『平成怪奇小説傑作集1』東雅夫編(創元推理文庫)★★★☆☆

『平成怪奇小説傑作集1』東雅夫編(創元推理文庫

 『怪奇小説傑作集』の日本版だった『日本怪奇小説傑作集』の平成版です。平成にもなると怪奇小説の幅も広がって来たのか、いわゆる純粋な怪奇小説はあまりありません。ほとんどはよくて幻想小説、下手すると普通小説ですらありました。それでも面白ければ問題ないのですが、お馴染みの人たちがお馴染みの作品を書いてるなあという感じで、平成を生きていた人間にとっては新鮮味がありませんでした。
 

「ある体験」吉本ばなな(1989)★★☆☆☆
 ――昔、変な男を好きになって奇妙な三角関係を演じたことがあった。顔もろくに思い出せない。思い出すのはなぜか、春というひどい女のことばかりだ。男の部屋で私たちは喧嘩ばかりしていた。「春なら死んだよ」。共通の知人からあっさり言われてびっくりした。夜になると気持のいい歌声が聞こえてくる。今の彼に言わせると、それは死んだ春であるらしい。

 吉本ばななにしては意外とスピリチュアルでもオカルティックでもありません。男を通して出会ったからいがみ合っていたけれど、同じ男を愛していなければ実は気が合ったのかも、というJ-POPみたいな話でした。
 

「墓碑銘〈新宿〉」菊地秀行(1989)★★☆☆☆
 ――新宿の高層ビル群に連れ出したとき、祥子は例によって嫌がった。祥子はいつも私たちとは別のところにいた。人から気づかれなかった。結婚を申し込んだとき、祥子は「あなた方は生きていて、私はそうじゃない」と言った。これまでに四度、私は若い男と一緒の祥子の後を尾けた。立ち尽くし、喜ぶこと。それだけが二人のしたことだった。そのとき、祥子は、そこにいた。

 菊地秀行には『幽剣抄』という怪談集もあるのですが、編者が選んだのはこの作品でした。ビルが墓石という発想は陳腐ですし、墓に入る方法も強引すぎてギャグみたいでしたが、あのビルの数だけ地下に人が眠っていると思うとぞっとします。
 

「光堂」赤江瀑(1990)★★☆☆☆
 ――新宿のミニシアターでは『火雨』が上映されていた。監督の三千社とはかつて涼介が風に飛ばされたシナリオを拾った縁で親しくしていたことがあった。『火雨』は、空襲で家族を失った妖怪好きな頭の弱い少年とその兄が懸命に生きる物語である。当時同じ下宿に住んでいた美大生・黒木と涼介は、三千社から映画の最後に出てくる妖怪のデザインを考えてほしいと頼まれた。

 東氏はかつて『虚空のランチ』『赤江瀑名作選』を編んでいるのですが、恐らくは敢えてその二作には未収録の作品が選ばれています。『日本怪奇小説傑作集』には「海贄考」が収録されているので、本書には敢えて怪奇味の薄いこの作品を選んだのでしょう。
 

「角の家」日影丈吉(1990)★★☆☆☆
 ――私の家の近くの狭い通りの角にあった小さな空地に家が建った。人がいるはずなのにその新築の家はひっそりとしていた。家内によれば、後ろ姿を見たことのある小柄な老人がその家の主人に違いないという。私は垣根から中をのぞいてみた。狒狒だ! 町内会の集会で聞いてみると、以前はどこかの市の助役をやっていたという。狒狒が助役とは! してみると影武者を使っていたに違いない。

 日影丈吉が平成の作品集に収録されているのはさすがに違和感があります。長生きされていたとはいえ、実際ほかの収録作家とは二十歳以上の開きがありますし。日影氏も『日本怪奇小説傑作集』に「猫の泉」が収録されていて、本書には変化球を選んだ模様。解説で「ネガとポジ」と評している「お供え」とセットで収録したかったのでしょうか。
 

「お供え」吉田知子(1991)★★★★★
 ――今日もジュースの空缶に花がさしてある。交通事故の現場に捧げた花に見える。見張って犯人を捕えるしかないと思った。傘をさし、椅子に腰かけて待った。内職の仕事を持ってくる安西さんが通りかかったので、しかたなく花のことを話した。「そんなの子供のいたずらに決まってるじゃないですか」。法事で実家に帰った折り、母にその話をしたら、おはらいをしてもらったらどうかと言った。無信心な母の口からそんな言葉が出たことに驚いた。

 ささやかな悪意のような理由のわからぬこうした日常のホラーに一番の怖さを感じます。しかもそれがラストに至って不条理な恐怖に結実するのには世界が揺らぎます。悪意の方がまだましだなんてことがあるのですね。
 

「命日」小池真理子(1994)★★★☆☆
 ――姉が鬱になったのはつきあっていた青年の急死だった。だから父の転勤に伴って仙台のR町に引っ越すのは、環境を変えてやり直したい姉には好都合だった。その家の庭には三つの石があった。大家によると前に住んでいた女の子が飼っていた動物のお墓だという。その子は脊椎カリエスで亡くなったそうだ。「聞かなきゃよかった」と母がつぶやいた。その夜から、姉は松葉杖をついた女の子を見るようになった。

 本書のなかにあって非常に正統派の怪談です。死者が自分の死んだ日にほかの人間も引きずってゆくという怪異が、家族の不安や崩壊と重ねられてゆくようです。
 

「正月女」坂東眞砂子(1994)★★★★☆
 ――拡張型心筋症。十年目の死亡率は七割。私は死の世界に転落しつつある。今回の退院は夫の希望だった。家族一緒に正月を迎えたいという。皮肉なもので、病気のせいで姑が思い遣り深くなった。夫が着替えてきた。真弓の店で買った服だ。私なら以前夫とつきあっていた女の店で買い物などしない。私は蒲団の中で憤りを覚えた。突然、胸が苦しくなる。呻き声を聞いて姑が顔を出した。柱時計が鳴る。「十二時じゃ……」。姑が枕を私の顔に押しつけた。

 いくら病気で希望がないとはいえ、この語り手の陰気さ・性格の悪さは尋常ではなく、怪異など起こらなくても性格の悪さだけでホラーになるのだというのは発見でした。無論、正月に死んだ女は七人を引いてゆくという土俗的な言い伝えによる怪異は存在していますが、それよりも語り手の妄念の方がよほど恐ろしかったです。「怖い」ではなく「恐ろしい」話でした。
 

「百物語」北村薫(1995)★★★★☆
 ――酔い潰れた後輩を家まで送るつもりが、落雷で地下鉄が止まり、仕方なく自分のワンルームマンションに連れ込んだ。美都子は始発の時間を聞いた。「わたし、寝たくないの。それまで起きていたいんです」。安西はおもりをするつもりで、「じゃあ、百物語でもやるか。女の子って怖い話が好きだろう」。恐い話を一つするごとに部屋の明かりを一つ消す。「仮にですよ、寝ている間は魚になっていたって、自分には分からない。もっとほかの何かになったって。そういう娘の話です――」

 肝試しなどの趣向ではなく、現代の日常に於いて百物語をおこなうという試みが面白い作品です。もちろん現実的に考えれば、男に手を出されたくない女が眠らない建前として百物語の形式を利用したということなのでしょうけれど、百物語の形式に沿って語られる物語には迫真のリアリティがありました。
 

「文月の使者」皆川博子(1996)★★★★☆
 ――「指は、あげましたよ」。空耳、いや、聞き違え。中洲の橋が落雷で落ちていた。女枕が川浪にゆれている。枕紙の墨が水ににじむ。「とけた黒髪 水面を走る」。たばこ屋のおかみにたずねてみる。「散切り頭の女はご存じないですか。その家にはきれいな女、いえ、男がいました。『叔母さんは男にこころが動くと、髪がのびて相手の首に巻きつく癖があるの。それで髪を切ったのだよ』とその男、珠江は言いました。その叔母さんが賄い婦をしている病院には、弓村という友人が入院していました」

 皆川博子はもともと怪奇小説ではなくて幻想小説の書き手なので、これも怪奇小説とは言いがたい作品です。遊廓らしき土地で死者も化け物も分け隔てなく存在している不思議な世界です。
 

千日手松浦寿輝(1996)★★★☆☆
 ――「駄目だなあ、おじさん。それじゃあ頭に歩を打たれて只取りじゃん」と隆司君は嬉しそうに叫んだ。何年前になるのか、終電がなくなった榎田がふと目に留まった将棋俱楽部に入ったのがはじまりだった。小学生が真夜中過ぎまで屯しているのを許してく親というのも非常識だ。その夜の隆司君は黙りがちだった。「あのね、夢でね、泳いでるんだよ」「ふーん」「滝になって落ちてゆく途中のところで、固まっちゃった……永遠ってそういうことなんだよね」

 どうやら死者らしき存在ですが、永遠という時間を千日手という具体性のあるものになぞらえていました。
 

「家――魔象」霜島ケイ(1996)★★☆☆☆
 ――夢を見ました。ある家に行こうとする途中、一人の少女に会いました。路上に仰向けに寝たままへらへら笑っています。Sに夢の話をすると、「今住んでいる家から出たほうがいい」と言われました。三角屋敷に蛇が巻きついているのが霊能師には見えたといいます。悪意ある設計者の仕業です。「三の数字に気をつけて」とSは言いました。三角屋敷の三階に住んで三年目で、私は三十三歳になります。

 実話怪談みたいなテイストが苦手です。
 

「静かな黄昏の国」篠田節子(1996)★★☆☆☆
 ――さやかは夫とともに終身介護施設リゾートピア・ムツに入所した。不自然な治療をしないので三年以上は生きられない。けれどそこでなら自然環境の下で自然の食品を食べて生きられる。魚肉の切り身は苔のような香りがした。森にある花は夜になると光を放った。

 零落してゆく日本の未来を描いた作品ですが、いかにもなガジェットばかりを詰め込んで薄っぺらいディストピアです。
 

「抱きあい心中」夢枕獏(1997)★★★☆☆
 ――このぼくも水死体についての不気味な経験が一度だけある。今から十年前、中部地方に鮎釣りに出かけた。五十歳前後の男が川を見ないように川を意識していた。ぼくに気づいた男が声をかけてきた。「釣りかい?」「あなたも?」「昔ね。今はやめたんだ、色々あってね。そうだ、いいことを教えてやるよ。ハンザキ淵に行くといい。流れは強いがでかい鮎が釣れる」

 これも本書のなかでは珍しい怪談らしい怪談でした。心中できなかった死体がほかの人間を引きずり込むというのはあまりにもオーソドックス過ぎるきらいはありますし、怪談というよりは心霊っぽいところもありますが、本書でも指折りの怖い話であるのは間違いありません。
 

「すみだ川」加門七海(1998)★☆☆☆☆
 ――どぶ臭い。夕方お使いに出たきり修太は家に戻っていない。落としてしまったお金を探さねば、戻れなかった。ををう。ををおん。(鐘ヶ淵の鐘の音)。水に棲むという牛鬼の話が記憶に甦る。/(死んだものはしょうがねぇ)源三は額の汗を拭った。あいつがギャアギャア泣きやがるから。死体は蒸し風呂みたいなアパートに置き去りにしてきた。

 投げっぱなしの羅列。
 

「布団部屋」宮部みゆき(1998)★★★☆☆
 ――酒屋の兼子屋は代々の主が短命であることで知られている。奉公人には厳しかったが逃げ出したり不祥事を起こしたりしたことはない。ところが若い女中がひとり、突然おびただしい鼻血を出して頓死するという事件が起こった。おさとは病死ということにされたが、貧しい親元は代わりに末娘おゆうを奉公に使ってくれと持ちかけた。おゆうはすぐに仕事を覚え、姉の四十九日が明けた頃、女中頭のお光に呼ばれた。

 解説で「ポドロ島」と言っているのは、「あれはね、お腹を空かしているんだよ」でしょうか。ほんとうにさり気ないので、指摘されないとまったく気づきませんでした。憑物の話なのですが姉の霊魂の存在感が強すぎてゴーストハントものみたいでした。

 [amazon で見る]
 平成怪奇小説傑作集1 


防犯カメラ