『Le Voleur d'enfants』Jules Supervielle,1926年。
自己欺瞞を認めようとしないロリコンが苦悩するという狂気の内容を、なぜかリリカルに描いた変態小説。
裕福な家庭の息子アントワーヌは、母から直接的な愛情をふんだんに受けたことはなく、プレゼントももらったことがなかった。というところまではわかるのですが、アントワーヌをさらったビグア大佐がではアントワーヌの幸福のために何をしたか――?というと、たいして何もしていないことに愕然とします。
確かにさらった子どもたちについて、「上の子が」という表現を使ったり、自分たちが生んで育てたかのようなことを口にしたり、風変わりな愛情を注いではいるのですが、大佐の「家庭」は「反・不幸」ではあっても「幸福」には見えず、なんだか幸福のカタログモデルのようです。
大佐の様子はアメリカに帰ろうとするころからいよいよおかしくなり、不幸な子どもを探すのではなく、かわいい女の子を探すという、異常な目的にすりかわってしまいます。
目的が変わってしまった以上、大佐がマルセルに恋するのも当然の話で、そこから先はマルセルたちに自分の恋心を気づかれないようにしよう(でもバレてる)という涙ぐましい悲喜こもごもの努力が費やされることになります。
マルセルはさらったのではなく、実の父親から託されたというのが、取りあえずのエクスキューズではありますが。
さらわれたアントワーヌが母の幻を見る場面や、もとの家族と再会する場面、母が急死する場面など、前半にはきらめくような印象的なシーンがありました。大佐がグリュイエール・チーズを皮ごと食べるのを見た子どもたちが気味悪がる場面などは、いかにも孤児小説・家庭小説に出てきそうな微笑ましくも恐ろしげなシーンではないでしょうか。
それが後半になると大佐の片思い小説に一変します。
子どもと過ごしたことはあっても育てたことのない大佐には、子どもというものは成長するという当たり前のことが見えないのでしょう。ましてや体を重ねる前を除けば奥さんにキスをしたこともないというのですから、恋をすら知っているかどうかも怪しいところです。そんな大佐ですから、マルセルが恋を知ったのを、「娼婦の血」だとしか解釈できないのが、哀れで仕方ありません。
飽くまで「父親」だと思いたいがために、表立って嫉妬すらできないのに、当のマルセルからは何の反応もないのを不審がられる始末です。
恋愛経験のない人間が中年過ぎてから恋にはまるとヤバイ――を地で行く流れでした。
最後にようやく、マルセルに失恋したことを自覚して、覚悟を決めた大佐ですが、その直後に子どもたちのことを考えたのは、大佐の愛情が本物だったように見えて、でも結局は金銭的な面しか考えていないようにも見え、やっぱり最後までよくわからない人でした。
貧しい親に捨てられたり放置されたりしている子供たちをさらうことで自らの「家族」を築き、威厳ある父親となったビグア大佐。だが、とある少女を新たに迎えて以来、彼の「親心」は、それとは別の感情とせめぎ合うようになり……。心優しい誘拐犯の悲哀がにじむ物語。待望の新訳!(カバーあらすじより)
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