『ハーリー・クィンの事件簿』アガサ・クリスティ/山田順子訳(創元推理文庫)★★★★★

『ハーリー・クィンの事件簿』アガサ・クリスティ山田順子訳(創元推理文庫

 『The Mysterious Mr Quin』Agatha Christie,1930年。

 2020年の新訳版。ハヤカワ版にはない序文(はじめに)が収録されています。クィン氏は「人間ばなれした存在ですが、生身の人間の行動、特に恋人たちに心を寄せるだけでなく、亡くなったひとの代弁者でもあります」といったように、著者自身によるクィン氏とサタスウェイト評があるのはありがたい。著者のお気に入りの作品は「世界の果て」「海から来た男」「ハーリクィンの小径」とのこと。
 

「ミスター・クィン、登場」(The Coming of Mr Quin,1924)★★★★★
 ――大晦日の夜。イーヴシャム家のパーティが開かれていた。サタスウェイトは六十二歳、最前列の観客席にすわって、眼前の人間性豊かなドラマを眺めてきた人生といえる。いま関心を寄せているのはポータル夫妻だ。夫のアレックスは健全で善良な英国人。しかし妻のエレノアは違う。オーストラリア人だ。ドアをノックする音が響いた。背の高い痩身の男が立っていた。「車が故障してしまいまして――」「それは大変だ。この辺りにはよくこられるのですかな」「以前に来たことがあります。当時はケイパムというひとが住んでいました」「驚くべき出来事でした。夕食の席では将来の計画をいくつも語って意気軒昂たるものだった。それがふと席を立って二階に行き、拳銃で頭を撃つなんて」

 至るところで芝居・ドラマになぞらえられている作品で、この新訳では「きっかけ《キュー》」と訳されて、よりドラマらしさが強まっていました。何度読んでも「なぜ彼女は髪を(金髪から黒髪に)染めているのか?」という謎が魅力的で、こういう噂話的な謎の作り方はクリスティの真骨頂です。改めて読んでみるとクリスティ得意の回想の殺人ものでもあり、クィン氏は埋もれた記憶を呼び戻すきっかけとなる役割を担っています。そうして呼び起こされる(郵便配達や行方不明の犬といった)断片的な記憶というのが、そのままばらばらの手がかりや伏線そのものにもなっているのは構成の巧さでしょう。
 

「ガラスに映る影」(The Shadow on the Glass,1924)★★★☆☆
 ――レディ・シンシアは新聞を読みあげた。「『アンカートン夫妻はパーティを開催。招待客はリチャード・スコット夫妻、ミセス・スタヴァートン……』あのふたりを招くなんて! かつてあのふたりは――」「で、おくさんはなにも知らない?」サタスウェイトはたずねた。「それは確かよ」。そこに当のスコット夫妻が現れた。「さあ、おすわりなさいな。サタスウェイトが幽霊譚をしてくださるわ」この屋敷には、妻とその愛人に殺された騎士の〈みつめる幽霊〉の言い伝えがあり、四十年前にはその窓をふさいでしまったという。そのあとサタスウェイトはポーター少佐と件の窓を見に行った。翌朝も少佐と散歩しながら、例の窓を眺める。顔が見えた。前よりもくっきりと。そのとき二発の銃声がした。モイラ・スコットとアレンソン大尉が倒れており、ミセス・スタヴァートンが拳銃を手にしていた。「拾ったの」

 誰と誰が恋愛感情を抱き、誰が嫉妬しているのか――。それが解きほぐされたとき、幽霊の謎と殺人事件の謎が明らかになります。冒頭で高らかに唱えられる懸念がミスディレクションとして活きているため、単純な事実にも気づきづらくなっていました。二発目の銃を撃つことにより、二人が密着していたことが隠蔽され、動機の面から容疑圏外に出られるという咄嗟の判断は、嫉妬に狂った犯人の悪魔的瞬発力でした。
 

「鈴と道化服亭にて」(At the 'Bells and Motley',1925)★★★★★
 ――サタスウェイトはいらだっていた。またもやタイヤがパンクし、動けなくなってしまった。「宿屋《イン》があるようだね」「へえ、鈴と道化服亭ってのがありやす」修理工はいった。美食家といえど、空腹に耐えかねる場合もある。鈴と道化服亭にはあの忘れがたいクィンがいた。稲妻が光り、雷鳴が轟いた。「そういえば、こんな夜に――」ミス・ルコートとの新婚旅行から帰宅した翌日、庭を歩いているのを園丁に目撃されたのを最後に、リチャード・ハーウェル大尉の姿はふっつりと消えてしまった。あの悲劇のあと、ミス・ルコート、いやミセス・ハーウェルは屋敷を売りに出したのだった。大尉が財産目当ての詐欺師だという疑惑も否定され、解雇された馬丁のスティーヴン・グラントが大尉を殺したという証拠もなかった。

 「時間がたてばたつほど、いろいろな物事を、冷静に見きわめることができるようになるものです」というクィン氏の言葉をさらに推し進めて、失踪事件が百年前に起こったと想像して、現在の百年後から事件を振り返ってみるという、アクロバティックな視点にぞくぞくしました。この視点によって夾雑物を突き抜けて「現在は○○という時代」だと本質を見通せるところは、出来すぎといえば出来すぎですが、やはり見事というほかありません。若者と中年の一人二役はさすがに無理があるとは思うものの、これだけの構図の前では些細なことでしょう。
 

「空に描かれたしるし」(The Sign in the Sky,1925)★★★★☆
 ――被告人マーティン・ワイルドは殺害されたヴィヴィアン・バーナビーの屋敷に行ったことを当初は否定していた。置き忘れたと主張する被告人の猟銃が凶器だった。帰宅するのに三十分もかかっていた。陪審員たちの評決は有罪だった。若い被害者の老齢の夫サー・ジョージ・バーナビーはサタスウェイトの知己であった。レストランに入ったサタスウェイトは先客に気づいた。「ミスター・クィンじゃありませんか!」サタスウェイトはクィンに導かれるようにして事件のことを話していた。レディ・バーナビーは年配の夫との結婚に絶望し、若いワイルドこそが唯一の逃げ道だった。ところがワイルドに新しい恋人ができたのです。新しい恋人にはアリバイがありました。汽車で来る友人を待っていたのです。召使いたちが銃声を聞いています。メイドの一人はカナダに行ったため、裁判では証言していません。

 神の手であり神の目であったものは、文字通りの神の御しるしでした。幻想的で象徴的な出来事のように思われたものを、現実の、それもアリバイという即物的なものに変換する手順が、クィン氏ものならではだと思います。サタスウェイトは証言を求めてわざわざカナダにまで足を運びます。素人捜査じみたのはあまりクィン氏ものらしくないなあと思っていたところに重要な証言があるので落差にやられました。サタスウェイトは人間観察に秀でているという設定ですが、それだけに経験に基づいた型に嵌める傾向があるのでしょう、頭が鈍いと思われたワイルドの新しい恋人シルヴィアのような若者のことは読み切れなかったというのがいいエピソードです。自分で口にしておきながらカナダ行きを散々渋っていたサタスウェイトに対し、あっさりと行動的な手段で問題を解決してしまうのが対照的でした。
 

「クルピエの真情」(The Soul of the Croupier,1926)★★★☆☆
 ――サタスウェイトは“人生というドラマ”の研究者なのだが、いまのモンテカルロには失望していた。いろいろな事物に合わせて変化するには歳をとりすぎてしまった。そのとき、ツァルノーヴァ伯爵夫人がやってきた。連れは若い男だ。フランクリン・ラッジというアメリカ中西部人。――若い道化だな。気がかりなのは、アメリカ人グループにいる若い娘が、ふたりの仲をこころよく思っていないことだ。伯爵夫人はボヘミア王の愛人で、真珠のネックレスを下賜されたというのが、通説として広まっていた。その夜、伯爵夫人は周囲には目もくれずルーレット台に向かっていった。サタスウェイトは5に賭けた。伯爵夫人は6に賭けた。カチリ! クルピエが玉の位置を確認する。「5、赤」。サタスウェイトと伯爵夫人が賭け金に手をのばした。クルピエはふたりの顔を見て、「マダムに」と宣言した。

 恋愛問題の解決こそされているものの、一般的な意味でのミステリではありません。クィン氏の不思議な力によって関係者が一堂に会することで、止まっていた時間ともつれていた男女関係がほどけて動き出す恋愛奇譚です。サタスウェイトが気にしていたのは若い男女の恋愛模様でしたが、恋愛関係に分け隔てないのがクィンという存在なのでしょう。そうは言っても年配の二人の方はこじらせすぎで、むしろ年配者の方が恋愛未満の意地の張り合いみたいになっていました。サタスウェイトが観察者に飽き足らずドラマに加わりたくなっていることが、クィンとサタスウェイト自他共に認められていました。
 

「海から来た男」(The Man from the Sea,1929)★★★★☆
 ――サタスウェイトは六十九歳だった。本人の観点では決して老人ではない。人生経験がようやくものをいう年齢。しかし老いを感じるということはまたべつの話だ。サタスウェイトはホテルを出て歩きつづけた。曲がりくねった道が崖のてっぺんまでつづいていて、〈ラ・ヴィラ〉という名の家が建っている。ふりかえると、若い男が驚きと失望の表情を浮かべていた。確かに“若い”がおそらく五十に手が届く年齢だろう。「失礼しました。どなたかいらっしゃるとは思わなかったもので」「ひとけのない場所ですからね」「昨夜も誰かいましたが」。男はどうやら自殺に来たらしい。専門医によれば、余命六カ月。男はひとまずホテルに戻った。サタスウェイトはヴィラに目をやる。誰が住んでいるのだろう。窓の向こうに女性が立っていた。失礼を詫びて立ち去ろうとしたが、話相手がほしかったという女の言葉に甘えた。「あなたのような傍観者であるという人生は、わたしには想像できません」「そうでしょうね、あなたは舞台の中央に立っている。悲劇もあったでしょうね」

 連載順では最後の掲載だそうです。それもあってか、クィンはこれまで以上に直接的には関わりません。前夜に崖の上に姿を見せたということが間接的に語られるだけで、サタスウェイトとはすべてが終わるまで会うこともありません。クィンは完全に合図《キュー》としての存在となり、ヒントらしい言葉が仄めかされることすらありません。もちろんクィンが前夜に現れたからこそ男の命は先延ばしされ、サタスウェイトが男女の危機を救う余地があったわけですが。構図的にはベタな“待っている女”なのですが、男も女もお互いの存在すら知らずに諦めきっているため、一見すると別々の出来事のように見えるものが、サタスウェイトによって一つに結ばれます。生者の問題はサタスウェイトに任せて、クィンは死者の代弁者という完全に超常的な存在となっていました。
 

「闇のなかの声」(The Voice in the Dark,1926)★★★★☆
 ――レディ・ストランリーはため息をついた。「マージェリーが幽霊を見たり聞いたりするらしいの。あなた、明日は英国にお帰りになるんでしょ?」。英国行き特別急行列車の中で、サタスウェイトはクィンの顔を見つけた。「わたしも英国で果たすべき任務のようなものがあるんですよ。レディ・ストランリーをごぞんじでしょう? 女系で受け継がれている旧家で、女男爵の称号をもっています。男爵姉妹のことは子どものころから知っていますが、姉のベアトリスは海難事故で溺れて亡くなりました。それ以降、妹のバーバラは自分のことだけにかまけて生きてきました。その娘さんに会いに行くところです」。マージェリーは二カ月前から寝室のささやき声に悩まされていたが、隣の部屋にいるメイドのクレイトンには何も聞こえなかった。ところが昨夜、尖ったものがくび筋に押しつけられ、暗闇のなか、悲鳴で目を覚ましたクレイトンのわきをかすめていった。

 三作ぶりにトリッキーなミステリに戻りました。連載順では「世界の果て」の次の作品であるため、クィンとサタスウェイトはコルシカ島以来の再会とされています。クィンやサタスウェイトが関わったあとで人が死んでいることにショックを感じましたが、真相がわかってみれば、結末も含めてこれが一番よかったのでしょう。「わたしはその人々のことを知りませんが、あなたは知っているのですから」「男爵姉妹のことなは四十年前から知っています」というクィンとサタスウェイトのやり取りが、サタスウェイトの人生経験を指したり役者はサタスウェイトだと諭す類のこれまでのような意味ではなく、文字通り関係者を知っている者でなければ解けない事件だという意味であったことに啞然としました。ミステリとしては初歩中の初歩とも言えますが、それでもやはりサタスウェイトが真相に気づくきっかけはぞくぞくとしました。
 

ヘレネの顔」(The Face of Helen,1927)★★★★☆
 ――サタスウェイトはオペラハウスでクィンに出会い、ボックス席に招待した。第一幕が終わると拍手喝采が起こった。「ヨシュビンは本物ですよ。カルーソーと同じぐらいすばらしい声です」そう言ってからサタスウェイトは真下の席にいる女性の顔を見て息を呑んだ。かつて世界にはこういった歴史を変えた顔があった。「不思議に思っていました。トロイアヘレネ、エジプトのクレオパトラといった女性は、ほんとうはどんなひとたちだったのかと」「ロビーに出ればわかるかもしれませんよ」。ロビーではよくある三角関係が繰り広げられていた。外に出ると男のひとりが別の男を殴りつけた。「行きましょう。騒ぎに巻きこまれます」サタスウェイトは女にいった。「フィルはむかしからの友人で、音楽好きで今夜のオペラにも誘ってくれたんです。それなのに、ミスター・バーンズが声をかけてきたら、気を悪くしてしまって」。話をするうちサタスウェイトは確信した――この娘ジリアン・ウェストはチャーリー・バーンズを愛している……。木曜日にお茶に呼ばれると、ジリアンがいった。「チャーリーと婚約したことをフィルにいうのは怖かったんです。でも誤解していました。結婚祝いも送られてきたんです」最新型ラジオだった。

 これまで「ヘレン」とそのまま英語読みされていた女性名が、ちゃんと「ヘレネ」と訳されています。クィンは事件が起こる前から予期していたようなヒントを投げかけていますが、自然な会話のなかなのでその時点ではまさかヒントだとは気づきません。それよりも、再読してみてフィルとの会話の内容があまりにも露骨なことに驚きました。現代ではさすがに美貌が国を動かすところまではいきませんし、むしろトロイアヘレネにその美貌をなぞらえられた女性がオペラ歌手としては二流だという事実が、翻って「もし彼女(=ヘレネ)がごく平凡な、気のいい女だったとすれば」というところにも繫がっているように、誰もが一個の女性というところに帰着していました。
 

「死せる道化師」(The Dead Harlequin,1929)★★★★★
 ――サタスウェイトはブリストウという画家の個展で、『死せる道化師』という題の絵に魅入られ、その場で購入した。白と黒の市松模様の床に倒れた道化師を、窓からその道化師が見つめている構図の絵だ。サタスウェイトはその場所を知っていた。チャーンリー家のテラスルームだ。これまでの経験からいって、必ずや重要な意味がある。サタスウェイトはブリストウを家に招待した。十四年前、チャーンリー家の惨劇に居合わせたモンクトン大佐も同席した。チャールズ一世の幽霊とすすり泣く貴婦人の幽霊が出ると言われたその家で、継承者が四人も暴力的な死を遂げ、当代のチャーンリーは自殺していた。新婚祝いの仮面舞踏会に客が集まり出したころ、樫の間に閉じこもって自分を撃ったのだ。動機は見つからなかった。三人で自殺の真相について議論をしている最中、女優のアスパシア・グレンが、『死せる道化師』を買いたいと訪れた。サタスウェイトは口実を設けて断り、チャーンリーの未亡人も呼び寄せた。

 悲劇によって死んだようになった未亡人という至極ありそうな設定と、イギリス伝統の幽霊屋敷を結びつけて、犯人を堂々と隠しているのには舌を巻きました。幽霊屋敷に関してはチャールズ一世を隠れ穴に匿っていたという言い伝えもしっかりと伏線になっていました。四人が暴力的な死に見舞われていたというのも単なる雰囲気作りではなく、本当によく考え抜かれた作品です。犯人によって用意された「ミスター・クィン、登場」と同じ構図が、『死せる道化師』によって崩壊してゆくのですが、そのブリストウが『死せる道化師』の絵を描いたことで真相が暴かれるきっかけになるのは、偶然でなければ超常的としか言えず、ますますクィンの存在が謎めいて来ます。
 

「翼の折れた鳥」(The Bird with the Broken Wing,1930)★★★☆☆
 ――サタスウェイトは数学者デイヴィッド・キーリーのひとり娘マッジからライデル屋敷に招待された。マッジはいつにもまして元気で、どうやら運命のひとが現れたらしい。マッジの横にすわっているのがその男ロジャー・グレアムだろう。ロジャーの隣は――美人というのではなく、とらえどころのないなにかをもっている女性。半分しか人間ではないような、丘から出てきた妖精のような。半分だけの人間。翼の折れた鳥。メイベルは非運な一族の出だった。晩餐のあと、メイベルがテラスルームでウクレレをひきながら歌っていた。「今夜は魔法でいっぱい。そう思いません?」「そうですな」「黄昏どきに森で背が高くて浅黒い、人間ばなれしたようなかたと会いました」「どうやら知人のようだ」サタスウェイトはぎこちなく話しだした。「不幸なときには、ひとは逃げ出したくなるものです」「あら、その反対。わたしは幸福なのでひとりになりたかったんです」。翌朝、メイベルがくびをくくった状態で見つかった。

 不思議な魅力を持った女性の正体が、幻想的ではなくごく普通の現代っ子だというのは、ミステリ的な驚きとは別の意外性がありました。サタスウェイトが関わったあとで人が死んでいるのは「闇のなかの声」同様ですが、因果応報だったあちらとは違ってちょっとショッキングです。「人間にとって、死とは絶対的に悪しきものでしょうか」と事件後にクィンに言わせていますが、さすがに言い訳めいていて、人間関係【※三角関係】の都合上、退場してもらわないと丸く収まらないという作劇上の都合にも思えます。何の伏線もなければ深みも恐怖もない唐突な犯人のサイコパス設定には呆気に取られました。『翻訳ミステリー大賞シンジケート』川出正樹氏の 2010-02-16()の記事によると、「同時期にアメリカ人作家が書いた某有名作品の犯人と同じ実在の人物をモデルとしているに違いありません」とあり、『僧正殺人事件』とアインシュタインを指しているように思えますが、『僧正』はともかく本作の犯人にアインシュタインらしさは感じません。当時の人間にとって、アインシュタインサイコパスという印象だったのでしょうか? よくわかりません。犯人像が安易すぎてそのほかのことがまるで記憶に残りませんでした。「ガラスに映る影」のウィンクフィールド警部が再登場しています。
 

「世界の果て」(The World's End,1926)★★★★☆
 ――サタスウェイトは公爵夫人とコルシカ島に来た。画家のナオミ・カールトン・スミスも来ていた。「こんな絵はさっぱりわからないわ」公爵夫人はいったが、サタスウェイトには技術の完璧さがよくわかった。公爵夫人の提案で出かけることになったが、ナオミの車はふたり乗りだったため、インド人判事トムリンスンの車に同乗させてもらうことにした。サタスウェイトはナオミの車に乗りたがったが断られた。「あっちの車のほうが快適ですよ」「ではまたいつか」「ええ、またいつか!」ナオミはいきなり笑いだした。崖の手前で一行は車を停めた。コテージが五、六軒ある。「着いたわ。あたしは〈世界の果て〉と呼んでるの」ナオミがいう。サタスウェイトは海を眺めているクィンに気づき、ナオミに紹介した。「恐ろしい」「ミスター・クィンが?」「あのひとの目が恐ろしいの」。コテージのはずれの食堂に入ると先客がいた。演出家のヴァイスと大女優ロジーナとその最新の夫だった。「ねえキャビアはどこ?」「そこに置いたじゃないか。真珠のときもそうだ……」「真珠は見つかったけれど、オパールは……」そこでロジーナの盗まれたオパールの話になった。

 真相がわかっても相手に憎しみを向けるのではなく救われた喜びに浸るのが偉いと思います。仮にそれが取り返しのつかないことであったなら『鏡は横にひび割れて』になっていたのかもしれません。クィンはおろかサタスウェイトすらあからさまな探偵役ではなく、パスを送るサポート役に徹しています。探偵役がいるとロジーナが悪者になってしまうというストーリー上の都合もあるのでしょうが、サタスウェイトも特別な役割ではなく飽くまで一登場人物という役割になることで、ドラマそのものにスポットが当たっているように思います。
 

「ハーリクィンの小径」(Harlequin's Lane,1927)★★★★★
 ――デンマン夫妻は社交界に属してもいなければ芸術家と親交があるわけでもない。それでもサタスウェイトはデンマン家に滞在していた。家具類は上質だが、ひとつだけシナの漆塗りの衝立だけは、英国そのものという部屋にはまったくそぐわなかった。庭から外に出ると、ハーリクィン・レーンという小径で、クィンと再会した。「わたしの小径です」「そうだと思いました。地元では〈恋人たちの小径〉とも呼ばれているそうです」小径の果てはゴミ捨て場だった。そのとき、ひょっこり若い女が現れた。モリー・スタンウェルだ。「夫妻が無言劇のリハーサルから帰ってきましたよ。あたしもピエレッタで参加するんです」。セルゲイ・オラノフとダンサーたちが事故を起こして踊れなくなったため、アンナ・デンマンがコロンビーヌを踊り、ハーリー・クィンがハーリクィンを踊ることになった。「わたしもかつてはプロだったんですよ」アンナはオラノフと見つめあった。

 不釣り合いな家具という謎めいた小道具が、愛する人と一緒になるために愛するものを捨てた代償の記憶として配置されていて、感傷的ながらも効果的です。さらにはサタスウェイトがクィンと出会えたのも、あることの代償だったことがわかります。主役にはなり得ない人間だからこそ物事を見通せてきたいわば傍目八目のような存在だったというのは残酷です。「翼の折れた鳥」では犯人像が突拍子もなさ過ぎたこともあってよく理解できなかったテーマが、ここで再演されてもいました。愛する人、愛してくれる人、愛するもの、すべて同時に手に入れることが出来ないとしたら、そうしたことが出来るのは「それ」のみなのでしょう。

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