『ミステリマガジン』2005年9月号No.595【MWA賞受賞作特集】

『ミステリマガジン』2005年9月号No.595【MWA賞受賞作特集】

 最優秀短篇賞受賞作ローリー・リン・ドラモンド「傷痕」は、『あなたに不利な証拠として』で既読なので今回はパスしました。
 

「ブック・サイニング」ピート・ハミル/上條ひろみ訳(The Book Signing,Pete Hamill,2004)★★★★★
 ――地下鉄の駅から地上に出ると、急激な寒さにカーモディの眼鏡がくもった。壁のちらしには〝朗読会とサイン会〟という文字。久しぶりに帰ってきたブルックリンの建物は記憶していたとおりだった。「ドジャースが去ったから、わたしもブルックリンを去った」もちろん、それはうそだ。去ったのはドジャースのせいではない。モリー・マルレインのせいで去ったのだ。あの土曜日の午後、ふたりは初めて寝た。「しっかり抱いて」彼女はささやいた。「絶対に捨てないでね」。あのアパートに、今ではだれが住んでいるのだろうか。不意に背後から男のしゃがれ声が聞こえた。「だれかと思ったら、バディ・カーモディじゃないか」。モリーの兄の顔を認めて、カーモディはあとずさった。

 最優秀短篇賞候補作。タイトルの「ブック・サイニング」とはサイン会のこと。理由もなく一方的に女を捨てた男の、独りよがりな感傷は、女の兄の一言で打ち砕かれることになります。過去に浸って後悔するのも、結局は新しい人生を歩むことが出来た、捨てた側の論理でした。当事者にとっては過ぎ去った出来事ではなく、今にいたるまで心を蝕み続けていたのでしょう。
 

「スレインの未亡人」テレンス・ファハティ/高橋知子(The Widow of Slane,Terence Faherty,2004)★★☆☆☆
 ――「殺人なんかじゃない。あたるかどうかわからんのに、相手の頭めがけて岩を落とすなんてしやしないだろう」「そんな小説を知ってるぞ。ドロシイなんとかってのが書いたやつだ」「ところでティムは真夜中にあそこで何をしていたんだ?」「ここにいる全員が真夜中にやりたいことさ。問題は相手が誰かってことだ」バーではティム・マッキニーの死に関する噂が飛び交っていた。「もうたくさんだ、未亡人の宿で寝ているミスター・キーンがどう思うと思ってるんだ?」とバーテンダーのマリンがカウンターを叩いた。実際に私が寝ていたのは未亡人ブレダ・マッキニーのベッドの中だ。どうやらマリンの娘もティムと噂になっていたらしい。

 最優秀短篇賞候補作。見覚えのある名前でしたが、『ミステリマガジン』にホームズ・パロディがいくつか掲載されている作家でした。神学生くずれの法律事務所調査員オーエン・キーン・シリーズの一篇。私立探偵小説風のスタイルながら、セイヤーズが引き合いに出されるようなトリックが用いられています。それがミスマッチに感じられないのは、トリッキーとは言っても大自然が舞台だからでしょうか。
 

「消えた探偵の秘密」ゲアリ・ラヴィッシ/日暮雅通(Gary Lovisi,The Adventure of the Missing Detective,2004)★★★★☆
 ――ワトスン、きみと世間がぼくは死んだと思っていたあの時期に、いったい何があったのか。今日はそれを聞かせてあげよう。ライヘンバッハの一件で、モリアーティ教授は命を落とした。ところがぼくのほうも身体のバランスを失って、眼下のもやの中に落ちていった。スイス人に助けられたぼくは、ひと月ほどたって、英語の新聞を見つけ、ある記事に釘付けになった。『大英帝国君主アルバート・クリスチャン・エドワード・ヴィクター王――故ヴィクトリア女王の御孫は、このたびミスター・ジェイムズ・モリアーティにナイト爵を授けることとなった』。ヴィクトリア女王が亡くなった? 切り裂きジャック事件の容疑者が新しい王だって? それよりも、モリアーティが生きているだって? ぼくは村の墓地の死体を確かめることにした。棺の中で死んでいたのは、ぼく自身の顔だった。

 最優秀短篇賞候補作。大空白時代を描いたホームズ・パスティーシュです。謎のもやを通って、モリアーティが死んだ世界からホームズが死んだ世界に迷い込んでしまったホームズが、悪に染まった世界を正し、元いた世界に戻ろうとする話です。著者はシャーロキアンであるらしく、SF的設定を用いながらも、大空白時代に関する原典の記述をきっちりと回収しています。ホームズの一人称も堂に入ったもので、上手く模倣されていました。ホームズの変名「Sigerson」が「シーゲルソン」ではなく「シガスン」と表記されていますが、ノルウェー語読みではどう読むのが近いのでしょうか。
 

「イミテート・ザ・サン」ルーク・ショウラー/対馬妙訳(Imitate the Sun,Luke Sholer,2004)★★☆☆☆
 ――マドリッド。数か月前。爪を尖らせた日本人が言った。「インマン少佐――」「今は清掃員だ」「きみはその男を捜して、家族としてこの一件を終わらせなければならない」彼は東京の地下鉄で起きた殺人事件のことを、そして、おまえのことを語った。九五年の春。妻と私は二度目の新婚旅行にきていた。早起きして出かけた妻は、ひとりで死んでいった。サリンガス。七年が過ぎていた。一週間考えた。そして私はイエスと言った。おまえを捕まえる、と。

 最優秀短篇賞候補作。地下鉄サリン事件で妻を失いながらも暗号班に所属しているため事件自体をなかったことにされた語り手の軍人が、サリン事件に関わった男を追う物語です。語り手は終始相手を「おまえ」と呼びかけていることから、恨みの強さが窺えますが、それだけに、そんな語り手も相手も所詮は組織の歯車でしかなかったとわかったときの虚しさが引き立っていました。切り詰められていながらも茫洋とした、スパイ小説めいた晦渋な語りと構成が、息苦しさを誘います。

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