『愛なんてセックスの書き間違い』ハーラン・エリスン/若島正・渡辺佐智江訳(国書刊行会〈未来の文学〉)★★★★☆

『愛なんてセックスの書き間違い』ハーラン・エリスン若島正渡辺佐智江訳(国書刊行会未来の文学〉)

 『Love Ain't Nothing But Sex Misspelled』Harlan Ellison,2019年。

 エリスン初期の非SF短篇を集めた、日本オリジナル編集の短篇集。
 

「第四戒なし」渡辺佐智江(No Fourth Commandment,1956)★★★☆☆
 ――「父さんのこと、殺す」と少年が言った。探るのもどうかと思ったので、おれはイチゴ摘みに戻った。彼がどこから来たのか誰も知らなかった。畑にいる少年たちは浮浪者や家出少年、そして大勢が収穫時を狙って移動する者たちだった。「ありがとうございました……この……前は」。なんの話かはわかっている。雇い主の妻のファンケル夫人が息子にドイツ語で話しかけているのを見て、理由もなく逆上したので、おれが引き離したのだ。

 タイトルの第四戒とはモーセ十戒の四番目「汝の父母を敬え」のこと。幼いころに父母をなくした語り手と、母を見捨てた父親殺しを目論む少年、敬うべき父母のいない二人の親なし子に由来します。根無し草たちの生活の様子を描くなか、復讐を誓った少年の危うさから目が離せずにいると、事態は急転直下の展開を見せます。敬うべき父母であろうとなかろうと、殺すべき相手がいなくては精神を保てなかったのでしょう。
 

「孤独痛」若島正(Lonelyache,1964)★★☆☆☆
 ――彼女がいたのが習慣になっていたので、彼はまだダブルベッドの片側で寝ていた。暴力と恐怖の夢を見る。今夜見たのは十四番目。ポールを殺すために送り込まれた大学生風の男。電話とドアのベルの音で目が覚めた。「ポール。クレアはそっちに行ってるか?」「おまえか、ハリー」クレアが玄関のところに立っていた。「どうなってるんだ、どうしてクレアはおまえと一緒にいないんだ?」。クレアが受話器を奪い取り、「このクズ、女の尻ばかり追い回しやがって!」と吐き捨てた。ポールがジョーゼットと離婚すると聞いて、妹が言ったのと同じセリフだ。

 孤独な人には共感できるそうです。
 

「ガキの遊びじゃない」渡辺佐智江(No Game for Children,1959)★★★★☆
 ――ハーバート・メストマンは四十一歳だった。大学での地位は博識のおかげだった。妻のマーガレットはすべての面で好ましい魅力的な女性だった。近所ではとても好かれていた。そして――。フレンチー・マロウは十七歳だった。フレンチーはクールに振る舞った。暴走族と走り、飛び出しナイフを操った。近所では軽蔑され恐れられていた。ハーバート・メストマンはフレンチー・マロウの隣に住んでいた。ある夜、メストマンはこの少年がブラインドのすき間からマーガレットの着替えを覗いているのを見つけた。だが家まで追いかけてゆくと、父親のアーサー・マロウは息子は寝ていると言い張った。

 インテリ学者とチンピラ少年による隣人同士のいがみ合い、というシチュエーションだけなら喜劇なのですが、やっていることはガチなので、笑えない犯罪小説として成立しています。そしてガチガチで勝負をすれば、バカと学者ではバカに勝ち目はありません。一般市民がチンピラに脅かされる犯罪小説――ではないという点で、意外性もありました。
 

「ラジオDJジャッキー」渡辺佐智江(This Is Jackie Spinning,1959)★★★☆☆
 ――やあお待たせ、DJジャッキーです。まずはリッキー・ネルソンの新曲を聴いてみようか。(曲フェードイン)(ジャッキー・ウェイレンは目を調整室の向こうに向けてから、椅子に座っている金髪の女の脚にすえる。女が媚びるように笑みを返す。「あとでな」とウェイレンが言い、スイッチを入れる。)(曲が終わる)お届けしたのはリッキーの新曲でした。さて今度は、ぼくの予測ではナンバーワン間違いなし、新星ロッド・コンランが歌うヒット曲……(曲フェードイン)(レコードをかけ、また女を見つめる。「あたしたちのこと、奥さんに言った?」「それよりもっと大きな心配事があってさ」「キャメル・エアハルトと暴力団? あなた、あのお粗末なコンランを一週間以上推してきたでしょ。よく思われないわよ」)

 ラジオ番組の本番でトークしている最中とマイクを切って音楽を流しているあいだの様子を交互に描いた構成は、実験小説的なものというよりは一幕ものの芝居のようでもあります。伏線もちゃんと張られており、皮肉な一ひねりも味わえます。口の達者な人間に丸め込まれない人がいるとすれば、それは確かに【奥さん】だろうな、という謎の説得力もありました。
 

「ジェニーはおまえのものでもおれのものでもない」若島正(Neither Your Jenny Nor Mine,1964)★★★★★
 ――ジェニーが孕まされたと知って最初に思ったのは、ロジャー・ゴアに脳天逆落としをくらわせてやりたいということだった。ルーニーとつきあいはじめて、彼女のルームメイト二人をいただいてしまうか、頼れるお兄ちゃん役をやるかは五分五分だった。結局ルーニーの相手だけで精一杯ということで、後者の道を取ることにした。ジェニーはありえない娘だ。ナイーヴと愚かさが合わさると甘いお馬鹿さんができてしまう。ジェニーを連れていったパーティーでロジャー・ゴアに出くわした。おれはあらかじめ警告したのだ。ところがジェニーはロジャーについていき、泣きながら電話してきた。八週間ほどして、堕胎医を探すことになった。おれたちはメキシコのティファナに向かった。

 恋人の友人であるちょっとおバカな女の子に対する保護者然とした使命感が、昔の罪悪感に由来するとわかった時点で、これはジェニーの話ではなく語り手の話だったのか、とようやく気づきました。異国の地でお金を奪われながら、大使館を頼るでも他人を頼るでもなく、その場ですぐお金を稼ごうとするバイタリティにカルチャーショックを受けました。
 

「クールに行こう」若島正(Have Coolth,1959)★★★☆☆
 ――むかしデリー・メイラーはクールだった。今じゃすっかり野暮ったくなった。一度でも性悪の女にコテンパンにやられたらそうなる。ローズというのが女の名前だった。タイガーことデリー・メイラーと会ったのは、あいつがおれからひったくろうとしたときだった。名前を聞いてピンときた。コン・ホイットニーのカルテットで四人目だった男だ。こいつは才能がある。おれはメイラーの番人になった。フリーの宣伝屋として働いているとあまり金にはならないが、おれはクールだったんだ。

 かつての天才奏者が女に骨抜きにされ落ちぶれた話――ではないところが面白い。この話のすごいのは、途中まではそういう話として成立している点です。実力以上に宣伝の力を評価するところといい、その宣伝の内容といい、とてつもなく皮肉の効いた一篇でした。
 

「ジルチの女」渡辺佐智江(The Lady Had Zilch,1959)★★★☆☆
 ――トミー・デニスは作家デビューのために二年間格闘してきた。ひたすらボツ。だがいま、一人の編集者が原稿を買いたがっているらしい。〈キングピン〉は男性誌の分野ではビッグな存在だ。「デニス、きみの作品を読ませてもらった。最低!」とゴードン・ミルズは言った。「最低? だったらなぜ?」「プロットはいい。性格描写も優れている。だが重要な要素が欠けている」「というと?」「ジルチ」「ジルチってなんです?」「これだ」ミルズは雑誌を示した。『ステラは喘いだ。ロジャーはステラのむき出しの隆起した乳房に荒々しい手を押しつけ、くすぶる炎のような先端をこねた。』これを書かなければならないのか? だが背に腹は代えられない。

 この手の話のお手本のような筋書きで、実際どこかで似たような筋書きを見聞きしたような記憶があります。これに限らず、何も知らないからこそ吸収すると限度を知らないというのはままあることです。「zilch」という単語は実際に存在するものの、「ゼロ」とか「つまらない人間」の意味らしいので、ここでは単なる仄めかしとして用いられているようです。
 

「人殺しになった少年」渡辺佐智江(Kid Killer,1957)★★★★☆
 ――「おれを殺したいのか……かかって来いよ!」。〈ナイフメン〉の三人が少年を追い込んでいた。追い詰められた。ニューヨークに移ってからずっと追い詰められていたように。/父親が会社をクビになったと聞かされて、ピーティーは立ち上がった。「父ちゃんは根性なしなんだ! パッパラパーの母ちゃんとおんなじだ!」。父親の顔から血の気が引いた。「母ちゃんは病気なんだ。二度と言うな! でないと父ちゃんは……」「おれを殴る根性もないくせに」突然思いついた。ニューヨーク。ストリート。そこでは自由になれる。/丸一年、街なかでぶちのめされ、侮辱された。いまは拳銃がある。

 両親を見下してイキってニューヨークに出て来た少年が現実を突きつけられるも、自分が負け犬であることを受け入れられず、ヒステリックに復讐を誓うというのは、肌合いこそ犯罪小説やギャング小説のように見えてその実、調子に乗った陰キャが思い通りに行かず逆上して犯罪を犯すという構図と一緒――という意味では現代的でもありました。
 

「盲鳥よ、盲鳥、近寄ってくるな!」若島正Blind Bird, Blind Bird, Go Away From Me!,1963)★★★★★
 ――楽勝に思えた。偵察隊は建物と建物の間にある通路に足を踏み入れた。最初の銃撃で上等兵が倒れ、少尉がふっ飛ばされた。偵察隊は倉庫の半分開いたドアに飛び込んだ。ウィンズローを除いて全員。アーニー・ウィンズローは反射的に反対方向に身を投げた。倉庫の向かいの、鍵の掛かったドアにはりつき震えていた。思いきって通りに出て、それからドアへ体当たりした。機関銃を持った狙撃手は一瞬遅れた。家の中へ倒れ込んだアーニーはドアを閉めて閂を掛けた。そして振り向くと――そこは暗闇だった。

 暗闇の怖さを、実際に体験したのではないかと思うほど微に入り細に入り記しています。前門の虎後門の狼、敵兵と暗闇に挟まれて、逃げなくては殺されるという状況においてさえ、足許に広がる暗闇が「小さすぎて、地下室の水しか通さないくらいの狭い穴だったらよかったのに」と願う気持ちを、理解できてしまうから恐ろしい。
 

「パンキーとイェール大出の男たち」渡辺佐智江(Punky & the Yale Men,1966)★★★☆☆
 ――「愛なんてセックスの書き間違いだよ」最後にニューヨークを発ったとき、彼はそう言った。相手は肉体関係があった娘。アンドリュー・ソローキン、ベストセラー作家、ハリウッドの脚本家は、いま出版社の応接室で仕事の話をしていた。話が終わって部屋から出ようとしたとき、二人の若者が入ってきた。若者は編集者を飲みに誘おうとして、ソローキンに気づいて息を呑んだ。そして全員が飲みに行った。二人の若者は酔っ払って盛り上がっていた。「おれ、吐きそ〜」。黒人が二人、賭けサイコロを持ちかけてきた。

 この作品と次の作品に、本書タイトルにもなっている「愛なんてセックスの書き間違い」が登場するので、はずしては通れない作品ではあるのですが、解説にある通りどちらも「自己戯画化」といういわば楽屋ネタ身内ネタみたいなところがあります。
 

「教訓を呪い、知識を称える」渡辺佐智江若島正(I Curse the Lesson and Bless the Knowledge,1967)★★☆☆☆
 ――ケイティは開口一番わたしにこう言った。「今日あなたにここに来て話してもらうために、学校はいくら払ったんですか?」「八百ドル」。彼女は驚きあきれた。「ぼくとコーヒー飲まない?」。彼女の横を歩いていた男が腕をつかもうとしたが、彼女は「いいですよ」と言った。彼女がいなくなってしまうのではないかと不安だったので、大急ぎでファンたちにサインした。そして最後尾の者が去って喉元から何本もの牙がようやく離れ、カリスマ的な魅力が静かな音を立てて体から漏れ出ていくと、わたしはステージを降りて彼女に歩み寄った。そう、あの日のおまえを実際よりクールでヒップな男に仕立てたのはわかっている。でも、こうすればもっといい感じになるじゃないか。

 昔のことを書いてセルフツッコミ。

 [amazon で見る]
 愛なんてセックスの書き間違い 


防犯カメラ