならともかく、チェスタトンの詩が新たに訳される可能性は低いと思いますので、イェイツの元詩とともにここに訳出することにしました。

 

さらわれた子ども

ウィリアム・バトラー・イェイツ


それはスルース・ウッドの岩山が

湖に沈む場所。

そこに草木茂る島あり。

それは青鷺の羽ばたきが

まどろむ水ねずみの目を覚ます場所。

そこにわたしたち妖精は

大桶を幾つも隠した。苺や

盗んだ真っ赤な桜ん坊の詰まった桶を。

『来やれ、人の子よ!

川や沼や、荒れ野を目指し

妖精と、手に手を取って

だってこの世界は君の理解を超えた悲しみに満ちているから』


それは月影の波が

くすんだ砂をその光で磨く場所。

遙か彼方、ロッシズの岬の辺り

そこでわたしたちは夜通し踊る

いにしえの舞を織り交ぜながら

手に手を重ね、目と目を交わす

月が消え去ってしまうまで。

わたしたちはあちこちと跳ね

泡立つあぶくを追い立てる。

一方でこの世界は、眠っている間も

苦しみと不安に満ちているというのに。

『来やれ、人の子よ!

川や沼や、荒れ野を目指し

妖精と、手に手を取って

だってこの世界は君の理解を超えた悲しみに満ちているから』


それは流れる水が

グレン゠カーを見下ろす丘から湧き出る場所。

藺草に囲まれ

星一つ水浴びするのがやっとの水たまりで、

わたしたちはまどろむ鱒を探し出し

耳許でささやき

不穏な夢を見せる。

瑞々しい流れの上に

しずくを落とす羊歯から

そっと身を乗り出して。

『来やれ、人の子よ!

川や沼や、荒れ野を目指し

妖精と、手に手を取って

だってこの世界は君の理解を超えた悲しみに満ちているから』


あの子はわたしたちと行くのだ

あの真面目な目をした子は。

二度と聞くことはない

暖かな山腹にいる仔牛の鳴き声も

暖炉の上のやかんが鳴って

胸に安らぎを届けるあの音も。

茶色いねずみがオートミールの

箱の周りを動き回るのも、二度と見ることはない。

『だって来るのだ、人の子は

川や沼や、荒れ野を目指し

妖精と、手に手を取って

だってこの世界はあの子の理解を超えた悲しみに満ちているから』
 

 

人間の返答

ギルバート・キース・チェスタトン


……来やれ――

妖精と、手に手を取って

だってこの世界は君の理解を超えた

悲しみに満ちているから。

   W・B・イェイツ


お伽噺の森の奥から

薄明を裂いて輝く

妖精の国の軍隊を相手に

わたしは追い詰められた獣のように戦った。


あるのは疲れ果てた右腕と、

ぼろぼろの赤き剣のみ

そして運命を歯牙にも掛けぬ

アダムの裔の誇りのみ。


妖精たちは花の鎖と

自在な百合の槍を手にやって来ると

青葉茂れる静かな森のなかで

わたしの悲しみをさらおうとした。


ゆえにわたしは言った。『今やすべてが揺らぎ

眉は重たげに垂れ、

積年の希望は潰え

最後の星も沈んだ。今こそ――


聞け、おしゃべりなこおろぎよ、

聞け、土に産み付けられし卵よ、

暗闇のなかで力強く叫ぶ

神を称える男の新たな声を。


夜と無のなかから

産みの苦しみとともに男は現れた

陽の光の下に半刻立ち、

彼女の名を呼ぶためだけに。


陽の光が、彼女の髪の上に

驟雨のように降り注ぎ、見よ、

振り返った彼女の気高く輝く頰に、触れるのだ。

ああ、妖精の兵たちよ、


この世界は激しく残酷で、

わたしたちは心も手も疲れ果てている。

でもこの世界は君たちの理解を超えた

神の栄光に満ちているのだ』

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『NかMか』アガサ・クリスティー/深町真理子訳(ハヤカワ・ミステリ文庫)★★★★☆

『NかMか』アガサ・クリスティー/深町真理子訳(ハヤカワ・ミステリ文庫)

 『N or M?』Agatha Christie,1941年。

 ミステリ文庫初版1978年。カバー:真鍋博。解説:編集者(T)。

 再読。トミーとタペンス・シリーズの三作目。二人の子どもはもう大きくなって親元を離れています。時は第二次大戦が始まって間もない1940年春、トミー46歳です。

 相変わらず冒険や諜報活動に憧れて仕事の選り好みをするトミーや、編み物なんて老人のすることだと不満を洩らすタペンスの姿に、ほっこりしてしまいます。

 二人のやり取りのなかに出てくる「陰気なデズモンド」とは何ぞやと調べてみると、「Dismal Desmond」はイギリスで人気のあった犬のキャラクターだそうです。陰気というか、目がイッちゃってます……。

 グラント氏の台詞にある「シスター・スージーが兵隊ソールジャーのためのシャツを裁縫している」というのもわからなかったのですが、英語版Wikipediaによると第一次大戦時代の歌だそうです。当時の人じゃないとわからないジョークですが、ソング・スージーと聞き間違える根拠はあったというわけですね。ソールジャーとルビが振ってあるのは、「Sister Susie's Sewing Shirts for Soldiers」のSの頭韻をどうやらサ行で再現した模様です。

 仕事を探していたトミーとタペンスの許を、ミスター・カーターの紹介でグラント氏が訪れた。タペンスが席を外すと、グラント氏はトミーにだけ依頼内容を伝えた。第五列すなわちトロイの木馬のようにイギリス内部に入り込んだドイツのスパイを見つけてほしい。敵に知られていない素人が必要なのだという。〝事故〟死した前任者は「NかMか。ソング・スージー」と言い残していた。Nが男でMが女だということ以外はわからないが、どちらかがいることを突き止めたらしい。ついては前任者の任地にある無憂荘サン・スーシに行き、誰がスパイなのかを探って欲しい――。

 メドウズという男やもめに扮して無憂荘に乗り込んだトミーは、滞在客の一人ブレンキンソップ夫人を見て驚愕する。タペンスじゃないか! 席を外したふりをして盗み聞きしていたという。

 無憂荘の経営者ペレナ夫人はスペイン系の名前を持ち、純粋の英国人ではなくアイルランド系のように見える。ほかの滞在客は以下の通り。オルーアク夫人はうっすらひげを生やした小山のような恐ろしげな女だ。ブレッチリー少佐は保守的で偏見に満ちている。ミス・ミントンはいくつも首飾りをつけた初老の婦人だった。カール・フォン・ダイニムはドイツからの亡命者だが、明らかにユダヤ人ではなくドイツ人だ。ケイリー氏は健康のことばかり気にしていて、ケイリー夫人はそんな夫に甲斐甲斐しい。二歳のベティと母親のスプロット夫人。ほかに、隣人で少佐のゴルフ仲間のヘイドック海軍中佐がいた。

 未亡人のブレンキンソップ夫人がやもめのメドウズを追いかけているという設定で情報を交換することにしたベレズフォード夫妻は、ペレナ夫人の娘シーラとカール・フォン・ダイナムが早朝から密会しているのを目撃する。

 いやまったく、タペンスときたら! 完全にトミーに同意します。最高の登場をしてくれました。タペンスは別行動しつついずれ合流するんだろうなあと思っていたのですが、そんな常識など通用する人物ではありませんでした。

 さて、いみじくも少佐が言ったように、滞在客に女が多すぎるのが気になります。(作劇の都合で言えば)NかMが男か女かわからない以上、容疑者を絞らせないという意味では男女同数にするのが穏当だと思うからです。それだけに、オルーアク夫人が怪しすぎるんですよね。絶対男の変装だろうと思いましたから。

 とは言え当然ながらほかにも怪しい人物には事欠きません。初めから外国人風で怪しかったペレナ夫人には、アイルランド解放運動家の未亡人という動機がありました。毒にも薬にもならなそうなケイリー氏が、ナチに好意的な意見を持っていることが判明しました。子どもを溺愛するだけに見えたスプロット夫人が、その子のために射撃の腕を披露します。カール青年は言わずもがな。しかも謎めいた外国人女まで登場し、カール青年に話しかけているところを目撃されるのです……。

 この謎の女の存在が非常に上手いんですよね。【ベティ誘拐については、】冷静に考えると本当に何がしたかったんだと読書中は疑問に思って引っかかってもおかしくないのですが、ここまで様々な疑惑がくすぶり続けていた、いわば溜めの回だったとすると、ここから派手に物語が動き出すためそんな不審は忘れてしまいました。そうしてすべてが終わってから振り返れば、なるほど謎の女にはそういう意味があったのかと腑に落ちるのでした【※謎の外国人女はベティの本当の母親。Mだったスプロット夫人が偽装のためベティを育てていたが、母親にさらわれたため詳細がばれるのを恐れて母親を射殺した。本当の母親ならば我が子に当たるかもしれない状況で銃撃などできないはずだ――というのがタペンスが気づいたきっかけ】。

 また、『NかMか』というタイトルも巧みだと思いました。【黒幕にも仲間がいて当然なのに】、このタイトルのせいで、目指すNかMかだけに注意を向かわせる効果がありました。だからこそ、誰がスパイでもおかしくない状況で、二度も三度も驚きを提供することが出来たのだと思います。
 

 日本語版Wikipediaの『NかMか』の項目によると、本書タイトルは聖公会祈禱書の教理問答「汝のクリスチャンネームは何か。NかMで答えよ。("What is your Christian name? Answer N. or M.") 」から採られているそうです。本書212ページでも、「〝きみの名はなにか?〟――NかMで答えよ('What is your name?' Answer N or M.)」とトミーが引用しています。

 しかしWikipediaを読んでもNかMの意味についてはさっぱりです。英語版Wikipediaを見ても「The "N. or M." here stands for the Latin, "nomen vel nomina", meaning "name or names". It is an accident of typography that "nomina" came to be represented by "m".」という説明が追加されているだけで、mというのがnnの誤読・誤植だということはわかりましたが、肝心の問答の意味がわかりません。

 しょうがないのでおおもとの祈禱書を見てみることに。ああ、なるほど。「Question. What is your christian name? Answer. N. or M.」「問 あなたの教名は何といいますか 答 ――といいます」。文字通り問答でした。Answerは動詞ではなかったんですね。「問:あなたの洗礼名は? 答:あなたのお名前(単数または複数)」という感じでしょうか。nameの複数がnnなのは、M.(Monsieur)の複数がMM.であるのと同じ表記法なのでしょう。いずれにしても、イギリスの国教会徒にとっては、マザー・グースやシェイクスピアの引用と同じような効果があるタイトルなのだと思われます。

 p.231「後家さんに気をつけな、サミー(Beware of widders, Sammy.)」は、ディケンズ『ピクウィック・クラブ』で、後家と結婚してひどい目にあったトニー・ウェラーが息子のサミーに伝えた助言。

 p.285「闘技場の扉がひらいて、ひとりのキリスト教徒がライオンと戦うためにはいってゆく("The arena doors open," murmured Tuppence. "Enter one Christian en route for the lions.)」も何かの引用っぽいのですが不詳。

 p.291「〝よくぞこられた、わたしの客間へ〟と、蜘蛛が蠅に言ったとさ('You've walked into my parlour,' said the spider to the fly.)」は、Mary Howittの詩「The Spider and the Fly」の一節。

 情報部から秘密裡にナチスの大物スパイ〈NかM〉の正体をつきとめるよう依頼されたトミーは、タペンスには内緒で南イングランドへと赴いた。しかし、タペンスとて一筋縄でいく女ではない。得意の機知で夫の行動を探り当て、騙されたふりをしてトミーの任地へ先まわり。なんとか情報部を説得した二人は、かくて大規模なナチス・スパイ網のまっただなかに飛びこんでゆく! ユーモアに溢れる異色冒険スリラー。改訳決定版(カバーあらすじ)

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『月下の蘭/殺人はちょっと面倒』小泉喜美子/日下三蔵編(創元推理文庫)★★★☆☆

『月下の蘭/殺人はちょっと面倒』小泉喜美子/日下三蔵編(創元推理文庫)

 『The Orchid under the Moon and Other Stories』小泉喜美子,1979/1982年。

 古典芸能に材を採った作品集の合本版。2018年刊行。装画:麻生志保、装丁:柳川貴代+Fragment。

『月下の蘭』(1979)

「月下の蘭――春は花」(1974)★★★★☆
 ――「お姉さまは蘭と結婚しているのよ」久美子は良人の要介に話しかけた。新婚旅行から帰ってきたばかりで、今は姉夫婦の許を訪ねるところだ。「もともと政略結婚だったし、野分さんみたいな金儲け第一主義で女好きの俗物と六年も一緒にいれば、人間嫌いになって当然かもしれなくてよ」。野分夫人は眼の状態が悪いのか眼帯をしていた。初めて夫人を目にした要介は見惚れてしまった。夫人が蘭について滔々と語るのを聞いて、要介は思わず声を熱くしていた。「わたしの理想は〝人面花〟を造り出したいことなのですわよ」と微笑む夫人は、ひとでのようないそぎんちゃくのような突然変異の花を〈ミルトニア・アンドロギュヌス〉と名づけていた。茂みの奥で何かが動いたようだった。夫人は茂みに向かって、「いい子だから、じっとね」と呟いた。

 モチーフとなった『双面水照月(ふたおもてみづにてるつき)』の要素は、野分夫人とおくみと要介の三角関係に活かされているようです。コリア「みどりの想い」を主旋律に、水面下ではまったく別の物語が繰り広げられていました。怪奇譚――かと思わせて、トリッキーなミステリ――かと思わせて、純愛小説に着地するなど一筋縄ではいかない作品でした。
 

「残酷なオルフェ――夏は星」(1974)★★★☆☆
 ――劇団員が爆弾を作っていると言い張る刑事を、代表の宮子は笑い飛ばした。今度やる古典劇『オルフェ』に新しい解釈を加えようとした団員が、小道具でも準備しているのだろうと。むしろ不実な恋人を牢獄につないでくれる警察はいないものか。五十歳をすぎても女優として老けてはいないが、情人である二十歳年下の二枚目俳優・光史は、今は新人女優の上田二葉に夢中だった。宮子からの大抜擢に、二葉は眼を見ひらいた。「ほしかった役なんです。この、オルフェを愛する――」「あなたにやってもらいたいのは〝死の女王〟のほうですよ」「まさか」「主役はできないとでもいうの?」。そこで光史が割って入った。数日後、二葉は光史の車でドライブしていた。モーテルまでの道を知っているのは先生と来ていたからかもしれないが、かえって心は晴れやかだった。どれだけ宮子に侮辱されようと、光史はもはや二葉のものなのだ。

 劇団員による騙し騙されの二転三転が楽しめます。原典の鬼女を『オルフェ』の死の女王に換骨奪胎しているようでもあります。モチーフは『田舎源氏露東雲(ゐなかげんじつゆのしののめ)』。山名宗全に命を狙われる足利将軍家の庶子光氏(源氏)から思いを寄せられる黄昏(夕顔)が、怨霊化した母東雲に脅かされるという、『偐紫田舎源氏』の歌舞伎化らしい。
 

「宵闇の彼方より――秋は蟲」(1973)★★★★☆
 ――担当している作家の水元頼雄が、取材旅行に行ったS地方の山間部で事故を起こして入院しているという知らせを受けて、私は見舞いに赴きました。『葛城病院』と書かれた朽ちはてんばかりの建物を見て、仮病ではないと確信しました。「災難でしたねえ」「この建物に妙なものが見えたと思い、ハンドルを切りそこねたんだ。それが、ここへ来た途端に新連載の構想を思いついたんだから、あながち災難とは言えない」「状態がいいなら東京に転院しませんか」「もう少しここにいるよ。探ってみたい問題もあるし――」。病室から帰る途中で、入ったときにも聞いた声が聞こえました。謡の声でした。曲が『土蜘蛛』であることだけはわかります。誰かが入院しているらしい。私はバスに乗り、車掌にあの病院のことをたずねました。途端に車掌は嫌な顔をして急いで離れて行ってしまったのです。

 モチーフは謡曲『土蜘蛛』。蜘蛛の視点があることから、『サイコ』的な患者と医者による殺人劇が予想されます。ところがどっこい予想は裏切られ、【蜘蛛は恋人の生まれ変わった姿であり、患者の死は恋人の呪い】であることが明らかになりました。特筆すべきは、生贄というミスディレクションを誘うことになった【患者の腕切断】の動機です。ミステリ的にも怪奇小説的にも類を見ない極めて特異なものでした【※戦場でやむを得ず人肉食をしていた恋人の仏前に捧げるため、〝好物〟の人肉を供えていた】。
 

「ロドルフ大公の恋人――冬は鳥」(1973)★★★☆☆
 ――「女が二人、来ました」と山案内人は警部に言った。「しかし二人目の女は……ありゃ、女じゃなかったかもしれねえ」「男だったのか?」「ちがうちがう旦那、たしかに女だった。でもやっぱり、〝女〟じゃなかったかもしれねえと思うのさ」。クリスマス・イヴ、山荘の主人である鳥撃ちの名人クロード・大友に頼まれて、案内人はツリーを立てて帰ろうとするところだった。車がエンコしたからと手助けを求める若い女が来て、帰って行った。案内人は小屋に戻った。二度目の女が来たのは夕方だった。鳥撃ちは『今夜はお祝いだ』と言って、山荘からは外国の音楽が聞こえて来た。……大友は女を見つめた。待っていたのだ。「こんばんは、ドロレス」。無言で被り布とショールを取った女は、二十年前と変わりなかった。……退屈そうな大友に、「ロドルフ大公をお撃ちなさいな」と伯爵未亡人が囁いたのだ。そしてその日、踊り子のドロレスと出会った。

 モチーフは『積恋雪関扉(つもるこひゆきのせきと)』。原典の関守実は大伴黒主という趣向を、山案内人とクロード・大友という二役に分けているようです。ロドルフ大公という獲物が得体の知れない精霊か何かのように語られているうえに、大半の出来事が恋に溺れた案内人と過去に絡め取られた老鳥撃ちの視点で語られるため、冒頭から警察も登場する現実的な殺人事件であるにもかかわらず、地上から離れた幻想譚のような趣が全篇を覆っていました。【※鳥撃ちが昔殺した恋人の娘が復讐に来たのを、恋人自身が来たかのように錯覚して覚悟を決めた。鳥撃ちに案内人が鳥撃ちを殺した娘を返り討ちにした。名人にも捕えるのが不可能なロドルフ大公とは、保護されているルドルフ極楽鳥(アオフウチョウ、Paradisaea rudolphi)のことだった。
 

『殺人はちょっと面倒』(1982)

「ラヴ・ホテル〈瀧〉にて」(1982)★★☆☆☆
 ――ルポ・ライターの大矢邦充は、〈ホテル・カスカード・瀧〉の前に立った。何年も前とは違い、〈××御旅館〉という看板は掲げられていなかった。どんなたぐいのホテルかはネオンが物語っていた。(何が〝ミス・ニッポン〟だ。おまえのそのきれいな顔にかぶった仮面を、おれはひんむいてやるぞ)。今夜の獲物は門平瀧子、このホテルの経営者の娘だった。会見場所にここを指定すると、彼女は顔色を変えたのだった。「おれをおぼえているか?」「会ったことが?」「六、七年前、おれはこの近くのアパートに下宿していた。アルバイトの関係で何度かきみを見かけたし、口をきいたこともある。気のあるそぶりさえ見せつけたんだぜ」「とんでもないわ。アルバイトの顔なんかいちいちおぼえていられますか」「きみに結婚を申し込んだこともあるんだぜ」「?!」「そしたらきみは、『わたしはとっくに結婚してるのよ。おあいにくさま』と答えたんだ。ミス・コンテストに既婚者が出たとなりゃ大問題だ」。途端に瀧子は笑い出した。

 劣等感だけで突き進むには邦充はもういい大人だと思うのですが、よくわからない理由でつきまとっているのはゴシップ記者というよりストーカーでした。邦充も瀧子も悪い人間という意味ではピカレスク小説ですが、二人とも悪党としてはちょっと小粒です。瀧子の方はこれから大きくなりそうな片鱗を窺わせていましたが。
 

「殺人はちょっと面倒」(1972)★★☆☆☆
 ――事態をこれ以上悪くしないために、自分を元気づけたつもりだった。日高との約束が実現していれば、小蔦は今頃は映画館の暗がりのなかだったにちがいない。「小蔦ちゃん、今度お稽古をいい加減な理由で休んだら肯かないからね」清元の師匠には見抜かれていた。(日高さん、あなたの子供が生めないくらいなら、あたし、死んだほうがましなんだわ)。小蔦からデパートに電話がかかってきて、日高は必死に怒りを抑えた。昔は、彼と小蔦はとてもよかった。でも今は違う。今夜は桐谷百貨店の重役令嬢・遼子との約束があるのだ。食事のあと、日高は遼子を抱き寄せた。遼子は顔をそむけたが、悪い感触ではなかった。日高は今度は念入りに接吻し直した。……ある接待の夜、悪酔いした日高にトイレのありかを教えてくれた芸者が小蔦だった。はじめこそ小蔦のペースに飲まれていた日高が、次に会った時からたちまち立場は逆転した。うぶな女学生のように、小蔦は日高に傾倒した。

 タイトルに殺人とは入っていますが、ミステリではなくドロドロの人間模様でした。「ラヴ・ホテル〈瀧〉にて」の邦充もそうでしたが、本篇の小蔦にしても、痛すぎてただの独り相撲になっているせいでむしろドラマが弱くなっていると感じました。
 

「夜のジャスミン」(1973)★★☆☆☆
 ――早いもので、旦那様にお仕えするようになって半年が過ぎ去ろうとしております。盲目の旦那様のお世話をするわたくしを、「阿也、阿也」と呼び親しんでくださいました。どうやら旦那様ご自身で世間とのお交際を断ったようで、ただ一人のお嬢様とたまさか短いお手紙をするくらいでした。お心のはしばしを打ち明けてくださることもありました。特高警察時代に殺してしまった人の子供がいつか復讐に来ると信じていて、贖罪のために復讐者が殺人犯にはならないよう準備しているという話でした。ある日わたくしはいつものようにお嬢様の糸子様からお手紙を読み上げておりました。『お父様に紹介しなければならない人を伴れて行きます――』。それを聞いて旦那様が仰いました。「そうか、とうとう来るのか」

 盲目の景清に娘が会いに来る謡曲「景清」がエピグラフに用いられているように、盲目の元特高刑事に娘(と連れ)が会いに来る話です。盲目であることがトリックに利用されていました。【糸子の婚約者を復讐者だと】旦那様が早合点していることは読者にはわかりきっているのですが、それがご都合主義なのではなく【そう思い込むように阿也が誘導していた】ことが判明したり、タイトルにもなっているジャスミンの香水から【旦那様が阿也を糸子だと勘違いしたり】と、計画と偶然が上手く活かされていました。それはそうと、旦那様がこのことだけは悔恨に駆られている理由がよくわかりませんでした。間接的にではなく直接殺したことは初めてだったのか、子どもの前で親を殺してしまったからなのか。
 

「空白の研究 A Study in Blank」(1981)★★★☆☆
 ――病院の廊下を看護婦たちがあわただしく歩いて行く。「20号室の患者、どうしたかしら?」「ちょっと気をつけないといけないかも」「――」わたしは息をひそめ、看護婦たちが遠ざかって行くのを聞いていた。無理矢理に連れてこられ、隙を見て逃げ出してやろうとして、うまくいった! でもわたしはもう駄目になってしまった。お化粧ひとつしていない醜い顔になって、手足もむくんでふた目と見られぬ姿に変わってしまった。あのころは……。所属しているバレエ団の新しいプリマ・バレリーナに抜擢された。バレエの教師と結婚するつもりだった。充実した人生が開幕せんとした筈だった……。当然嫉妬された。『先生に肉体を捧げたからよ!』と噂された。今はまだ新人だが、いつか――。そして舞台の初日。花束、花束、また花束。それももう二度と贈ってはもらえない。病室には一輪の花も飾られていなかった。あの事故が起こって。事故? あれは事故だったのだろうか。

 悲劇のヒロインによる悲劇の一代記。どう考えても精神病棟に入院させられた患者の妄想だろうな、というのをひっくり返されるのは、妄想系の話にうんざりしている読者としては新鮮でした。しかしその後、悲劇から幸福に転じておいてさらにもう一ひねり――というのが当時としてはどんでん返しだったのかもしれませんが、今となってはオチとしてピンと来ない結果になっていました【※悲劇→出産時の痛みを和らげるための鎮痛剤による妄想→未婚の母でした】。

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