『ラテンアメリカ怪談集』J・L・ボルヘス他/鼓直編(河出文庫)★★★★☆

ラテンアメリカ怪談集』J・L・ボルヘス他/鼓直編(河出文庫

 1990年に出ていたものの新装復刊本。編者あとがきによればラテンアメリカにはジャンルとしての怪談は(少なくとも当時)なかったらしく、あとがきもほとんどが幻想小説について割かれていました。
 

「火の雨」レオポルド・ルゴネス/田尻陽一訳(La lluvia de fuego,Leopoldo Lugones,1906)★★★☆☆
 ――その日はすばらしい天気で、通りは人であふれていた。十一時頃、最初の火の粉が落ちてきた。灯心のはぜる火の粉のように、銅の粒が落ちてきた。突然、庭を横切っていた奴隷が叫び声を上げた。背中に穴が開いていて、その奥にはまだ貪欲な火の粉がはぜているようだった。空には銅山なんてない。火の粉はどこからともなく降ってくる。逃げる? 理屈で考えれば砂漠にも湖にも降っているはずだ。

 アルゼンチンの作家。ソドムとゴモラ同様の世界の破滅を描いた作品――だと思っていたのですが、作中に登場するアデマとゼボイムという町の名前からすると、どうやらソドムとゴモラそのもののようです。人々は第二波に備えたり防ぐ手だてを考えることもなく浮かれ騒ぎ、語り手はいつでも楽に死ねる手段を手にしているという安心感で落ち着き、誰もが抵抗するでもなくあっさりと滅びます。滅びの生々しさを伝えるのは人間よりもむしろライオンたちでした。
 

「彼方で」オラシオ・キローガ/田尻陽一訳(Más allá,Horacio Quiroga,1934)★★★☆☆
 ――私は絶望していました、と声は言った。彼とつきあうな、と両親からはっきりと言われたのです。「おまえがあいつの腕に抱かれるぐらいなら、死んだおまえを見るほうがましだ」。そのとき私は死ぬことを決心したのです。そう、一緒に死ぬのよ。一週間後、私たちはホテルのベッドで初めての、清い、そして最後の抱擁をしたあと、同時に毒を飲みました。我に返ると、彼は透けていました。それで、私も彼も死んでいることがわかりました。三か月のあいだ、私は幸福そのものでした。

 ウルグアイの作家。これまで読んだ著者の作品は土俗的なものが多かったので、心霊的な現象が描かれているのは意外でした。肉体を離れて魂だけでは幸せになれず肉体と共に二度目の死を迎えるというのはキリスト教ともまた違う独特な死生観ではありました。
 

「円環の廃墟」ホルヘ・ルイス・ボルヘス鼓直(Jorge Luis Borges,Las Ruinas Circulares,1944)★★★★☆
 ――彼は闇夜に上陸し、土手を這いあがって円形の場所にたどり着いた。そこは神殿だったが昔の火事で焼けくずれていた。疲れからではなく意志の決断にしたがって眠った。彼の望みは、一人の人間を夢みることだった。細部まで完全なかたちでそれを夢みて、現実へと押しやることだった。円形の階段教室の中央にいる自分を夢にみた。大勢の学生が階段席を埋めていた。

 アルゼンチンの作家。言わずと知れた超名作です。夢に見た人間を実体化するという奇想の過程をそのまま描き出しているところや、円環というのが場所のことだけではなく作品の構造をも指しているところなど、忘れがたい魅力があります。三都慎司『ダレカノセカイ』は「トレーン、ウクバール、オルビス・テルティウス」だけでなくこの作品の影響もあることに今さら気づきました。
 

「リダ・サルの鏡」ミゲル・アンヘル・アストゥリアス/鈴木恵子訳(El espejo de Lida Sal,Miguel Ángel Asturias,1967)★★★★☆
 ――混血娘のリダ・サルは、目の悪いベニート・ホホンと聖母の祭りの世話係のおしゃべりに耳を澄ませていた。「聖母さまの供回りの装束にはな、魔力があるんじゃよ」「今じゃみんな信じてないし、衣裳を引き受ける女子衆がいない」。リダ・サルは帰りかけていたベニート・ホホンの腕をつかんだ。「あたし、惚れた男がいるんだけど、振り向いてくれなくて……」「あんたが衣裳をいく晩も着て寝るんじゃ。相手がその衣裳を祭りに着ると、お呪いが効く。全身を鏡に映すことが必要じゃ」

 グアテマラの作家。日本の民話にもありそうな一途さゆえの悲恋です。けれど時代は(やや昔の)現代。もはやまじないを信じる人も少なく、祭事への参加を促してもうさん臭がられるような世界です。それでも鏡すらないような貧富の差は歴然としてあるという、現代日本から見ると不思議な雰囲気が漂っていました。
 

ポルフィリア・ベルナルの日記」シルビナ・オカンポ/鈴木恵子訳(El diario de Porfiria Bernal,Silvina Ocampo,1961)★★★★☆
 ――時が迫っている今、この文に残すことになる過ちの数々を思うと身震いのする思いがします。私の名はアントニア・フィールディング。三十歳、イギリス人です。家庭教師をして長年アルゼンチンで暮らしてきました。ポルフィリアと初めて会ったとき、そのいかにも従順そうな外見に私はすっかりだまされたのです。彼女が日記をつける気になったのは私の考えでした。「日記には本当のことを書かなければいけないの」

 アルゼンチンの作家。ビオイ=カサーレスの妻。アンファン・テリブルものらしいことはわかるものの初めのうちはどこが怖いのかさっぱりでした。それが一通り日記の記述が終わってから明らかになる事実で、一気に恐怖に引き込まれます。恐るべきどころか魔性の子どもでした。しかも異類変身譚という要素まである贅沢な一篇でした。ポルフィリアが恐ろしいのか、フィールディングが正気を失っているのか、どちらともつかないのが一層の恐ろしさを煽ります。
 

「吸血鬼」マヌエル・ムヒカ=ライネス/木村榮一(El vampiro,Manuel Mujica Láinez,1967)★★★☆☆
 ――国王カール九世の従兄弟にあたるザッポ十五世フォン・オルブス老男爵に残された財産といえば、ヴュルツブルクの城と悪魔の毛房の通路と呼ばれる屋敷だけだった。ロンドンのホラー映画専門会社と脚本家ミス・ゴディヴァ・ブランディがこれに目をつけ、新作映画の舞台に選んだ。いざ男爵に会ってみると、これまで創造してきた怪奇映画の登場人物が残らず色褪せてしまうような超人的な人物だった。そこで製作者のマックスは男爵に吸血鬼役をオファーし、男爵も同意した。男爵が本物の吸血鬼だと気づいたのはミス・ブランディだけだった。

 アルゼンチンの作家。吸血鬼もののパロディです。ロンドンの側にとって飽くまで吸血鬼とは映画のなかの存在であるのに対し、吸血鬼側は何から何まで古くさいままです。男爵は血筋に誇りを持つようなどこまでも古くさい怪奇小説の登場人物であるのに、悪を為すから退治されるのでなく、自分だけ血を吸われなかった腹いせで脚本家に退治されてしまうというのが惨めです。
 

「魔法の書」エンリケアンデルソンインベル鼓直(El Grimorio,Enrique Anderson Imbert,1961)★★★☆☆
 ――古代史の教師ラビノビッチは、一軒の古本屋に入った。一冊の本は文字でびっしり埋まっていた。ローマ字であるにもかかわらずさっぱり読めなかった。切れ目も大文字も句読点もない。しかも彼の字に似ていた。暗号だろうか。何気なく一行目に目をやると、ちゃんと読むことができた。「読者よ、旅の仲間よ、私はかの〈さまよえるユダヤ人〉である。……」驚いて目を離すとまた読めなくなり、一行目の最初の文字を探すと、再び言葉がはっきりと浮かび上がった。「読者よ、旅の仲間よ……」

 アルゼンチンの作家。一行目から目を離さずに読み続けなければ言葉を認識できず、また最初から読み直さなければならないというのは、まさに〈さまよえるユダヤ人〉同様の永遠に終わらない苦行です。だからこそ読んでいる教師=さまよえるユダヤ人というのも腑に落ちるというものです。
 

「断頭遊戯」ホセ・レサマ=リマ/井上義一訳(Juegos de las decapitaciones,José Lezama Lima,1981)★★★☆☆
 ――幻術師ワン・ルンは皇帝を憎んでいた。そして后を愛していた。拍手喝采する観衆の中で、首を切り落とす刀の術を披露することにした。そのとき皇帝が后の首を使って行うようにと命じたのだ。ワン・ルンの演技が鮮やかに決まった。皇帝はワン・ルンを投獄することにした。ソー・リンが幻術師を助けて逃亡するだろうと考え、そうすれば民衆が自分に同情を寄せるだろうと考えたのである。ワン・ルンに置き去りにされたソー・リンは〈帝王〉と呼ばれる男の愛情を受けるようになった。

 キューバの作家。厳密な中国ではなくイメージとしての中国が舞台になっています。〈内部を外に開いて見せた〉二人の死が、マジック・リアリズム的な感覚なのか、神仙思想を作者なりに解釈したものなのか、よくわかりません。
 

「奪われた屋敷」フリオ・コルタサル鼓直(Casa tomada,Julio Cortázar,1946)★★★★☆
 ――わたしたちはその屋敷が気に入っていた。イレーネとわたしは、二人きりで広くて古いその屋敷で暮らすことに慣れていた。わたしたちが婚期を逃したのはこの屋敷のせいではないか、と考えることもあった。わたしたちは、いつか、ここで死を迎えるだろう。マテ茶を入れようと廊下を進み、台所へ通じる角を曲がろうとしたとき、食堂か書庫で妙な音がしたのを聞いた。手遅れにならぬうちに、わたしは扉に向かって突進し、体をぶつけて扉を閉めた。「廊下の扉を閉めることにしたよ。奥のほうは連中に奪われてしまった」

 アルゼンチンの作家。『世界幻想文学大全 怪奇小説精華』所収の「占拠された屋敷」木村榮一訳()で読んだことがあります。『動物寓話集』の一篇。滅びることが約束されているような家族とはいえ、自然消滅よりも早く得体の知れぬ何ものかに肝心の屋敷を追い出されてしまう、滅びることさえ許されない悲劇にさえ浸らせてくれない理不尽が待ち受けていました。
 

「波と暮らして」オクタビオ・パス/井上義一訳(Mi vida con la ola,Octavio Paz,1949)★★★☆☆
 ――その海を去ろうとしたとき、ひとつの波が打ち寄せてきた。ぼくの胸に飛び込んだかと思うと、今度は跳ねるようにしてぼくと歩き始めた。翌日からぼくの苦労が始まった。汽車に乗るにはどうしたらよいのだろう。あれこれ考えた末、飲料水のタンクを空にして、彼女をその中に注ぎ入れた。だが近くに座っていた子供たちが喉が渇いたと言ってタンクに近づき蛇口をひねった。ぼくは急いでその手を押さえたため、ちょっとした騒動になった。

 メキシコの作家。室生犀星「蜜のあはれ」を思わせるような、波と人間の男との恋愛譚。波であるだけに変幻自在、愛らしくもあれば恐ろしくもある魔性が見事に表現されていました。『世界文学全集3-05 短篇コレクション1』に野谷文昭訳「波との生活」()あり。
 

「大空の陰謀」アドルフォ・ビオイ=カサレス安藤哲行(La trama celeste,Adolfo Bioy Casares,1948)★★★★☆
 ――モリス大尉とセルビアン博士は十二月二十日、ブエノスアイレスから失踪した。博士の署名のある「モリス大尉の冒険」と題された原稿が残されていた。モリス大尉は軍用機のテスト中、視界が曇り……我にかえると白いベッドに寝ていた。将校が訊いた。「姓名は?」モリスが名前を言うと、将校が笑った。「国籍は?」「アルゼンチン」。友人の中尉がいたので声をかけたが、知らないと言われた。「ぼくはスパイと思われているのか?」看護婦にたずねた。

 アルゼンチンの作家。まるで『ミステリーゾーン』の一篇のような作品ですが、こちらの方が書かれたのは早い。額縁になっているため、計らずも語り手がロッド・サーリングの役割を担っているようなのも面白い偶然です。
 

「ミスター・テイラー」アウグスト・モンテローソ/井上義一訳(Míster Taylor,Augusto Monterroso,1959)★★★★☆
 ――パーシー・テイラー氏は怪しげな仕事に手を出して無一文になり、アマゾンの原住民に混じって暮らし始めた。あるとき原住民から干し首を押しつけられ、中南米の文化的産物に関心を示していた叔父に贈ることにした。やがて会社設立の協定が結ばれた。ミスター・テイラーは首を集め、叔父は自国内でできるだけ有利な条件で販売することになった。故国ではいまだに語り草になって伝えられるほどの大きなブームを呼んだ。

 グアテマラの作家。世界一短い小説「恐竜」の作者。干し首がアメリカで大ブームとなった偽史が描かれています。諷刺というよりブラック・ユーモアに近く、干し首の供給が追いつかずに死刑を強化するあたりの黒い笑いが強烈です。
 

「騎兵大佐」エクトル・アドルフォ・ムレーナ/鼓直(Héctor Adolfo Murena,El coronel de caballería,1956)★★★☆☆
 ――私は古い同僚に型どおりのお悔やみを述べると、会葬者の顔ぶれを確かめた。あの男に気づいたのはそのときだ。五十代だが若者のような体つき。われわれは記憶を探ったが、さっぱりだった。男はそのうち、口を閉じて鼻音で単語を発したり耳を動かしたりするゲームを始めた。次に歩兵をつかまえて、歩兵の連中は馬術の心得がないと言って相手を四つん這いにさせていた。それを死者の娘に目撃されたが、騎兵大佐であるらしい男が慌てることなく娘と話すと、娘の顔から険しさが薄らいでにっこりと笑った。辞去しようとしたとき男と一緒になった。上着を脱いだ男からは強烈な臭いが届いた。

 アルゼンチンの作家。編者あとがきによれば「死神」だそうですが、死神なのでしょうかこれは? 理不尽に命を刈り取る死神が、理不尽な上官と重ねられていると考えれば、死神の行動としては一貫していると言えなくもありません。ネット上の記事では少なくとも本名のミドルネームはÁlvarezのようですが、ペンネームがAdolfoなのかただの誤記なのか、いまいちわかりません。
 

「トラクトカツィネ」カルロス・フエンテス安藤哲行(Carlos Fuentes,Tlactocatzine, del jardín de Flandes,1954)★★☆☆☆
 ――ブエンビーラ弁護士は古い屋敷を買った。空き部屋ばかりのせいで人の温もりが欠けている、ということで、わたしはその屋敷でしばらく暮らすことになった。九月二十一日。庭を見ていた。鈍い音が聞こえて顔を上げると、ほぼ正面から何者かがわたしの目をうかがっていた。九月二十二日。通りに出ることも電話をかけることもできるはずだ……それなのになぜ、庭に面した窓辺から離れられないのか? 九月二十二日。老婆だった。九月二十三日。ドアの下に手紙が差し込まれていた。手紙にはたった一言……トラクトカツィネ。

 メキシコの作家。本書のなかでは珍しく、正統派の怪談らしい怪談で、そこが物足りなく感じてしまうのだからわたしも現金なものです。ネット上で検索したかぎりでは、トラクトカツィネとは、ナワトル語で皇帝を意味するとか、メキシコ皇帝マクシミリアンに原住民が送った称号だとか書かれているサイトもありますが、いまいち定かではありません。
 

ジャカランダ」フリオ・ラモン・リベイロ/井上義一訳(Julio Ramón Ribeyro,Los Jacarandas,1970)★★★★☆
 ――ロレンソ博士は用件を片づけにジャカランダの通りに面したその家に戻ってきた。「来てよかったわ」とオルガは言っていた。「あの彫刻の象はどういう意味かしら」と言ったこともあった。後任のミス・エヴァンズと飛行機で一緒になり、町の案内をする約束をしてきた。訪ねてきたミス・エヴァンズがレコードをかけようとした。するとあのときの声が聞こえた。「ねえ、ヴィヴァルディをかけて。それから先生を呼びに行って、ロレンソ、早く」。彼は針を下ろした。「信じられない」「どうなさったの?」とミス・エヴァンズが尋ねた。「すっぱりと決着をつけたいんです。そのためには思い出さなくては……どうして先生を呼びに行くのが遅れてしまったのか」

 ペルーの作家。妻を亡くした教授が新任の女性教師に妻の面影を幻視してしまう話――だったならわかりやすかったのですが、女性教師の方も影響を受けているらしいとなるといよいよわからなくなってきます。教授が妻の棺を墓地から掘り出したのは遺体解剖のためだと思ったのですがどうやらそのような様子もなく、お腹の子目的でもなく、遺体と一緒に帰国するわけにもいかないでしょうし、まさか反魂の術にでも用いるつもりだったのかと勘繰ってしまいました。

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