『破局 異色作家短篇集10』ダフネ・デュ・モーリア/吉田誠一訳(早川書房)★★★★★

「アリバイ」(Alibi)★★★★★
 ――ジェイムズ・フェントンは石段をのぼり、ベルを押した。「部屋を貸していただきたいんです」(あなたとお子さんを殺して、死体を埋めるためにですよ)。画家と称してまんまとその部屋に入り込んだ。妻にはクラブで遅くなると嘘をついて。

 フェントンの壊れっぷりがクールなサイコ譚。初めっからおかしなやつであることはわかりきってるはずなのに、いつのまにかただの癇癪持ち程度に感じている自分に気づいてふとゾクッとする。退屈な日常がいかにも退屈そうに描かれていて、嬉々として絵を描くフェントンにいかにも生気が感じられるからアブナイ。その一方で、ただ生きるために生きていると言いたくなるような下宿先の母親のちょっとデカダンインパクトも捨てがたい。
 

「青いレンズ」(The Blue Lenses)★★★★★
 ――きょうは包帯をとり、青いレンズをはめる日だ。マーダの眼から包帯が取られ、少しずつ霧が晴れていった。花、洗面器、グラス……だがドアを開けて入ってきたのは、制帽をかぶった牝牛と白衣を着たテリアだった。みんなで仮装してからかってるんだろうか?

 こういうラストでなければ、寓話じゃなくて奇譚になったと思うんだけど。これでは“真実の見える不思議なレンズ”の話になってしまう。裏を読まなきゃだめなのかな。心の底では相手のことをそう考えていたという深層心理。裏があるのは相手ではなくて、相手を見つめる自分の感情の方ということなのかもしれない。実際〈まわりはみんな敵〉とか〈わたしは監視されている〉〈みんな別人に変わってしまった〉とかいう被害妄想パターンの話というのは、ヒステリー系の子どもや女が主役のことが多いわけだし。まあどっちにしろ、〈身近な人間が別人になってしまった〉パターンの新たな作例です。
 

「美少年」Ganymede)★★★★★
 ――ひと呼んで小ヴェニス。そこがわたしをひきつけた。わたしは古典学者。カフェで給仕をさがしているとき、彼を見たのだ。涙が頬を伝って流れ、わたしは声を耳にした。「どうなさいました、シニョーレ」その少年こそ、わたしにとってのガニメデだった。

 《書物の王国》『美少年』で読んだときには、美少年ものばかりでうんざりしていたのでまったく印象に残らなかった。その《書物の王国》解説で須永朝彦氏は、本篇を「『ヴェニスに死す』の秀抜なるパロディー」と評してました。読み返してみると、もったいぶってるくせに現実的で小心で小者な語り手がげらげら笑える。すんげぇお大尽ぶって学者ぶってるくせして、少年に何か言われて気絶しそうになったりイメージと違うと機嫌が悪くなったりお金がかかりそうだとなんだかんだ言ってごまかそうとしたり。ガニメデはごくごく普通の現代っ子なのに、語り手にはすべてが美化されて見えるみたいで、そのギャップがおかしい反面、妄想系サイコものとも取れる。
 

「皇女」(The Archduchess)★★★★★
 ――南ヨーロッパのロンダ公国が共和国になってから久しい。有名な泉は不思議な成分を含んでいた。ある種の薬物と調合した泉水を飲んだ代々の君主は永遠の若さを保っていた。ロンダは歓楽と癒しと平和の国だった。どうしてこの国が亡びて共和国となったのかをお話ししよう。

 こうして『破局』四篇を読んできたが、四篇とも語り手の立場によって物事の見え方・捉え方に違いが出てくるさまを描いているようです。最期を覚悟した大公の一言一言が、革命分子には腹に一物あるように聞こえてしまったり、過去何世紀も変わらなかった大公や公国のしきたりも、偏見を持って臨むととたんに怪しく見えてしまったり。不死というものもほとんど忘れ去られて、民衆のあいだに渦巻く嫉妬と破滅への恐怖だけが自己増殖を始める様子はグロテスクで哀しい。皇女の死とともに人間が失ってしまうものとは、不死の秘密だろうか、それとも平和な世界と無いものに踊らされた愚かな革命の両方を目の当たりにしてきた不死者の、益する教訓だろうか。
 

「荒れ野」(The Lordly Ones)★★★★★
 ――ベンは話すことができないが、母親に言わせると頭はかなりよいのだそうだ。彼の世界は年長者の気まぐれから成り立っている。表へ出ろと言われたり閉じ込められたり。ある日家族は「荒れ野《ムア》」に向かった。彼は荒れ野のことをつよくてやさしい仲間の一団だと考えた。

 読んでいる最中の手触りはファンタジーみたいなのに、「話すことができない」という設定が実に考え抜かれたものだったことに最後になって気づいて、ミステリ的な衝撃を受けた。その「話すことができない」ことがプロットに関わっているだけではなくて、ベンの生そのものから振り絞られるような最後の最後に胸を打たれた(というか胸を串刺しにされましたね、わたしは)。驚かせたうえに感動もさせてくれるのだ。ベンは口がきけないので、思ったことはセリフではなくナレーション風に語られる。わたしはなんとなくスタージョン『人間以上』を連想したのだけれど、そういうこの地上のものとも思えない夢幻的な雰囲気が作品全体を茫洋と包み込んでいる。
 

「あおがい」(The Limpet)★★★★★
 ――わたしが他人の感情に無感覚でいられたら、敗残者にはならなかっただろう。人はわたしを頼りにする。父母がオーストラリアに行かなかったのだって、わたしと離れるのが耐えられなかったからにちがいないと思う。妙なことだが、そのときから父母はたがいによそよそしくなった。

 「あたしっていい人タイプだからー」とか「人の面倒見てばっかりで貧乏くじ引いちゃうんだよねー」とか言って自分では本気でそのつもりの、その実エゴ丸出しで嫌われ者の小判ザメ。「Limpet」には貝の名前の他に「地位や役職にしがみつく人・くっついて離れない人」という意味がありました。本篇は、主人公が現実的にどこにでもいそうな嫌な人という点で、本書中でいちばん読後感がよくなかった。“悪意”とか“盲信”とかいう名のファンタジーを安全圏にいて読んでいたつもりが、最後に現実を掴まされてしまった感じ。
 

 本書のタイトル『破局』の原題は『The Breaking Point』。「破局」に至る臨界点・破滅までの限界点。越えてしまう『一線』。国民が一線を越えてしまう過程を描いた「皇女」を別にすれば、どの作品に登場する主人公も、すでに一線を――The Breaking Pointを――越えてしまった人たちばかりです。だけどそれをあたかも普通人と変わらぬ人たちであるかのように、そ知らぬふりしてさらりと書いている。デュ・モーリアの筆は、ことさら“ちょっとおかしな人たち”であることを強調しません。もちろん主人公自身も、自分のことを正常だと思っています。その“一見ふつうなのに実はずれている”感じがすごくいい。二枚の絵をずらして重ねて輪郭線が二重にぶれて見えるような居心地の悪さが心地よい。The Breaking Point,1959
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