「火宅」ヴィンセント・オサリヴァン/今本渉訳(The Burned House,Vincent O'Sullivan,1926)★★★☆☆
――数年前のこと、北部アイルランドに滞在しなければならぬ羽目に陥りました。宿屋を出て少し散歩でもするつもりでした。彼方に家が一軒、目に入ったのです。どうやら空き家らしい。ふと見ると、人が歩いて来る。その顔がいかにも恐ろしい。心ここにあらずといった様子です。
なるほど「幽霊」か?と問われるならば、幽霊ではなさそうです。少なくとも「死んだ人が化けて出たもの」という意味での幽霊ではありません。怖いというより、幽霊なんか信じてなさそうな聞き手をうっちゃる手際に面白いものを感じました。
「岩のひきだし」ヨナス・リー/西崎憲訳(The Earth Draws,Jonas Lee,1891)★★★★☆
――若者の舟は岸近くまで押し流されてしまった。満潮の潮の跡のあたりで光る小さな輪に気づいて、舟を繋ぐための物だろうと見当をつけた。輪に手をかけて力を籠めた。と、岩がぱっくりと口を開き、抽斗しとなって迫り出してきたのだった。ふと見ると、女が立っていた。麻袋よりも毛深い腕をした女だった。
指輪を嵌めたために……というのは、メリメ「イールのヴィーナス」をはじめとした人間ならざるものとの婚姻譚でおなじみのものですが、本篇では「指輪」が何か罠のように主人公を捕えますし、譬喩でもなく本当に「抽斗し」というのが風変わりです。怪談風の語り口なのに、描かれているのはラヴクラフトやクラーク・アシュトン・スミス作品のような、地下に住む邪神・邪獣・邪人のようでもあり。
「旅行時計」W・F・ハーヴィー/西崎憲訳(The Clock,William Fryer Harvey,1928)★★★★☆
――叔母のところにはお客さんがいました。ミセス・カルプといって、どこか奇妙で、秘密を抱えこんだ感じ。私が知り合いの家に出かけるのを見計らったように、「家に寄ってきてくださらない? 旅行用の携帯時計を忘れてきちゃったんですよ。鍵はここにありますから」と言いました。
「炎天」でおなじみのハーヴィーの作品。「姿が見えない」のではなく「姿を見せない」のが非常に怖い作品でした。いるのかいないのか、この世ならざるものなのかそうではないのか、それすらも不明のままです。時計の捩子が巻かれている、というのが、当時ならではの小道具です。
「夢魔の家」エドワード・ルーカス・ホワイト/倉阪鬼一郎訳(The House of the Nightmare,Edward Lucus White,1927)★★★☆☆
――石が立っているのは道の右か左か、はっきりこの目でたしかめなければ……。すっかり動転していたため、左へ大きくスリップし、かえでの大木に衝突してしまったのである。少年がいた。裸足、上着はなし、髪はもじゃもじゃ、ひどい兎唇だった。「今夜はきみんちで泊めてくれないか」「いいよ、そうしたけりゃ」
右に見えたり左に見えたりする目印の岩という、何かが起こりそうな発端。豚の怪物の幽霊に食われる夢というおぞましい悪夢。その悪夢があまりにも強烈なため、命からがら逃げ出すと……というお約束の結末もかすんでしまうほどです。
「花嫁」M・P・シール/西崎憲訳(The Bride,Mathew Phipps Shiel,1902)★★★☆☆
――ウォルター君の仕事先に、アニーがタイピストとして雇われてきたのが、知りあうきっかけだった。アニーの母親は下宿人をさがしており、渡りに舟とばかりに話はまとまった。アニーの妹のラケルに会ったのはその時が最初である。二人の娘はどちらもラケルだった。
同名の「ラケル」姉妹のあいだで揺れるだけならまだしも、同時に二人と結婚の約束をしてしまうほどのとんでもないどっちつかず。リアリティなんか知らんぷりのそんなところがシールらしい。最後の最後まで妹の名を呼んだり姉の名を呼んだり。これで実は姉に絞め殺されたんだったらどうしょもないんですが。
「違う駅」A・M・バレイジ/高山直之訳(The Wrong Station,Alfred McLelland Burrage,1927)★★★☆☆
――「そこはレディングとプリマスの間のどこかでした」「何ですって」「その駅の名前を思い出せないんです。地図にも載っていません」「心に適う場所があって、もう一度そこに行きたい、ということですか」
語り手が気づいてないのがやたらと可笑しい。これってブラック・ユーモアですよね? 聞き手もつっこみたいのにつっこめず。桃源郷ものです。
「人形」ヴァーノン・リー/今本渉訳(The Doll,Vernon Lee)★★★★☆
――それは大きな人形でした。「伯爵のお祖父さまの最初の奥様なのです。今朝納戸からお連れして、煤払いを仕るところです。結婚して二年でお亡くなりになると、先々代の伯爵はその臨終に際して半狂乱になったと云います。肖像画をもとに人形を作らせて、毎日部屋に籠っていたとか」
幽霊とは残された者たちの思いのなかにある――とは言いますが、これは残されたどころか、だいぶ後の時代の人たちの思いでした。死んだ妻を忘れられない伯爵が作ったと謂われのある人形と、その人形に故伯爵夫人その人を重ねる現代の語り手――とくれば狂気の物語かとも思いましたが、そうではなく、いわば呪を解くような、センチメンタルな結末でした。今なら『百鬼夜行抄』とかにありそうなストーリーですね。
「フローレンス・フラナリー」マージョリー・ボウエン/佐藤弓生訳(Florence Flannery,Marjorie Bowen,1949)★★★★★
――斜陽がガラスに刻まれた文字を照らしている。フローレンス・フラナリー、一五〇〇年生。「見て。私の祖先よ、きっと」フローレンスは指輪をはずし、現在の年号を記した。すなわち「一八〇〇年」と。夫のダニエルが覗きこんだ。「おかしな感じだな。一五〇〇年に生まれて一八〇〇年に死んだみたいだ」
好きな作家なので堪能しました。夫の旧邸の窓に刻まれた三百年前の文字、そこには妻であるフローレンス・もとフラナリーの名前が――。これだけでもうわくわくします。妻の素性はよくわからない、使用人から聞いたといって三百年前のフローレンスの話をしはじめる、そして明らかになる窓の名前の謂われ……。気が遠くなるような咒です。窓に名前が刻まれている理由はよくわかりませんが、自ら指輪に数字を刻むことで相手の復讐を完結させてしまう構成がかっこいい。
「湿ったシーツ」H・R・ウェイクフィールド/倉阪鬼一郎訳(Damp Sheets,Herbert Russell Wakefield,1931)★★★★☆
――「あなた、借金は?」「その……八百ポンドくらい」「叔父さんに泊まりに来てもらったらどう? いくらかでも引き出せないかしら」くだんのサミュエル叔父が死ねば、遺産が残されることになっていた。「震えが止まらん。わしのシーツは湿っておったぞ」
これも好きな作家。絵づらを思い浮かべるとギャグみたいな怪異なのですが、検屍官の最後のひとことが利いています。「プロパビリティの犯罪」もかなり家庭的でおちゃめです。
「戦利品」A・N・L・マンビー/長山靖生訳(The Lectern,Alan Noel Latimer Munby,1949)★★★☆☆
――トマス・プランドルの連隊は蹂躙のかぎりを尽くし、掠奪を続けました。その時々の感情に身を任せて、まったく野蛮なことを兵器で行なっていました。この時、酔いも手伝ってか、プランドルは聖書台を拾いあげるとそれを着服してしまったのでした。
よりにもよって聖書台。よりにもよってアイルランド。よりにもよって暴虐の限りを尽くす不信心者。因果応報どころではありません。
「アルフレッド・ワダムの絞首刑」E・F・ベンスン/今本渉訳(The Hanging of Alfred Wadham,Edward Frederic Benson,1929)★★★☆☆
――今を去る一年前、セルフという男が殺されました。アルフレッド・ワダムという若者が捕えられ、有罪と決まり、死刑を宣告されました。ところが死刑執行の前日、ケニヨンというならず者が、自分が真犯人だと懺悔したのです。
そうすべきかすべきでないか。それもリドル・ストーリー的な難問ではありますし、そうやって相手を苦しめようとする悪意もひどいものですが、それを上回る「悪」一筋こそ印象に残ります。それから、厳密にいうと幽霊譚ではなく、(少なくとも神父さん視点では)悪魔の話のようです。
「陽気なる魂」エリザベス・ボウエン/西崎憲訳(The Cheery Soul,Elizabeth Bowen,1945)★★★★★
――私は配給を取り出してテーブルの上に並べた。テーブルの上の紙切れに、何か意味のないことが書いてあった。〈魚の鍋を見ろ〉。開けてみると、またしても一枚の紙切れだった。〈ランガートン‐カーニーはじぶんのあたまをにる〉。私は叔母さんの意見を聞いてみた。「ランガートン−カーニーさんたちと料理番のあいだで、何かあったんですか?」「料理番はいなくなったわよ。一年ぐらい前だったかしら」
材料を積み上げて積み上げて積み上げていって、最後に梯子をはずすような――そんな喩えがぴったりくるような作品でした。全編にわたって意地の悪い気持ち悪さのようなものがうごめいているのに、それすらも手から擦り抜けて行ってしまうような空虚さ。
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