『10ドルだって大金だ』ジャック・リッチー/藤村裕美他訳(河出ミステリ)★★★★☆

「妻を殺さば」白須清美(The Green Heart,1963)★★★★☆
 ――わたしに残された遺産は十分なものではなかった。そこでわたしは、最後の手段を思いついた。結婚だ。次の一歩は金を手に入れての独立だ。妻を永久に処分する必要があった。

 初めの発想こそ普通のミステリっぽいが、いざ妻殺しを実行に移そうとした途端に次々と思わぬ邪魔が入ってしまう。そんなこんなで回り道をしているうちに……憎めない悪人というキャラクターがいかにもジャック・リッチーです。
 

「毒薬であそぼう」谷崎由依(Play a Game of Cyanide,1961)★★★★★
 ――青酸カリの丸薬は九つあった。四つはまだ見つかっていない。「さあ、きみたちはどこに毒薬を隠したんだ」わたしはランダル家の二人の子どもにたずねた。

 うーむ見事。登場人物のキャラ付けがちゃんとぶっ飛んだ結末の伏線になっているのです。宝探しものとして、読者も警部補といっしょになって隠し場所を推理してみるのも一興。当たった人はかなり性格わるいです。
 

「10ドルだって大金だ」谷崎由依(The Enormous $10,1960)★★★★☆
 ――州の会計検査官は舌打ちをした。「いただけませんね。あなたの銀行には、十ドル余計にあるんですよ。一セントでも合わなければ、委員会に報告しなければなりません」

 人によってはオチの見当がつくかもしれないなぁ。わたしはもっと別の裏があるのかと勘ぐっていたので、逆にフツーに騙されました。お金が少ないのではなく多いという事実、互いに自分がやりましたと言いだす二人の従業員……、とことん二転三転がうまい作家です。
 

「50セントの殺人」白須清美(The Fifty-Cent Victims,1967)★★★☆☆
 ――「どうしてこんな場所にくすぶっているんだ」「ぼくは道徳観念が欠如していて、良心の呵責なく人を殺せるんだ」「信じられないな。電話帳から適当に名前を選んだら、そいつを殺せるかい?」

 ちょっとわかりづらいな。「ここはとても快適だ。食事には困らないし、暇な時間は無限にある」「それは普通の態度じゃない。自分でもわかっているだろう」「だが、ぼくは普通じゃないんだ。残念ながら正気じゃない。あんたと同じだ」ということなんでしょうね。
 

「とっておきの場所」好野理恵訳(Remains to Be Seen,1961)★★★☆☆
 ――「人は妻を殺害すると、必ず自分の土地に埋めるのです」と庭を掘り返している刑事が言った。確かに安全な場所だ、とわたしは思った。森に埋めたりすれば、ボーイスカウトのインディアンが死体を掘り返してしまうだろう。

 妻の遺体の隠し場所はどこか?という話なのですが、隠し場所としては「毒薬であそぼう」ほどスマートじゃない。まあ実行されちゃうような上手すぎる隠し場所でも困ってしまうが。困難は分割せよ、かな、非常にミステリ的。
 

「世界の片隅で」好野理恵訳(A Piece of the World,1935)★★★☆☆
 ――運の悪いことに、ゴムひもが切れてしまった。顔の上半分を覆うありふれた黒いマスクだったんだけど。客たちがぼくを見ていた。ぼくは叔父さんのスーツケースを取り上げて、走り出した。

 のんきというかぼんくらというか、「妻を殺さば」の奥さん無邪気な人だったけれど、本篇の語り手も輪をかけて人畜無害。ジャック・リッチーってこんな人間も描くんだ、と意外だった。結果的にこの人を中心にして周りが勝手にバタバタ騒いでいるような作品になっています。
 

「円周率は殺しの番号」谷崎由依(Queasy Does It Not,1965)★★★☆☆
 ――出かけようとしたとき、ブザーが鳴った。見たことのない女性だった。「ボーイスカウトの子が森で死体を発見したの。そこで思い出したのよ。道をふさいでいた車のナンバーを」

 いやいいんだけどさ。『007は殺しの番号』という昔の邦題はジョーシキなのか。ナンバープレートに関するほとんど反則技みたいな設定は、特にいらなかったんじゃないのかな?と思います。単純に「実は嘘だった」でも問題ないと思うんだけど。かえってスマートじゃない結末になってしまったように感じました。
 

「誰が貴婦人を手に入れたか」白須清美(Who's Got the Lady?,1964)★★★★☆
 ――バーニスは『貴婦人像』のカラー写真をイーゼルに近づけた。わたしは腕時計を見た。「これからゴム印をくすねてくるよ。顕微鏡で見ても本物だとわかるスタンプがほしいんでね」

 意外なようだが、読んでいるあいだじゅう、いったいどうなるのかと先が見えなかった。怪盗ニックとかルパン三世とかなら、はなから奇想天外なトリックなので当たりのつけようもないのだけれど、本篇なんかだと何となくはわかるだけに、でもこのままだったらうまくいかないんじゃないの? 作品としても失敗しちゃうんじゃないの? と気が気じゃなかった。なるほどこうきたか。
 

「キッド・カーデュラ」好野理恵訳(Kid Cardula,1976)★★★★☆
 ――黒ずくめの男が近づいてきた。「わたしのマネージャーになってほしい。ボクシングの試合に出たいのだ。わたしには大金が必要なのだ」

 カーデュラものの第一作。まだ探偵ではないので、ミステリというよりは、ヘンな人たちがヘンなことをやり始めるヘンな話です。第一作なので当然ですが、吸血鬼の属性をうまく使った展開が生きてます。
 

「誰も教えてくれない」藤村裕美訳(Nobody Tells Me Anything,1976)★★★★☆
 ――彼はわたしの最初の依頼人だった。「ターンバックルさん。嘘の報告書、一通につき五十ドルお支払いしましょう」

 迷探偵といっても二種類あって、無惨な敗北に終わるタイプと、頓珍漢な推理をした挙句になぜか真相にたどり着いてしまうタイプ。ターンバックルの場合は微妙にいい線いってるんですよねえ。しかしまあ、粘土がないのに煉瓦を作ってしまうところが迷探偵の迷探偵の所以でしょうか。
 

「可能性の問題」藤村裕美訳(Variations on a Scheme,1977)★★★★☆
 ――「あたしがファーガスンさんの机を調べていたとき、あの人が書斎にはいってきたんです。あたしは驚いて、どういうわけか引き金を引いちまいました」

 これは典型的な迷探偵もの。単純な事件を妄想を駆使して複雑怪奇な難事件に練り上げる。邦訳を読んだかぎりでは、ターンバックルものには意外とこの手の作品は少ない。しかし本篇の容疑者といい、「50セントの殺人」や「世界の片隅で」の語り手など、みんな逃避したがってるのかな。
 

「ウィリンガーの苦境」藤村裕美訳(The Willinger Predicament,1977)★★★★☆
 ――依頼人は身を乗り出してきた。「自分が何者か知りたいんです」「記憶喪失ですね?「そのとおり。手がかりはポケットの鍵だけです。ロッカーのなかに二十万ドル入っていました」

 真相をたぐる展開はターンバックルの夢想が入り込む余地がないほど手堅い。迷探偵であれ名探偵であれターンバックルの魅力はその妄想あふれる推理だと思っているので、その点ちょっとものたりない。
 

「殺人の環」藤村裕美訳(The Connecting Link,1981)★★★★★
 ――わたしは両手をこすりあわせた。「巧妙なる連続殺人にはわくわくするね」最初の手紙にはこうあった。三一六八番地の人物を、昨夜、射殺した。さらに五人を殺すつもりである。10/19/1

 こういうのを読むと、ターンバックルに空想癖があるというよりも、ほかの作品の犯人に空想力が足りなかったんだね、と思ってしまう。犯人の妄想力とターンバックルの妄想力が見事にリンクした怪作。迷探偵には迷犯人が必要なのだ。大好きな作品。
 

「第五の墓」藤村裕美訳(The Fifth Grave,1982)★★★★★
 ――「死体の消失なんですがね。沿道に墓地がありました。道路の改修のために、移動しなければならなくなったんです。六つの墓を動かしました。ところが、死体は五つしかありませんでした」

 うまいなあ、と思う。「殺人の環」では迷犯人というキャラを登場させたことで、迷探偵ターンバックルの才能が活きていた。そして本篇では過去の事件を題材にすることで、ターンバックルがどれだけ空想の翼を広げようとも、真相は闇の中――つまり当たりもしないけれど、外れもしない。名探偵と取るか迷探偵と取るかは読者次第です。

 二篇が収録されていた『クライムマシン』ではいまいちキャラのつかめなかったターンバックルでしたが、本書には五篇も収録されているため、だいぶ魅力が伝わってきました。ばらばらに出さずに日本でもターンバックル短篇集で一冊出してくれてもいいと思う。
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