『大いなる眠り』(5~8)レイモンド・チャンドラー/村上春樹訳(ハヤカワ・ミステリ文庫)

『大いなる眠り』(5~8)レイモンド・チャンドラー/村上春樹訳(ハヤカワ・ミステリ文庫)

 『The Big Sleep』Raymond Chandler,1939年。

 マーロウは近所の書店に聞き込みして、ガイガーの店の店員が古書に無知であることを再確認する。客が捨てた包みを開くと、入っていたのは猥褻本だった。マーロウはガイガーのクーペを尾けて、ラヴァーン・テラスにあるガイガーの家の近くで張り込んだ。車が一台やって来て女がガイガー家に入った。車の登録証にはカーメン・スターンウッドとあった。七時二十分。閃光と悲鳴。三発の銃声。誰かが去って行く足音。マーロウが窓からなかに入ると、部屋には二人の人間がいた。

 カーメンは翡翠のイヤリングのほか何も身につけない状態で椅子に座っていた。麻薬で飛んでいる女でしかなかった。トーテムポールにはカメラが組み込まれ、そばにはガイガーが銃弾を三発受けて死んでいた。先ほどの閃光はこのフラッシュで、悲鳴はそれに対する反応だ。カメラの乾板は消えていた。マーロウは鍵のかかった箱からノートを見つけたあと、カーメンに服を着せてパッカードに乗せ、スターンウッド邸の執事まで送り届けた。そのあとガイガー家に戻ると、部屋から死体が消えていた。警察でも殺人者でもない何者かがいるらしい。ノートに書かれているのはおそらく顧客のものだろう。四百人ぶん以上ある。強請のネタになるし、そういうこともあったのだろう。

第5章。

 ガイガーの店についてきちんと裏取りするのは、意外としっかり探偵していました。マーロウがでっちあげた稀覯書を「The girl in Geiger's store didn't know that.」とあるのは、双葉訳「ガイガーの店の娘もわからなかったよ」より村上訳「ガイガーの店の女店員はそのことを知らなかった」の方が適切でしょう。

 やたらと犯罪臭を匂わせながら、実際には猥褻本だというのは拍子抜けです。――が、ガイガーとカーメンの関係が借用書だけではないことを予感させるものになっています。

第6章。

 直後にドライバーの正体がわかるとはいえ、「パッカードのコンバーティブル。えび茶色か、あるいは濃い茶色か」であるのは、スターンウッド邸のガレージにあった車にほかなりません。

 閃光が走った時間は双葉訳では「七時三十分」ですが、原文が「At seven-twenty」なので単純な誤記でしょう。

 ガイガー家の玄関にある「渡り橋」(村上訳)、「板敷」(双葉訳)というのがよくわらからなかったのですが、原文「The door fronted on a narrow run, like a footbridge over a gully, that filled the gap between the house wall and the edge of the bank.」を見るかぎりでは、道路の路面よりも低い土地に家が建っていて、その道路と玄関を繫ぐ渡し板のようなものだと解釈しました。

 そもそもラヴァーン・テラスの場所と形状がよくわからないのです。ローレル・キャニオンにあるのは明記されており、テラス(=段丘)という地名や、「片側が高い土手のように切り立った狭い道路で、向かい側の下り斜面にはキャビン風の家屋がぽつぽつと建っていた。そんな家々の屋根の高さは、路面とあまり変わらず、」という描写からもそれは裏づけられます。しかし位置関係を具体的にイメージしようとすると頭をひねらざるを得ません。

 マーロウが室内に侵入する際の、「フレンチ・ウィンドウを蹴って内側に開けた。」という村上訳は解せません。この時点で窓を開けたのなら、その後の開錠は必要ないはず。一連の原文は「I climbed over the railing again and kicked the French window in, used my hat for a glove and pulled out most of the lower small pane of glass. I could now reach in and draw a bolt that fastened the window to the sill. The rest was easy. There was no top bolt. The catch gave. I climbed in and pulled the drapes off my face.」。「kicked ~ in」に引きずられて「内側に」と訳してしまったのでしょうが、「kick in」で「蹴破る」の意味があります。しかし後半に出てくる「bolt」は掛け金というよりは上下の桟に窓を固定するボルトのことでしょうから、ここは村上訳「ウインドウを敷居に固定してあるボルトを外した。」の方が適切でしょう。というか双葉訳は「bolt」がどういうものかわからずに、「内側からかかった掛金をはずした。」と誤魔化しているようです。最後の「カーテン」と「雨滴」の違いは、双葉訳が「drapes」を「drops」と読み違えただけだと思います。

 最後の文章は村上訳と双葉訳で正反対になっています。村上訳「死んでいるのは一人だけだったのだが。」、双葉訳「もっとも、一人は死んでいたのだが。」。文脈から言えば双葉訳の方が自然ですが、チャンドラーがわざとひねっている可能性もあります。原文を見ると「Neither of the two people in the room paid any attention to the way I came in, although only one of them was dead.」ですが、この「although」は「~とはいえ」ではなく「しかし~」というニュアンスだと思うので、ひねっているわけではないようです。
 

第7章。

 冒頭で描かれるのは見事なまでの東洋趣味ですが、それだけにトーテムポールの異質さが際立っていました。

 「There were low bookshelves, there was a thick pinkish Chinese rug in which a gopher could have spent a week without showing his nose above the nap.」の「nap」を、双葉訳では「居眠り」と解釈したためよくわからない訳になっていますが、ここは「けば」の意味なのでしょう。

 部屋の東洋趣味からすると、「There were floor cushions, bits of odd silk tossed around, as if whoever lived there had to have a piece he could reach out and thumb.」の「floor cushions」というのも座布団のことでしょうか。そうなると「bits of odd silk」というのも、双葉訳のように「絹の房」の方がしっくり来ます。

 次の「古いバラ模様のタペストリーのついた、低く幅の広い長椅子」というのがどういう家具なのかいまいちイメージ出来なかったのですが、原文は「There was a broad low divan of old rose tapestry.」なので、何のことはない「つづれ織りの、幅の広い、低い、ばら色のソファ」という双葉訳の通りなのだと思います。

 低い台座の上にある椅子にエジプトの女神のように背筋を伸ばして座っているカーメンの姿は、まるで女王然とした佇まいにも見えますが、ただ単に撮影と麻薬中毒を表しているに過ぎないかもしれません。

 カーメンが翡翠のイヤリングだけ身につけているのは偶然でしょうか。ヴィヴィアンが指にエメラルドという同じく緑色の宝石をつけていたことを連想します。

 銃撃して立ち去った犯人に対し、「たしかに一理ある物の見方だ」とあるのは、「I could see merit in his point of view.」なので、「(彼の考え方も)一理ある」と言いたいのでしょうがわかりづらい。

 グラスが二つあるということは二人の人間が酒を飲んだという、古典的な表現ですし、カーメンが飲んだこともエーテルの匂いから明らかにされています。
 

第8章。

 スターンウッド邸は実際に広いのでしょうが、「足音が、荒涼とした長い距離を踏破するかのように、ゆっくり近づいてきた。」というのは、状況を考えればマーロウの焦れったい気持ちを表してもいるのでしょう。

 「まだ暖かさの残った暗闇」というのは最初は何かの譬喩かと思ったのですがそうではなくて、前章で暖房を消したあとの温もりが残っていたという事実に過ぎないと気づきました。

 なくなっている「壁にかかっていた刺繍入りの絹布が二枚」という新しい情報が突然出てきました。壁に掛かった絹布の描写は前章にはありませんでした。第7章を確認してみると、「It had a low beamed ceiling and brown plaster walls decked out with strips of Chinese embroidery and Chinese and Japanese prints in grained wood frames.」。この第8章は「The first thing I noticed was that a couple of strips of embroidered silk were gone from the wall.」なので、原文だと誤解しようがありません。第7章は村上訳だと「天井の梁が低く、壁は茶色の漆喰で、中国の刺繡や、木目のついた額におさめられた中国と日本の版画が所狭しと並べられている。」なので、「strips」が訳から抜け落ちてしまっていました。

 死体消失という衝撃的な事実が明らかになります。四人目の存在だったり、女性的なガイガーの部屋とは違う男性的な部屋だったり、気になる情報が次々に出て来ます。

 死体が運ばれた事実に対する「いかに心が破られようと、死体はそれにも増して重いものだ。」というマーロウのコメントがわかりづらいのですが、原文も「Dead men are heavier than broken hearts.」で、直訳すれば「死体は失恋以上に重い」。村上訳は却ってわかりにくくしてしまっています。双葉訳では「死体は弱い心臓では扱えない重さだ。」。

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