『思い出のマーニー』ジョーン・G・ロビンソン/高見浩訳(新潮文庫)★★☆☆☆

 『When Marnie Was There』Joan G. Robinson,1964年。

 児童文学の名作が、数年前ジブリ映画化を機に新訳されたので、読んでみることに。

 前半はちょっと風変わりで他人と打ち解けられない女の子という王道の主人公が、新しい環境に移されて、そこでマーニーという不思議な少女と出会う、というこれまた王道の展開です。

 少女アンナと新しい家族や不思議な女の子との交流が描かれるだけなので、退屈といえば退屈です。なのでわたしは頭のなかで世界名作劇場っぽいキャラクターにしゃべらせながら読みました。

 後半、当然のようにマーニーは消え、アンナも成長して普通に暮らしていますが、マーニーが住んでいたはずの館に、あるとき新しい一家が引っ越してきます。そして発見されたマーニーのノート。トントン拍子に明らかになるマーニーの正体。アンナにはマーニーが見えた理由もそれでわかります。マーニーとの出会いは、起こるべくして起こった出来事だったと言えるでしょう。

 みんなは“内側”の人間だけれど、自分は“外側”の人間だから――心を閉ざすアンナ。親代わりのプレストン夫妻のはからいで、自然豊かなノーフォークでひと夏を過ごすことになり、不思議な少女マーニーに出会う。初めての親友を得たアンナだったが、マーニーは突然姿を消してしまい……。やがて、一冊の古いノートが、過去と未 来を結び奇跡を呼び起こす。イギリス児童文学の名作。(カバーあらすじ)
 

  ・ [楽天ブックス] 

『シフォン・リボン・シフォン』近藤史恵(朝日文庫)★★★★☆

「第一話」★★★★☆
 ――帰り道にあった書店が閉店し、ランジェリーショップになっていた。佐菜子の母親は背骨を折ってからリハビリを怠けていたため、寝たきりになってしまった。駅前の書店まで寄り道している時間はない。胸の大きさにコンプレックスのある佐菜子には、ランジェリーショップなど用はなかった。

 胸にコンプレックスを抱えた女性が、自分にぴったりの下着に出会って生まれ変わる……なんてお気楽な話ではありませんでした。何しろ家族が重い。あらすじにある通り母親は本人のせいで寝たきりなのを他人のせいにするような最低の人間ですし、父親も親戚の結婚式の場でおおっぴらに娘を馬鹿にするような人間です。それもこれも、胸にコンプレックスを抱かせて娘をコントロールして支配するためだったと、最後には明らかになります。あまりにも根が深い。いくら佐菜子が気持を新たにしようとも、それまでの人生が重すぎて、読んでいるわたしは明るい気持にはなれませんでした。でもだからこそ、読み捨てにはできません。
 

「第二話」★★★☆☆
 ――息子の篤紀に米穀店を継ぐ気を見せないのが、均には腹立たしかった。二十九歳にもなって、彼女の一人も連れてこない。新しくできたランジェリーショップには、何万もする下着が売られていて、こんな田舎でやっていけるのか、と思ってしまう。ところがそのショップに篤紀が独身の年上店長目当てで出入りしているという噂が立った。

 第一話の母親に続いて、この話に出てくる父親の均も対人能力に問題を抱えています。二十九歳になって同居している息子を「みっともない」と考え、年上の女性とつきあうことを「恥ずかしい」と見なす。ひとりよがりで、自分と違う考え方は問答無用で否定するタイプの人間です。けれどそんな人間の視点だからこそ、目の覚めるような鋭い批評があったのも確かです。ランジェリーショップの下着を見て、「強烈な女の自意識のようなものを押しつけられた気分」というのは、偏見以外の何ものでもないのですが、誰のためでもなく自分のためというのは極論すればつまりはそういうことで、言い得て妙だと深く印象に残った言葉でした。結局のところ均は最後まで変わりません。息子のことが何もわかっていなかったことを知っても、「自分は古く、頭の固い人間で、そのことを恥ずかしいとは思わない。頑固オヤジは頑固オヤジとして死んでいくしかない。変わることが難しいことは、自分がいちばんよく知っている」と決心するのです。これはこれで、筋の通った生き方だと思います。
 

「第三話」★★★★☆
 ――なぜ、下着屋をはじめたのか。最初にその質問をかなえに投げかけたのは母だった。「好きだからに決まってるじゃない」。母はなにかといえば「うちは教員一家だから」という言葉を口にした。中学生のころには、隠しておいた下着の絵を勝手に広げられ、「こんなバカなものを描いてないで勉強しなさい」と母の字で書かれた。いつのまにか母を責めるのはやめた。不信感に変わった。

 三話目の主人公はランジェリーショップの店長です。母親との確執と、乳癌の摘出について語られます。この母親はこれまでの二作の母父にも増して強烈でした。乳癌の摘出手術をした娘を見舞って、「罰が当たったのよ。あんたが自分勝手なことばかりしているから」と口にする人でなしです。そんな母親を介護しなくてはならなくなったのだから、その胸中を慮るだけでも胸が痛くなります。よくぞ「母は完璧な人間ではない。かなえが完璧な人間ではないのと同じように。」と達観できたものです。
 

「第四話」★★★☆☆
 ――六十代半ばのその女性客は、郷森の市原だと名乗った。昔はそれだけで通じたものだったのに……と、ひとしきり自慢話をしたあと、下着を選んでから、クレジットカードを忘れたと言って帰っていった。その女性が今では財産もなくなってしまった旧家の人間で、キャンセルの常習犯だと知ったのは、それからしばらく経ってからだった。

 第三話と同じく店長視点ですが、今度の主人公はお客さんの側です。最後くらいは少しくらい明るい話にしよう、と著者が考えたのかどうか、今のように自分の着たい下着を自由に着られる時代ではなかったころを生きた女性に、少しだけ幸せになってもらう……ことができたと言えなくもない作品でした。
 

  ・ [楽天ブックス] 

『となりに』basso(茜新社 EDGE COMICS)

 オノ・ナツメのBL名義の新作です。志村貴子のBLは脳内で男女に置き換えようとしても気持ち悪くて読めないのだけれど、basso作品の場合はすんなり読めました。ベッドシーンのある志村作品に対し、basso作品の場合はオノ・ナツメ名義でも基本的にベッドシーンがないことも大きいでしょうか。愛情も欲望もダダ漏れな志村作品とは違って、登場人物がクールだし。

 ジジイ萌えなオノ・ナツメらしく45歳のおじさんがお相手です。これがブラック企業で休みなく働いている疲れたサラリーマンとは思えないくらいにスマートで、そして基本的にオノ・ナツメの描く年上男性(女性も)は色っぽい。

 好きな馬の写真を撮るために新幹線で関西に出かける社会人2年目の青年と、日曜なのに出張帰りのサラリーマンが偶然出会って、ただそれだけ。ただそれだけですが、確かに新幹線の隣の席というのは知り合いになるきっかけとしてはありそうですし、さらに交流を持つことになる理由が競馬とはいえお互いが競馬好きというわけではなく、片方が馬の写真を撮りたいという青臭いところもいい。

 基本が片想いなのでそのあいだは嘘くささがありません。最終的には異性愛者のおじさんの気持も変化してしまうので、「俺のために泣いてくれる人がいるんだね」とか「どこでも俺のこと見つけてくれる」とか、そんなの理由になるか?とは思ってしまいますが。
 

  

『気球に乗って五週間』ジュール・ヴェルヌ/手塚伸一訳(集英社文庫)★★★☆☆

 『Cinq semaines en ballon: voyage de découvertes en afrique par trois anglais』Jules Verne,1863年

 記念すべき驚異の旅シリーズ第一作です。

 果敢な冒険に沸き立つ人々と、無謀だと反対する友人。冒頭からすでに後年のヴェルヌらしさが見られます。

 いかにして砂袋を捨てたりガスを抜いたりせずに高度を変えるか。科学に関してはこのくらいで、だいたいにおいて科学小説ではなく冒険ものです。

 その冒険なのですが、なにしろ気球旅行ですから、基本的に空の上で、ときどき地上に降りては、猿に襲われて銃を撃ったり、原住民に丸いバルーンを月の神様だと思われて崇められたり、象に引っかかって銃で撃ったり、人食い人種同士の戦いに遭遇して銃で撃ったり……冒険というよりは観光、サファリパーク、何かあっても銃があれば大丈夫!といった感じで、単調で平板なのは否めません。

 いよいよ本格的に冒険ものになってくるのは中盤過ぎからです。水がなくなったり、ひげ鷲に襲われてバルーンに穴が空いたり、安全な気球から一人だけ離れてしまったり、高く飛べない状況のなかでアフリカの部族に襲われたり……ようやく面白くなってきましたが、一番のクライマックスは、使用人ジョーによる尾根走りでした。少年漫画の主人公みたいで、笑えるほどにスカッとしました。

 1862年、自ら発明したマンモス気球を駆って、“暗黒大陸”アフリカを探検しようとした勇敢な男たちがいた。ザンジバル島より駆け発ったファーガソンら一行のめざすは、「地図上の空白地」ナイルの源流。彼らの前には、驚異にみちた未知なる新世界が待っていた……全世界を熱狂させ、ヴェルヌを一躍、流行作家に押し上げた〈驚異の旅〉シリーズ第一作、待望の文庫化。(カバーあらすじ)
 

  

『もしもし、還る』白河三兎(集英社文庫)★★★★☆

 目覚めたらサハラ砂漠。落ちてくる電話ボックス。

 荒唐無稽な導入ながら、内容や語り口はいたってシリアスです。

 主人公は田辺志朗(シロ)。

 電話だけでつながっているもう一人の「遭難者」や119番の相手口とのやり取りが繰り広げられる現在パートからは、どうして砂漠の真ん中にいるのかいったい何が起こっているのか誘拐だとしたら目的は何なのか、先が知りたくてページを繰る手が止まりません。とはいえ、サハラ砂漠や電話ボックスも充分に非現実的ですが、足が砂になって消えてしまう事態にいたっては完全に非現実ですから、勘の良い読者ならうすうすわかってしまうでしょう。

 それと交互に語られる過去パートでは、学生時代からのセックスフレンド桐子(キリ)、キリの親子関係、シロと冷え切った両親との親子関係、溺れかけた記憶と父親、親代わりだった姉、姉と一緒に埋めたタイムカプセル……そうした挿話から浮かび上がってくるのは、かなりヘビーな人生とドライな人生観です。

 終盤に「不運の集大成」という言葉が出て来ますが、ヘビーなだけなら不幸ではない人間なんていくらでもいるのに、主人公の現在の境遇はある程度はこのドライさが招いてしまったようなところもありました。

 その運命が不運か幸運かはさておき、シロの人生とこの小説は、運命というものでがっちり組み立てられていました。シロとキリが作中で観たSF映画が伏線になってたんですね。かなり複雑で厳密に構成されたこういう作品が、SFっぽい用語もほぼ使われず作風もSFらしさ皆無で書かれていることに驚きです。

 異様な暑さに目を覚ますと、「僕」は砂漠にいた。そこへ突如降ってきたのは、ごくごくありふれた電話ボックスだった。――いったいなぜ? 混乱したまま電話ボックスに入り、助けを求めて119番に電話をかける。だが、そこで手にした真実はあまりにも不可解で……。過去と現在が交錯する悪夢のような世界から、「僕」は無事に生還することができるのか。ミステリアスな傑作長編。文庫書き下ろし。(カバーあらすじ)
 

  ・ [楽天ブックス] 


防犯カメラ