『私立霧舎学園ミステリ白書 六月はイニシャルトークDE連続誘拐』霧舎巧(講談社ノベルス)★★★★☆

『私立霧舎学園ミステリ白書 六月はイニシャルトークDE連続誘拐』霧舎巧講談社ノベルス

 霧舎学園シリーズ三作目。

 前作での予告(?)通り、密室・アリバイに続いて誘拐ものです。

 図書委員の三年生中込椎名が琴葉に会いに来た。図書館にいつの間にか『私立霧舎学園ミステリ白書 四月・密室』『五月・アリバイ崩し』という二冊の新書本が紛れ込んでいて、H月やT彦のことも書かれていたため、書かれてある事件の内容が本当のことなのかどうか確かめるためだった。さらに図書館コピー機にはどこかの見取り図と、何かの時刻の書かれた紙、『六月・誘拐』というメモの跡が残されていた。学校司書の三田島恵は事態を重く見て、琴葉に母親である警察署長への連絡を頼んだ。

 そうして琴葉が公衆電話から母親に事情を説明して図書館に戻ると、棚彦、中込椎名、恵さんの姿が消えていた。棚彦を探して教室に向かった琴葉の前にも鬼面の人物が現れ、薬を噴霧して気絶させてしまう。気づくと四人は座敷牢のようなところに閉じ込められていた。そこに月島幻斎と名乗る老人が現れ、風呂や食事は用意するし廊下に出てもよいが、そこから先に進めばとらごろしという毒が撒かれていると四人を脅すのだった。

 そのころ羽月倫子警視ら保護者のもとには身代金を要求する電話がかかってきていた。保護者の一人と、あろうことか担任の脇野に身代金の受け渡しをするよう指示を出した。ことなかれ主義の脇野なら操りやすいと踏んだのだろう。

 一方、保とのの子は台風で孤島に取り残されていた。五月の事件の元となった事件の被害者がピンクに塗られた理由を確かめに来たのだ。

 もともと保という〈あかずの扉〉シリーズと繫がりのある人物がレギュラーを務めていましたが、本書では第二作『カレイドスコープ島』の舞台となった竹取島と月島、月島幻斎らが登場しています。ファンサービスであると同時にミスリードでもあるという、どちらにしてもミステリファンには嬉しい内容でした。

 毒薬による心理的な密室が単なる脅しではなく必然的な意味を持っていた【※閉じ込められていたのは屋敷の一部ではなく、屋敷を模したその部分だけだった】というのは、パターンといえばパターンですが、大がかりなだけに騙されてしまいました。

 誘拐もので【そして誰もいなくなった』犯人】の仕掛けを利用したのも面白い取り組みでした。襲われた出来事が作品内で老人が女たらしだという意味しか持っていないのが気になっていたのですが、気づけませんでした。

 【アリバイ作りのための狂言誘拐】という犯人の目論見がまんまと成功したと言えるのですが、【殺人被害者が脇役】なため印象が薄く、おまけみたいな扱いでした。

 身代金の受け取り方は誘拐ものの一つの見どころですが、脇野というしょーもない教師の特性を利用するのには笑わせてもらいました。

 本自体に施された仕掛けは本書でも健在です。犯人の手になる『四月』『五月』『六月』が作中作の書籍として登場しているため、まさにそれを利用した仕掛けになっていました。これは電子化はできませんね。タイトルになっているイニシャルとは、作中作で固有名詞が仮名になっていたことや犯人のメモがイニシャルで書かれていたことに由来しますが、保とのの子の会話に出てくる駄洒落が最後の最後に活きてくるとは思いませんでした。これを二パターン用意してくるセンスに脱帽です。

 琴葉の父親が初登場します。これまではまったく存在感がありませんでしたが、なるほど単身赴任でした。今までが存在感がなかったので平凡な人なのかと思っていたのですが、考えて見ると昔の棚彦ポジションなんですよね、熱血に探偵していました。

 今回は保とのの子は別行動で、前作のピンクに塗られた死体の謎を明らかにしていました。むしろ保を別行動させるためにピンクの死体の真相を解かせに向かわせたのでしょうが、前作から引っ張るほどの真相ではありませんでした。そして今回は保が完敗してしまったようです。

 六月。私立霧舎学園への美少女転校生、羽月琴葉とその同級生にして名探偵(?)小日向棚彦が学園の図書館に集うとき、またもや不可解な事件に巻き込まれる! 図書館の棚に忽然と現れた謎の本――『私立霧舎学園ミステリ白書』の正体とは?

 学園ラブコメディーと本格ミステリーの二重奏、「霧舎が書かずに誰が書く!」、“霧舎学園シリーズ”。六月のテーマは連続誘拐!(カバーあらすじ)

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 私立霧舎学園ミステリ白書 六月はイニシャルトークDE連続誘拐 

『ラテンアメリカ怪談集』J・L・ボルヘス他/鼓直編(河出文庫)★★★★☆

ラテンアメリカ怪談集』J・L・ボルヘス他/鼓直編(河出文庫

 1990年に出ていたものの新装復刊本。編者あとがきによればラテンアメリカにはジャンルとしての怪談は(少なくとも当時)なかったらしく、あとがきもほとんどが幻想小説について割かれていました。
 

「火の雨」レオポルド・ルゴネス/田尻陽一訳(La lluvia de fuego,Leopoldo Lugones,1906)★★★☆☆
 ――その日はすばらしい天気で、通りは人であふれていた。十一時頃、最初の火の粉が落ちてきた。灯心のはぜる火の粉のように、銅の粒が落ちてきた。突然、庭を横切っていた奴隷が叫び声を上げた。背中に穴が開いていて、その奥にはまだ貪欲な火の粉がはぜているようだった。空には銅山なんてない。火の粉はどこからともなく降ってくる。逃げる? 理屈で考えれば砂漠にも湖にも降っているはずだ。

 アルゼンチンの作家。ソドムとゴモラ同様の世界の破滅を描いた作品――だと思っていたのですが、作中に登場するアデマとゼボイムという町の名前からすると、どうやらソドムとゴモラそのもののようです。人々は第二波に備えたり防ぐ手だてを考えることもなく浮かれ騒ぎ、語り手はいつでも楽に死ねる手段を手にしているという安心感で落ち着き、誰もが抵抗するでもなくあっさりと滅びます。滅びの生々しさを伝えるのは人間よりもむしろライオンたちでした。
 

「彼方で」オラシオ・キローガ/田尻陽一訳(Más allá,Horacio Quiroga,1934)★★★☆☆
 ――私は絶望していました、と声は言った。彼とつきあうな、と両親からはっきりと言われたのです。「おまえがあいつの腕に抱かれるぐらいなら、死んだおまえを見るほうがましだ」。そのとき私は死ぬことを決心したのです。そう、一緒に死ぬのよ。一週間後、私たちはホテルのベッドで初めての、清い、そして最後の抱擁をしたあと、同時に毒を飲みました。我に返ると、彼は透けていました。それで、私も彼も死んでいることがわかりました。三か月のあいだ、私は幸福そのものでした。

 ウルグアイの作家。これまで読んだ著者の作品は土俗的なものが多かったので、心霊的な現象が描かれているのは意外でした。肉体を離れて魂だけでは幸せになれず肉体と共に二度目の死を迎えるというのはキリスト教ともまた違う独特な死生観ではありました。
 

「円環の廃墟」ホルヘ・ルイス・ボルヘス鼓直(Jorge Luis Borges,Las Ruinas Circulares,1944)★★★★☆
 ――彼は闇夜に上陸し、土手を這いあがって円形の場所にたどり着いた。そこは神殿だったが昔の火事で焼けくずれていた。疲れからではなく意志の決断にしたがって眠った。彼の望みは、一人の人間を夢みることだった。細部まで完全なかたちでそれを夢みて、現実へと押しやることだった。円形の階段教室の中央にいる自分を夢にみた。大勢の学生が階段席を埋めていた。

 アルゼンチンの作家。言わずと知れた超名作です。夢に見た人間を実体化するという奇想の過程をそのまま描き出しているところや、円環というのが場所のことだけではなく作品の構造をも指しているところなど、忘れがたい魅力があります。三都慎司『ダレカノセカイ』は「トレーン、ウクバール、オルビス・テルティウス」だけでなくこの作品の影響もあることに今さら気づきました。
 

「リダ・サルの鏡」ミゲル・アンヘル・アストゥリアス/鈴木恵子訳(El espejo de Lida Sal,Miguel Ángel Asturias,1967)★★★★☆
 ――混血娘のリダ・サルは、目の悪いベニート・ホホンと聖母の祭りの世話係のおしゃべりに耳を澄ませていた。「聖母さまの供回りの装束にはな、魔力があるんじゃよ」「今じゃみんな信じてないし、衣裳を引き受ける女子衆がいない」。リダ・サルは帰りかけていたベニート・ホホンの腕をつかんだ。「あたし、惚れた男がいるんだけど、振り向いてくれなくて……」「あんたが衣裳をいく晩も着て寝るんじゃ。相手がその衣裳を祭りに着ると、お呪いが効く。全身を鏡に映すことが必要じゃ」

 グアテマラの作家。日本の民話にもありそうな一途さゆえの悲恋です。けれど時代は(やや昔の)現代。もはやまじないを信じる人も少なく、祭事への参加を促してもうさん臭がられるような世界です。それでも鏡すらないような貧富の差は歴然としてあるという、現代日本から見ると不思議な雰囲気が漂っていました。
 

ポルフィリア・ベルナルの日記」シルビナ・オカンポ/鈴木恵子訳(El diario de Porfiria Bernal,Silvina Ocampo,1961)★★★★☆
 ――時が迫っている今、この文に残すことになる過ちの数々を思うと身震いのする思いがします。私の名はアントニア・フィールディング。三十歳、イギリス人です。家庭教師をして長年アルゼンチンで暮らしてきました。ポルフィリアと初めて会ったとき、そのいかにも従順そうな外見に私はすっかりだまされたのです。彼女が日記をつける気になったのは私の考えでした。「日記には本当のことを書かなければいけないの」

 アルゼンチンの作家。ビオイ=カサーレスの妻。アンファン・テリブルものらしいことはわかるものの初めのうちはどこが怖いのかさっぱりでした。それが一通り日記の記述が終わってから明らかになる事実で、一気に恐怖に引き込まれます。恐るべきどころか魔性の子どもでした。しかも異類変身譚という要素まである贅沢な一篇でした。ポルフィリアが恐ろしいのか、フィールディングが正気を失っているのか、どちらともつかないのが一層の恐ろしさを煽ります。
 

「吸血鬼」マヌエル・ムヒカ=ライネス/木村榮一(El vampiro,Manuel Mujica Láinez,1967)★★★☆☆
 ――国王カール九世の従兄弟にあたるザッポ十五世フォン・オルブス老男爵に残された財産といえば、ヴュルツブルクの城と悪魔の毛房の通路と呼ばれる屋敷だけだった。ロンドンのホラー映画専門会社と脚本家ミス・ゴディヴァ・ブランディがこれに目をつけ、新作映画の舞台に選んだ。いざ男爵に会ってみると、これまで創造してきた怪奇映画の登場人物が残らず色褪せてしまうような超人的な人物だった。そこで製作者のマックスは男爵に吸血鬼役をオファーし、男爵も同意した。男爵が本物の吸血鬼だと気づいたのはミス・ブランディだけだった。

 アルゼンチンの作家。吸血鬼もののパロディです。ロンドンの側にとって飽くまで吸血鬼とは映画のなかの存在であるのに対し、吸血鬼側は何から何まで古くさいままです。男爵は血筋に誇りを持つようなどこまでも古くさい怪奇小説の登場人物であるのに、悪を為すから退治されるのでなく、自分だけ血を吸われなかった腹いせで脚本家に退治されてしまうというのが惨めです。
 

「魔法の書」エンリケアンデルソンインベル鼓直(El Grimorio,Enrique Anderson Imbert,1961)★★★☆☆
 ――古代史の教師ラビノビッチは、一軒の古本屋に入った。一冊の本は文字でびっしり埋まっていた。ローマ字であるにもかかわらずさっぱり読めなかった。切れ目も大文字も句読点もない。しかも彼の字に似ていた。暗号だろうか。何気なく一行目に目をやると、ちゃんと読むことができた。「読者よ、旅の仲間よ、私はかの〈さまよえるユダヤ人〉である。……」驚いて目を離すとまた読めなくなり、一行目の最初の文字を探すと、再び言葉がはっきりと浮かび上がった。「読者よ、旅の仲間よ……」

 アルゼンチンの作家。一行目から目を離さずに読み続けなければ言葉を認識できず、また最初から読み直さなければならないというのは、まさに〈さまよえるユダヤ人〉同様の永遠に終わらない苦行です。だからこそ読んでいる教師=さまよえるユダヤ人というのも腑に落ちるというものです。
 

「断頭遊戯」ホセ・レサマ=リマ/井上義一訳(Juegos de las decapitaciones,José Lezama Lima,1981)★★★☆☆
 ――幻術師ワン・ルンは皇帝を憎んでいた。そして后を愛していた。拍手喝采する観衆の中で、首を切り落とす刀の術を披露することにした。そのとき皇帝が后の首を使って行うようにと命じたのだ。ワン・ルンの演技が鮮やかに決まった。皇帝はワン・ルンを投獄することにした。ソー・リンが幻術師を助けて逃亡するだろうと考え、そうすれば民衆が自分に同情を寄せるだろうと考えたのである。ワン・ルンに置き去りにされたソー・リンは〈帝王〉と呼ばれる男の愛情を受けるようになった。

 キューバの作家。厳密な中国ではなくイメージとしての中国が舞台になっています。〈内部を外に開いて見せた〉二人の死が、マジック・リアリズム的な感覚なのか、神仙思想を作者なりに解釈したものなのか、よくわかりません。
 

「奪われた屋敷」フリオ・コルタサル鼓直(Casa tomada,Julio Cortázar,1946)★★★★☆
 ――わたしたちはその屋敷が気に入っていた。イレーネとわたしは、二人きりで広くて古いその屋敷で暮らすことに慣れていた。わたしたちが婚期を逃したのはこの屋敷のせいではないか、と考えることもあった。わたしたちは、いつか、ここで死を迎えるだろう。マテ茶を入れようと廊下を進み、台所へ通じる角を曲がろうとしたとき、食堂か書庫で妙な音がしたのを聞いた。手遅れにならぬうちに、わたしは扉に向かって突進し、体をぶつけて扉を閉めた。「廊下の扉を閉めることにしたよ。奥のほうは連中に奪われてしまった」

 アルゼンチンの作家。『世界幻想文学大全 怪奇小説精華』所収の「占拠された屋敷」木村榮一訳()で読んだことがあります。『動物寓話集』の一篇。滅びることが約束されているような家族とはいえ、自然消滅よりも早く得体の知れぬ何ものかに肝心の屋敷を追い出されてしまう、滅びることさえ許されない悲劇にさえ浸らせてくれない理不尽が待ち受けていました。
 

「波と暮らして」オクタビオ・パス/井上義一訳(Mi vida con la ola,Octavio Paz,1949)★★★☆☆
 ――その海を去ろうとしたとき、ひとつの波が打ち寄せてきた。ぼくの胸に飛び込んだかと思うと、今度は跳ねるようにしてぼくと歩き始めた。翌日からぼくの苦労が始まった。汽車に乗るにはどうしたらよいのだろう。あれこれ考えた末、飲料水のタンクを空にして、彼女をその中に注ぎ入れた。だが近くに座っていた子供たちが喉が渇いたと言ってタンクに近づき蛇口をひねった。ぼくは急いでその手を押さえたため、ちょっとした騒動になった。

 メキシコの作家。室生犀星「蜜のあはれ」を思わせるような、波と人間の男との恋愛譚。波であるだけに変幻自在、愛らしくもあれば恐ろしくもある魔性が見事に表現されていました。『世界文学全集3-05 短篇コレクション1』に野谷文昭訳「波との生活」()あり。
 

「大空の陰謀」アドルフォ・ビオイ=カサレス安藤哲行(La trama celeste,Adolfo Bioy Casares,1948)★★★★☆
 ――モリス大尉とセルビアン博士は十二月二十日、ブエノスアイレスから失踪した。博士の署名のある「モリス大尉の冒険」と題された原稿が残されていた。モリス大尉は軍用機のテスト中、視界が曇り……我にかえると白いベッドに寝ていた。将校が訊いた。「姓名は?」モリスが名前を言うと、将校が笑った。「国籍は?」「アルゼンチン」。友人の中尉がいたので声をかけたが、知らないと言われた。「ぼくはスパイと思われているのか?」看護婦にたずねた。

 アルゼンチンの作家。まるで『ミステリーゾーン』の一篇のような作品ですが、こちらの方が書かれたのは早い。額縁になっているため、計らずも語り手がロッド・サーリングの役割を担っているようなのも面白い偶然です。
 

「ミスター・テイラー」アウグスト・モンテローソ/井上義一訳(Míster Taylor,Augusto Monterroso,1959)★★★★☆
 ――パーシー・テイラー氏は怪しげな仕事に手を出して無一文になり、アマゾンの原住民に混じって暮らし始めた。あるとき原住民から干し首を押しつけられ、中南米の文化的産物に関心を示していた叔父に贈ることにした。やがて会社設立の協定が結ばれた。ミスター・テイラーは首を集め、叔父は自国内でできるだけ有利な条件で販売することになった。故国ではいまだに語り草になって伝えられるほどの大きなブームを呼んだ。

 グアテマラの作家。世界一短い小説「恐竜」の作者。干し首がアメリカで大ブームとなった偽史が描かれています。諷刺というよりブラック・ユーモアに近く、干し首の供給が追いつかずに死刑を強化するあたりの黒い笑いが強烈です。
 

「騎兵大佐」エクトル・アドルフォ・ムレーナ/鼓直(Héctor Adolfo Murena,El coronel de caballería,1956)★★★☆☆
 ――私は古い同僚に型どおりのお悔やみを述べると、会葬者の顔ぶれを確かめた。あの男に気づいたのはそのときだ。五十代だが若者のような体つき。われわれは記憶を探ったが、さっぱりだった。男はそのうち、口を閉じて鼻音で単語を発したり耳を動かしたりするゲームを始めた。次に歩兵をつかまえて、歩兵の連中は馬術の心得がないと言って相手を四つん這いにさせていた。それを死者の娘に目撃されたが、騎兵大佐であるらしい男が慌てることなく娘と話すと、娘の顔から険しさが薄らいでにっこりと笑った。辞去しようとしたとき男と一緒になった。上着を脱いだ男からは強烈な臭いが届いた。

 アルゼンチンの作家。編者あとがきによれば「死神」だそうですが、死神なのでしょうかこれは? 理不尽に命を刈り取る死神が、理不尽な上官と重ねられていると考えれば、死神の行動としては一貫していると言えなくもありません。ネット上の記事では少なくとも本名のミドルネームはÁlvarezのようですが、ペンネームがAdolfoなのかただの誤記なのか、いまいちわかりません。
 

「トラクトカツィネ」カルロス・フエンテス安藤哲行(Carlos Fuentes,Tlactocatzine, del jardín de Flandes,1954)★★☆☆☆
 ――ブエンビーラ弁護士は古い屋敷を買った。空き部屋ばかりのせいで人の温もりが欠けている、ということで、わたしはその屋敷でしばらく暮らすことになった。九月二十一日。庭を見ていた。鈍い音が聞こえて顔を上げると、ほぼ正面から何者かがわたしの目をうかがっていた。九月二十二日。通りに出ることも電話をかけることもできるはずだ……それなのになぜ、庭に面した窓辺から離れられないのか? 九月二十二日。老婆だった。九月二十三日。ドアの下に手紙が差し込まれていた。手紙にはたった一言……トラクトカツィネ。

 メキシコの作家。本書のなかでは珍しく、正統派の怪談らしい怪談で、そこが物足りなく感じてしまうのだからわたしも現金なものです。ネット上で検索したかぎりでは、トラクトカツィネとは、ナワトル語で皇帝を意味するとか、メキシコ皇帝マクシミリアンに原住民が送った称号だとか書かれているサイトもありますが、いまいち定かではありません。
 

ジャカランダ」フリオ・ラモン・リベイロ/井上義一訳(Julio Ramón Ribeyro,Los Jacarandas,1970)★★★★☆
 ――ロレンソ博士は用件を片づけにジャカランダの通りに面したその家に戻ってきた。「来てよかったわ」とオルガは言っていた。「あの彫刻の象はどういう意味かしら」と言ったこともあった。後任のミス・エヴァンズと飛行機で一緒になり、町の案内をする約束をしてきた。訪ねてきたミス・エヴァンズがレコードをかけようとした。するとあのときの声が聞こえた。「ねえ、ヴィヴァルディをかけて。それから先生を呼びに行って、ロレンソ、早く」。彼は針を下ろした。「信じられない」「どうなさったの?」とミス・エヴァンズが尋ねた。「すっぱりと決着をつけたいんです。そのためには思い出さなくては……どうして先生を呼びに行くのが遅れてしまったのか」

 ペルーの作家。妻を亡くした教授が新任の女性教師に妻の面影を幻視してしまう話――だったならわかりやすかったのですが、女性教師の方も影響を受けているらしいとなるといよいよわからなくなってきます。教授が妻の棺を墓地から掘り出したのは遺体解剖のためだと思ったのですがどうやらそのような様子もなく、お腹の子目的でもなく、遺体と一緒に帰国するわけにもいかないでしょうし、まさか反魂の術にでも用いるつもりだったのかと勘繰ってしまいました。

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 ラテンアメリカ怪談集 

『ミステリマガジン』2024年3月号No.763【繚乱たる華文ミステリ】

『ミステリマガジン』2024年3月号No.763【繚乱たる華文ミステリ】

「風船男」陳浩基《チャン・ホーケイ》/よしだかおり訳(氣球人,陳浩基,2011)★★★★☆
 ――五年前、金のクソじじいがオレの望み通りに、風船のように顔をパンパンに膨らませて死んだ。皮膚に直接触れて脳内の念を獲物の身体に送ると、相手の身体をコントロールできるようだ。効果を遅らせることもできた。以来『風船男』の名で揉め事を片付ける仕事を請け負ってきた。今日の仕事は少々厄介だった。裏社会の親分から、娘を弄んだ洪という男を片付けるよう依頼された。面倒なことに、「このクソったれを何も残らないように」『爆発』させて殺せと言ってきた。オレは洪の勤める銀行に融資を受けに行くふりをして、洪が金庫に一人でいるときに爆発するようにした。ところが帰る間際に銀行強盗に押し入られ身動きが取れなくなった。洪が爆発するまであと三十四分……。

 香港の作家。風船男シリーズの第0作。設定こそ特殊なものの、この第0作に関しては、自分が仕掛けた爆弾と一緒に閉じ込められてしまった状況からの脱出というオーソドックスなサスペンスでした。そしてこうした脱出サスペンスの形にすることで、【入れ替わり殺人】という犯人側の目論見から読者の目を逸らすことにも成功しています。
 

「鞠球《まりだま》奇案・撃鞠《ポロ》篇」遠寧《ユェンニン》/山田俊訳(大唐狄公案番外篇 击鞠,远宁,2010)★☆☆☆☆
 ――狄仁傑は撃鞠競技場に来ていた。試合中に馬が暴れ、あわや大惨事となるところだった。チーム隊長の楊駢の陰険な視線を、狄公は見逃さなかった。観戦していた老人によれば、ここでは二年前にも嫌な出来事が起こっていた。落馬した騎手が馬に踏み殺されたのだ。世話係が毒を与えていたことがわかったが、その少年は直後に自殺していた。踏み殺された男の親友・斉驥は、不正を調査していた親友が謀殺されたのだと狄公に訴えた。狄公は暴れた馬が舞馬だったことを突き止めた。そして事件の日に太鼓を叩いたのは楊駢だった。だが楊駢。

 中国の作家。コピーライトが行舟文化なので、「華文ミステリ招待席」の番外編の模様。狄公案が好きだった著者が書いた狄仁傑もの。ロバート・ファン・ヒューリックの狄判事シリーズも楽しめなかったし、どうもわたしにはこの狄判事の魅力というのがよくわかりません。
 

「紫金陳の「犯罪事件」叙事」戦玉氷《ジャン・ユーシュイ》/山田俊訳(战玉冰)
 ――紫金陳の推理小説は探偵の視点からではなく「犯罪者」の視点から描かれることが多く、そこに作者の正義に対する「イメージ」のあり様が描かれている。探偵と犯罪者の知能戦において、小説は専門知識に関する「イメージ」と固執に満ちている。それが即ち「高知能犯罪」である。その一方、現場物証や監視カメラ映像などの「事実理性」よりも「論理的理性」により多くの信頼を置く。即ち「推理之王」が「無証之罪」を暴くものである。この二重の意味で、紫金陳の「社会派」推理小説は実は社会性を否定し、非現実性に傾斜するものであり、伝統的意味での「本格派」トリックや「不可能犯罪」を追求するものではなく、遊戯性と虚構性の創作の範疇に入るものである。また、紫金陳は小説の読み易さを追求し、「小説」を「物語」に降格させることで、文学的複雑性を一部損なっている。

 評論。原題はおそか発表年も不明、書き下ろしなのかどうかすらわからない。著者の読みは恐らくジャン・ユーピンであり、本誌のルビは氷を水と読み違えているものと思しい。そもそも紫金陳の作品を読んだこともないうえに、同じ言葉が使われていても社会的背景や文学的背景を踏まえた中国の用法と日本の用法に齟齬があるようで、ピンと来ません。
 

「紫金陳ミステリ未訳作品ガイド」

『検察官の遺言』紫金陳《ズージンチェン》/大久保洋子(长夜难明,紫金陈,2017)
 ――スーツケースから発見された検察官の遺体。それは、中国現体制の恐るべきタブーを暴く――(袖惹句)

 〈推理之王〉シリーズ第3作の冒頭掲載。第2作が『悪童たち』で、第1作は未訳。著者名の読みは「ズージン・チェン」とも「ズー・ジンチェン」とも定まってないらしい。取り調べで殺人を認めながら、裁判で一転して否定して無理矢理自白させられたと訴えるのは、明らかに問題提起が目的っぽいので、では何を訴えたいのか――がポイントでしょうか。社会派ミステリだそうです。
 

「紫金陳インタヴュー」
 

「地図で見る両京十五日」

『両京十五日Ⅰ 凶兆』馬伯庸《マー・ボーヨン》/齊藤正高・泊功訳(两京十五日,马伯庸,2020)
 ――命を狙われた父親を救うため、皇太子は南京から北京へと決死行を開始する!(袖惹句)

 ポケミス2000番記念作品の冒頭掲載。
 

『楽園こそ探偵の偏在(1)愛情』斜線堂有紀
 『楽園とは探偵の不在なり』のスピンオフ連載。連作短篇と書かれているので、単独で読んでもよさそうな気もしますが、『不在なり』を未読なので安全策を取っておくことに。

「迷宮解体新書(138)藤つかさ」村上貴史
 

「書評など」
青崎有吾『地雷グリコ』は、ゲームや子どもの遊びにルールをプラスして「複雑かつ先が読めない対戦を演出している」という発想に惹かれます。

横関大『戦国女刑事』は、歴史上の人物がモデルとなった女尊男卑社会のパラレルワールドが警察が舞台の連作短篇集。これだけ聞くと色物のようですが、「すべて趣向の凝らされた倒叙ミステリ」

◆復刊・新訳レビューでは、ハヤカワ・ジュニア・ミステリのクリスティーポアロのクリスマス』『クリスマス・プディングの冒険』もフォロー。完訳だからジュニア・ミステリからクリスティー文庫行きも可能なのか。
 

「おやじの細腕新訳まくり(33)」

「鞄の中の猫の奇妙な恐怖」ドロシイ・セイヤーズ田口俊樹訳(The Fantastic Horror of The Cat in The Bag,Dorothy L. Sayers,1926)★★★☆☆
 ――バイク乗りが猛スピードで曲がりくねった道を走っていた。〈ノートン〉に乗っている男が振り向いて、〈スコット〉に乗った追っ手を煽るように手を振った。交通整理に当たっていた巡査がふたりに気づいてバイクを止めた。「おまえが鞄を落としたから追っかけてきたんだぞ」という〈スコット〉に、〈ノートン〉も言い返した。「それはおれのじゃない。見たこともない」。なおも言い争ううち、鞄の角が濡れて染み出しているのに〈スコット〉ウォルターズが気づいた。女性の頭部だった。「おれじゃない!」〈ノートン〉シンプキンズが叫んだ。そのとき背後から声がした。「お巡りさん、荷台に鞄を乗せたバイクを見かけなかっただろうか?」宝石入りの鞄を盗まれたピーター卿だった。

 ピーター卿もの。『ピーター卿の遺体検分記』にも「瓢箪から出た駒をめぐる途方もなき怪談」の邦題で収録されています。その訳者・井伊順彦氏の解説によるとタイトルは「意外な代物」の意であり、「ふつうは buy a cat in the bag という成句で用いられる。よく調べもしないで(好ましくない)品物を買うの意だ。」と書かれてありますが、『ランダムハウス』によれば「buy a cat in the bag」は米語のようだし、『研究社新英和』等にも載っている「猫を袋に入れて豚だと言って売ろうとしたが, 猫がとび出てきたとの故事から」「the cat is out of the bag」で「秘密が漏れる」が由来のタイトルだと考えた方がしっくり来ます。
 バイクによるチェイスという意外と映像的な導入に驚きました。とは言え物理トリックが大好きだった著者のことですから、絵的なセンスというのはもともと持っていたのかもしれません。ホームズの時代からよくある取り違えものですが、よりにもよって探偵自身が自分のものを盗まれるというのは、犯人にとってはお気の毒さまとしか言いようがありません。

 

「赤い旗」グレゴリー・ファリス/中山宥訳(Red Flag,Gregory Fallis,2022)★★★★☆
 ――ポーターは〈カップビーン・コーヒーショップ〉の常連客だ。いつからか盗み聞きが面白くなっていた。今は若い母親が娘の話をしている。「ソフィーが心配なの。あの子、蟻に餌をやってるのよ」。経理士のビアードが店に入ってきた。グラディス・リプトンというクライアントには義理の息子マークがいて、銃乱射事件に関わるのではないかと心配しているという。被害者としてではなく――。ポーターは脇役として出演していた『名弁護士マーシャ・マディソン』が打ち切りになったあと、オーディションの順番待ちをしていた。そこに人種差別主義者が侵入して銃を乱射した。ポーターも腕を撃たれ、割れた瓶で顔を切った。銃撃事件の被害者と話をすれば、息子にもいい影響が出るのではないかというのが義母の言い分だった。ポーターはマークと話をしてみたが、マークの考えは変わらないようだった。ポーターは警察にも相談したが、現時点でマークを阻止する手だてはないという。特にレッド・フラッグ法のないミシガン州では――。

 カフェで聞こえてくる世間話の内容が、そのまま闇を抱えた青年の問題とも重なり、また中盤ではその世間話が爆発のトリガーにもなるなど、一つの要素に複数の機能を持たせる点はよく出来ています。なにも銃規制に限らず、事件が起こるまでは警察は何もしてくれないというのは日本でも同じです。そこで一歩踏み込んだのと引き替えに、主人公は心地よい居場所を失いました。果たして自分の行動は正しかったのかどうか、答えは永遠に出ないのでしょう。ERPO(通称レッド・フラッグ法)とは作中の刑事の言によれば、「自己もしくは他者に対し差し迫った危険をはらんでいる兆候――いわば〝赤い旗《レッド・フラッグ》〟――を示した場合、その人物から一時的に銃を取り上げることができる法律」とのこと。
 

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 ミステリマガジン 2024年3月号 

『ウィッシュ』『ワンス・アポン・ア・スタジオ 100年の思い出』(ディズニー,米,2023)★★★☆☆

『ウィッシュ』『ワンス・アポン・ア・スタジオ 100年の思い出』(ディズニー,米,2023)

 『WISH』『Once Upon A Studio』

 クリス・バック他監督。ジェニファー・リー脚本。生田絵梨花福山雅治他吹替。

 本篇上映前に、ディズニーキャラ大集合の記念撮影短篇『ワンス・アポン・ア・スタジオ』が上映されていました。

 前評判では世界各国で予想興行収入を下回った失敗作との言われよう。やれポリコレにうんざりだの、やれディズニー自体が落ち目だのの声が聞こえていました。

 実際に観てみたところ、まずポリコレ云々はあまり感じませんでした。顔や指がデフォルメされているのにアーシャのそばかすだけがリアルだったのが不自然なくらいでした。白雪姫やシンデレラでは悪いお妃や継母だったポジションが悪い男の王様になっているのも、ことさらに言うほどではないでしょう。アーシャの祖父サバが老いて背が曲がってがに股で虫みたいな気持ち悪い動きをすると感じてしまったのですが、これはあるいは『ノートルダムの鐘』のような障害を持った描写だったのかもしれせん。

 肝心のストーリーは、100周年記念ということで、『ウィッシュ』のタイトル通り「星に願いを」になぞらえたものでした。

 魔法使いの王様が治めている国ロサスでは、18歳になると願い事を王様に差し出す決まりでした。年に数回、国王マグニフィコに選ばれた願い事が叶えられていましたが、願い事を差し出した本人は願いの内容を忘れてしまうのでした。18歳を控える少女アーシャは、王の弟子になり100歳になる祖父サバの願いを叶えてもらおうとします。ところが国王は、音楽で人の心を動かしたいというサバの願いを、他人に悪影響を及ぼす恐れがあると判断しました。そうして永遠に叶えられないまま朽ちてゆく願いがあることを知ったアーシャは、国王からサバたちの願いを取り戻して解放しようとします。そうして夜空に願ったアーシャの許に、星が訪れるのでした。その星の光を見た国王は、違法に魔法を使った者がいると考え、反乱者を見つけようと血眼になりました。

 星に願いを=他力本願なのに、願い=希望の力みたいなテーマなのは、焦点がぼやけているんじゃないかという気がします。

 アーシャは正義感が強いとかいうわけではなくただわがままなだけで、自分と違う考えの相手を悪と決めつけるようなところはありますが、へたに葛藤などしても間延びするだけですし、映画ではよくある性格付けの範疇でしょう。

 星が神様の使いというわけでもなく、星自体に何かの意思があるわけでもなく、ただアーシャの願いを叶えるためだけにやって来たという、よくわからない存在でした。媚び媚びのデザインの、丸っこい星です。それこそ昔のディズニーだったら、人型や動物型の存在が星を背負っているようなデザインだったんじゃないかと思いました。この星が何の意味もなく動物に言葉をしゃべらせ、歌を歌わせます。確かにディズニーっぽいですよ。アーシャと飼い山羊のやり取りだったり、鶏のミュージカルだったり。でもそこに至るのに、ただの星の気まぐれじゃなく、もう一工夫ほしかったところです。

 王様が「鏡よ、鏡」のオマージュをするナルシストの魔法使いで、こいつがまあ表情豊かに歌うわ踊るわ怒るわ願いを吸収してパワーアップするわの面白い奴でした。(表向き)慈悲深き王から、ただの支配欲の塊へと化けの皮が剥がれ、遂には黒魔術に自我を奪われるまで、文字通りの独壇場です。悪役が一人だけなので、悪役シーンのいいところは全部この人が持っていくんですよね。

 ほかにもアーシャの友人=七人の小人のオマージュなど、いろいろとまぶされているようですが、全体的に取って付けた感じで、オマージュの悪い例だと感じました。記念作品って、意識しすぎたりしがらみがありすぎたりで、たいてい微妙になってしまうんですよね。批判されるほど悪くはないけれど、名作とは言えない作品でした。

 

『ゴジラ-1.0(マイナス・ワン)』(東宝,2023)★★★☆☆

ゴジラ-1.0(マイナス・ワン)』(東宝,2023)

 山崎貴監督・脚本。神木隆之介浜辺美波吉岡秀隆、他出演。

 ゴジラ映画をちゃんと見るのは実は初めて。

 上映前の予告編で流れた『ゴールデン・カムイ』の新品コスプレ衣装を見ていたので、『ゴジラ-1.0』の第一印象は「ちゃんと着古した衣装を作れるんじゃん」でした。

 飛行機の故障だを偽り整備基地に不時着した特攻隊員・敷島(神木隆之介)。その夜、基地は突如現れた怪獣に襲われ、敷島が機銃を撃たず逃げ出したこともあり、敷島と整備士・橘(青木崇高)を除いて全滅してしまう。地元の整備士の話では、その海獣ゴジラと呼ばれていた。

 死んだ整備士たちの家族の写真を預かったまま、橘は東京に帰るが、空襲で東京は瓦礫の山と化し、両親も死亡していた。子どもを亡くした隣家の主婦・澄子(安藤サクラ)から責められても何も言えない敷島だったが、アキコという赤ん坊を連れた典子(浜辺美波)という女性に居座られてしまう。死に際の女性から赤ん坊を頼まれ、育てる当てもないまま預かったという典子を追い出すこともできず、奇妙な三人暮らしが始まった。

 そうして生活のためにようやく見つけた仕事は、機雷撤去という危険なものだった。金属に反応する機雷を避けるため木造のおんぼろ船に乗り込み、敷島は船長や学者(吉岡秀隆)らとともに機雷撤去を始めた。仕事は順調だったが、死なせてしまった整備士たちとゴジラの悪夢を見ない夜はなかった。

 そんななかゴジラが沖合に現れ、敷島たちの船は戦艦到着までの足止めを命じられた。だが船にあるのは接収した機雷2発と機銃のみ……。

 一応ファミリー向けを意識しているのか、ゴジラに襲われても身体が千切れたり血がほとばしったりすることはなく、安心安全に見ていられます。ゴジラの意図も目的も一切不明、為すすべもなくひたすら蹂躙されるだけの、悪鬼のような大怪獣ゴジラが印象づけられました。

 そこからは人間ドラマパート。日本の映画らしくドラマパートがやたらと長い。長いだけじゃなくいちいちクサイ。偶然の出会いと共同生活、敵役に見えた隣人との和解、ムードメイカー的な船員たち……etc.。

 やがて再び現れたゴジラ。口内で機雷を爆発させても再生するターミネーターのような無茶苦茶さ、戦艦の攻撃も一蹴する無敵ぐあい。たとえ不時着した基地で襲われたとき機銃で撃っていたとしても無駄だったことがわかります。が、それは結果論でもあるし、問題は見捨てたという事実なわけですが。

 この罪悪感が思った以上に尾を引いていました。「夢を見ない日はない」と言いながら、夢のシーンを何度も流さないのは思い切っていました。下手な映画ならくどくどやるところでしょう。押しかけ女房やら新しいやら生きるのに忙しくてそんなことを考える暇もない……わけではないのだと、唐突に現実を突きつけられるようでした。

 それだけに、東京にゴジラが上陸したときの展開【※ネタバレ*1】は、衝撃でした。あれだけ人を死なせたことに縛られていた人間がそんな目に遭ったら、壊れてしまうだろう……と。だからこそ、安易な結末にはがっかりでした。これだけ死への思いを扱っておきながら、所詮は作り手にとって人の生き死にはエンタメの道具だったとさ。

 何はなくともこれで敷島も日本人も覚悟が決まり、ゴジラ討伐に向かって動き始めます。ゴジラが熱線を撃つとき、なぜかスイッチのように背びれが一つ一つ飛び出してカウントダウンしてゆくのは、動物はおろか怪獣ばなれしています。怪獣どころかまるでロボットのようなそうした体の作りをはじめ、どう見ても無敵に設定しすぎたゴジラを倒すのが、銃撃や爆撃や必殺技ではなく科学的な発想によるものというのが、ありがちとはいえ怪獣映画としては異色(?)なのでしょうか。でも結局は力業でしたね。そもそもの作戦も雑ですし。それはそうと【ネタバレ*2】の伏線はあからさますぎるのは、やはりファミリー向けを意識して子どもにもわかりやすくしているのでしょうか。

 最後はなぜか続々と味方が集まってきて、ヒーローものをやりたいのかリアルなのをやりたいのか、どっちかにして欲しかったところです。

 悪評高い『ALWAYS三丁目の夕日』『STAND BY MEドラえもん』等の監督なので、見る前は不安でしたが、過去へのノスタルジーやベタベタの泣かせは無くてホッとしています。この監督のほかの作品も見たいとは思いませんでしたが。

 ゴジラのテーマがゴジラ登場やゴジラ上陸のシーンではなく、人間がゴジラを倒しに行くシーンで流れていたのが印象的でした。




 

 

 

*1 ゴジラの熱線による衝撃波から、典子が敷島をかばって突き飛ばし、典子は吹き飛ばされて敷島だけが助かる。

*2 脱出装置

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