『21世紀東欧SF・ファンタスチカ傑作集 時間はだれも待ってくれない』高野史緒編(東京創元社)★★★★★

 SFはともかくファンタスチカとはなんぞや?ということになりますが、SF・ファンタジー幻想小説その他いろいろすべて引っくるめた非リアリズム系の作品だと思えば、当たらずとも遠からず、でしょうか? 編者は例としてレム、エリアーデカフカ、チャペック、ブルーノ・シュルツ、パヴィチの名を挙げています。「SF」を期待するとピンと来ないと思いますが、『未来の文学』とか新版『異色作家短篇集』のアンソロジーが好きな人ならマスト――というか、海外の短篇小説が好きな人ならマストだと思います。
 

「ハーベムス・パーパム(新教皇万歳)」ヘルムート・W・モンマース/識名章嘉訳(Habemus Papam,Helmuth W. Mommers,2005)★★★★☆
 ――聖なる父ベネディクト十七世がみまかられてから、そして枢機卿団の百七十九名の代表者がヴァチカンの教皇選出会議に集まってから……実に二十八回目の選挙に至っても、新教皇は選ばれておりません……。

 オーストリアの作品。人類が宇宙に進出してキリスト教を布教した結果、女性、異星人、ロボットも教皇候補に選出されるようになった世界の話です。このラインナップに「女性」が入っているのが却って違和感があって痛烈です。未来においても女性の宗教的地位の低さは変わらないようです。それぞれの代表を支持する一般大衆が偏見に満ち満ちた意見を述べるなか――教皇に備わっている「ある特徴」を文字通り解釈することですべては丸く収まることができました。
 

「私と犬」オナ・フランツ/住谷春也訳Eu şi un cîine,Ona Frantz,2005)★★★★★
 ――私の息子は、この国では、プラグで命を切られた最後の人間だった。その二日か三日あとに、安楽死禁止法が出た。それから一月経った。病気の早期診断の方法が完成したと報じられた。犬が病気を嗅ぎ付けると言っている。ひとりぐらしの老人のために、ロボットを無償で支給される。

 ルーマニアの作品。息子が安楽死してからも、みずからは福祉を受けて生きていきつづけてゆく老人。コーヒーメーカーという日常の習慣を通して、すでにいなくなってしまったものを浮き上がらせられるのが、胸を打ちます。同じく物言わぬ家事ロボットと治療用の犬でありながら、その微妙な違いこそが大きなそして大事な違いであるのも、人間にとっては大きなことなのでしょう。
 

「女性成功者」ロクサーナ・ブルンチェアヌ/住谷春也訳(O femeie de succes,Roxana Brînceanu,2005)★★★★☆
 ――私は成功した女性なの。何年も前からこの仕事でトップ。そういう生まれつきなのね。でも私には個人生活がないって、誰かに咎められたことがあったのね。家庭を持つというのもおもしろいにちがいない。ひとつ夫を買お。結局、ほとんど無名の会社を選んだ。三種類のモデルしかなく、値段もまあまあというところだけど。夫や妻として現実の人間をほしがる人の気が知れないわ。

 ルーマニアの作品。見過ごしがちなごく当たり前の問題を、極端な設定を提示しておくことで、改めて浮き彫りにするという手法は、まさにSFに相応しい手法といえるでしょう。恋愛・夫婦関係の、いいところと困ったところ。
 

「ブリャハ」アンドレイ・フェダレンカ/越野剛訳(Бляха,Андрэй Федарэнка,1996)★★★★★
 ――災いは人を平等にする。チェルノブイリ事故が起きて初めて、「けったくそ《ブリャハ》」は自分も人間だと知った。村の顔役だった爺さんが、豚の解体を手伝ってくれと頼むなんて、誰に予想できただろう。「きっとお邪魔するよ、けったくそ、他に行くところなんてないからな」

 ベラルーシの作品。チェルノブイリを描いた非ファンタチスカですが、高野氏も書いているとおり、「破滅SF」ポスト核戦争SFのような趣があります。人の消えた町、人間関係の変化、殺気立つ若者……しかし何よりも切実なのが、強盗などによる無法化ではなく、野生化した犬だというのが、やはりわたしなどにはどこか異世界でもあるのです。
 

「もうひとつの街」ミハル・アイヴァス/阿部賢一(Druhé město,Michal Ajvaz,1993/2005)★★★★☆
 ――ある雪の降る日、私はプラハの古本屋で、見たことのない文字で綴られた書物を手にした。大学図書館の職員にたずねると、「私たちの世界の境界は、一面しかない一本の線にしかすぎない。だがその世界に足を踏み入れてはならない」という答えが返ってきた。だが私は「もうひとつの街」を探し始めた。

 チェコの作品。長篇からの抜粋。かなり主流文学よりの幻想小説ですが、ここではないどこかという曖昧なものではなく「もうひとつの街」が明確に存在しているらしき点はSFっぽいです。一人の娘から闇に目を凝らされ、空間が裂けたように現実に浸食してくる場面は、まるでクトゥルーもののようです。
 

「カウントダウン」シチェファン・フスリツァ/木村英明訳(Odpočítavanie,Štefana Huslicu,2003)★★★★★
 ――世界の終わりは日曜日の正午に始まった。まず、原子力発電所の近くで銃撃戦があった。数分後、ヨーロッパにあるほかの十五カ所の原子力発電所の近くでも正体不明の兵士たちと戦闘が起きている、とラジオが伝えてきた。ゼレニー先生がとどめとなる診断を下してからというもの、ぼくはもう預金口座を気にする必要がなくなっていた。

 スロヴァキアの作品。過激派民主主義団体が共産中国に民主化をうながすためにヨーロッパの原発を人質に取るという、冗談のようなアイデアがもたらす世界の終わりです。ヨーロッパ中の人々が逃げ出すなか、不治の病に冒された語り手と友人たちだけがクールを気取っているのが、かえって退廃的でした。
 

「三つの色」シチェファン・フスリツァ/木村英明訳(Tri Farby,Štefana Huslicu,1996)★★★★☆
 ――町には廃墟と野良犬、そして恐怖があふれていた。調査結果に基づくなら、紛争など決して起こるはがなかった。「返せ、何もかも返せ《ヴィサ・ミンデント・ヴィサ》!」と誰かがハンガリー語で叫んでいた。「ハンガリー人はドナウ川の向こうへ行け!」と別の誰かがそれに反駁していた。

 スロヴァキアとハンガリーのあいだで紛争が起こっているという架空の歴史。ハンガリー語とスロヴァキア語のほかに、英語やドイツ語が乱れ飛ぶさまが、いかにも「そうでありそう」な現地の様子を伝えています。
 

「時間はだれも待ってくれない」ミハウ・ストゥドニャレク/小椋彩訳(Czas nie czeka na nikogo,Michał Studniarek,2009)★★★☆☆
 ――僕は祖父の誕生日に、祖父が若い頃に過ごしたアパートが写った絵葉書や写真を買うことにした。ある骨董屋でのことだった。「一年に一度、古い建物が、自分の場所に帰るんですよ」老人はこう説明した。

 ポーランドの作品。失われた過去の町並みが特定の時間だけ姿を現すものの、その短い間のなか時間は何十年分を一気に経過してしまい――時間はだれも待ってくれない、というわけです。過去の思い出は思い出として、過去に生きることを選ぶ黒の男のような選択肢があること自体が少しうらやましいような気もします。
 

「労働者階級の手にあるインターネット」アンゲラ&カールハインツ・シュタインミュラー/西塔玲司訳(Das Internetz in den Händen der Arbeiterklasse --Ein Begebnis aus dem Jahr 1997,Angela & Karlheinz Steinmüller,2003)★★★★☆
 ――粗忽者が電子メールのアドレスを打ちまちがえるのはままあることだ。おかしいぞ、送信者が僕の名前になっている。しかも、DDR(東独)から発信されているだって!? ジョークだろうか? ジョークなら、回答するのが筋だろう。アダムチクは、“返信”をクリックした。

 旧東ドイツ作家の作品。インターネットを通じて、開かないはずの扉が開いてしまった……相手は社会主義が勝利を収めたもう一つの世界の、もう一つの自分……? 何か起こりそうな気配すらなく実際ドラマは生まれませんが、主人公が旧東独の組織に在籍していたという過去を有しており、最後にそうしたプレッシャーが押し寄せて来る場面ではかなりの恐怖を感じました。
 

「盛雲《シェンユン》、庭園に隠れる者」ダルヴァシ・ラースロー/鵜戸聡訳(Sen-jün, a kertrejtőző,Darvasi László,2002)★★★★★
 ――その清朝庭園を公の家祖たちが定め置いたのは、竜たちの戦場と呼ばれていた場所であった。若き君主はしばしば花壇や石庭の手入れに勤しみ、或いは歌い女たちと戯れ、或いは物思いに耽った。その異邦人は、自ら盛雲と名乗った。自分は高名な清朝庭園に隠れることができ、いと畏き公が一日かけても見つけ出すことはできないだろう、と言うのだった。

 ハンガリーの作品。ハンガリー文学にはシノワズリサブジャンルがあるのだそうです。読み終えてみれば、悪魔との契約ものの変奏のようでもあります。無尽蔵に増えてゆくスケールの大きさや、残酷ともいえるほどの執念が、本場中国風を思わせます。
 

「アスコルディーネの愛―ダウガワ河幻想―」ヤーニス・エインフェルズ/黒沢歩訳(Askoldīne,Jānis Einfelds,2009)★★★★★
 ――船の中では、娘が涙を拭っていた。囚われるとは思っていなかったのだ。ドアを開けて入ってきたのは船長、育ての父親だ。「おまえに婿を見つけて売りつければ、わしの樽と懐は金銀であふれるというわけさ」……ぴしゃりと水音がすると、川から目も眩むような裸の女が浮きあがった。若い男は岸に向かって転がるように駆け下りた。

 ラトヴィアの作品。時系列や場面の異なるいくつかの章が、あたかも芥川の「藪の中」のように、代わる代わる語られる、語り手の見た白昼夢。川中のアスコルディーネロシア(の幽霊?)は、『ソモフの妖怪物語』に出てきてもおかしくないような妖しさを漂わせていました。
 

「列車」ゾラン・ジブコヴィッチ/山崎信一訳(Voz,Zoran Živković,2005)★★★★☆
 ――本当なら特急列車が停まらないような小さな駅で、神が一等車に乗り込み、ホーニントン氏のコンパーメントに真っ直ぐやってきた。とはいえすぐに神だとわかったわけではなかった。退役した将校ではないかと思った。「窓が開いていても気になさいませんか」

 セルビアの作品。列車で同席になった人物との、間が持たない平凡な会話。地の文で断言されている以上、語り手の幻覚の可能性はゼロです。神であることが、場所や外見や会話が平凡だっただけに、不思議なおかしみを生み出しています。

  


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