『怪奇文学大山脈2 西洋近代名作選 20世紀革新篇』荒俣宏編(東京創元社)
「第二巻まえがき 二〇世紀怪奇スクール――夢魔の花咲きほこる」荒俣宏 ★★★★★
――そもそも、いったいだれが怪奇小説という大山脈に登ってみようと言いだしたのか。ラフカディオ・ハーンである。ところで、この「怪奇小説」なる用語はいつからこのジャンルの呼び名になったのだろうか。
日本における怪奇小説受容史から、怪奇小説という用語の誕生・成立までをなぞりながら、「怪談」等との内容面での違いなどを参照しつつ、戦前戦後までの翻訳史を繙くことで我が国だけでなく彼岸での怪奇小説史もたどることのできるエッセイ。
「未亡人と物乞い」ロバート・ヒチェンズ/夏来健次訳(The Lady and the Begger,Robert Hichens,1900)★★★☆☆
――エリントン夫人は吝嗇家だったから、遺言書に書かれた寄贈額は世間を驚かせずにはいられなかった。真相を知っていたのは遺児ホレスとハインフォード大尉だけだった。夫人のあまりの吝嗇ぶりが気になり、物乞いがエリントン親子の後ろをついてゆくのを、大尉はつけていったことがある。施しを与えようとしたホレスを、夫人は決然と押しとどめた。その夜、池に身を投げた物乞いの死体が見つかった。
後悔先に立たず、なのはわかりますが、そもそものきっかけになった夫人の気まぐれはどういうことなのでしょうね。我が子の気持にほだされたのか。表立って知られていなかっただけで実はそれまでも似たようなことはちょくちょくあっただけなのか。とにもかくにも起こってしまったことは起こってしまったわけですが、ホレスがひどい子ですね、何も真実を伝えなくても……。
「甲板の男」F・マリオン・クロフォード/圷香織訳(Man Overboard,Francis Marion Crawford,1903)★★★☆☆
――海に落ちて死んでから船に戻った水夫をひとり知っているんだ。ベントン兄弟はそっくりだった。なにしろ双子なんだから。ジムとジャックのどちらかは、ひとりきりになると口笛を吹いた。だがそれだって確かじゃない。「落ちたぞ!」この荒海の中、泳ぎ続けられるもんじゃない。落ちたのはジム・ベントンだった。しばらくしてからコックがおかしなことを言い始めた。食器が用意していたよりも一人分多いという。
ふつう幽霊って、姿が見えちゃったら怖くないものだと思うのですが、生き残った兄弟と二人して婚約者を左右から挟むようにしている場面にはぞっとしました。
「鼻面」E・L・ホワイト/西崎憲訳(Snout,Edward Lucus White,1909)★★★★☆
――エヴァスレー家の相続人の宝石を盗むため、ぼくはスウェイトたちと屋敷に忍び込んだ。ドアを開けても、どれも召使いの部屋だった。やがて広間のような部屋に出た。ぼくら三人は呻き声をあげた。その絵に描かれているのは、人間だった。けれども誰ひとりとして人間の頭を具えていなかった。
てっきり「こびとの呪い」の一発屋だと思っていたのですが、本篇は非常に怖い――いえ、怖いというよりおぞましさに満ちていました。「どの家具もみんな普通の人間のサイズだ」という何気ない一言にまずいや〜な気持になりましたが、その後に描かれた半人半獣の執拗な描写は、とにかく不気味で気味悪かったです。
「紫色の死」グスタフ・マイリンク/垂野創一郎訳(Der Violette Tod,Gustave Meyrinck,1902)★★★★☆
――ロジャー・ソーントン卿は、チベット僧から聞いた話をもとに、従者のポンペイウス・ジャビュレックを連れて、悪魔を崇めるチベット人の部落を目指し、瘴気の噴き出す渓谷に足を踏み入れた。チベット人の男たちが侵入者を迎え討とうと、何かを叫んだ――ロジャー卿の体は紫の円錐になっていた。
著者初期の諷刺文学ということで、怖い話ではありませんが、呪文とともに卿に瘴気がまとわりつき円錐に変わる場面はいかにも魔法という感じで面白いものでしたし、落とし噺の基本のようないきさつが、短いだけにテンポ良くまとめられていました。
「白の乙女」H・H・エーヴェルス/垂野創一郎訳(Das Weisse Mädchen,Hans Heinz Ewers,1905)★★★★☆
――人生を芸術と化す術を知っている公爵が、ナポリに戻ってパーティーを開いた。床には葡萄酒色の絨毯が敷かれ、壁には葡萄酒色の壁布が貼られている。楽器には赤いカバーが乗っている。音楽は鳴り止まない――そのとき、白い布で身を包んだうら若い娘があらわれた。
赤と白が織りなす鮮烈とデカダン。まるで読者もその場に居合わせたかのような衝撃を、文章から受け取ることができます。編者解説によれば、エーヴェルスもマイリンクと同じ諷刺雑誌にコントを寄稿していたといいます。(しかも『新青年』にはそれが訳載されているのだとか)。
「私の民事死について」マッシモ・ボンテンペッリ/マッシモ・スマレ訳(La Mia Morte Civile,Massimo Bontempelli,1925)★★★☆☆
――神よ、どうして私をこれほど感情の鋭い人間になされたのか。『民事死』という映画に出演し、それが大ヒットしてお金持ちになった。だがあまりに敏感な人間だったせいで、そのお金を諦めるほかなかった。上映された映画を見て、私は主人公と同じように悶え苦しみのたうち回った。
これがただの「繊細で感受性の鋭い人」でないのは、ミラノとローマの二カ所で上映という文章に尽きます。その記述で一気に「怖い話」へと様変わりしてしまいます。
「ストリックランドの息子の生涯」J・D・ベリズフォード/西崎憲訳(Young Strickland's Career,John Davys Beresford,1921)★★★★☆
――四十歳で結婚して子供を儲けたストリックランドは、息子の未来を見届けるほど長生きできないのではないかとの恐れを抱いて、霊媒師にまで相談した。だが満足すべき回答は得られず、水晶球を購入して自力で未来を覗いてみようとした。それも年を重ねるにつれ落ち着いたように見えたが、ある時「地獄そのものが見えた」と言って水晶球はわたしのもとにやってきた。
「のど斬り農場」のベリズフォードですから、このままでは終わるはずがないとは期待していましたが、このエグさ容赦なさはやはり群を抜いています。どうしてこんな残酷なことが書けるのでしょうか。
「シルヴァ・サアカス」A・E・コッパード/平井呈一訳(Silver Circus,Alfred Edgar Coppard,1927)★★★★☆
――ハンズ・ジイペンハアルは、日向ぼっこをしながら、何か仕事に担がせてくれる人はないかと待っている。二度目の女房のミッチイが、ジュリウス・ダムジャンクスと駈落したのも、こんな日だった。「荷持ち!」と呼ぶ声がした。大男が立っていた。「声は大きいかね?」「それあもうでかござんすとも。ガアンとしますぜ」「よろしい。虎になって呉れ」
コッパード「銀色のサーカス」については『郵便局と蛇』所収の西崎憲訳がありますが、歴史的な意義を鑑み本書には平井呈一訳が収録されています。
「島」L・P・ハートリー/西崎憲訳(The Island,Leslie Poles Hartley,1924)★★★★★
――あの夏の鮮明な記憶のあるサンタンダー夫人の島に、わたしは十一月のいま招待された。夫人は玄関ホールに迎えに出てきていなかった。わたしは濡れた服を執事に渡し、浴室で体を温めた。客間には誰もいない。夕食の時間は過ぎていた。手持ちぶさたで飾り棚に手をかけると、突然声がして、男がひとり立っていた。「鍵がかかっています」狼狽えたわたしに、男は自己紹介した。「照明の技術者なのです」わたしは以前夫人に向かって照明を賞賛したことを思い出していた。
現代的といえばいいのか古典的といえばいいのか、人気のない屋敷で不意に現れる人間、突然のノックの音、神出鬼没の執事、いるのかいないのかわからない夫人や旦那、出し抜けに鳴る電話のベル……コキュの復讐を描いた1924年のこの作品で、ホラーの盛り上げ方の常道がすでに完璧なかたちで描かれています。型通りであるがゆえに古典的とも思えますが、やはりこれは古典的な幽霊屋敷ではなく、現代的なホラーの感覚だと感じました。
「紙片」アーサー・マッケン/南條竹則訳(Fragments of Paper,Arthur Machen,1915?1916?)★★★☆☆
――デイル氏は鉛筆と小さな紙切れをひっきりなしに使っていた。界隈の住人は閑静な暮らしを誇っており、同じ通りをうんと遠くに行くと、堕落して忌まわしいものに――暗い細民窟の入口になろうとは知らぬ者が多かった。「君はモロッコ革の書物を描写すれば、シェイクスピアの総体を論ずる批評になると思うのかい?」
小説には書かれていないけれども、紙片には書かれているはずの、向こう側の世界に思いを馳せることができます。表向きには社会の裏の話ではあるのですが、もしかすると「パンの大神」や「白魔」に描かれたような世界にまで通じてしまう悪徳が、この日常の裏側に潜んでいるのかもと想像を広げると、ぞっとします。
「遅参の客」ウォルター・デ・ラ・メア/圷香織訳(Strangers and Pilgrims,Walter John de la Mare,1924)★★★★☆
――堂守のフェルプス氏が教会のなかに戻ると、男が墓地入り口のあたりをうろついていた。休暇を楽しんでいる観光客には見えない。「じつは――ある墓碑銘を探しているんだ」フェルプス氏は案内した。幼くして死んだ子の墓碑銘、仕立屋の墓、聖歌隊の指揮者……。男は言った。「名前は……みずからの手で命を絶ったとか……」
デ・ラ・メアというと「なぞ」のイメージが強いので、どうしても「奇妙な話」の作家という印象をぬぐえないのですが、朦朧法を駆使した作風というのが本来の持ち味のようです。本作は長篇『死者の誘い』に通ずるところがあるからと選ばれた作品。そこには存在しない「生者の手による」墓碑銘をさがす、名前を記さなかった男。読み終えたあとに墓地に一陣の風が吹く――そんな気分にさせられる作品です。
「ふたつのたあいない話」オリヴァー・オニオンズ/西崎憲訳(Two Trifles,George Oliver Onions,1926)★★★☆☆
――幽霊たちが臨時総会を開いていた。天空の規則を大胆に無視した人間の通信が、空に綻びを作り、幽霊はその綻びに触れると粉々になってしまった。そこで機関士の幽霊が無線技師をとっちめてやることになった。
電波に触れると幽霊ははじけてしまうという、新時代の怪談ですが、怖くはありません。
「アンカーダイン家の信徒席」W・F・ハーヴィー/野村芳夫訳(Ankerdyne Pew,William Fryer Harvey,1928)★★★★☆
――ミス・アンカーダインは子供時代からあらゆる生き物が大好きだったが、餌をやろうとすると、鶏たちは彼女の来るのを察して逃げたと語った。教会は敷地内にあって、見るべき点はあるが、信徒席が台無しにしていた。説教壇から内部が見えず、大地主たちが博打にふけったという噂もうなずける。
おこなわれていたのは、生理的な嫌悪をもよおさせる行為で、その残酷さよりも実行者のあまりの癇性におぞけが出ました。発作にしても興奮のしすぎかもしれず、動物たちも本能的に感づいて避けているのかもしれず、碑銘は間違えられただけかもしれません――が、とてもそうは思えない暗合にまとわりつかれるような寒気を感じます。
「ブレナー提督の息子」ジョン・メトカーフ/西崎憲訳(Brenner's Boy,William John Metcalfe,1932)★★★★☆
――六十代半ばである退役軍人ウィンター准尉は、一等車両でブレナー提督に再会した。軍規に関してやかましかった提督も、小鬼のような息子には無力だった。提督は予備軍での昇進について約束してくれた。だがほんとうにあんなことは言ったのだろうか。ウィンターの家に一週間ほど息子を泊まらせるなどと――。
この作品が類話と大きく異なっているのは、朦朧法による効果も去ることながら、登場する子どもがクソガキだという点だったりするのではないでしょうか。怪異云々以前に、悪童である提督の息子がそのうち何か恐ろしいことをしでかすのではないかとという不安感が増幅されるのです。
「海辺の恐怖――一瞬の経験」ヒュー・ウォルポール/西崎憲訳(Seashore Macabre. A Moment's Experence,Sir Hugh Seymour Walpole,1933)★★★☆☆
――わたしは子供のころ、本当に邪悪な人間を見たことがある。老人とぶつかりそうになったわたしは、なぜか跡をつけはじめた。わたしは老人が邪悪であることを知っていた。小さな老人は家のなかに消えた。わたしはドアの把手を回し、なかを覗いてみた。
ある意味、ずるい。老人がどういったたぐいの邪悪な存在であり、どのように邪悪なところを見せつけてくれるのかと身構えていましたが、そんな覚悟をすかされるような、けれど間違いなく怖い出来事が待ち受けていました。
「釣りの話」H・R・ウェイクフィールド/西崎憲訳(A Fishing Story,Herbert Russel Wakefield,1935)★★★★☆
――メネル君は川岸を登った。ガイドの老マクブレインもそれに従った。友人のトラニオンは離れた淵のあたりでロッドを操っている。両岸に石柱が一つずつ立っていたが、二つを繋ぐものはない。「あの橋は崩落したのかい?」「脆くなって落ちたんです。死体は見つかりませんでした」「あの淵のあたりは好さそうだ」「あそこでは釣れません」
主人公たちの身に「もしかすると起こったかもしれないこと」を想像するのは容易いのですが、著者はことさらショッキングな描写は用いず、飽くまで平静な顔つきで筆を進めます。その結果、最後に至って、目の前にさっと影が差したような、正体のわからない、けれど捨て置きがたい不安に襲われるのです。
「不死鳥《フェニックス》」シルヴィア・タウンゼンド・ウォーナー/青木悦子訳(Foenix,Silvia Townsend Warner,1940)★★★★☆
――ストロベリー卿は鳥を集めていました。とうとうみずからアフリカへ行き、フェニックスを見つけ、健康なまま故国へ連れて帰ってきました。卿が亡くなったあと、フェニックスはいちばん高い値をつけたポルデロ氏のものになりました。けれどフェニックスはおとなしすぎるため、お客からは見向きもされません。
不死鳥の不死鳥たるゆえんは不死であるわけですから、たしかにその魅力が目に見えて伝わりづらいのも事実です。漠然と「神々しい」イメージを持っていた人間はそこでまず意表を突かれます。有限の生を持つ人間がではいかにしてその特性を目にするか――。死期ってそういうことなんですね。ここでも不死鳥は、ストレス等によって寿命を縮めるような、ふつうの生き物として描かれています。それでいながら、いよいよ伝説が甦る場面ではその伝説の凄まじさがスパークします。
「近頃蒐めたゴースト・ストーリー」ベネット・サーフ/西崎憲訳(The Curent Crop of Ghost Stories,Bennett Alfred Cerf,1944)★★★★☆
――窓から下を見ると、黒馬に牽かれた馬車が停車した。御者は彼女を指さし「もう、ひとり、のれる」と言った……。/その家には絞首刑にされた男の幽霊が出ると言われていました。ところが四十五分経っても新入生は戻ってきません……。/ドアから白髯の老人が現れる夢を何度も見た。あるとき夢で見たのとそっくりの家を見つけ、ドアからは白髯の老人が現れた……。/とても貧しい娘がパーティーに呼ばれ、質屋に行ってドレスを借りてきた。パーティーでは彼女が主役だった。だが不意に眩暈がし……。
これは今でいう怪談実話集ですね。全7エピソード。一話目や二話目にあるどこかで聞いたような話も端然としていて面白い一方で、六話目のドレスを借りたエピソードのようにどこかしら強引な話も新鮮で面白い。小説仕立てなので怪談実話が苦手なわたしのような人間にも楽しめました。
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