『小説すばる』2012年8月号【ノスタルジック怪談】

【ノスタルジック怪談】

「遠い夏の記憶」朱川湊人
 ――「十日ばかりヒショに行かへんか」。行く先で死んだ子の代わりをしてほしい。オヤジに頼まれ、訪れた家で俺は楽しく過ごしていた。あの夜が来るまでは。(袖コピーより)

 金縛りが物体化・視覚化されているシーンの恐ろしさ息苦しさが尋常ではありません。そしてそれより怖いのが人の心――とは定番ですが、定番だからといって安心とは程遠く、家族の気持もわかってしまうだけにいっそういとわしく感じました。
 

「チョ松と散歩」平山夢明
 ――町外れのオバケ煙突が爆破されるらしい。俺はチョ松と一緒にそれを見に行くことになった。(袖コピーより)

 生と死のなんと曖昧なことか。「生きている」と実感することが生きている証拠であるとは言えないと思うと途端に薄ら寒くなります。オバケ煙突、貧乏っ子……思えばこれらもすでに遠い存在で、わたしにとっては『こち亀』のなかに存在するものでした。だから「ノスタルジック」という記号でしかないはずなのだけれど、やはりノスタルジーを感じてしまう自分がいます。
 

「送り遍路」宇佐美まこと
 ――地球に近づいた彗星、現れた女遍路――。四国に戻ってきた私は、四十年前の雨の午後を思い出していた。(袖コピーより)

 お遍路が語る、因襲と耽美に彩られた怪談。彗星と不倫といった、現実的なものごと。――毛色の異なる二つの要素が一つに融合する魔術こそ、小説の醍醐味です。お遍路が語る怪談と語り手の現在との関連性が弱いようにも思いますが、二つを結ぶ線が強引なほど強いのでそちらに心を奪われてしまいます。
 

「イチコさん」勝山海百合
 ――大伯母の屋敷で、女の子に出会った。あの時から、僕は彼女を守ることに決めたんだ。(袖コピーより)

 まるでラノベかアニメのようなキャッチコピーですが――多分「幽閉されている」→だからこそ「外に連れ出そうとする」ことが「イチコさんを助けることになる」と語り手が無条件に主観を信じているらしいのが、まさに思春期くさく、クラシックな妖怪譚にライトな皮をかぶせて語り直した作品といえるでしょうか。P.71「けれど、僕のことを『ミチ』と呼ぶのは、一人だけで。」という助詞止めに、ハートを鷲づかみにされました。
 

「カーテンコール 不思議あり、怖さ控えめ」勝山海百合
 巻末の著者のことば。自己紹介と「イチコさん」について。
 

「書楼弔堂 探書弐 発心」京極夏彦
 ――人生に本は一冊あればいい、その一冊に巡り合うために何冊も読むのだ。そう言い切る書舗の店主を訪れたのは、繊細そうな書生だった。(袖コピーより)

 途中からわかるけれどこの書生の正体は泉鏡花。書舗店主がホームズのように、書生の素性を言い当てます。
 

「ぼくが次に訳したい本(79)作られた「怪物」たち」金原瑞人
 デイヴィッド・バウカー『ローヘッド(Rawhead)』(2002)。怪物とはいっても人外のものではなく、怪物じみた犯罪者の話。

 


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