『折りたたみ北京 現代中国SFアンソロジー』ケン・リュウ編/中原尚哉他訳(新☆ハヤカワ・SF・シリーズ)★★★★☆

『折りたたみ北京 現代中国SFアンソロジー』ケン・リュウ編/中原尚哉他訳(新☆ハヤカワ・SF・シリーズ)

 ケン・リュウが英訳して編んだ作品集の重訳なので、訳文は読みやすい。編者が序文で、政治的な読み方のような欧米視点の上から目線の読み方はやめてくれ(大意)、と書いています。実際「沈黙都市」で描かれるような検閲は、現実の中国を連想させると同時にSFの定番設定に過ぎないことも事実なので、中国作品だから――というフィルターはフェアではないとは思います。
 

「鼠年」陳楸帆《チェン・チウファン(スタンリー・チェン)》/中原尚哉訳(The Year of the Rat,Chen Qiufan(Stanley Chan),2009)★★★★☆
 ――豌豆《ワンドウ》にはじめた会ったのは大学の動員集会だった。就職浪人した僕たちは、除隊後の就職先斡旋に釣られて、逃げ出した遺伝子改造ラットの駆除隊に入った。駆除は“戦闘”と呼ばれた。鼠は二本足で走るよう改造されていたので駆除は簡単なはずだった。ところが妊娠した雄鼠が見つかり、事態は一変した。そして豌豆がダムから転落死しするという事件が起こった。

 『S-Fマガジン』2014年5月号に訳載。鼠が一生懸命二本足で走っているところを想像するとマヌケなものの、雄の妊娠や巣でおこなわれていたと思しき文化行為などで怪奇ムードは高まり、最先端の科学と底辺国民のギャップに社会の欺瞞と滑稽を感じ、戦場の狂気におののきます。何よりも現場はあれだけひどい目に遭いながらも掌の上で踊らされていただけの無力感が残りました。
 

麗江《リージャン》の魚」陳楸帆/中原尚哉訳(The Fish of Lijiang,Chen Qiufan,2006)★★★☆☆
 ――健康診断の結果、二週間のリハビリに行かされた。そこで僕は特殊医療の看護師だという女性に出会った。患者は時間だという彼女の勤務先は“時間治療棟”。財界のトップクラスの老人が“時間感覚拡大療法”を受けているという。女性が集団生活をすると生理周期が同期するように、看護師にも同じことが起きる。だから年に一回麗江にリハビリに来ているという。

 『S-Fマガジン』2017年6月号に訳載。英訳(2011)も初出(2006)も三篇のなかで一番早いのに邦訳順も本書掲載順も「鼠年」に譲っていることからもわかる通り、動きのある「鼠年」と比べると地味――というより、本来はこうした自意識に囚われたうじうじした語りの作風なのでしょう。主観的時間を操作するという題材や、時間を伸ばされた者と縮められた者同士の治療という発想は面白いのですが、うじうじした語り手が気持ち悪かったです。
 

「沙嘴《シャーズイ》の花」陳楸帆/中原尚哉訳(The Flower of Shazui,Chen Qiufan,2012)★★☆☆☆
 ――僕は深?市を二つに隔てるフェンスの外から来た。政府がフェンスの撤去を決定すると、経済状態の変化を見越して僕は働いていた工場の試作品を売って逃げて来たのだ。沈《シェン》姐さんはいい人だ。僕を入居させてくれ、ボディフィルムと改造ARソフトの屋台を貸してくれた。娼婦の雪蓮《シュエリエン》は沈姐さんの漢方薬局によく買い物にきた。雪蓮は腰にポン引きである夫の名前をボディフィルムにしていた。まるで古いギャング映画だ。

 舞台の背景を別にするとSFっぽいところはパペットスーツくらいでしたが、不幸に酔ったような語り手がやはり気持ち悪い反面、この町のごみごみした雰囲気はかなり魅力的です。ビルを「三日で一階ずつ高くしていった」というのが大げさでも何でもなく中国ならさもありなんと思わされてしまいました。
 

百鬼夜行街」夏笳《シア・ジア》/中原尚哉訳(A Hundred Ghosts Parade Tonight,Xia Jia,2010)★★★★☆
 ――百鬼夜行街は藍色の帯のように細く長い通りです。小倩《シャオチェン》によると、ぼくは赤ん坊のときに寺の石段で泣いているところを燕赤霞《イエン・チーシア》に拾われたそうです。幽霊になる前の小倩は豊かに暮らしていたそうです。百鬼夜行街で生者はぼくだけです。ぼくはここの住人ではないと小倩は言います。大人になったら出ていかなくてはいけないと。

 恐らくは観光のため、幽霊(という名のロボット)に魂を入れられた人々が暮らす街で生活する少年・寧《ニン》の物語です。首を切って死んだら人間だ、という烏の言葉とはうらはらに、人間ではないと知りながらも死を受け入れてゆく語り手が哀れです。登場するのは機械とはいえ観光のために造られた街が舞台なので、妖怪が出て来る幻想譚の趣がありました。『S-Fマガジン』2007年6月号に「カルメン」の邦訳があります。
 

「童童《トントン》の夏」夏笳/中原尚哉訳(Tongtong's Summer,Xia Jia,2014)★★★☆☆
 ――おばあちゃんが亡くなってから一人暮らしをしていたおじいちゃんは、ずっと革命の仕事をしてきたのでじっとしていられない性格で、ついに診療所の帰りに脚を折ってしまいました。退院すると車椅子に乗ったおじいちゃんが引っ越してきました。童童はおじいちゃんが苦手でした。数日後、パパが阿福《アーフー》という介護ロボットをつれてきました。

 途中まではただの孫と祖父のつまらない日常でしかないのですが、パワードスーツの遠隔操作を利用した要介護者による介護という状況が生まれると俄然盛り上がって来ます。そこで革命が出て来るところが中国作品の強みです。
 

「龍馬夜行」夏笳/中原尚哉訳(Night Journey of the Dragon-Hourse,Xia Jia,2015)★★★★☆
 ――龍馬は月夜に目覚めた。花の香をかごうと息を吸ってみた。血肉の体でない龍馬に嗅覚はない。空気は機械コンポーネントを吹き抜けるだけ。世界は荒廃してひさしい。まだ人の住まうところはあるだろうか。龍馬はどこまでも歩きつづけた。鳴き声が聞こえた。「だれだ?」「蝙蝠よ。しばらく乗せてくれない?」龍馬と蝙蝠は歩きながらさまざまな話をした。

 「百鬼夜行街」と同じような世界観の、あの世界が滅びたあとの出来事のような作品でした。「百鬼夜行街」の登場人物によれば、死が人間であることの証拠とされていましたが、本作ではとうとう魂のようなものまで描かれています。ただのファンタジーなのか、意識というものに対する著者なりの考えがあるのかは、この三作からだけではよくわかりません。
 

「沈黙都市」馬伯庸《マー・ボーヨン》/中原尚哉訳(The City of Silence,Ma Boyong,2005)★★★★☆
 ――時は二〇四六年。ところは国の首都。国名はない。ほかに国はないからだ。BBSフォーラムを使いたい者は多い。ウェブで多少なりとも会話に近いことができるのはそこだけだ。“健全語リスト”にない言葉は使用を禁じられている。アーバーダンはBBSの利用申請書類に隠されていたメッセージから、関係当局の目を盗んでおこなわれている会話クラブの存在を知った。

 作中で『一九八四年』の名が挙げられているように、『一九八四年』や『華氏451度』のようなディストピアが描かれています。監視社会と言語の統制という定番のディストピア世界を、ウェブという現実のテクノロジーの延長線上に落とし込むことで、より現代に即した“ありそうな未来”にブラッシュアップされていました。
 

「見えない惑星」郝景芳《ハオ・ジンファン》/中原尚哉訳(Insible Planets,Hao Jingfang,2010)★★☆☆☆
 ――「あなたが見てきた魅力的な惑星の話を聞かせて」いいよ。僕はうなずいて笑う。アイフオウーは変わった軌道をめぐっている。自転軸の傾きがおおきく、公転面近くまで倒れている。さらにその自転軸はゆっくりと歳差運動をしている。このため極地の昼は赤道付近の昼より数百倍長い。ゆえに両地域に住む生物の時間感覚は数百倍ずれている。

 カルヴィーノ『見えない都市』の体裁が取られていますが、「だれもが『はい、やります』と言う。しかし実際にはやらない」「安定した社会が成立するものだろうかと疑問が呈されることもある(中略)虚言癖はそれらの障害になっておらず、むしろ役に立っている」あたりの諷刺が見え見えすぎて興醒めでした。同じ惑星で異なる時間を生きる二つの種族のような、面白いエピソードはありましたが。けれど結局、『見えない都市』ではフビライに語る形式だったものがこの作品では男女の睦言になっているため、カルヴィーノ村上春樹ブレンドしたようなミスマッチな作品になってしまっています。
 

「折りたたみ北京」郝景芳/大谷真弓訳(Folding Beijing,Hao Jingfang,2014)★★★★☆
 ――折りたたみ式の街は三つのスペースに分かれている。片面は第一スペースで、割り当てられた時間は午前六時から翌朝六時まで。その後は眠りにつき、地面が回転する。裏面は第二スペースと第三スペースで、それぞれ二日目の午前六時から午後十時までと、午後十時から午前六時まで。老刀《ラオ・ダオ》は生まれたときから第三スペースで暮らし、二十八年間ごみ処理施設で分別してきた。だが孫の幼稚園にはお金がかかる。回転に合わせて非合法にスペースを移動し、危険を冒して手紙を届けることにした。

 『S-Fマガジン』2017年6月号に訳載。二十四時間ごとに回転する街という発想が既にして常人ならざる発想なのですが、それが単なるSFギミックではなく、経済的社会的に必然性を持っているという構造に至っては見事というほかありません。今後世界的に問題になるであろう社会問題を、独裁共産主義的にぶっとんだ方法で解決(?)しているのも、非凡な発想です。
 

「コールガール」糖匪《タン・フェイ》/大谷真弓訳(Call Girl,Tan Fei,2013)★★★☆☆
 ――小一《シャオイー》のことはみんなが噂していた。相手は大金持ちで、一回にいくらもらうのか? 小一に言われたとおり、古い車に乗って中年男がやってきた。「あたしにどうしてほしい?」「ほかの客にしていること」「さあ始めましょう」「車のなかで?」男は目を開ける。何も変わっていない。けれど、運転手が消えていた。両脚が前の座席を突き抜けていく。

 お話を売る少女と、犬の形を取ったお話という可愛いファンタジーです。
 

「蛍火の墓」程婧波《チョン・ジンボー》/中原尚哉訳(Grave of the Fireflies,Cheng Jingbo,2005)★★☆☆☆
 ――私はロザマンドと呼ばれました。千年前に神々の意思を探るのに失敗して首をはねられた祭司が生き延びて、その子孫が〈無重力都市〉をつくったといいます。私たちは夏への扉を抜けて最初に到着した惑星がそこでした。母は魔術師に会いに行ったきり姿を消しました。

 コテコテファンタジーの殻をかぶった何かなのでしょうけれど、どうでもいいです。
 

「円」劉慈欽《リウ・ツーシン》/中原尚哉訳(The Circle,Liu Cixin,2006,2014)★★★★★
 ――荊軻は秦の政王の前で短刀を手に取った。だが政王は荊軻の学者としての才能を見込んで登用した。「そなたはこの二年で驚くべき発明をした。その発想はどこからくるのだ?」「天の理にしたがっているだけです」「それはどのようなものか?」「数学。とりわけ円です」「では円周率を数十万桁まで計算できれば、不老不死の秘密も発見できるのか?」

 秦の始皇帝の宮廷を舞台にした、兵士を使った手作業のコンピュータという発想が狂人じみています。どこまでも無茶苦茶なのに、無茶もここまで振っ切れれば才気となるのでしょう。中国語原典や英訳はどうなっているのかわかりませんが、日本語訳では漢字熟語にカタカナのルビを振ったアナクロニズムがいい味を出していて、しかも読みやすさに一役買っています。それだけに、最後の「計算機械です」は言わずもがなで余計でした。長篇『三体』から抜粋した章の改作。
 

「神様の介護係」劉慈欽/中原尚哉訳(Taking Care of God,Liu Cixin,2005)★★★★☆
 ――神のせいで秋生《チウション》一家は大騒ぎだった。はじまりは三年前。二万隻の宇宙船が空に広がり、全世界の大都市に高齢の浮浪者が現れた。進化した文明が老後のために三十億年前に地球に生命の種を植えつけたのだという。文明に頼りすぎて退化した神たちは、宇宙船に保管された技術と引き換えに地球で暮らすことを要求した。だが技術は進みすぎていたため人類の手には負えず、家庭で暮らす神たちは厄介者でしかなかった。

 「円」は頭のいい人が書いたバカな話というところが円城塔みたいだと思いましたが、この「神様の介護係」は筒井康隆みたいなバカさでした。そうかそういう意味での創造主かあ。全世界で一家に一人の要介護者がいてしかもしばらくは死なないという、高齢社会を極北化させたコンタクトSFでした。「円」もそうでしたが、振り切れ方が気持ちいい。
 

「ありとあらゆる可能性のなかで最悪の宇宙と最良の地球:三体と中国SF」劉慈欽/鳴庭真人訳(The Worst of All Possible Universes and the Best of All Possible Earths: Three-Body and Chinese Science Fiction,Liu Cixin,2014)
 ――中国の主なSF読者は高校生から大学生だ。しかし『三体』はなぜかIT起業家の注目を集めた。刊行当時の中国SF市場は落ち込んでいた。〈三体〉の最初の二巻は文芸としての質やリアリズムを向上させる努力をしていた。だが第三巻は遠未来の宇宙を語らざるを得なくなった。だが人気につながったのはこの第三巻だった。中国の読者の思考パターンも変化していたのだ。

 こうして見ると、科学啓蒙小説~科学と未来への驚異~多様な作品群という流れはどこの国でも変わらないのだなと思います。
 

「引き裂かれた世代:移行期の文化における中国SF」陳楸帆/鳴庭真人訳(The Torn Generation: Chinese Science Fiction in a Culture in Transition,Chen Qiufan,2014)
 ――個人の感じる落伍感と喧伝された国家の繁栄の間には越えることのできない亀裂が横たわっている。その結果が、一方は政府に反射的に反抗して政府の見解を一切信じず、他方はナショナリズムに閉じこもることで自分の運命を握っている感覚を得る、両極端に分かれた人々だ。

 読みづらい文章ですし、「SFはかすかな可能性をこじ開けられるとわたしは信じている」というのも、ちょっと文学的に過ぎる表現です。
 

「中国SFを中国たらしめているものは何か?」夏笳/鳴庭真人訳(What Makes Chinese Science Fiction Chinese?,Xin Jia,2014)
 ――「中国SFはどう中国的なのですか?」簡単には答えられない質問だ。西洋の読者は中国SFを読むことで、中国の近代化を追体験し、新たな別の未来を想像するきっかけにできるだろう。中国SFは中国に関する物語ばかりではない。わたしの「百鬼夜行街」もニール・ゲイマン『墓場の少年』と「チャイニーズ・ゴースト・ストーリー」と宮崎駿の映画で脳裡をよぎったイメージを取り入れている。これら異なる物語も共通のあるものを語っており、中国の幽霊譚とSFの間に生まれる緊張関係が同じアイデアを表現するまた別の手法をもたらすのだ。

 ケン・リュウが序文でごまかしていた問いに、中国SFの歴史を振り返りながら答えを見出そうとしています。

   


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