『教えたくなる名短篇』北村薫・宮部みゆき編(ちくま文庫)★★★☆☆

 名短篇シリーズ第6弾。

第一部

「青い手紙」アルバート・ペイスン・ターヒューン/各務三郎(The Blue Paper,Albert Payson Terhune,1941)★★★★☆
 ――腕ききのアメリカ青年ジョン・セーンは、社用でフランスに出張することになった。ある女性がバッグから青い便箋をとりだして何か書くと足元に落とし、人混みに消えてしまった。セーンは便箋をひろいあげ、給仕頭にそのフランス語を訳してくれるよう頼むと、出ていけと命じられたのである。

 モフェット「謎のカード」と同ネタというか、どうやら元ネタの提供者による作品のようです。最後になって現物が失せてしまうことで、不条理ものではなく飽くまで「謎」ものとしての体裁を整えています。
 

「人間でないことがばれて出て行く女の置き手紙」蜂飼耳 ★★★★☆
 ――おまえさんが仕事に行っているあいだにいなくなること、どうかゆるしてください。子どもたちのことは、よろしく頼みます。でもわたしの思いだけで、子どもたちを、いま生えている土地から抜き取り植え替えるようなことをしていいものかと、裏返るほどに、悩みました。やはり二人には人間として育ってほしい。

 お風呂は「雪女」、見られるのは「鶴女房」――なにやら童話や昔話の一場面のようではあるものの、この女房がはたして何の化けたものだったのか――はとんとわかりません。「窓を割ったり」、食べ物を「だめにし」てしまうような旦那さんなのでしょうね。こういう所帯じみた細かいところのおかげで、どこかリアルでどこか笑える話になっていました。
 

「親しくしていただいている(と自分が思っている)編集者に宛てた、借金申し込みの手紙」角田光代 ★★★★★
 ――こんにちは。お元気でお過ごしでしょうか。じつはお願いごとがあって筆をとりました。単刀直入に申しあげます。お金を貸してください。あのですね、小説が、書けないのです。

 タイトルのカッコ内からしてひねこびたユーモアに満ち満ちていますが、内容がまた「書けない」ということに関してなのだから、黒い笑いに笑ってしまいます。
 

「手紙嫌い」若竹七海(1994)★★★★★
 ――志逗子は手紙が嫌いだった。手紙ときたひには、開いて読むまでなにが入っているのだか、判別しようがない。そんな志逗子があこがれの写真家に手紙を出さなくてはならなくなり、気持を奮い立たせて『実践・特殊手紙文例集』という本を古本屋で購入した。頁をめくって目を疑った。「第一章 脅迫の手紙」

 文章読本のパロディとしても無類に面白いうえに、きっちり「手紙嫌い」という性格を落とすところに落としてくれている優れたミステリーでもあります。キレよし、親しみやすさあり、知性あり、完成度とリーダビリティを兼ね備えた職人芸のような作品のなかに、電話嫌いの爬虫類写真家というすっとぼけた人物を登場させるセンスにも、言い難い味があります。
 

第二部

「カルタ遊び」アントン・パヴロヴィチ・チェーホフ/松下裕訳(Винт,Антон Павлович Чехов,1884)★★★★☆
 ――ペレソーリンは役所の宿直室の窓に灯がともっているのを見て、「馬鹿が四人もそろって、まだ報告書にかかずらわっているのか」と思い、はいって行った。「どうしてそんなの出すんだ。おれの手にはドロフェーエフのふたりがあるってのに、これで二点たりないじゃないか」「向こうにはペレソーリンがあるんだぞ」「国立銀行」「2だ、財務局の」

 子ども向けのアニメ柄トランプなんかはこれに近いことを実際にやっているわけですし、話をしていても同じ話題でも身近な人の話題の方が気になるのが当然ですから、登場人物たちが夢中になってしまう気持というのはよくわかります。
 

「すごろく将棋の勝負」プロスペル・メリメ/杉捷夫訳(La Partie de trictrac,Prosper Mérimée,1830)★★★☆☆
 ――艦長は話しはじめた――私の友人だったロジェ大尉は、ガブリエルという名前の若い女優に入れあげてしまいました。あるときガブリエルをやじりたおす連隊の士官たちと、ロジェは決闘することになりました。決闘の二週間後、ロジェの禁錮がとかれたとき、彼がガブリエルと昼食を食べているのを見たときには、いや、びっくりしましたよ。

 さすがにこの終わり方は、非情な幕切れでも切れ味の鋭さでもなく、下手くそ過ぎると感じました。同じリドル・ストーリーにするにしても、もっと上手いやりようがあるだろうに……。金のためでもなく、女のためでもなく、ただ賭け事に勝ちたいがために勝つ手段として、イカサマをするというのは、本末転倒というのか目的を見失っているというのか、プライドや後悔の念は別にしても、まるで意味のない愚かな行為であることは違いありません。
 

第三部

「ほんもの」ヘンリー・ジェイムズ/行方昭夫訳(The Real Thing,Henry James,1892)★★★★★
 ――モナーク夫妻を見たときには、肖像画の依頼に来たのだと考えていたのだが、お金がないから挿絵のモデルになりたいというのだった。なるほど二人とも背が高くスタイルもよく紳士淑女そのものであったが、モデルとしては魅力がなく、何を描いてもモナーク夫妻にしかならないのであった。

 作品の意図は「ほんもの」と「ほんものらしさ」らへんにあるのでしょうけれど、むしろ「銀の仮面」をリアルに描いたような、無神経な押しつけがましさに、苛立ちと恐れを感じました。
 

「荒涼のベンチ」ヘンリー・ジェイムズ大津栄一郎(The Bench of desolation,Henry James,1909-1910)★★★☆☆
 ――「三日以内に返事をいただけなければ、私は問題を弁護士の手に移します。間違いなく、婚約不履行であなたを訴えます」あからさまで烈しい言葉だった。こういう脅迫ができる女だからこそ、私が彼女の正体を感じとって自分の一生にむすびつけるのをためらうと、それを私の犯罪にしようというのだ。

 ケイト・クッカムの言い分は到底理解できるようなものではありませんが、その相手であるハーバード・ドットという人物が、ジェイムズのあの悪文で綴られる自己弁護と屁理屈と負け犬根性にまみれたウジウジした生まれながらの敗残者なので、まあどんな形であれ、発破を掛けたくなる気持もわかります。その表出の仕方が極端ではありますが。
 

第四部

「蛇踊り」コーリー・フォード/竹内俊夫訳(Snake Dance,Corey Ford,1934)★★★☆☆
 ――「もしもし、ママかい……先週送った金のこと? もちろん奨学金さ。フットボールの選手がもらうやつさ。部屋代は一セントもいらない。もう切るよ。じきに仲間たちがやってくるんだ」バンドの音楽が大きくなってきた。蛇踊りのかけ声がブラスバンドを打ち負かしそうになった。

 タイトルになっている「蛇踊り(snake dance)」とは、辞書によれば「パレードなどのジグザグ行進」とありました。「フットボール」の一言で相手を納得させられるのだから、たぶんジェリーはマッチョなのでしょう。絵に描いたような負け犬ではなく頑健な若者だというのがいっそう哀れを誘います。
 

「焼かれた魚」小熊秀雄 ★★★☆☆
 ――白い皿の上にのった秋刀魚は、たまらなく海が恋しくなりました。魚は飼猫にむかって相談しました。「それじゃ、私が海まで連れていってあげましょう、そのかわり一番美味しい頬の肉をいただきます」

 焼かれちゃっている以上もはや魚ではなく料理でしかないと思うのですが、秋刀魚自身はいまも自分が魚のつもりなのでしょう。無事に海に戻れたところで泳げやしないでしょうに、食べられたためにそのことに気づかずに済んだのが救いでしょうか。
 

「音もなく降る雪、秘密の雪」コンラッド・エイケン野崎孝Silent Snow, Secret Snow,Conrad Aiken,1934)★★★★★
 ――あれは絶対に秘密にしておかなくてはならない。郵便配達夫の足音が次第に近く大きくなってきて、いよいよ彼の家までやってくると、ノックの音が聞えるのだ。ところが、あの朝にかぎって、足音が妙に違っている。やすけらく、はるけく、ひいやりとして。夜のうちに雪が降ったのである。

 静かな足音だけで知覚している世界という空想にまず惹かれます。空想癖のある根暗な子どもには共感できないことが多いのだけれど、この作品に描かれた、冬が更けるにつれ、初めて足音の聞こえる場所がだんだんと近づいてくるまでの秘密の喜びは、共有できました。とうとう足音が自宅の玄関で聞こえたときの、次からはまったく聞こえなくなってしまうのではないかという不安にしても、この少年の空想には非凡なものがあります。現実の雪や足音ではなく、想像のなかの「その先」を考えてしまう心の闇が痛ましいです。
 

第五部

「舞踏会の手帖」長谷川修 ★★☆☆☆
 ――当時私たちは旧制高校の学生で、無類の映画好きだった。平賀は寺の長男に生まれ、寺の跡を継がねばならない身でありながら、将来映画監督になるのだ、と考えていた。そんな平賀が突然喀血した。『舞踏会の手帖』が再上映されたとき、俺の分まで精しく観て、一部始終を話してくれないか、という。

 映画『舞踏会の手帖』をめぐるエピソードを思い出しながら、映画と同じく楽しかった過去をたどってゆく話。
 

「ささやかな平家物語」長谷川修 ★★☆☆☆
 ――『平家物語』や『愚管抄』を読む限り、関門海峡で源平最後の合戦があったらしいことは疑えない。だが実際に平家が滅んだのが関門海峡だと書いているのは完全な創作ではないのか。なぜならこの海峡は古代から、現実と越(黄泉)の国との境界だと考えられていたところだからだ。

 思いつきをきっかけに空想に空想を重ねてゆくのはさすが小説というところですが、トルコまでなるとさすがについていけません。

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