ゴジラ映画をちゃんと見るのは実は初めて。
上映前の予告編で流れた『ゴールデン・カムイ』の新品コスプレ衣装を見ていたので、『ゴジラ-1.0』の第一印象は「ちゃんと着古した衣装を作れるんじゃん」でした。
飛行機の故障だを偽り整備基地に不時着した特攻隊員・敷島(神木隆之介)。その夜、基地は突如現れた怪獣に襲われ、敷島が機銃を撃たず逃げ出したこともあり、敷島と整備士・橘(青木崇高)を除いて全滅してしまう。地元の整備士の話では、その海獣はゴジラと呼ばれていた。
死んだ整備士たちの家族の写真を預かったまま、橘は東京に帰るが、空襲で東京は瓦礫の山と化し、両親も死亡していた。子どもを亡くした隣家の主婦・澄子(安藤サクラ)から責められても何も言えない敷島だったが、アキコという赤ん坊を連れた典子(浜辺美波)という女性に居座られてしまう。死に際の女性から赤ん坊を頼まれ、育てる当てもないまま預かったという典子を追い出すこともできず、奇妙な三人暮らしが始まった。
そうして生活のためにようやく見つけた仕事は、機雷撤去という危険なものだった。金属に反応する機雷を避けるため木造のおんぼろ船に乗り込み、敷島は船長や学者(吉岡秀隆)らとともに機雷撤去を始めた。仕事は順調だったが、死なせてしまった整備士たちとゴジラの悪夢を見ない夜はなかった。
そんななかゴジラが沖合に現れ、敷島たちの船は戦艦到着までの足止めを命じられた。だが船にあるのは接収した機雷2発と機銃のみ……。
一応ファミリー向けを意識しているのか、ゴジラに襲われても身体が千切れたり血がほとばしったりすることはなく、安心安全に見ていられます。ゴジラの意図も目的も一切不明、為すすべもなくひたすら蹂躙されるだけの、悪鬼のような大怪獣ゴジラが印象づけられました。
そこからは人間ドラマパート。日本の映画らしくドラマパートがやたらと長い。長いだけじゃなくいちいちクサイ。偶然の出会いと共同生活、敵役に見えた隣人との和解、ムードメイカー的な船員たち……etc.。
やがて再び現れたゴジラ。口内で機雷を爆発させても再生するターミネーターのような無茶苦茶さ、戦艦の攻撃も一蹴する無敵ぐあい。たとえ不時着した基地で襲われたとき機銃で撃っていたとしても無駄だったことがわかります。が、それは結果論でもあるし、問題は見捨てたという事実なわけですが。
この罪悪感が思った以上に尾を引いていました。「夢を見ない日はない」と言いながら、夢のシーンを何度も流さないのは思い切っていました。下手な映画ならくどくどやるところでしょう。押しかけ女房やら新しいやら生きるのに忙しくてそんなことを考える暇もない……わけではないのだと、唐突に現実を突きつけられるようでした。
それだけに、東京にゴジラが上陸したときの展開【※ネタバレ*1】は、衝撃でした。あれだけ人を死なせたことに縛られていた人間がそんな目に遭ったら、壊れてしまうだろう……と。だからこそ、安易な結末にはがっかりでした。これだけ死への思いを扱っておきながら、所詮は作り手にとって人の生き死にはエンタメの道具だったとさ。
何はなくともこれで敷島も日本人も覚悟が決まり、ゴジラ討伐に向かって動き始めます。ゴジラが熱線を撃つとき、なぜかスイッチのように背びれが一つ一つ飛び出してカウントダウンしてゆくのは、動物はおろか怪獣ばなれしています。怪獣どころかまるでロボットのようなそうした体の作りをはじめ、どう見ても無敵に設定しすぎたゴジラを倒すのが、銃撃や爆撃や必殺技ではなく科学的な発想によるものというのが、ありがちとはいえ怪獣映画としては異色(?)なのでしょうか。でも結局は力業でしたね。そもそもの作戦も雑ですし。それはそうと【ネタバレ*2】の伏線はあからさますぎるのは、やはりファミリー向けを意識して子どもにもわかりやすくしているのでしょうか。
最後はなぜか続々と味方が集まってきて、ヒーローものをやりたいのかリアルなのをやりたいのか、どっちかにして欲しかったところです。
悪評高い『ALWAYS三丁目の夕日』『STAND BY MEドラえもん』等の監督なので、見る前は不安でしたが、過去へのノスタルジーやベタベタの泣かせは無くてホッとしています。この監督のほかの作品も見たいとは思いませんでしたが。