読んでみたいと思わせるのがやはり書評家の力というものであって、だから普段自分が手に取らないような本の紹介にこそ、著者の魅力が詰まっているというべきでしょう。
句に詠まれた「スカアト」が如何なるものであるのかを執拗に追求する山本健吉『俳句の世界』のユーモア、『日本国語大辞典』にも載っていない言葉を収録した『婦人家庭百科辞典』、細かな言葉のテクニックをピンセットでつまむように作家の魅力を見定めた中条省平『文章読本』……。どれもこれも切り口がうまい。
サドマゾのサドの方は澁澤ら多数の愛好者のおかげで今も現役だけど、マゾッホの方はといえば恥ずかしながらただの「マゾの語源の人」であって今読む価値なんてないと思っていた。ひょうひょうとした天上のユーモアとでも言うべき晩年の犀星は大好きだったけれど、こんな性的な人だったとは。『智恵子抄』の気持ち悪さに引きまくったわたしとしては、ますます高村光太郎にドン引きしてしまったのだが。
キケロの訳註に窪田空穂や藤原実定を引いた中務哲郎を紹介し、久保田万太郎の句の註釈に西脇順三郎の詩を引いた篠田一士の博覧強記に感嘆する著者であるが、そういう著者自身の教養だって、とてもじゃないが常人にはないとてつもないものがある。
「萩原朔太郎が途方に暮れた。なんて退屈なんだ、一葉の歌ってやつは!」。朔太郎の短歌評から始まる樋口一葉短歌集評。これは興味を引かれずにはいられない。ほかならぬ朔太郎が、つまらないと評した、ほかならぬ一葉の歌。その四千首あまりの歌から選んだ選者が、ほかならぬ佐佐木信綱。この組み合わせだけでもお腹一杯だ。
あるいは。増田みず子の小説を批判してなんと代案を記してしまった大西巨人の文章を引き、そこから「いかにも大西巨人らしい」「リアルな書き込み」だという魅力を伝える。何しろ増田みず子の文章と大西巨人の文章が並べられているのだから、説得力がある。ああなるほど、これが大西巨人らしさなのか、と。
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