『悪女イヴ』ジェイムズ・ハドリー・チェイス/小西宏訳(創元推理文庫)★★★★★

 『Eve』James Hadley Chase,1945年。

 悪女ものには最低限ふたつの要素が必要でしょう。男を絡め取る魅力のあるファム・ファタールと、絡め取られるに相応しい弱みを持っている男です。

 この『悪女イヴ』では悪女の魅力よりもとりわけ語り手クライヴ・サーストンの駄目人間ぶりが際立っていました。盗作でデビューしただけなら出来心で済ませられても、所詮は盗作するような心根の人間ということでしょうか、アイデアもないのにあるふうを装う、原稿に真剣に向き合わなかった挙句に〆切を破る、まだ深い関係にもなっていないほぼ顔見知り程度の悪女のためにチャンスを棒に振る……遅かれ早かれ転落していたことは想像に難くありません。

 恋人のキャロルや使用人のラッセルらクライヴに好意的な人間の言うこともことごとく退けて自ら破滅の道を進んでゆくだけなら、それでもまだ、目が眩んでいた――で済む話でした。

 クライヴが愚かなのは、すべてを失って痛い目を見て反省したあとでなお、イヴとのことを美化していることです。イヴ本人からお金がすべてなのだと罵倒されてなお、浮気女を改心させられるという持論を映画会社社長のゴールドに否定されてなお、わからないとは……そりゃ新作なんて書けるわけもありません。不幸なのはクライヴの才能を本当に信じていたキャロルです。

 悪い人ではないのでしょう。クライヴのお気楽ぶりに気の抜けた読後感が残る、不思議な悪女ものでした。

 親しくしていた孤独な作家から死に際に戯曲原稿を託されたクライヴは、それを自作として発表し、一躍有名作家となった。知的で美しい恋人も得て順風満帆だった彼だが、しだいに名声と実力のギャップに苦しむようになる。そんなときに現われた娼婦イヴ。魔性の女の虜となった男が迎える悪夢のような末路をノワール小説界の雄、チェイスが鬼気迫る筆致で描いた傑作。(カバーあらすじ)

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 悪女イヴ 

『IQ』ジョー・イデ/熊谷千寿訳(ハヤカワ・ミステリ文庫)★★★★☆

 『IQ』Joe Ide,2016年。

 IQと呼ばれる黒人青年。彼が探偵として活躍する2013年のパートと、17歳だった2005年のパートから成るミステリです。

 幼女誘拐犯視点のプロローグから、この犯人を追うシリアルキラーものだと思ったのは早計でした。ボートで逃げる犯人を追うカーチェイスと、グレネード・ランチャーで犯人を制圧するという、ぶっ飛んだつかみに過ぎませんでした。

 腐れ縁のドッドソンやデロンダとの再会から幕を開け、ピット・ブルに命を狙われるラッパーから殺し屋を突き止めるよう命じられます。化物級の犬という特殊な相手であるためわりとあっさり殺し屋にはたどり着きますが、頭のネジが外れた人がいくらでも登場するので、黒幕や内通者のことなど正直どうでもよいくらい濃いです。軽口ばかりで会話が進まない取り巻きたちのステレオタイプアメリカ人ぶりとか、ラッパー夫妻のどつきあいとか、バカばかりです。そんななか、主人公のIQだけは実はかなり真面目なので格好よさが引き立ちました。

 そんなIQの真面目さが際立つのが過去パートです。

 過去のパートでは、ドッドソンとの腐れ縁の始まりから探偵を始めるきっかけまでが描かれます。金が欲しくてギャングの抗争を引き起こして一切の罪悪感を感じていないというドッドソンや、兄を轢き逃げした犯人に対する消化しきれない思いという、IQを形成する下地が明らかにされていました。

 子どものころに読んだホームズ物語に著者が影響を受けているそうですが、この作品自体にはホームズ要素はほとんどありません。

 たぶん主人公が身を置いている世界には合っているのでしょうけれど、カバーイラストがとてつもなく格好悪いのはどうにかならなかったのでしょうか。

 ロサンゼルスに住む黒人青年アイゼイアは“IQ”と呼ばれる探偵だ。ある事情から大金が必要になった彼は腐れ縁の相棒の口利きで大物ラッパーから仕事を請け負うことに。だがそれは「謎の巨犬を使う殺し屋を探し出せ」という異様なものだった! 奇妙な事件の謎を全力で追うIQ。そんな彼が探偵として生きる契機となった凄絶な過去とは――。新たなる“シャーロック・ホームズ”の誕生と活躍を描く、新人賞三冠受賞作!(カバーあらすじ)

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 IQ 

『怪盗ルパン伝 アバンチュリエ 奇巌城』(3)~(5)森田崇(小学館クリエイティブ ヒーローズ・コミックス)★★★★☆

 奇巌城。原作を何度読んでも面白さがわからなかったのですが、もう一度チャレンジしました。

 結構面白かったです。

 初期ボートルレのこまっしゃくれたところには目をつぶりました。ボートルレへの脅迫と殺人未遂は部下の勇み足ということでいいでしょう。中巻冒頭の直接対決――手を引けという脅迫だけはさすがにルパンがみっともないという思いは変わりませんでした。でもここ以外では記憶にあったほどルパンは小物っぽいみみっちい行動は取ってませんでした。

 愛する女性と暮らすため引退してまっとうに生きるという決断も、(ルパンは何度も似たようなことを繰り返しているとはいえ)、ルパンらしくて納得できます。

 ではルパンはどの時点から引退とボートルレへの引き渡しを決意していたのでしょうか。暗号があそこに落ちている必然性がないため、あの時点ではすでにボートルレを誘導していたと考えるのが自然でしょうか。となると中巻冒頭の直接対決も、すべてボートルレを焚きつけるための芝居の一部ということになるのでしょうか。ショームズとビクトワールだけが誤算だったようです。

 ルパン・シリーズの初期に位置する作品ですが、森田氏のあとがきによれば「『怪盗紳士』としての活躍は実質的にこの作品でほぼ終わり」ということなので、本拠地を失ってもルパンのその後の活動にはさほど影響はないようです。

 地味ながらルパンの詐欺師としての腕前が披露されていたのが印象的でした。どうしても「獄中のアルセーヌ・ルパン」や「塔のてっぺんで」のようなトリッキーなものに目が行ってしまいますが、本書で見られた帽子のすり替えや暗号文書のページ破りなどの早業に、職業泥棒集団らしさが現れていました。

 そして『奇巌城』を読む際に避けて通れないショームズの扱いなのですが、ちゃんと情けなくないように描かれていました。

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怪盗ルパン伝 アバンチュリエ3 奇巌城(上) 中怪盗ルパン伝 アバンチュリエ4 奇巌城(中) 下怪盗ルパン伝 アバンチュリエ5 奇巌城(下) 

『さらば、シェヘラザード』ドナルド・E・ウェストレイク/矢口誠訳(国書刊行会〈ドーキー・アーカイヴ〉)★★★☆☆

 『Adios, Scheherazade』Donald E. Westlake,1970年。

 スランプに陥ったポルノ作家が、とにかく文章を打とうとして妄想や悩みや雑感を書きつづるという、基本的にはおバカな話です。『さらば、オマ×コ野郎』というタイトルでは編集者の許可が下りないだろうとか、語り手夫婦が夫のアレをオスカーと名づけるとか、くだらない小ネタには事欠きません。

 途中までは単純にそんなバカ話だと思っていたのですが、以前に打った章を受けて新しい章が書かれているので、以前の章が読まれることで発生した出来事も新しい章には組み込まれることになります。そうなれば当然のことながら何が現実で何が創作なのか読んでいる側にはわからなくなってくるのですが、少なくとも原稿を信じるかぎりでは、創作に過ぎないことが事実を誤解されたために大問題に発展してしまったようです。

 これがサスペンス・ミステリならば、そういった窮状からさてどうやって逃れるのか――ということにもなるのでしょうが、本書では語り手のエドは悲しいことにどんどん絡め取られてゆくだけです。それなのにやれることは書き続けることだけ……というのが黒い笑いを誘いました。

 いい装幀です。

 ポルノ小説のゴーストライターエド・トップリスの苦悩は、締切が近づいてもまったく書けないこと。いざ書き始めても、自身の生活や夫婦間問題のあれこれが紛れ込んで物語はなかなか進まない(そして小説は延々と1章25ページが繰り返される!)。ある日、書きかけの原稿が原因でエドは思いもよらないトラブルに巻き込まれることになる……リチャード・スターク名義の〈悪党パーカー〉シリーズや〈泥棒ドートマンダー〉シリーズでおなじみのコメディ・ミステリの巨匠ウェストレイクによる、仕掛けに満ちた半自伝的&爆笑のメタ奇想小説がついに邦訳!(カバー袖あらすじ)

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 さらば、シェヘラザード 

『ミステリーズ!』2020年DEC vol.104

「桑港クッキーの謎」米澤穂信 ★★★☆☆
 ――事の始まりは新聞だ。その次の次の次くらいがクッキーだった。この街出身の美術家縞大我がサンフランシスコ・ビエンナーレの黒熊賞を受賞したそうだ。それからもぼくは縞大我の名前に遭遇することになった。名前を出したのは新聞部の堂島健吾だった。「縞大我の絵が学校に残っていたんだよ。小佐内の知恵を借りたいんだ」。見せられた絵はロシア人画家の模写だったが、問題なのはそれが展覧会に出展されていたことだ。

 小市民を目指している二人が過去のいきさつから事件の解決を依頼されるのも皮肉ですが、ついうっかり解決してしまうというのが可笑しい作品でした。あそこで「あっ」と声をあげてしまう小佐内さんが可愛い。フォーチュンクッキーの特性と、芸術家が追い続ける一つのテーマから、真相が浮かび上がります。最後に明かされる人の悪意を最後にさらっとぶちまける小佐内さんの方が悪意よりも怖かったりします。『冬期限定』で終わってしまうかと思われたこのシリーズですが、『巴里マカロンの謎』に続いての新作ということで少なくとももう一冊は国名都市名シリーズは出してくれそうです。

 ……と思ったら、次号vol.105で終刊という告知が。ミステリに限らない文芸誌が夏には刊行予定なので、それに引き継がれるとは思いますが。
 

「間違った瓶」アントニイ・バークリー白須清美

「必然の裁き」阿津川辰海
 

「バークリー『ウィッチフォード毒殺事件』を読む」若島正
 『ボヴァリー夫人』が織り込まれているという指摘は若島氏ならではです。
 

「コージーボーイズ、あるいはありえざるアレルギーの謎」笛吹太郎 ★★☆☆☆
 ――カフェ《アンブル》では今月もまたコージーボーイズの集いが催されていた。毒殺ミステリという話題になり、漫画家の森田さんがナッツ・アレルギーを巡る実体験を話し始めた。喧嘩しているアシスタント二人の仲を和ませようとケーキを作ったものの反応はいまいちだった。森田さんが用事で職場を空けて戻ると、一人にアレルギー症状が出ていた。だがケーキにはナッツ類は使われていなかったし、ケーキ以外は口にしていないという。

 アシスタント二人が男女だというのが中途半端なタイミングで明らかにされるため、真相はすぐにわかってしまいます。最初から明らかにするか、叙述トリックみたいにぎりぎりまで伏せるか、同性同士にするかすればまた違った印象だったと思います。
 

「嗜好機械の事件簿(22)Mの悲劇喜国雅彦
 MはマスクのM。コロナネタです。
 

愛媛県美術館での「真鍋博2020」を観て」戸川安宣
 

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