『『赤と黒』の解剖学』松原雅典(朝日選書447)★★★★☆

 従来はリアリズム文学とされたきた『赤と黒』を、「本歌取り」「古典との響き合い」「パロディ」という視点で読み解こうとした作品です。

 プロローグで「テキストそのものを直接、細かく比較検討する」と書かれてあるとおり、本書に書かれていることの一つは、本歌とされるテキストと『赤と黒』のテキストの符合を論じた「考証的な」部分です。そしてもう一つ、その事実をもとに快刀乱麻を断つ「読みやすい」部分に大別されます。

 「読みやすい」部分については、著者自身「読みやすいものにするよう心掛けた」というとおり、「謎−真相」という形を取っているために食いつきやすいし「真相」が明らかにされたときの霧が晴れたような爽快感を味わえました。

 たとえばジュリヤン・ソレルが初めて家庭教師に向かう場面。涙の跡を見せるジュリヤンの描写は、どう見ても幼い子どもなのに、実際には十九歳です。しかも泣いたのは昨夜のはずなのに……! こうしたおかしな設定を解く鍵は、『フィガロの結婚』にありました。

 あるいは剣を抜いたジュリヤンに向かって近寄っていくマチルダ「かっかとしている青年が剣を振り回そうとしているのに、相手の娘が逃げもせず、逆に近づいてゆくのである」。言われてみると変な場面ですが、著者はそれを「要するにお芝居なのである」と断じ、スタンダールの芝居っ気、それも「女に向かって剣を振り上げるシーン」好き、を引用します。

 それから第2部第36章の手紙。「イアゴーほど悪意はないつもりだが、私もイアゴーと同じように言おうと思う。From this time forth I never will speak word.(いまから先おれはひとことも口をきかんぞ)」。なぜここでイアゴーなのか。イアゴーとは違いその後も口を聞いているジュリヤンが、なぜここでこのような手紙を書いたのか。その謎を、レーナル夫人襲撃に見るジュリヤンの理解不能な行動と重ねることで、一つの解釈が導き出されます。

 第2部第34章で「これで俺の小説も終わった」と言うジュリヤン。なぜ小説のこんな途中で? 答えはナポレオンでした。

 ときに「性格的に矛盾している」と評されるジュリヤンですが、著者はテクストを丁寧に読んで疑問をあぶり出し、「本歌取り」の観点からテクストを丁寧に検討することでその疑問に解答を与え、ジュリアンの複雑な性格が「古典の多様な人物像を一人の主人公に担わせたことに由来する」ことを明らかにしています。
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