『ヴァイゼル・ダヴィデク』パヴェウ・ヒュレ/井上暁子訳(松籟社 東欧の想像力19)
『Weiser Dawidek』Paweł Huelle,1987年。
ポーランドの作家のデビュー作。ポーランドを代表する作家として認識されるきっかけとなった、世界中数ヶ国語に訳された作品とのこと。とても読みやすい翻訳でした。
ユダヤ人の少年ヴァイゼルは、火薬や地雷を手に入れて何度も爆発させていた。語り手のヘレルとシメクとピョートルはヴァイゼルと知り合い、爆発の現場に招かれるようになっていた。そして六回目の爆発、いつもより大きな爆発のあと、ヴァイゼルと少女エルカは姿を消した。ヴァイゼルとエルカは実は爆死していて肉片はヘレルたちが埋めたのではないか――教師や軍人にはそう疑われて訊問を受けることになった。どうしてあのようなことが起こったのか。なぜあのようなことになったのか。今日までわからない。
ことさらに『スタンド・バイ・ミー』を持ち出すまでもなく、少年の日の青春の輝きと苦い思い出というのは定番といってよいと思います。ヴァイゼルは憧れや悪友というのとは違いますが、少年たちの世界で異物であることには変わりなく、だからこそ少年たちは巻き込まれ、わからないままなのでしょう。
物語は大人になったヘレルの一人称で語られ、事件後の訊問と事件前の出来事と大人になってからの再会が入れ違いに語られます。1967年の設定ですが、訊問に関しては当時ならどこの世界でもこの程度の理不尽はあったのかな?と納得できないこともない、いわば普遍性を持ち得ています。一方の事件前のエピソードは、繰り返し浜の魚が大量死して腐敗する(p.21)というまるで幻想小説のような原因不明の出来事によって、瞬く間に語り手たちの少年時代に誘われてしまいました。
歴史的、国際政治的な知識がなくとも面白く読めてしまう、というのは大きい。
ヴァイゼルの目的は何だったのか、最後の爆発のあとヴァイゼルはどうなったのか、さながら謎解きミステリーのように語り手が過去に分け入り、ときに脱線しながら語り起こされる、ヴァイゼルと過ごしたエピソードは、不思議な魅力に満ちています。
飛行機の突風によってめくれ上がる、木陰に横たわったエルカのスカート(p.51)。動物園の黒豹を圧倒する影響力(p.68)。サッカーの軍師としての才能(p.90)。爆発によって立ちのぼる三色の煙(p.128)。語り手の目の前で空中浮揚するヴァイゼル(p.160)。精神病院から脱走した黄色いガウンを羽織った狂人(黄色の翼の男)と警官たちのドタバタ(p.42、p.182他)。ドイツ軍の残した銃を使った射撃訓練(p.200)。サーカスで起こった猛獣使いの事件(p.288)。
ヴァイゼルの目的は結局のところわからないままです。サーカスの奇術師になりたいと口にしながら、サーカスを見て興奮している語り手たちとは一緒にはしゃいだりはしません。射撃訓練や爆発をおこないながら、革命やレジスタンスというわけでもなく、さりとて愉快犯というわけでもない。
語り手は大人になったピョートルに、ヴァイゼルについて記した原稿を見せます。ピョートルは原稿の間違いを指摘するのですが、何が重要で何が些末かで語り手と意見が分かれてしまいます。ピョートルはヴァイゼルがどうなったか知っている素振りを見せ、「君はこれだけ書いて知らないのかい?」と逆にたずねます(p.330)。考え方や受け取り方によって、見えているものや見ようとするものが違って見えるのだとしたら、語り手には見えていない真実もあるのかもしれません。ピョートルから見たヴァイゼルと語り手から見たヴァイゼルはまったく違う人物像の可能性だってあります。
死体がない、ということは死んでいないことは確かなようですが、その後にエルカとヴァイゼルと再会したとき、ヴァイゼルはまるで幽霊のように消えてしまいます。それが空中浮揚のときのような集団幻覚なのかまた別の何らかの状況によるものなのか、最後まで謎めいていました。
旱魃が続き、海が魚の死骸で埋め尽くされた1967年の夏。その異常な季節を、語り手「僕」 と仲間たちは、ヴァイゼルというユダヤ人少年と共に過ごした。夏の終わりヴァイゼルは姿を消す。そのときから今に至るまで、「僕」は問い続けている――「ヴァイゼルとは何者だったのか」と。発表されるや「10年に一度の傑作」と絶賛され、作者ヒュレの名を一躍高らしめたデビュー長編、待望の邦訳刊行。(帯惹句)
[amazon で見る]