『怪異十三』三津田信三編(原書房)★★★★☆

『怪異十三』三津田信三編(原書房

 東西の怪奇小説十三篇に編者自身の単行本未収録作を加えたもの。四つの採録基準(一、編者自身がぞっとしたもの。二、有名作以外。三、入手困難作。四、国内7&海外6&編者書き下ろし)を満たせずに、著名作も含まれ編者作品は既発表作となっています。
 

「死神」南部修太郎(1920)★★★☆☆
 ――辻車引だった私は、脚気が急に起こってとうとう歩くのさえ不自由になりました。無論溜置きがあろう筈もなく、頼りにする身寄りもありません。親方への借金もとうとう断わられてしまいました。坂を上っている時でした。丘の蔭からひょいと飛び出て来た人影があります。若い女ですね。何時の間にか、桜の木の枝にたっていました……。

 どん底の負け犬がさらにドツボにはまる――というよりも、精神的にもはや生きる気力など消え果ててしまっているのでしょう、何をしても何を見ても死を感じる運命だったようです。作品そのものがそういった暗い感情に支配されているので、精神的に弱っているときには読みたくありませんね。
 

「妖異編 二 寺町の竹藪」岡本綺堂(1924)★★★★☆
 ――その頃まだ十一のおなほちやんが近所の娘たちと往来で遊んでゐると、一人があらと叫んだ。「お兼ちやん。どこへ行つてゐたの。」「あたし、もうおみんなと遊ばないのよ。」お兼は悲しさうな顔をして消えるやうに立去つてしまつた。夜になつてお父さんが湯屋から帰つて来た。「お兼ちやんが見えなくなつたさうだ。」

 岡本綺堂の怪談は、皮肉なことにその文章や作品の端正さから、怖いというより「安心できる」「心地よい」と感じてしまいます。この作品の場合は「哀れ」でもあるでしょうか。「あたし、もうみんなと遊ばないのよ」の時点で何が起こっているのか読者には明白なのですが、はじめはあまりにも理不尽な悲劇として描かれ最後には哀れな悲劇として描かれる、被害者と加害者の双方に注がれた視線が印象的です。
 

「竈の中の顔」田中貢太郎(1934)★★★★☆
 ――三左衛門は温泉宿《ゆやど》を訪れるようになった僧と碁を打つのが楽しみになった。「あんなお坊さんが、このあたりにおったか、なあ」主翁《ていしゅ》が言った。「山の中に怪しいお坊さんがいて、そのことを云う者があると生命を奪られると、そんな噂をする者がありますよ」「怪しい坊主でも碁が上手なら良い」あるとき三左衛門は散策中に僧の庵を見つけて訪れた。

 定番中の定番で、ある種の江戸怪談のような因果も断たれた理不尽な恐怖が襲います。タイトルにもなっている竈の中の顔が何の予兆もなく現れる場面では、突然すぎて怖いというよりむしろユーモラスにさえ感じたので、まったくの不意打ちでした。
 

「逗子物語」橘外男(1937)★★★☆☆
 ――妻が亡ったばかりの頃、厭世的になっていた私は、逗子の山寺の石段を上って墓地を分け入り断崖の上に腰を降ろして海や墓を眺めていた。ふと声がするので十二、三の美しい少年と、二十五、六の女中と、木綿縞を着た老爺が、由あり気に話をしていた。肺病で死んだピアニスト日野涼子の息子だという話だったが、よくよく聞くとその息子たちも去年の今頃にもう亡っているという。

 これも定番ですが、怪談として読むとやはり長すぎると感じてしまいます。とはいえ語り手が恐怖を重ねた末だからこそジェントル・ゴースト・ストーリーとしての余韻が深まるのも事実です。
 

「佐門谷」丘美丈二郎(1951)★★★★☆
 ――私が駅に降りたのは真夜中の十二時だった。迎えもない。駅長によれば、佐門谷を夜に越える者はいないという。佐門なる馬喰と器量よしの娘が殺されてから佐門谷と呼ばれるようになったその谷の道では、もう二十人も人死があった。四五日前にもあったばかりで、やれ心中だやれ死んだのは別の男だのと噂になっているという。それでもようやく来た迎えの馬車に乗っているうち、ついうつらうつら始めていた。

 谷に落ちた死者の幽霊が現場に出て来る……そんなありきたりの怪談なのにぞっとするのは、文字通り生身の怖さがあるからでしょうか。ごくごく普通の人物が一変して恐ろしい顔を見せるのは、信頼や安心を裏切られるからだと思います。編者も書いているように、どういう説明がつくかわからないまま読むのが理想です。著者がマイナーなおかげでどういう作家なのかわからないまま読めたのはラッキーでした。
 

「蟇」宇江敏勝(1972)★★★★☆
 ――昔、とある山深いところで、二人の男が炭を焼いて暮らしていた。初夏のある夕暮れのことである。年かさのほうの男が小屋で食事をはじめていた。ふと窓がばたんと開く音がして、見知らぬ男の顔があった。「いま、この先へ、ええ声で鳴く蟇を吊っておいたよ」とにやりと嘲るような笑いを浮かべて、消えうせた。

 ぞっとするという点では本書中でもピカイチでした。男の正体は死神や妖怪のようなものだと考えるのが妥当でしょうが、あるいは猟奇殺人犯であるのかもしれません。しかしながらそんなことよりも、ただただ意味もなく死だけが目の前に放り投げられるおぞましさがいつまでも尾を引きます。
 

「茂助に関わる談合」菊地秀行(2001)★★★★☆
 ――甚左衛門の家へ甥の喜三郎がやって来た。「こんな時刻にどうした」返事は奇妙なものであった。半月ほど前に世話した若党の茂助のことを尋ね、「あれは、人間《ひと》ではござらん」と告げた。詳しく話を聞いた甚左衛門は表情を変えた。そのとき今度は喜三郎の妻おねいの訪問が告げられた。奥座敷に通したが、おねいは口をつぐんだままだ。

 本書のなかでは新しめの作品ですが、そうはいっても十年以上前の作品なので親本の『幽剣抄』も紙版は品切れなのですね。見知っているはずの人間がどこかおかしいというのには得も言われぬ不気味さがあります。茂助の話をしに来たはずなのに、まずは話しに来た当人たちに対して恐怖を感じさせるという構成が巧みです。だからこそそれをひっくり返すように茂助のことに立ち戻る展開の恐怖が生きています。怪談の定石に従えば喜三郎たちはすでに死んでいるのでしょう。短い作品だからこそ、その絶体絶命の数行には凄みがありました。
 

「ねじけジャネット」ロバート・ルイス・スティーヴンスン/河田智雄(Thrown Janet,Robert Louis Balfour Stevenson,1881)★★★★☆
 ――バルウィアリーの牧師をしているサウリス師は、まだ若かった五十年前、牧師館を切り回してくれる婦人が必要だった。だがジャネットという年輩の女は、兵士と関係して子供をもうけ、もう三十年も聖餐にあずからず、一人でぶつぶつ言っているのを目撃されていた。ジャネットがやとわれるという噂が広まると、腹を立てた女たちはジャネットを非難し取っ組み合いになった。次の日からジャネットの首はねじけていた。

 田舎者による変わり者いじめみたいだった話が、そのいじめを契機に突如として悪魔憑きの話になります。後年の『エクソシスト』を思わせる首のねじれたジャネットや、(当時に於ける黒人の姿とはいえ)人間の姿を取った悪魔など、古い作品とは思えないほど洗練された恐ろしさがありました。
 

「笛吹かば現れん」モンタギュウ・ロウズ・ジェイムズ/紀田順一郎(Oh Whistle, and I'll come to you My Lad,Montague Rhodes James1903)★★★☆☆
 ――パーキンズ教授が友人とゴルフ旅行に出かけた折、聖堂騎士団の遺跡で金属製の笛を見つけた。ラテン語で何か刻まれている。試しに吹いてみると、いきなり風が吹き出した。その夜、パーキンズは幻覚のようなものを見た。砂浜を誰かが何かから逃げている。

 これも定番です。以前に伊藤欣二訳(→リンク)で読んだことがありますが、紀田訳の「亜麻布のような顔」よりも旧訳の「シーツのような顔」の方が断然怖い。原文では「linen」ですね。
 

「八番目の明かり」ロイ・ヴィカーズ/中野康司訳(The Eighth Lamp,Roy Vickers,1916)★★★☆☆
 ――八番目の明かりが消えた。遠くから電車が近づいてくるかすかな響きが聞こえた。終電車を見送ったばかりだ。信号係に予告もなしに電車が来るなんてありえない。明かりのついていない電車が下り方向のトンネルへと呑みこまれていった。ラウールは悪夢でも見ているような気持ちで入口に鍵をかけ、ジニーの待っているアパートへ向かった。

 通らないはずの電車――終電のあとにもう一台電車が通るという、怖いというより魅力的な謎のような出来事ですが、一つずつ明かりを消して最後の八番目を消すと暗くなるという暗闇の恐怖が描かれています。主人公はなぜそれほど恐れるのか――同棲相手のエピソードと併せてすべてが腑に落ちる真相は、ミステリ作家ならではでしょうか。
 

アメリカからきた紳士」マイクル・アレン/宇野利泰訳(The Gentleman from America,Michael Arlen,1924)★★★★☆
 ――アメリカ人らしく精悍なピュース氏は、キリアー卿たちの賭けに乗った。幽霊が出るという邸で一晩過ごせばよい。ピュース氏は拳銃をテーブルにおいてから、眠ってしまわぬように『少年少女のための怪談集』を読み始めた。開いたページは「お化けの足音」という物語だった――夜中に物音がしたのでジュリアは階下に降りていった。階下でにぶい音がしたのは、ジュリアがスリッパを落としたからだとジェラルディンは考えることにした……。

 ジュリアとジェラルディン姉妹を描いた作中作の子供向け怪談が味わい深く、平凡な怪談の皮をかぶったホラーという趣向が上手くいっています。この作中作のおかげで、幽霊屋敷で一晩過ごすというありきたりな外枠に彩りが添えられていました。外枠のその後にも一ひねり二ひねりされているのもいいですね。それにしても恐ろしいのはキリアーたちのクズっぷりではないでしょうか。過去の行為はまだしもパニックを起こしてしまったからだとしても、現在の場面で笑顔で接するのは常軌を逸しています。
 

「旅行時計」ウィリアム・フライヤー・ハーヴィー/西崎憲(The Clock,William Fryer Harvey,1928)★★★★☆
 ――ミセス・ケイレブは二週間ほど叔母のところに泊まっていました。私が知り合いの家に出かけるのを見計らったように、「家に寄ってきてくださらない? 旅行用の携帯時計を忘れてきちゃったんですよ。鍵はここにありますから」と言いました。私は泥棒になったような気になって屋敷を探し、旅行時計を見つけました。時計は時を刻んでいました。二週間不在だったのですから、捩子が切れているはずです。

 再読。『怪奇小説の世紀1』(→リンク)のほか、その再編集版『怪奇小説日和』(→リンク)にも収録されています。怪異そのものを描かずに恐怖を演出するというのは、下手くそな作家が書くと読めたものではありませんが、「炎天」「五本指のけだもの」のハーヴィーにかかると紛れもない恐怖に変わります。小さな違和感や物音の積み重ねが恐怖を増幅させていました。解説によれば「五本指のけだもの」は映画化されているそうです。
 

「魅入られて」イーディス・ウォートン/薗田美和子訳(Bewitched,Edith Wharton,1937)★★★★☆
 ――農場主のボズワースとヒブン牧師補と農場のブランドの三人が、冬の最中にラトリッジ家に呼ばれた。ラトリッジの妻によると、ブランドの死んだ娘オーラと夫が古い小屋で二人で会っているのを目撃したという。夫のラトリッジもそれを認めた。そこで三人は、翌日には現れるはずの娘をこの目で確かめに行くことになった。

 死者との逢瀬というと怪談としてはありきたりですが、編者が解説で映像版の恐怖として挙げていた足跡の場面は文章で読んでもやはり怖い。実体のない幽霊譚だと思っていたところに生身の肉体が現れたような怖気を感じました。肺炎というキーワードなどからマテオ・ファルコネのような出来事を連想させながらも、すべては曖昧なまま幕を閉じます。
 

「霧屍疸村の悪魔」三津田信三(2013)★☆☆☆☆
 ――隠れ切支丹の集落跡を訪れたのはもう五十年も前のことになります。民俗学の実地調査に赴く前に、教会の持ち主は門出という要職名の男とは手紙のやりとりをしていました。地図を頼りに村に向かい、老人に道を尋ねると、「あの村にはマークがおる。絶対に行ってはならん」と言って立ち去ってしまいました。無人のはずの教会にマークという名の神父がいるとも思えません。

 『ミステリマガジン』2013年8月号掲載。「ねじけジャネット」と「魅入られて」の解説にある悪魔と足跡に対する著者の思いを盛り込んだような内容ですが、理屈めいてしまうとつまらないものにしかなりません。

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