『日本文学100年の名作 第1巻1914-1923 夢見る部屋』池内紀他編(新潮文庫)★★★☆☆

「父親」荒畑寒村(1915)★★★☆☆
 ――久しく満州を放浪して居た孝次は、帰って来たと思ったら、一室に閉じ籠ったまま翌日から口もきかなかった。そんな孝次が結婚している長野へと、父親は向かっていた。何でも社会主義の新聞を出すのに、田舎の方が保証金が安いとかで……。

 著者の経歴を知ってから読むと、都合がよすぎて失笑してしまいますが、我が子に対する世の父親の姿ではありました。
 

寒山拾得森鴎外(1916)★★★★☆
 ――唐の貞観の頃、閭丘胤という官吏がいた。背の高い乞食坊主に頭痛を癒してもらった。僧の名を天台国清寺の豊干という。「往って為めになるようなえらい人はおられませんかな」「さよう。拾得と申すものがおります。実は普賢でございます……」

 これも再話文学というのかな。嘘がばれて逃げ出す悪戯小僧のような(あるいは妖怪のような)文殊と普賢の姿に、何よりも人間らしさを感じてしまいます。娘の疑問に答える楽屋裏を親父ギャグで逃げる鴎外と、重なる部分もあるようです。
 

「指紋」佐藤春夫(1918)★★★☆☆
 ――親友のR・Nが、数年ぶりに洋行から東京に帰ってきながら、二三日すると長崎へ行くと言い出した。戻ってくると「私をかくまってくれ給え」と言い出す。ロンドンでマドロス風の男に誘われて阿片を覚えたが、道徳的な自覚から二度とやらないと決めた。それがかくまうという事情であった。そのくせ阿片の初期症状に似ていると言って活動写真を好んだ。その日も『女賊ロザリオ』を見ていると、子分の男を見て「お!」と声をあげた。

 小説を読み慣れているとついうっかりしてしまいますが、この作品は語り手が「佐藤」であることからもわかるとおり、フィクションではなく実録という体裁を取ってあります。つまり普通であれば探偵小説的な出来事など起こり得るはずがありません。だからこそ、気違いの妄想だと思っていたら事実だったかもしれない――という二段落ちが意味を成すわけですが――そしてそれを補強するのが「指紋」という科学的かつ推理小説的なガジェットなのが面白いのですが、読み方を誤ると気の抜けたコーラみたいに感じてしまいます。
 

小さな王国谷崎潤一郎(1918)★★★☆☆
 ――貝塚昌吉の勤める小学校に、今年になって新しく入学した生徒があった。沼倉は学力も性質も目立ったところはないが、運動場の戦争ごっこで指揮を執って連勝しているのを見て以来、特別の注意を払うようになった。あるとき貝島が授業をしていると、沼倉が無駄話をしている。それを咎めると、隣の席の野田が「僕が話をして居たのです」と云った。

 アンファン・テリブルのことを書いているようでいながら、その実描かれているのは自分の財政的な困窮と精神的な窮状です。しかもまだ家父長制が現役バリバリなので学級崩壊とは程遠く、のび太ドラえもんの道具を借りて〈ごっこ〉をするのと同じようなレベルの可愛らしいものです。それでいながら、そんな〈ごっこ〉にすらすがらざるを得ない窮状というのが、世界が裏返ってしまったようで、薄ら寒く感じました。
 

「ある職工の手記」宮地嘉六(1919)★★☆☆☆
 ――継母に冷遇され、弟子入りさせられた仕立屋の叔母にも冷遇され、私は十三の秋、職工になる決心をしたのだった。汽車と云うものが今の飛行機ほど世人の讃嘆の中心であったあの頃は、職工というのは立派で高尚であったのだ。車夫の善作さんの家に厄介になりながら造船所に通った。だが息子の権八が私をいじめるのであった。

 他人の半生なんてつまらないものです。
 

「妙な話」芥川龍之介(1921)★★★★★
 ――知っている通り、千枝子の夫は欧州戦役中、地中海に派遣されていた。それが夫の手紙がぱったり来なくなったせいで、神経衰弱がひどくなり出したのだ。ある日、学校友だちに会いに行くと云い出した。――それが妙な話なのだ。停車場へはいると、赤帽の一人が突然千枝子に挨拶をして、「旦那様はお変りありませんか。」と云った。

 何度か読んでいる(→http://d.hatena.ne.jp/doshin/20110701)ので今回はパスしましたが、芥川のなかでも群を抜いた傑作の一つです。
 

「件」内田百間(1921)★★★★☆
 ――黄色い月が向うに懸かっている。色計りで光がない。件の話は子供の折に聞いた事はあるけれども、自分がその件になろうとは思いもよらなかった。件は生まれて三日にして死し、その間に人間の言葉で、未来の凶福を予言するものだと云う。死ぬのは構わないが、予言するのは困ると思った。

 これも何度か読んでいる作品です。絵的で詩的な冒頭から、畏敬と恐怖なかばする「モノ」扱いされる中盤、そして「ただ生きている」だけの終盤まで、どこまでもひとりぼっちです。
 

「象やの粂さん」長谷川如是閑(1921)★★★★☆
 ――「さあさあ象をお召しなさい、お坊ちゃん、お嬢ちゃん方への、お土産」野天で玩具の象を列べてそう叫んでいるが、ちっとも売れない。家に帰ると娘のおきく(きいちゃん)が徳利を差し出した。「好いお話があるのよ」華族の若様が「象に乗りたい」と云うものだから、さる実業家が象を献上したのだが、馴らすものがいない。そこで興行師のところで象遣いをしていた粂さんの名が挙がったのだ。

 名前は有名ですが著作は読んだことがありませんでした。酒を飲んで酔っ払えば、魅せてやって金を取っていた興行時代とは違い、今の飼い慣らされた象と自分が情けないとくだを巻き、そうかと思えば、金のために娘を妾奉公にやれるかと断固としてはねつけたり、と、何しろ矜恃は一人前だったのですが、若い者たちはすでに新しい時代に進んでいました。。。
 

「夢見る部屋」宇野浩二(1922)★★★☆☆
 ――人から見られるのが嫌で、私は隣室との境の襖にそうて、本箱を並べた。そして壁のすきまは山の写真で埋まるのである。家族の声をする場所では、私のような性質のものには落ち着いて仕事もできないという理由のほかに、隠れて逢いたい女ができたために、部屋を一つ借りることにした。

 乱歩が私淑していたというので、文学的に影響を受けたのだと思っていたのですが、そうではなく、オタク的な偏愛や詩的なものの見方や空想癖などが肌に合ったのでしょうね。さかさまではあるのですが、乱歩が書いた私小説風エッセイのように感じられました。
 

「黄漠奇聞」稲垣足穂(1923)★★★★☆
 ――王はバブルクンドの街を襲撃した。「おれも白い大理石の都を建てよう。バブルクンドの旗をシン神とやらの新月の吹きながしに改めよう」ある日の宵のことである。王は西空の三日月に気がついた。「アクマだ! われらの聖なる旗じるしをあなどって見下ろす者を弓もて射よ!」

 解説にもあるとおりダンセイニを思わせる、それでいながらまるでブリキ細工のような三日月などいかにも足穂らしいところもある、一つの国の建設と滅び。
 

二銭銅貨江戸川乱歩(1923)★★☆☆☆
 ――あの泥棒が羨ましい。盗まれた五万円の隠し場所については白状しなかったため、五千円の懸賞金が懸けられた。煙草屋から戻った松村が、ふいと出て行くと、風呂敷包みを背負って戻ってきた。「この包みには五万円が入っているのだよ」松村は二銭銅貨から出てきたという暗号を見せてくれた。「陀、無弥仏、南無弥仏、阿陀仏、……」

 密室殺人を扱った「D坂の殺人事件」にしても、暗号小説である本篇にしても、英米のコピーではなく〈日本流〉であることが評価されたのでしょう。強盗と金の在処と懸賞金という謎を立てたことで、〈現代〉を舞台に〈宝探し〉を実現させたのも見逃せないと思います。でもあんまり面白くないんですよね。。。

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