「アンドロギュヌス讃歌」ジョゼファン・ペラダン/倉智恒夫訳(L'Hymne à l'Androgyne,Joséphin Péladan)★★★☆☆
――かぼそくも細身の少年、来るべき力と去り行く優美さとが入り交じる。至高の性、第三の様態よ! 御身に栄光あれ! ほっそりした腕、ほのかな胸乳の処女。形態の頂点、精神の世界に抱懐しうる唯一なるものよ、御身に栄光あれ!
アンドロギュヌス=絶対的な性の完璧さをこれでもかと讃美した詩。
「かのオルフェウスもいうように」多田智満子 ★★★★☆
――ギリシア神話の片隅に、ヘルマフロディトスというものがある。男として生まれたヘルマフロディトスが両性具有になった次第を、オウィディウスは語っている。アフロディテとヘルメスとの間に生まれた美少年ヘルマフロディトスに、ニンフが激しく惹きつけられた。神々はニンフの願いを容れ、男女二人は一体になった。
『変身譚』で描かれている両性具有は「人間的完全の理想の表現」ではない点に着目しながら、〈両性具有の神〉をさまざまに探ってゆくエッセイ。
「アンドロギュノスについて」(『饗宴』より)プラトン/森進一訳(Ανδρ?γυνο?,Πλ?των)★★★☆☆
――人間というものの本来の姿を学ばねばなりません。昔の人間の性別は三種類あって、男性女性のほかに、両性をひとしくそなえた第三の種族がいた。
男男、女女、男女の三種類なのですね。男性原理主義の同性愛者が弁明しているような展開に……。先に思想ありきなので、天体のように丸い身体をしている。臍の説明をするために、切断面をお腹にせざるを得ず、そうなると外側が背中になってしまうので、もともとは顔は背中を向いていたというとんでもないことになっています。
「サンギュリエ城―妖精物語―」レミ・ド・グールモン/倉智恒夫訳(Le Château singulier,Rémy de Gourmont,1894)★★★★☆
――エラード王女とヴィタリスは優しさあふれる手紙を交わしていた。ヴィタリスは、王女を愛しているのだ! サンギュリエ城に向かって出発した。「わたくしを救ってください。女になりたいのです」「あなたは女性ではないのですか?」
これはアンドロギュヌスではなく、無性の女。肉欲を超越した理想の象徴です。が、その「理想」を青臭い理想として描いて、生のよろこびを描いています。
「ムーラデーヴァと性転換の秘薬」ソーマデーヴァ/上村勝彦訳(『屍鬼二十五話』より)★★★★☆
――ネパール国にシャシプラバーという王女がおりました。あるとき祭を見ている最中、一頭の象が走って来るではありませんか。マナハスヴァーミンというバラモン青年がそれを見て、王女を抱えて危険の圏外につれて行きました。二人は恋に落ちましたが、宮中には会いに行けません。そこで青年は魔術師ムーラデーヴァに頼みに行きました。
男から女、女から男への変身譚。恋の成就が目的だったはずなのに、途中から浮気に利用して、最後には公案小説みたいなことになっています。屍鬼が王様に語った話という設定の物語で、タイトルからすると二十五話のシリーズもののようです。
「両性具有」干宝/竹田晃訳(『捜神記』より)★★★☆☆
――「一人両性」天下に戦乱が起こるのは、男の陽気と女の陰気との混乱によるものであり、男女両性の奇形も生ずるわけである。「羽衣の人」任谷という男が畑仕事の途中ひと休みしていた。そこへ羽衣を着た男が現れて谷を犯して消えてしまった。その後、谷の腹が大きくなると羽衣の男が姿を見せ、下腹を切り開いて蛇の子を取り出して去った。
「一人両性」は両性具有を陰陽五行で説いたもの。「羽衣の人」は、両性具有という観点からは、男の妊娠が扱われています。
「狐」泉鏡花 ★★★★☆
――伝え聞く、天津の色男に何生と云うもの、二日ばかり邸を明けた新情人の許から、茫として帰ってきた。唯、夫人の居室の窓の下に、一人影暖かく佇んだ、少年の姿がある。と見る間もなく、件の美少年の姿は、飜然と窓の高い室へ入った。再び説く、其処が婦人の居室なのである。
中国の原拠を書き記しているという設定なので(解説によれば『耳食録』中の「胡好好」が原拠)、漢文書き下し調の文章がかっこいい。これも男⇔女の変身譚。まあ、タイトルでモロバレですが。
「魔術師」谷崎潤一郎 ★★★★★
――浅草の公園を鼻持ちならないと感ずる人に、あの公園を見せたなら果して何と云うであろう。「ねえあなた、今夜此れからあの公園へ言って見ようではありませんか」と、彼の女が突然、私の耳元で囁いたのです。「公園にいる魔術師は、余りに眩く美しくて、恋人を持つ身には、近寄らぬ方が安全だと云うのです。でも恋人のあなたと行くのなら、私も決して惑わされる筈はありません……」
谷崎というと生臭い感じが嫌だったのですが、これは乱歩風(逆か)の〈魔所〉浅草が描かれていて、乱歩好きなら必読ですね。両性具有というのは魔術師のことにも思えますが、語り手と恋人の結末をも指しているようにも思えます。
「奉教人の死」芥川龍之介 ★★★★☆
――去んぬる頃、長崎の「さんた・るちや」と申す「えけれしや」(寺院)に、「ろおれんぞ」と申す少年がござった。この「ろおれんぞ」は、顔かたちが玉のように清らかであった。その頃怪しげな噂が伝わったと申すは、傘張の娘が「ろおれんぞ」と親しゅうすると云う事じゃ。
しびれる文体。描かれているのは正確には両性具有ではないのですが、こんなふうに殉教とセットで描かれると、どこか性を超越した聖性も漂ってきます。
「異説蝶々夫人」日影丈吉 ★★★★☆
――巡査が連れて行かれたのは、鴉片窟であった。寝棚のひとつに、珍しく紅毛の客がひとり。しかも左の胸に鋭利な刃物が、ぐっさり突立てられて……被害者の身許はすぐ分った。ちかごろ話題にのぼった、横浜の蝶々夫人の二枚目。
自分は蝶を裏切ったわけではない――という夫の言葉が、本書のテーマとうまいぐあいにつながって、意外性が増していました。ハイカラ右京シリーズの一篇。
「ルツィドール」フーゴー・フォン・ホーフマンスタール/高橋英夫訳(Lucidor,Hugo von Hofmannsthal,1910)★★★★☆
――ムシュカ夫人は二人の子供について、全く間違った見方しか持てなかった。彼女の眼から見れば、アラベラは天使だったが、ルツィドールは無愛想な子供だった。実をいうと、アラベラは亡き父に生き写しだったのである。ところでここで、ルツィドールは若い男性ではなくむしろ少女であり、実はルツィーレという名前であったことを言っておきたい。
姉の恋人と日毎に愛をかわす、「こんな奇妙な事情でもなければ、(中略)無条件に献身する完美な魂は、おそらくあらわれることもなかったにちがいない」淫靡な物語。妹はもろもろの事情により男装しています。
「ヘルマフロディトス」アルベール・サマン/田中淳一訳(L'Hermaphrodite,Albert Samain)★★★☆☆
――色白の肌の上にいとしげにたゆたっている/灼けつくような異教の太陽こそ、いつの日か汝の黄金の泡から/この異形の子を誕生させたのだった、おお、余りに尖鋭な美よ!
「かのオルフェウスもいうように」にも登場した、両性具有の神を謳った詩です。
「女から男へ変る話」プリニウス/澁澤龍彦訳(『博物誌』より)★★★☆☆
――私が年代記のなかに見つけたところでは、カシヌムの町で、ひとりの娘が男の子になり、腸卜官の命により無人島に移された。
出ました怪物の宝庫(^_^)『博物誌』です。
「両性具有者エルキュリーヌ・バルバンの手記に寄せて」ミシェル・フーコー/浜名恵美訳(Michel Foucault)
「あるスキャンダル事件」オスカル・パニッツァ/種村季弘訳(Ein scandalöser Fall,Oskar Panizza,1893)★★★★☆
――「オオ、ムッシュー、恥カシイコトデス!」としゃくりあげるように第一修道女は声を上げた。「アンリエットとアレクシナの姿が見えません。いろんな噂が取沙汰されています」――少女たちがベッドでこんなふうに共寝をするのはよくあることなのですか?
実在した両性具有者エルキュリーヌ・バルバンについての評論と小説。修道院が舞台だと、言葉のあやではなくほんとうに悪魔のようでぞくぞくしました。同性愛の吸血鬼もののような、背徳と耽美!
「江戸の半陰陽」須永朝彦訳 ★★★★☆
――尾州米津村の百姓の娘そのという者の身に起こった事である。午四月初旬の頃より、頻りに陰門が痛み、日を経るにつれて張り出してきたが、五月に至り、陰門が次第に変じて、陽根・睾丸ともに備わる身となった。
江戸の随筆から両性具有ものを訳し下ろし。『梅翁随筆』では聞き違えとされている話が、『豊芥子日記』では事実のように語られているのが面白い。『梅翁随筆』では、事件について否定しつつも、だけど昔はそういうことも本当にあったんだ……というお馴染みのスタイルです。
「コントラルト」テオフィル・ゴーティエ/齋藤磯雄訳(Contralto,Theophile Gautier,1849)★★★★☆
――古美術館を訪ふ人は見る、/大理石《なめいし》づくりの臥床《ふしど》の上に/彫《ゑ》り刻まれた謎めく彫像/心を擾《みだ》すその美しさ。
齋藤磯雄の名訳詩。
「サラジーヌ」オノレ・ド・バルザック/野内良三訳(Sarrasine,Honoré de Balzac,1830)★★★★☆
――ザンビネッラが歌いだしたとき、サラジーヌは気も狂わんばかりになりました。サラジーヌは舞台の上に駆けあがり、その女を奪い取りたいと思いました。彼女はサラジーヌに思いいれたっぷりの視線をちらと送ってきました。その視線はまさしく一つの啓示でした。サラジーヌは愛されていたのです。
カストラートと知らず愛してしまう芸術家の悲劇。
「ロメーン・ブルックス――アンドロギュヌスに憑かれた世紀末――」澁澤龍彦 ★★★☆☆
――その「悲しめるウェヌス」という題名の、裸のバレリーナ、イダ・ルビンシュタインを描いた絵は、私に一種の衝撃をあたえた。この踊り子の肉体は、ほとんど中性的と言ってもよいほどの、平べったい胸と細長い手脚をした、痩せた女のそれだったからである。
Romaine Brooksの絵画における、「例によって例のごときアンドロギュヌスの幻影」。こういうのは論じられている作品ではなく、論じている本人の本音が出てるのでしょう。
「双面」円地文子
女形の話。
日本の古典文学史における両性具有の歴史。
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