第二巻は『キャラコさん』&『顎十郎捕物帳』という、十蘭の代表的なシリーズ作品が二つも収録されています。代表作「ハムレット」のプロトタイプ「刺客」も収録されていますし、全集の第二巻という中途半端な形ながら、これから十蘭を読もうという人には意外とお勧めの一冊じゃないでしょうか。
『新版八犬伝』(1938.4)★★★★☆
――信乃は先君足利持氏の幼君春王、安王の御遺品村雨の名刀を、成氏卿に献上するため、明日古河へおもむく。戦で傷を負い領地を姉夫婦に譲りながらも、父がこれだけは手放さなかつた重宝である。
三一版全集未収録。馬琴『南総里見八犬伝』の犬士集めの部分をテンポのいい文体で再話したもの。おおまかな筋は原作通りであるものの、浜路の台詞廻しがやけに婀娜っぽかったりするところが十蘭的というか現代的というか。
「刺客」(1938.5〜6)★★★★★
――第一の手紙「今日から伊豆の小松といふ家に秘書にまゐります」第二の手紙「思ひがけぬ事情のために、またお手紙を差し上げます。秘書とは一杯喰はされ、実は此処に住んでゐる神経病者のお相手が仕事だつたのです。『ハムレツト』の芝居の最中に頭を打ちつけて、自分をハムレツトだと思い込んでしまつた子爵なのでした」
前半はピランデルロ『エンリコ四世』にハムレットを流し込んだ翻案小説なのかな(とはいっても、佯狂問題に『ハムレット』をあてがった時点でそれだけでも「勝ち」でしょう)、と思っていたのですが、途中から十蘭らしい恋愛要素やミステリ要素が強くなりました。
三一版全集未収録。そのための書簡体であるとはいえ、個人的には最後のミステリ仕掛けが余計に思えます。それほどにピシッと締まった作品ですし、「佯狂かどうか」ではなく「誰が××したのか」の方に問題が移ってしまった挙句のあの仕掛けですから、ちょっと意外性を狙いすぎに思えてしまいました。
「モンテ・カルロの下着」(1938.6)★★★★☆
――リュウ・ド・リラのホテルに二人の日本のお嬢さんが住んでいた。一人はソルボンヌの理科の書生さん。もう一人はノアイユの「舳人形」を愛誦しているとりとめのないお嬢さん。通りひとつ隔てたところに住む支那琉金のやうな顔をした日本のお嬢さんが賭博館《カジノ》で卅万法を当てたというものだから、ソルボンヌさんも百発百中のシステムに取り組んだ。
三一版全集未収録。『ノンシヤラン道中記』風に凸凹コンビが繰り広げるユーモア小説。「腰に手を当てゝ、料理女が女主人に抗議をするあのポーズで」という、まざまざと絵が浮かぶ素晴らしい譬喩がありました。一歩間違えれば奇をてらっただけになりかねないのだけれど、これははまってます。
「モンテカルロの爆弾男」(1938.9)★★★☆☆
――勝負事をするはいいが、日本の名折れになるやうなことばしたら、二度とこの船に上せんぞ――。船長のこの言葉に、金山は負けるわけにはいかなくなつた。
三一版全集未収録。〈モンテカルロ〉が二篇続きますが、別にシリーズものではありませんでした。カジノが舞台ということです。わしゃあ日本男児じゃあ!的な作品です。
『キヤラコさん』
「社交室」(1939.1)★★★★★
――剛子がキヤラコの下着をきてゐるのを従姉妹たちに発見され、それ以来キヤラ子さんと呼ばれるヤうになつた。かくべつ不服には思はない。キヤラコの下着を別に恥だとかんがえないからである。垢じみた絹の下着をひきずりまはすよりは、サツパリとして、清潔なキヤラコを着てゐる方がよつぽどましだ。
何てかっこいいんだキャラコさんは。「絹ではいかんな。木綿のやうな女でなくてはいかん」という長六閣下にもしびれます。真っ直ぐなキャラコさんの「槇子がどんなに苦しんでゐたかよくわかる。それを察してあげることが出来なかつたのは、やはり、自分が未熟だからに相違ない」をはじめとしたくだり、桜庭一樹っぽい感じもするのですが。解題によれば、当初は単発の読み切り作品の予定だったらしく、果たしてそのせいなのか、おいおいと思うくらいのハッピーエンドです。
「雪の山小屋」(1939.2)★★★★★
――いつもなら森川夫人がお転婆さんたちの世話やきと監督にやつてくるのだが、今年は身内が戦地へ行つてゐるから来られない。かういふ場合にはキヤラコさんに白箭の矢がたつ。六人は雪山で出逢つた紳士に『チヤーミング・プリンス』と名をつけた。「とても上品なの」「おやおや」
かしまし娘たちの恋愛ごっこがやがて深刻な事態をもたらすのですが、なるほどひとつ「大人」になったのだとわかるシーンにはじーんと来ました。「何しに行つたか、つて?(中略)……つまり、ひと泣き、泣きに行つたのさ」だなんて、ド演歌な台詞もあったりするのに、それを口にするのがおっさんなどではなく恋に恋する乙女たちだからこそ、胸に迫ります。
「蘆と木笛」(1939.3)★★★★★
――今年十九歳になる少女が四千万円の相続人になる。世界的なビツグ・ニユウスに、東京中の新聞社が狂気のやうに走り廻つてゐたため、キヤラコさんは半月ほど前から温泉宿でとりとめのない日々を送つてゐる。宿に泊まつてゐる佐伯氏は南京の戦争で失明した名誉ある傷痍軍人である。
真っ直ぐなキャラコさんが正体を偽っていた人の心を溶かす、というプロットは「社交室」と同じですが、こちらはよりミステリ仕立て。キャラコさんの親切もより具体的で、木に鈴をつけるという発想には読んでいるこちらも感動してしまいました。漫画などではライバル役が主人公と人気を二分したりするのもよくあることですが、このシリーズでもキャラコさんが曇りのない善人なだけに、憎まれ役たちの屈折した純粋さも光ります。キャラコさんは質素ではあっても不幸とは縁遠い人だから。長六閣下の手紙の末尾を真似るキャラコさんが可愛い。
「女の手」(1939.4)★★★★★
――キヤラコさんが山道を歩いてゐたところ、四人の男がキヤラコさんをおしのけるやうな乱暴な仕方で追いぬいてゐつた。この四人の男は、じつは大学で『中性子放射』の研究をしてゐた若い科学者たちだつた。祖国の苦難に協力したくて、廃棄金山を復活させやうと申しあわせ、休みもせずに乾麺麭だけで作業をしてゐるといふのだ。
初出タイトル「虹色の旗」。限られた材料と道具だけでキャラコさんが作りあげる料理には一読の価値あり。ある意味で日常の謎ミステリの佳品です(特に○○○の使い方と伏線が)。キャラコさんのなかでも表向きの戦意高揚的な要素が比較的強い作品でもありますが、でも実は巧妙な恋愛小説でもあるのではないかと。
「鴎」(1939.5,6)★★★★★
――キヤラコさんはイヴオンヌさんに誘われて、アマンドさんの快遊船《ヨット》に乗つてゐた。射撃会のことを考えると、負けることの嫌いなレエヌさんとまた競争になりさうで、気が重くなる。レエヌさんと女学校の二年まで同級だつた。カナダ人の父を亡くしてから、お金持ちの叔父さんに引きとられたのだといふ。
「赤い孔雀」と「幸福な朝」というまったく別々の二作を単行本化に当たり改作し一本にまとめたもの。ここでキャラコさんは、自分が真っ直ぐなだけではどうにもならないことに直面します。しかも一番大事な場面で、心ならずもそれまでの信念を曲げてしまった。。。。キャラコさんは大金を相続したことを必ずしも幸せだとは思っていませんし、誰にとって何が幸福なのかが問われる作品です。それだけにオリジナルの「幸福な朝」というタイトルに、いったいどんな話だったのかが気になります。続刊には異稿も収録されるそうなので、この話も収録されることを願います。
「ぬすびと」(1939.8)★★★★☆
――しばらくね、というかわりに、左手を気取つたやうすで頬にあて、微笑しながら、黙つて立つてゐる。緋娑子さんを見たとき、キヤラコさんは、思わず眼を見はつた。すつかり垢抜けがして別なひとのやうだつた。「小さな劇団にはいつて婚約したから、何もかも清算しておきたいの。手紙の束を、悦二郎さんから、盗んで来てちゃうだい」
初出タイトル「盗人と懸巣」。これまでの各話と比べるとドラマ性はありません。中心になるのはキャラコさんの内面の葛藤です。むしろそれよりも、緋娑子さんの元カレ悦二郎さんの御母堂のキャラクターが強烈でした。キャラコさんの食いっぷりもいい。
「海の刷画」(1939.9)★★★☆☆
――沖のはうから、金髪が泳いで来る。毎朝、時間をきめて泳いでゐるのだとみえ、「お早やう《グツド・モオニング》、お嬢つちやん《リツトル・ウイメン》」と挨拶して泳ぎ抜けてゆく。
初出タイトル「海の青年隊《ユウゲント》」。かしまし娘ふたたび登場。これはわりと少女探偵団といった内容だし、いかにも戦時中らしい内容だけれど、最後のひとことがキャラコさんシリーズらしい。
「月光曲《ムウン・ライト・ソナタ》」(1939.7)★★★☆☆
――勇夫兄さま、新しい隣人はたいへんに横暴なの。あたしは、これからお隣りの傍若夫人(あたしの洒落も捨てたもんでないでしやう?)のところへ出かけて行つて、よくうかがつてくるつもりなのです。「お母さま、おるす?」とたずねますと、少年は「ボク、ひとりなの」と答えました。
キャラコさんの一人称の書簡体形式といい、少年のヘンテコな敬語といい、シリーズ中の異色作。言うなればキャラコさんの文体で語られるキャラコさんというわけですが、十蘭の文体で語られるキャラコさんほど魅力的でないのはご愛敬。ボクという一人称をそのまま呼びかけにして「ボクさん」と呼びかけるセンスが独特です。
「雁来紅《はげいとう》の家」(1939.10)★★★★★
――坂の途中に、木造建ての小さな骨董店がある。なにげなく覗いたのが癖になつて、キヤラコさんはかならずこの飾窓《シヨウ・ウインドウ》の前で足をとめる。それは、一見、平凡な絵だつた。長椅子に十七、八の少女が掛けてゐる。その向う側に、二十五、六の青年が、おだやかな眼差しで少女の横顔を眺めてゐる。この絵のことを考えると、キヤラコさんは、胸んところが、熱くなつたり冷たくなつたりして、妙に落ち着かなくて困るのだつた。
戦時中は制限があったであろう恋愛小説を、恩人に対する敬慕という教育的な形にすり替えた作品――だと思っていいのだろうか? そもそも『新青年』に少女小説というのが不思議な感じがするのだけれど。あれだけ優等生なキャラコさんがときめいているというのはそれだけで大事件です。しかも青年の最後の台詞が、からかっているとはいえロマンチック。
「馬と老人」(1939.11)★★★★☆
――「たんと喰べろ。……あわてずと、ゆつくり喰べえよ」 ところで、槽の中にはたんと喰べるほどの秣ははいつてゐない。間もなく槽の底が見え出す。
優しさと愛情とプライドがぶつかり合って、いい人しかいないのにうまくいかないのが哀しい。こんな行為を「肚黒い」とか「策略」とか「下心」とか書かれては、キャラコさんほど真っ直ぐでない身としては恥じ入るばかりです。
「新しき出発」(1939.12)★★★★☆
――沼間家の広い客間に、その夜、大勢のひとが集まつてゐた。中支の同恵会に参加するキヤラコさんの、新しい出発へのお祝ひと送別を兼ねた晩餐会だつた。この十一ヵ月の間にキヤラコさんが新しく懇意になつた二十人あまりのひとたちと一匹の馬。ところが、茜さんが、やつて来ない。
キャラコさんシリーズ最終話ですが、単行本版『キャラコさん』には未収録。最終話にふさわしい総キャラクター登場の大団円です。
『顎十郎捕物帳』
三一版全集は、リズムが大事という編集者の方針により、すらすらと読めるように独断でルビが振られていました。そのため同じ底本のテキストであってもずいぶんと違うところがあります。これは創元推理版でも同じことで、何だか騙されていたような気分になってしまいました。
読み返してみると、花世の出番がかなり少ないのが意外でした。ほかのメンバーにしても、どうもわたしの記憶のなかで勝手にキャラ立ちさせて架空の〈ファミリー〉を作りあげていたようです。言いかえるならそれだけ魅力のあるキャラクターたちではあるのですが。
「捨公方」(1940.8)★★★★☆
――「……お武家、お武家……」「あん?」と、首だけ振りむける。……いや、どうも、振るつた顔で。顔の面積の半分以上が顎になつてゐる。阿古十郎が木立を覗きこんで見ると、老僧が座禅を組んでいる。「難儀なことをお願いしたいのじや……十二代将軍家慶公の御世子は……じつは双生児」「えツ」
初出「弘化花暦」を単行本化に際して顎十郎ものに改作したもの。本篇や「稲荷の使」の冒頭のリズムが、どう読んでもすっきりせず、わたしにはよくわからない。誰か朗読してほしい。
将軍の双生児という大事件ながら、あっけに取られるような目安箱の盗み方や、偶然の多用、全貌が現れた途端に解読される暗号など、どこまでも人を食った作品です。
「稲荷の使」(1939.1)★★★★☆
――阿古十郎の叔父、北町奉行所の森川庄兵衛にも、弱点がふたつある。ひとつは一人娘の花世。もうひとつは、万年青つくり。それが数日前から元気がない。花世は熱を出すし、万年青はしをれるし、大切な証拠物件を紛失してしまつた。
初出タイトル「稲荷の使ひ」。実質上の第一作ということもあり、庄兵衛、花世、ひょろ松らレギュラー陣が顔見せ。顎十郎の頭脳と庄兵衛の対比、庄兵衛の偏屈ぶりなどキャラクター紹介も兼ねた作品。
「都鳥」(1939.2)★★★★★
――「お聞きになつたことがあるでせう……ほら、馬の尻尾を切つて歩くといふ話。下手人が辞世の和歌を残して腹を切つて死に、もうすつかりかたがついてしまつたんで」とひょろ松。
初出「猫屋敷」の全面改稿版。顎十郎シリーズのなかでも有数の完成度。「三題噺」とあるとおり、ばらばらに見える要素から一つの真相を導き出される点、ミステリとして優れています。都鳥の手がかりなどには、ホームズ譚を思わせるところもあると思います。
「鎌いたち」(1939.3)★★★☆☆
――この月のはじめから、江戸の市中に不思議な事件が起きる。どうにもとらえどころのない事件で、それだけに江戸の人士を竦みあがらせてゐる。 一日ずつあひだをおいて、続けざまに五人まで、の深く咽喉を斬られて街上に倒れてゐた。
剣の達人でも付けられない傷跡だから鎌鼬の仕業だと噂されるようになったというのに、実は珍しい流派の達人によるものだったというのでは、謎解きとしてはイマイチ。
「ねずみ」(1939.5)★★★★☆
――南番所御用部屋。藤波友衛。とつぜん癇声をあげて、「なんだ、今度のざまア。虎列剌《ころり》と判定てうつそり帰つて来たのはどいつだ。北ではぬからずに手代の忠助をひつ撲いて、わたくしが毒を盛つたのでございますと泥を吐かしたさうな」
初出タイトル「堺屋騒動」。江戸時代ならではのトリックです。ミステリとして読むならやはりこういう点が高ポイントでした。発表順に見ればほぼ初となる藤波と顎十郎のライバル対決が(直接対決ではないものの)見られますが、本文の記述からはすでに何度も対戦したらしいことが窺えるので、時系列順に収録した創元推理文庫版ではずいぶん後ろの方に収録されていたりもしましたね。しかしタイトルはこれでいいんでしょうか……?
「三人目」(1939.7)★★★★☆
――「清元千賀春が死にましたね。まア、卒中か、早打肩。そう言はれて見れば、顔も身体も、ぽつと桜色をしておりましてね。とんと死んでゐるやうには見えません」それを聞いた藤波は、顎十郎を叩きのめしてやらうと……。
二転三転する真相には「ユーモア」と「ミステリ」というこのシリーズの特徴がよく出ています(ブラック・ユーモアだけど)。
「紙凧」(1941.8)★★★★☆
――「……じつは、きのう金座から出た三万両金が、そつくり掏りかえられたんで……石船に衝きあてられたほんのちよつとしたドサクサのあひだに、掏りかえられたのにちがひない」
わりと世評は高いし、同じものを見ていても藤波と顎十郎では読み取る意味が違っているところなどいかにもミステリ小説的。現代の現金ではなく、江戸の小判だからこそ成り立つトリックとその解明も、捕物帳(時代ミステリ)ならでは。
「氷献上」(1941.8)★★★★☆
――「どうか、お氷を……」「お雪はもう、ない」「これはご無体。くれぬといふなら取つて見せる。これから追ひかけて……」本郷三丁目の有馬の湯。陸尺の寅吉が顎十郎と並んで湯につかりながら、「ご存じですか。献上のお氷を桐箱ぐるみ持つて行つたやつがゐるんです」
真相や真犯人を指摘するだけではなく、アリバイを証明して容疑を晴らすというのが、捕物帳にしては珍しいように思います。裁判的な〈証拠〉だなんていう概念もなかった時代だっただろうに、証拠のために二回も全力疾走する顎十郎。
「丹頂の鶴」(1939.8)★★★★☆
――ここに、意外なことが出来したといふのは、ほかでもない。お上がことのほか御寵愛なされた『瑞陽』とまうす丹頂の鶴。見たところ、心の臓のまうえあたりに刺傷がある。『瑞陽』とりしらべの件につき、北と南、両人相吟味、対決をねがいあげたところ、やらせて見い、との仰せ。
初出タイトル「捕物御前試合」。ライバル同士がしのぎを削れば盛り上がるとはいえ、捕物吟味の御前試合ともなると、試合をする当人たちも負けていられないだろうけれど、作者の方もあっさりとどちらかを不様に負けさせるわけにもいかないでしょう(ライバルが負けてはライバルではなくただの咬ませ犬だし、主人公が負けてしまってはそもそも名探偵でも何でもないし)。「めでたい」席だからこそ可能な(?)処理の仕方が「あっぱれ」ではありますが、その実、犯人の動機がけっこうめちゃくちゃな気もします。
「野伏大名」(1939.10)★★★☆☆
――大身の家老かお側役といつた客は、沈思逡巡ののち「仔細は次の通り。……先君にはただひとりの御嫡子があつて、源次郎さまと申しあげますが、御三歳の春、産土さまへ御参詣になりましたが、かへりの駕籠の中で失気なされ……失気したままご死亡になり、偽の主君をつくりあげたといふ風説を耳にいたすようになりました」
なんといっても冒頭のホームズばりの名推理がみどころの作品です。謎解きには特殊な知識が必要ですが、どのみちわたしにはよくわからない江戸時代の話なのでアンフェア感はありません。江戸時代といえば、人相見の扱い方が時代小説ならではだと思います。現代ミステリならバカミスものの伏線です(^^;。藤波がものわかりがよいせいで、ものすごく気の抜けた読後感でした。
「御代参の乗物」(1939.6)★★★★☆
――長井の山とお濠と見附と木戸でかこまれた袋のやうな中で、十三人の腰元が乗物もろとも煙のやうに消えうせてしまつた。
初出タイトル「十三人の腰元」。人間消失に「見えない人」のバリエーションを応用したという点で、わたしのようなトリック好きには評価が高いんじゃないかと思います。神隠しを演出するサービスもたっぷりだし、神隠しの必然性も一応のところ真相で説明がつけられています。
「咸臨丸受取」(1939.4)★★★★☆
――「じつは、このごろ、妙なことがはじまつてゐるんでございます」「ふむ、妙とは、どう妙」「どうも、捕えどころのねえ話なんで……。小犯行が、これでもう十日ほどのあいだ、ただのひとつもございません」「なるほど、そりやあ珍だの」
初出タイトル「一節切」。捕物帳にしろ刑事ものにしろ、事件が起こらないことには始まらないのですから、こういう進行形の作品は珍しい。しかも「犯罪が起こらない」から怪しいという逆説的な発端もわくわくします。さらにいえば、犯人も藤波も顎十郎もみんな頭がいいのが嬉しいですね。暗号はこれまた特殊知識といっていいようなものなのですが、単純明快なのでこれまたアンフェア感は感じませんでした。
「遠島船」(1940.6)★★★☆☆
――鰹の帰り船が沖で船にあふと、最初に行きあつた船に初鰹をなげこんでやるのがきまりになつてゐる。ところが油灯がつけつぱなしになつてゐる。まるきり人影といふものがない。たるみきつた帆綱がゆらゆらと風に揺れてゐるばかり。「やア、遠島船だ」「畜生、縁起でもねえ」乗り込んでみると、ただのひとりも船にゐない!
初出は『新青年』。トリック的にはこれしかないという感じですが、一見すると消失の難易度が高そうな囚人護送船だからこそ――の部分に綾があります。
「蕃拉布《ハンドカチフ》」(1939.11)★★★★★
――開化五人組といはれる洋物屋の主人。毎月八日に、この長崎屋で句会をひらく。たがいに識見を交換し、結束をかたくして攘夷派の圧迫に耐え、巨利を博さうといふ商魂志心。と、蝋燭の灯が風にあふられて吹き消え、部屋が真暗になつた。早附木で火をともす。「おツ!」佐原屋清五郎は頸に巻きつけてゐる蕃拉布で、力まかせに頸を縊められて死んでゐた。
初出タイトル「開化組壊滅」。開化五人組という設定が不可欠な、不可能犯罪もの。こういうトリック、けっこう好きです。同じ手口で殺していきながら最後の最後に間接的な証拠を残してしまう犯人と、それを指摘する顎十郎には、このシリーズにはめずらしくミステリ的な大団円の興奮を感じました。
「日高川」(1939.9)★★★☆☆
――ひよろ松と顎十郎。ひよろ松の帰郷中。界隈きつての旧家、又右衛門の娘お小夜が摘草に行つたとき、とつぜん、ニョロニョロと山棟蛇が這ひだした。無我夢中に投げた石が、まともに蛇の頭へあたり動かなくなつてしまつた。その晩からお小夜は大熱、「あれ、あれ、欄間に蛇が、蛇が……」
初出タイトル「新説娘道成寺」。初出では顎十郎と藤波友衛の道中だったそうです。その場面が解題に引用されてます。真相を見抜くきっかけが直感的ではなくちゃんと論理的なのが鮮やかです。
「菊香水」(1939.12)★★★☆☆
――高位の御人命にかゝはる事態につき、拙宅まで御光来をねがはれますれば幸甚のいたりでございます……手紙の通り来てみると、眼のさめるやうな美しい腰元がしとやかに手をつかえた。「御用をうけたまわります」
初出タイトル「秘香詮議」。12月号掲載ということで、ひとまず一段落。とはいえ翌月1月号からも連載は続いています。ミステリとしてどうこうよりも、なんだか文章にもところどころ締まりがないのが悲しい。顎十郎による料理の注文場面と、利き香水のシーンが見どころです。
「初春狸合戦」(1940.1)★★★☆☆
――もとは、江戸一といはれた捕物の名人、仙波顎十郎も、この節はにわか駕籠屋で、その名も約めて、たゞの阿古長。相棒は、九州あたりの浪人くずれで、雷土々呂進。二三日あぶれつゞけで、もう二進も三進もゆかなくなつた。「もし\/、駕籠屋さん……」闇をすかして見たが、人影など見えない。「……実は、わたしは、狸なんです」
駕籠舁になった顎十郎と、新キャラ雷土々呂進のコンビ漫才。路線変更して顎十郎の出番が増えたことは事実ですが、ノリがよすぎてまったく別の作品みたいです。たぬきにばかされるという趣向で楽しませたいのもわかるし、最後になって「たぬき」が利いてくるのもわかるのですが、それにしても一味の行動に必然性がありません。
「永代経」(1940.3)★★★☆☆
――浅草柳橋二丁目の京屋吉兵衛の家から火が出、吉兵衛は逃げだす間がなくて焼死してしまつた。吉兵衛のとなりへ越して来たのが『大清』の藤五郎といふ男で、はじめた湯治場料理屋が馬鹿馬鹿しいやうな繁昌のしかた。吉兵衛の家内のおもんも愛想をつかして、藤五郎の店ではたらく始末。
途中までは完全にひょろ松の一人舞台。これはこれでそのままでもよかったと思うんだけど。ひねりもそれほど利いていないし、とど助の方がひょろ松よりも鋭いのにも違和感がありますし。
「両国の大鯨」(1940.5)★★★☆☆
――阿古長ととど助。この日は日ぐれがたから商売繁昌。フラフラになつて帰るところに、「待て、どこへ行く」見ると、これがひよろ松。酒井さまのお金蔵から七万六千両そつくり盗まれた。石の張抜きを被せてゆうゆうと石船のふりをしてくだつて来たが、ひよろ松だつて馬鹿じやない。ところが伏鐘と頭株の十二三人は逃げてしまつた。
初出タイトル「両国の黒鯨」。「遠島船」の伏鐘一味が再び登場。伏鐘の逃亡と見世物の大鯨消失という二つの事件がきっちりかみ合っているところに妙味があります。大がかりなトリックも、困難は分割せよの基本を押さえた手堅いもの。見世物を見る庶民の様子が面白い。楽しまなきゃ損、みたいなところが感じられます。
「金鳳釵」(1940.6)★★★★☆
――「阿古十郎さん、万和の金の簪の話をお聴きになりましたか」「姉娘のお梅といふのが花世の友達で、見たことがある」「ちやうど十二年前。山崎屋の金三郎といふ許婚が長崎へ行つてしまつた。お梅はといへば、これがほんたうの恋病とでもいふンでせう、痩せほそつて死んでしまつた。ところがその二タ月後、表でチリンと音がするので見ると、お梅と一緒に棺に入れた簪なんです」
顎十郎シリーズのなかでも群を抜いてトリッキーな作品です。わたしなんかはこの派手さがけっこう好きですが、あるいはばかばかしいと感じる方もいるかもしれませんし、本格ミステリのトリックで「う○○たつ」というのが掟破りであるのは事実でしょう。剪燈新話をなぞったのだとはいえ、怪異を現実に起こしてしまう著者の心意気に打たれます。
「かごやの客」(1940.4)★★★☆☆
――江戸一の捕物名人が、開店祝ひの祝儀酒を狙ふまでにさがつてしまつた。亭主は磨きあげた陸尺面。店の名が『かごや』といふのでも素性が知れる。「……なにを隠さう、俺の金主は藤堂さまの加代姫さま。……これ六平や、そなたは陸尺などにはもつたいない。金は出してやるから店でも持つがよい……」「黙つて聞いてりや」「一筆書いてやりやア、酌をしにいらつしやらア」あいにくと無筆ばかり。よせばいいのにとど助が買つて出た。
解題によれば実話をもとにしたとのこと。実話では犯人はお姫様だったのだそうです。ほとんど相づちを打つような役だったとど助がようやくそれなりの役どころを与えられた作品です。とど助の正体についても何だかありそうですが、けっきょくシリーズを通して明らかにされることはありませんでした。藤波が登場するものの、もはや役人ではない顎十郎とは“ライバル”対決となるはずもなく、別にひょろ松でもいいような素直な役どころなのが残念です。
「小鰭の鮨」(1940.7)★★★☆☆
――先の月の中ごろから、若い娘がむやみに家出をしてそのまま行きがた知れずになつてしまう。揃ひもそろつて縹緻よし。娘が家をぬけだした時刻がだいたい似かよつてゐる。正午すぎの八ツから七ツまでのあひだ。妙といへば、妙。もひとつは、娘たちが家をぬけだすすこし前に、小鰭の鮨売が例のいい声で呼び売りをして行つた……。
一見すると不可解な事件なのだけれど、実は顎十郎たちが世上を知らなかっただけというのにはがっかりです。真犯人についても、推理ではなく尾行で見つけるのでは優れたミステリとは言えません。
「猫眼の男」(1940.2)★★★☆☆
――「……すみませんねえ」「やかましい、黙つて乗つておれといふのに」駕籠に乗つてゐるのは、ついこのあひだまで顎十郎の下まはりだつた神田鍋町の御用聞、ひよろりの松五郎。「実はね……桜場清六といふ道楽者。小町娘の婿になつたつもりでゐたところが、相手は結納までしたといふんだからおさまらない。生命の瀬戸際だと思へ、なんて口走る」
暗闇のなかで目指す相手だけが確実に射殺されていたという不可能犯罪です。顎十郎が説明する理屈が科学的に正しいのかどうかはよくわからないけれど、単純明快な指摘によってものごとが正反対の意味にひっくり返って見えるのは、ミステリの醍醐味です。発表順では駕籠舁になってからの二話目なのですが、一話二話ともちゃんと駕籠舁シーンが描かれているのがなんだか律儀でした。
「蠑虫原《ゐもり》」(1941.4)★★★☆☆
――「お聴きになりましたか、阿波屋の……」「……阿波屋の葬式といつたら知らぬものはない。これでもう六つ目……」アコ長が桜湯を飲んでゐると、大工の清五郎があがつて来た。「……阿波屋の人死は、じつは、あつしのせいなんで……。離家のことなんだがうなされるので調べてもらいたいといふ話。天井裏へ行きました。すると……守宮が五寸釘で胴のまんなかをぶつ通され梁に釘づけになつてゐるンです。垂木の留を打つときはづみでさうなつたんだと思ひますが……」
奇怪な連続死、何通りかに解釈できる事件、やもりの気味悪さなど、見どころはたくさんあるのですが、真相があまりに拍子抜けの感は否めません。
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