「光線をおんがくのごと聴き分くるけものか良夜眼《まなこ》とぢゐる」水原紫苑

 「良夜」の「光線」といえば、普通であれば〈月の光〉にほかならないし、月光のことだと捉えるのが正しい解釈だと思います。けれどわたしには、オーロラという「光線」が〈五線譜〉に見えて仕方がありません。オーロラという〈五線譜〉に書かれた曲を「聴き分」けている。もちろん「眼とぢ」ているのだから、どう〈見え〉るかなどというのはまったく無意味なことでしょう。これは「光線」を「眼」ではなく耳で――あるいは全身で――感じている、そういう歌です。月光の下にたたずむ孤高の狐が一匹。そんな絵が目に浮かびます。

 けれどオーロラという絵も捨てがたいものでした。オーロラの下では、狐は座っているのではなく眠っています。月光の下でたたずむ「けもの」が研ぎ澄まされた孤高の騎士だとしたら、オーロラの下で眠る「けもの」は柔らかで温かい存在です。

 ところで――これまで〈狐〉と書いてきましたが、原文には「けもの」とあるだけで、どこにも〈狐〉の文字はありません。けれど水原紫苑が「けもの」と書くとき、それはおそらく〈狐〉か〈犬〉にほかならない――直感的にそう思いました。

 むろん、「けもの」と疑問詞が付く以上は、いるのは「けもの」とは断定できない存在です。「光線」が月光にしろオーロラにしろ闇夜ではないのだから、目の前にいる「けもの」を見誤るはずはない。「けもの」ではない存在が「眼とぢ」ているのを見て、実は「けもの」なのだろうか、と感じたのでしょう。

 つまり「眼とぢ」て座っているのは〈人間〉、「けもの」かと紛うような人間です。「光線をおんがくのごと聴き分くる」能力を持っているかの如き雰囲気を備えた人間です。ぐっと下世話に考えれば、「良夜」すなわち名月を縁側に座り眺める二人――歌い手(水原紫苑と同一視するなら女性)とその恋人――が登場人物です。恋人である必要はありません。父親でもいいし、母親でもいい。むしろ家族の方がしっくりくるかもしれません。「けもの」のごとき肉親を見て、自分にも「けもの」の血が流れているのを実感する詠み人。

 あるいは――わたしはこちらの解釈の方が好きなのですが――「けものか」と紛うのは、たったひとりで「光線」の下にいる人間ではないでしょうか。詠み人自身か、もしくはそれ以外の人物でもよいですが、とにかく周りには誰もいない唯一の存在です。その場合いるのが第三者であるのならば、詠み人の存在は〈空《くう》〉になります。誰もいない場所で、つい人間であることを忘れ、古より自らの身体に流れる「けもの」の感性を満喫する――オーロラの夜、あるいは名月の夜には、人はそんなことを感じるのではないでしょうか。
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びあんか・うたうら
水原 紫〓著
雁書館 (2002.6)
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星の肉体―水原紫苑エッセー集『星の肉体』に所収の自選二百首中に掲載。
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