『ブラス・クーバスの死後の回想』マシャード・ジ・アシス/武田千香訳(光文社古典新訳文庫)★★★★☆

 『Memórias Póstumas de Brás Cubas』Machado de Assis,1881年

 死者が語る「とんでもなくもおかしい」物語というから、古くさい風刺文学かと期待せずにいたら、無茶苦茶でした(^^;。序文でスターンの名が挙げられていますが、むべなるかな。ただしなかなか誕生しないトリストラム・シャンディ氏とは違い、ブラス・クーバス氏はわりとあっさり死んでくれます。

 ……というのも、解説によれば「世の中を規定するあらゆる秩序から解放」されるためらしいのです。実際第七章は「この章を飛ばして(中略)けっこう」という作者の言葉とは裏腹に、その点で重要な章です。――が、そんな小難しいことは考えずとも、読めば取りあえず笑っていられます。

 死んだ理由にしてからが、心気症のための膏薬(!)を開発するために風邪を一日放っておいて肺炎に罹ったという、人を食ったもの。

 任意の一章を引用すると――

 良心の呵責はなかった。もしわたしが独自の機器を持っていれば、この本に化学のページを組み込むところだ。というのも、良心の呵責を最小限の単位まで分解し、なぜアキレスは敵の死骸をトロイアの町じゅう車で引きまわしたのか、なぜマクベス夫人は血痕をつけたまま部屋を歩き回ったのかという疑問に、実証主義的に結論を導くやり方で説明しなければならないからだ。だが、じっさいのわたしは、化学的な分析装置を持っていないばかりか、良心の呵責も持っていなかった。持っていたのは、国務大臣になる意欲。とりあえずこの章を終えなければならないので言っておくと、わたしは、アキレスにもマクベス夫人にもなりたくなかった。だが、何かになれというのであれば、血痕よりはアキレスが、そして死体を引きまわすほうがいい。プリアモスの懇願は最後には聞き入れられ、軍事的にも文学的にも名声が得られた。わたしが聞いていたのはプリアモスの懇願ではなく、ローボ・ネーヴィスの演説だったが、良心の呵責はなかった。(129章)

 全篇こんな感じです。

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