『子供たちの午後』R・A・ラファティ/井上央訳(青心社SFシリーズ)★★★★☆

 『Among the Hairly Earthmen』R. A. Laffery。

 せっかくの青心社SFシリーズ復刊なのに、2冊復刊されたっきり音沙汰がない。判型からレイアウトまで新装版異色作家短篇集そっくりなのでクレームがついたわけでもないだろうが、ちゃんと続きが出てくれるのか不安。

「アダムには三人の兄弟がいた」(Adam Had Three Brothers)★★★★★
 ――ここにはイタリア人がいる。アイルランド人がいる。さらに、ここにはレクェセン人が住んでいるのだ。ジプシーではない。セム人でもない。なんと、アダムの子供達ですらなかった。アダムには三人の兄弟がいた。末弟のレックの子孫である彼らは、いっさい働かなかった。ぺてんと呼ばれる技術によって生きていたのだ。

 長篇『宇宙舟歌』にしろ本書収録「子供たちの午後」にしろスケールのでかいホラ話が魅力のラファティではありますが、本篇にかぎっていうと、別にアダムを持ち出す必然性はないんだよね。だけどここにアダムを持ち出してくる心意気がうれしい(^^)。アイデアストーリーに神話的なスケールを持ち込む無駄な(?)器のでかさ。
 

「氷河来たる」(Day of the Glacier)★★★★★
 ――第五氷河期は1962年4月1日、日曜日、午前九時ごろ始まった。エイマー博士の計算より約二十五時間も早かったので、博士は大恐慌に陥った。もっと低俗な人達は、もっと低俗な事件の連続によって、さらに一時間前に恐慌に陥っていた。どのチャンネルを回してもこう繰り返した。「このニュースはエイプリル・フールのでまかせです」

 ICBM発射基地が爆破されたが、引き続いて起こった大災厄(=氷河期の到来)のために云々……というのはギャグかと思っていたら、伏線だった(^_^;。氷河期だけでもサービス満点なのに、さらに上があったか。サディストグループがおちゃめ。
 

「究極の被造物」(The Ultimate Creature)★★★★★
 ――宇宙は公平である。世界最高の宝を手にする人があるならば、それは世界一貧しい男でなくてはならない。これは惑星グロルの話である。ピーターはテレサを見た。彼女は宇宙一の美女というにふさわしい。

 途中までの展開なら予想できる人は少なくないと思うけれど、こうくるとは思わないよなあ。一般人の想像の範囲を超えてます。しかしこれも「究極の被造物」という設定に意味があるようなないような?、無意味なスケール感。そこがたまらない。まあある意味“究極”だよなあ。食物連鎖のサイクルをものの見事に合理化している。
 

「パニの星」(Pani Planet)★★★★★
 ――「壊れたのかい?」パニの語り部イスカが尋ねた。「亡くなったんだ!」大佐はすごい剣幕で振り返った。「私たちの指揮官ラドル将軍が」「修理してやるよ」「埋葬するんだ」「そうすれば直るのかい。埋めてしまうだけなら、譲っておくれ。わたしが他の使い道を見つけられるよ」

 これは比較的ふつうっぽい異星探検隊SFでした。とはいえ「ふつう=平凡」という意味では全然なくて、なかなか優れた謎解き・ぺてんもの。読み終えてみれば不思議なことなど何もない。書かれてあるとおりのことが起こっているだけなんですよねえ。異なる世界と出会いひとたび常識がゆさぶられると、人はかくも簡単にあり得ないことをも信じてしまうようになるのでしょうか。
 

「子供たちの午後」(Among the Hairly Earthmen)★★★★★
 ――“子供たち”には自由な“長い長い午後”があった。遊び場はいくつでもある。七人の子供たちは地球《エレッツ》を選び出した。ロニイはジギスムントになりすました。ウェンツェスラウス帝になりすましているマイケルが戦いを挑んだ。「誰が本当の皇帝か教えてくれるわ」三人目の皇帝はラルファ以外にはありえなかった。

 人類の歴史を、宇宙人の子供の遊びとして語り直す。ラファティを諷刺として読むならこれは割とわかりやすいかなあ。子どもの遊びになぞらえることで、戦争の愚かさと馬鹿らしさとスケールのでかさ(!)が浮き彫りになります。
 

「トライ・トゥ・リメンバー」(Try to Remember)★★★★☆
 ――教授方がうわの空というわけではない。教授方とは多忙な人々だ。非本質的な問題は思考の外へと退却させねばならない。その教授も、妻によってしたためられた「覚書」ノートをいつも携えていた。「あなたの名前はディラー教授。あなたの専門は中期マヤ考古学です。時間表を見る前は腕時計を確めてください。そうすれば今が何曜日の何時かがわかります……」

 落語みたいなスマートなホラ話。熊さん、八っつぁんみたいな愛すべきお約束キャラクターが期待通りにやらかしてくれる。「平林」とかね。まがりなりにも講義をやってのけてしまうところにシニカルな視線を感じます。最後になると、〈教授〉に限った話ではなく、〈男と女〉の話としても読める。
 

「プディンブンディアの礼儀正しい人々」(The Polite People of Pudibundia)★★★★☆
 ――「あそこの住人はものすごく礼儀正しいっていうんだろう」「そいつは一番好意的な表現の仕方だな。コンラッドという飛行士の話じゃ、あそこの連中はいつも七色の眼鏡を持ち歩いていて、お互いの姿を裸の眼で見つめあうのは失礼にあたるらしい」「そのコンラッドに会ってみたいな」「死んだのは知らなかったのかい」

 言うなればこれも「パニの星」と同じく異星の謎解きもの。こういう異世界の異文化によるすれ違いみたいなものは、それこそ星の数ほど書かれているけれど、意外と言っては何だけど本篇は単なるギャグ・法螺ではなくて、ちゃんと異文化に作品内での必然性がありました。好奇心は猫をも殺す。
 

「マクグルダーの奇跡」(McGruder's Marvels)★★★☆☆
 ――「絶望だ。二週間以内にできなければ、全世界はおしまいだ」超小型コントロール・ステーションは、一時に十三ものデータフローの処理を要求された。「マクグルダーに頼んでみたら?」マクグルダーが作ったのは、完璧なコントロール・ステーションだった。「どうやって作ったんです!」「企業秘密さ」

 いったい正体は何だったの?と思ってしまいますか? いやいやそれは的外れな疑問です。自動車のモーターがどうやって動くのか、パソコンがどうやって動くのか、身のまわりのすべての仕組みに疑問を感じ、仕組みを解き明かしている人ならともかく、たいていの人間はこんなもんです。ピーナッツの代わりに月々の電気代を払ってるだけで。
 

「この世で一番忌まわしい世界」(The Weiredest World)★★★☆☆
 ――決定は下った。流刑星がどこになるかは、もう決まっているはずだ。時間経過。私は今ここにいる。今のところ私が出あったこの星の住民は背中の曲がった得体の知れない連中で、私のことなど眼中にないといったふうだった。

 「子供たちの午後」ではやりたい放題に空想の大風呂敷を広げてくれていましたが、本篇は比較的まっとうな“外から見た地球”。そういう点ではややもの足りない。「時間経過」という表現は、つまり語り手ができごとを記録している、という設定だからなんですね。なのに本分は手記というより一人称の小説に近い雰囲気なので、この「時間経過」という表現が不思議な感じを醸し出している。
 

「奪われし者にこの地を返さん」(How They Gave It Back)★★★★☆
 ――彼は“巨大な島”の市長だった。大きなピンが彼の脚に突き通っていた。これが解かれるのは、彼が責務を果たした時だけなのだ。“巨大な島”はいまや偉大なものではなくなってしまっていた。

 後半の何篇かはちょっとシリアス路線。オランダがインディアンからマンハッタン(丘の島)を24ドルで買い取ったという有名な歴史的事実に基づく。考えようによっては、これも「子供たちの午後」のような“外から見た地球”の変型なのかもしれない。“外から(内から?)見たアメリカ”。「究極の正義」――ついこないだもブッシュくんが同じようなたわごとをほざいていました。彼らにとっては「正義」なんですよね、きっと。すっげえ皮肉。
 

「彼岸の影」(Configuration of the North Shore)★★★☆☆
 ――患者の名前はジョン・ミラー。分析医の名前はロバート・ルース。「仕事がうまくいかんのです。でも、私にはふつふつ湧いてくる欲望があるんです。北の岸に行くことなんです」「北の岸に行くにはどうすればいいのかな?」「そこが問題なんですよ。大ざっぱにしかわからないんです」

 絶対の探求。とでも言えばいいのか。これも何かのパロディかね。大航海と伝説に彩られた冒険(?)譚。夢を当人の夢以上に正確に再生し、あまつさえ操作者の主観まで取り入れられるという、とてつもなく都合のいい機械シャドー・ブースが登場する。
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