『定本久生十蘭全集 第六巻』久生十蘭(国書刊行会)★★★★☆

「半未亡人」(1946.9)★★★★☆
 ――それは夫の生死をたしかめるために、戦争のさなか、バスに乗つてタイのバンコックへ発つて行つた可憐なひとだつた。そのひとはタイへ入つたままゆくかたしれずになつてしまつた。無事なら無事で、収容されたら収容されたで、まだあきらめずに夫の消息をたづねてゐるであらうが、だれがそのひとを不幸だなどと思ふものだらう。

 三一版未収録。戦地で行方不明になったため戦死扱いされた夫――その妻のことを作中人物が名づけて「半未亡人」。おそらくは終戦後にはこうした半分遺族が山のように存在していたのに違いなく、夫の生死をたしかめに行く平イチに思いを託す語り手に、多くの読者が同じ思いを共有したのにありません。
 

ハムレット(1946.10)★★★★☆
 ――避暑地のホテルのヴェランダでよく話題にのぼる老人があつた。ある日、老人がめづらしく一人でホテルへやつてきて、給仕に、Spiterといふむづかしい英語で昼食を命じた。それは五百年くらい前に使はれ、いまはまつたく死語になつてゐる言葉であつた。

 ハムレットやエンリコ四世の色濃い「刺客」と比べると、かなりオリジナルな作品に昇華されています。これはこれでいかにも昭和の探偵小説らしい犯罪奇譚になっていますが、わたしは「刺客」ヴァージョンの方が好きでした。ただし、明らかに破綻している以上は祖父江の話は信用できず、何か表向きとは違う意味が隠されている作品なのかもしれません。「ハムレット」といい「予言」といい、語りの問題にあからさますぎるところが何だか下品な感じがしてどうにも馴染めません。
 

「蛙料理」(1946.10)★★★☆☆
 ――むぐらをわけて行くと、むやみと赤蛙がとびだす。ふとフランスで食べた蛙料理を思ひだした。「こいつを忘れていたのは醜態だよ。よし、やらう」「やつてもいゝが、皮を剥ぐのはごめんだ」

 三一版未収録。雑誌の「けし粒小説」という欄に掲載されたのだそうです。この全集版で一ページにも満たないスケッチ作品。
 

「黄泉から」(1946.12)★★★★★
 ――「ごぶさたしております。きようはどちらへ」ルダンさんはそつぽをむくと、「きまつてゐるぢやないか。きようはお盆だから、墓まゐりさ」と、つつけんどんにいつた。十月二日にはいつも亡くなられた夫人さんの写真に菊の花を飾るが、お盆に墓まゐりとはきいたこともなかつた。「どなたの墓まゐりですか」とたずねると、「この戦争でわたしの弟子が大勢戦死をしたぐらゐは察しられさうなもんじゃないか。きようはみんなの霊に来てもらつて大宴会をやるんだ」「おけいも呼ばれてゐるのですか」

 冒頭ではしつこいくらいに商売のことばかりが記され、仕事でホームに来ていた光太郎が偶然ルダンさんに会ってからも、「たゞひとりの肉親である従妹おけいも(ルダンさんに)お世話になつてゐて」などとしれっと言ってのけるのだから恐れ入ります。そのおけいさんが既に戦地で死んでいるのだと読者に明かされるのは、それからしばらく経ってから。ルダンさんの弟子の戦死者やおけいさんのことにも無頓着で冷淡な光太郎は、ルダンさんにたしなめられる始末です。ただしそれも「日本人は戦争で死んだ人間にかゝづらつてゐるひまはないとみえる」から。これは悪いことをした、と思った光太郎がひそかにお菓子を買っておけいさんの霊を弔おうとするあたりから風向きは変わり始め、そしてまたたくまに感動のラスト。
 

水草(1947.1)★★★★★
 ――朝の十時ごろ、俳友の国手石亭が葱とビールをさげてやつてきた。「どうしました」「田阪で池の水を落とすのが耳について眠れない。もう三晩になる」「あれにはわたしもやられました。池を乾して畑にするんださうです。それはともかく、あい鴨で一杯やりませう。もつともあひるはこれからひねりに行くのですが」

 改めて読み返してみると、すごいな。これだけの短さのなかに、俳句・医者・あひる・水抜きetcと無駄なく詰め込まれてます。
 

『だいこん』(1947.1〜1948.8)★★★★★
 ――どこかで道草を食つてゐた最後のB29が、ゆるゆると帰つて行った。日本は降参した。たうたう奇蹟は起きなかつた。一夜のうちに沈んだアトランティド大陸のやうに、連合国がみな沈んで無くなつてしまへと熱烈に期待してゐたが、駄目だつた。芝生にふりそゝぐ陽の光も、木の上を通る風の色も、なんの変りもないやうに見えるけれど、これでもう今朝までのものとはちがふ〈何物か〉なんだ。

 少女版『坊ちゃん』にして日本版『マドゥモァゼル・ルウルウ』の姿を借りた〈新日本史〉。両親を「パパ」「ママ」と呼び、親ナチ派の〈ジャガイモ〉親子(ママ薯と娘薯)と渡り合い、フランス語を話し、アンドレ・モロア『フランス敗れたり』の嘘くささを批判し、戦後を生き抜く、少女小説というにはあまりにシビアな政治小説。短篇版「だいこん」は登場人物の手記として挿入されています。
 

「おふくろ」(1947.2〜3)★★★☆☆
 ――エレナは「この花は萩でせう」といつた。郁子は立つて行つて、「えゝ、さうよ……これが山萩、むかうのは豆萩……それから、あれが木萩」エレナは顔をかしげるやうにして萩の花むらをながめてから、「花もサンパティないい花ですが、葉も鄙しい葉ではありませんのね」といつた。

 三一版未収録。のちの「野萩」の原型のような作品ですが、あの名台詞をエレナという得体の知れない人物に言わせているせいで、何だかがっかりでした。
 

「ブゥレ=シャノアヌ事件」(1947.3)★★★★☆
 ――ニジェル河水源地方に派遣された探検隊で叛乱が起きているというジョアラン少尉からの手紙を、クローブ中尉は司令部へ回送した。中尉は兵士を連れてカイエを出発した。その後、五ケ月ほどなんの消息もなかつたが、八月廿日探検隊のジョアラン少尉が血痕のついたクローブ中尉の軍嚢をもつて帰つてきた。

 三一版未収録。時あたかも英仏両国がアフリカの覇権を争っている最中、フランス遠征隊のヴーレとシャノワーヌらが独立を求めて本国に反旗を翻したという事件の、「真相」を描いた歴史小説。政治的判断から切り捨てられるというのは、実際にありそうなことです。記録文学風に始まり、やがてある人物に焦点を当ててゆく、読者に作品の肝をなかなかつかませないような書きぶりが、十蘭印です。
 

「風流」(1947.6〜7)★★★★★
 ――運命があんなに好意を示してくれた千子との結婚を、へんに昂ってやりすごしてしまい、それやこれやでこの二年寄りつきようもなかったが、ちょうどじぶんが家を売つたその日に千子の売立にぶつかるというのは、まだいくらか縁のある証拠だろうと、急に心が浮きたってきた。女中のあとから部屋にはいると、「こちら、白川さん」と二十七、八の若い男を紹介された。こんなにも美しいなよなよとした青年が、これで牛の密殺の名人だという。

 三一版未収録。没落貴族の福井・千子・白川、三者三様の没落を描く。犬上という成金があくどい敵役に。福井・千子・白川の三角関係に加えて、白川が犬上の娘五百子を振ったことから白川を潰そうとする犬上、白川家の娘に振られたのを逆恨みして今は犬上に仕える元使用人阪田、そして今は千子に色目を使う阪田……となかなか複雑な人間模様が展開します。しかも五百子と福井が会っているという、福井本人には初耳の噂が流れていたりして、何らかの企みが進行している模様。結末からすると未完ではなさそうなので、この噂は白川向けに仕組まれたブラフか何かだと考えてよいのでしょうか……? それにしてもこの最後の一文は凄みがあります。ちょっと、怖い。千子、五百子というのは一見やる気のないネーミングですが、成り上がりの犬上なら、娘の「五百」より多い「千」子のことを勝手に張り合って敵視しそうなので、この名前によって三角関係+αがよりいっそう複雑で強固なものになっているとも考えられます。
 

「西林図」(1947.7)★★★★★
 ――冬木がぼんやりしてゐるところへ、俳友の冬亭がきて、今日はツル菜鍋をやりますといつた。「ツル菜鍋とは変つてゐるね」「ツル菜ぢやない、鶴……それも、狩野派のリウとした丹頂の鶴です」鶴の話ばかりで、いつかうに鍋ははじまらない。「やらうといつたつて、鶴はまだない。これからひねりに行くんです」となりの鹿島の庭にいる鶴が、冬亭の鯉を食つてしまつたので、そのしかへしといふ話なのである。

 鶴鍋をやるなどという人を食った冒頭から、どこへ連れて行かれるかとんとわかりません。死者に会うという諧謔味ただようやり取りをおこなうに当たって、鶴を捕まえるというこれまたふざけた発想を用いるところに、全篇を覆う統一感があって、美学の教師であり俳句もやる冬亭の芸術家気質が感じられます。もちろん、鹿島氏と冬亭にとっては極めて真剣で大真面目なのであって、これだけ軽やかでありながら緊張感のある会話もないでしょう。
 

『すたいる』(1947.7〜1948.1)★★★☆☆
 ――福井が散歩していると、噂にきいた犬上の娘のお練りにぶつかった。「あなた福井さんでしょう。あなたのこと、金田の千子さんからよく伺ったわ」「失礼だが、どこでお眼にかかったのでしたかね。どうも思い出せない」と突っぱねると、犬上の娘は、「くだらない。お眼にかかったことなんかあるもんですか。あたし、あなたなんか知らないけど、あなたのほうであたしをよくご存知のはずだということよ」

 三一版未収録。「風流」の続篇のような位置づけになっているようで、「風流」で明かされなかった事情なども本篇で明らかにされていました。内容がだいぶ変わって、落ちぶれた様子をねちょねちょ会話するような貧乏くさい部分も増えています。つまりはこちらこそ現実で、「風流」の方がよくできたきれいごとの嘘だともいえるわけですが。
 

「予言」(1947.8)★★★☆☆
 ――石黒が巴里でセザンヌ静物を二つ手に入れ、それを留守宅へ送つてよこしたことを聞きつけた。セザンヌは安部にとつて神のごときものであつたから、参詣せずにおけるものでもない。それがどうしたいきさつからか、石黒の細君がヴェロナールを飲んで自殺するといふ大喜利が出、それを新聞が書き立てたのでうるさいことになつた。前日、石黒から手紙がきたが、安部が拳銃で自殺することになつてゐると予言してよこしたのには笑つた。

 代表作に数えられることも多いけれど、いまいちよさがよくわからない。一人称小説でありながら三人称を装うことで、一人称体であればあり得ないはずの描写を違和感なく成立させているところがミソなのかもしれない。この作品が一人称であることは冒頭付近で明らかにされているので、フェアといえばフェアであるし。
 

「フランス伯N・B」(1948.)★★★☆☆
 ――しばらくすると、両大陸に、セント・ヘレナで死んだのはナポレオンではなく、その人と瓜二つのcomparseだつたといふやうな風説がさかんに流布された。

 セント・ヘレナ「以後」のナポレオン・ボナパルト伝。メデューズ号事件もナポレオン伝説に組み込まれてしまいます。
 

『皇帝修次郎』(1948.1〜7)★★★☆☆
 ――われわれの記憶に残つてゐる二十世紀での大きな事件といへば、旧ロマノフ帝室の財宝にからんだ複雑な政治的波瀾がなんといつてもその最大なものだつた。昭和十二年頃、この事件の中に日本人が一人ゐたといふやうな噂が漠然とつたはつた。

 三一版未収録。第5巻に収録されていた未完の『皇帝修次郎三世』を語り直したものの、またもや未完に終わった作品です。語りの順序やつながりが不自然だったり、いろいろな手記が挟み込まれていたり、その手記について語り手の批評が途中でまた顔を出したり、と、凝った語りが採用されているのですが、その分『三世』よりダイナミズムに欠けているきらいがあります。
 

「おふくろ」(1948.1〜6)★★★☆☆
 ――弁護士の園滋彦は石竹の花束を不器用に抱き、停留場のはうへ歩いていつたが、ふとわが身の風態を反省すると、急に気がさして汗が出た。紐育ではアメリカ人から「ハヴィシャム氏」という綽名で呼ばれて信用を博した。ハヴィシャム氏のいふのは「小公子」に出てくる老実冷厳な弁護士の名であるが、かういふ鹿爪らしい風態に似つかはしい花束などあるはずもない。

 三一版未収録。同じく本巻収録の「おふくろ」とは登場人物がかぶるものの、リライトでも続篇でもなく、アナザー・ストーリーというのが一番しっくりくるでしょうか。「おふくろ」でも何でもなく、エレナを中心に話が進みます。
 

「骨仏」(1948.2)★★★★★
 ――梶井は小さな窯で民芸まがひの壺をつくつているが、その窯で自分の細君まで焼いた。細君が山曲の墾田のそばを歩いてゐる所を機銃で射たれた。

 語り手が寝込んでいることがわかる冒頭の描写から、細君の肌の白さの意味するところまで、ほんとうに隙のない掌篇。
 

「野萩」(1948.)★★★★☆
 ――窓際に坐つて待つてゐると、安《やす》がひとり息子の伊作に会ひに、はるばる巴里にやつてきた十年前のことを思ひ出した。伊作は一年中遊びまわつてゐるふうだから、叔母が心配で巴里までお迎えにあがつたのだ。「伊作は、もう日本に帰つて来ないだらうと、覚悟してゐたのよ」

 あらすじだけなら時代がかった大仰な話なのですが、萩の葉や土筆《つくし》に向けられた優しい視線が印象的です。最後に至って老母が一人で巴里まで来た真意を知ってから読むと、「深川を離れたら三日とは暮せないひとが、どんな思いをしながらマルセーユへ辿りついたのだらう、巴里までの一人旅は、さぞ心細く情けなかつただらう」という冒頭の言葉もまた感慨深い。
 

「田舎だより」(1948.4)★★★★☆
 ――蒸風呂というから出かけて行ってみたら、バラックのような板囲いがあるだけだった。簀子の上にむしろを敷いて、竹の樋から湯気が出ている。それだけのものだ。汗が出たから顔を洗えといわれて桶のそばへ行くと、ぼうふらが元気いっぱいに泳いでいる。おばあちゃんは桶の縁をトントンと叩いて、ぼうふらを沈めておいて「こげすりゃよさア」とすました顔でいった。山曲《やまたわ》を町のほうへおりると、栄屋の辰龍君が饂飩屋のおとっつぁまとなにかいっている。あたしは向島のなんとか家のドル箱で、などと自慢をしていたが、こんなつまらない田舎へ流れてくるようでは、たいていようすが知れている。

 三一版未収録。後半に第5巻収録の「村芝居」を取り込んだ二部構成の作品ですが、一部と二部では雰囲気がまるで違っていて、ほとんど別作品のようです。

 わりとさらっとした笑いの「村芝居」と比べると第二部は、存在しない進駐軍を相手に村おこしが始まる過程をじっくり描いた、シュールというか、ほとんどSFのような面白さを持った作品でした。進駐軍対策のため、アメリカ人と会ったことのある人を探しまわるものの、居留地の女としゃべったお爺ちゃんとかしょーもない人しかいなかったり。戦局に合わせて名前まで変えたお調子者が、村じゅうの看板をいんちき英語に変えてしまったり。

 第一部の方は第二部とはまったく違って、田舎に疎開してきた絵描きと芸妓のちょっと艶っぽい(けど暢気で間の抜けた)やり取りがあったり、地元のとっちゃん坊やが何かにつけて「疎開者」の二人をひがんでつっかかったり、これもまた第二部とは違った意味で別世界。のどかで不思議な世界が広がっていました。口惜しかったら芸者でも買いやがれ、という単なる売り言葉を文字どおり実行しようとするものの、芸者買いなんてしたことがないので当の芸者にどうすればいいのか聞く始末。だけどお金がないうえに下戸なのでお茶に饅頭。なのに二人とも甘いものが苦手なので、お茶ばっか飲んでお茶に酔ってしまいます。第一部は名台詞と名場面がいくつもありました。
 

『ココニ泉アリ』(1948.4〜8)★★★☆☆
 ――おそい月の出で、月はいま出たばかりだったが、三島をすぎると、なんとなく夜明けのけはいがしてきた。「あアよ、白んできたによ」熱海で乗換える、シベリヤの引揚組が、その声で総立ちになって、下車の支度にかかった。

 戦後の引き揚げ者を描いた長篇。
 

「貴族」(1948.5)★★★★☆
 ――山名は護良親王の裔といつてゐるが、それはただ系図の上だけのことで、土から出てきた泥大名にすぎない。男にも女にも子供と名のつくものが生れない。同族の中から養子しようとしたが誰もうけつけない。しやうがないので旧藩士の伜に眼をつけ、頭の弱さうなのを外国に留学させるといふ条件でうんといはせた。その義護といふのが、しばらくするとだしぬけにアメリカ人と結婚したいといつてきた。

 終戦にともなう〈最後の貴族〉の生きざま。貴族の矜恃と父親の愛情がときにユーモラスにときに哀れに綴られています。ものすごく潔いラスト。この一言に春護の思いが詰まって。
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