『幻想と怪奇』15【霊魂の不滅 心霊小説傑作選】
「欧米心霊学略年譜」
「モレル夫人の最後の降霊会」エドガー・ジェプスン/髙橋まり子訳(Mrs. Morrel's Last Seance,Edgar Jepson,1912)★★★☆☆
――二年前の冬、わたしはモレル夫人の降霊会にすべて出席した。調子のよくないときにはお粗末なごまかしで終わることもあったが、本物の心霊現象だと思うものもこの目で見た。そうした降霊術を行ったあと、夫人は疲労困憊していた。昨年十二月四日にも、わたしは降霊会に出席した。ほかの出席者は、まずマグナス。わたし以上に心霊現象を疑っていた男だ。それからヴィヴァレッジとウォルターズ教授。さらに五人が訪れ、最後に見覚えのないふたり連れ――ロングリッジ夫妻が到着した。修道女の恰好をしたモレル夫人が現れ、降霊会が始まった。冷気が入ってきた。夫人が向かった小部屋から、子どもが現れた。子どもはロングリッジ夫人に近づくと、「ママ!」と言った。夫人は泣き出した。「ああ、メイジー!」
どこかで読んだことがあるような気がしたのですが、それが扉で言及されているクリスティー「最後の降霊会」だったようです。怪奇小説としてもスパッと切れ味よく終わるクリスティー作品に対し、古風な語り手による語り形式で曖昧なまま終わるところが本作品の特徴です。
「我が墓を見よ」マージョリー・ボウエン/伊東晶子訳(They Found My Grave,Marjorie Bowen,1938)★★★☆☆
――エイダ・トリンブルはうんざりしていた。霊媒はアストラ・デスティニーと名乗り、たった三十分で、エイダがこれまでの人生で聞いた分を上回るばかばかしい話をしてのけた。「感じの悪いひとね」。友人のヘレンに説き伏せられる形で降霊会に出席したが、古くさい詐欺にしか思えなかった。それでもヘレンに請われてもう一度降霊会に参加した。蓄音機から音楽が流れる。アストラはトランス状態に見えた。突然、男の声が聞こえた。ラテン語だ。「格言ですか?」『儂の墓碑銘だ』「お墓はどこに?」『明らかにはすまい。フランス語を話す者はおらんのか?』「できます」とエイダは答えていた。「お名前は?」『ガブリエル・ルトルノー』「亡くなられたのはいつ?」『一八三七年五月十二日』「何をなさっていた方ですか?」『大学教授であり、貴族であり、哲学者であり、数多の著作を残した』「題名は?」『多すぎる』。参加者によると、何か月か前にも現れた霊らしい。『ラルース百科事典』にも他の資料にもその名は見つからなかったという。
霊媒による詐欺ではなく、霊による騙りという発想が面白い。しかしそれは、霊の噓を暴くということでした。霊との喧嘩みたいな展開が続いていただけに、突如として訪れる怖さという点では群を抜きます。
「世界で一番すばらしい物語」ラドヤード・キプリング/植草昌実訳("The Finest Story in the World",Rudyard Kipling,1891)★★★☆☆
――チャーリー・ミアーズという青年と親しくなった。小説を売り込んでもいないのに、歴史に名を残す詩人になる夢を抱いていた。彼が朗読する詩の数々を、じっと聞くのが私の役割だった。彼の母親は息子の夢に理解がない。ある夕方、すばらしい物語が浮かんできたが母親と一緒だと集中して書けないからと言って泊まりに来た。だが手は途中で止まった。朗読されたものも、お粗末なものだった。だが、書けないのは知識がないからだ。独創性や発想力はすばらしい。ガレー船の奴隷と海賊の物語だった。二十歳そこそこの銀行員が、どうして海での絢爛たる物語を語ることができるのだろう。チャーリーの構想を私が形にすることになった。次にはヴァイキングの話が出た。普段のチャーリーはロングフェローらの詩を朗読するばかりで、自分が話したことも覚えていないようだった。
才能のない詩人の卵が作った詩よりも、前世の記憶の方が面白かった――というだけでも底意地が悪いのですが、とうとう詩作すらせずに大家の詩を朗読して感嘆するだけになるのには笑ってしまいました。偉大な芸術は恋から生まれることも多いというのに、凡才は何も生み出さず、ただ【前世の記憶】だけが消えてしまうのがひどい。
「ジョーンズの狂気」アルジャーノン・ブラックウッド/渦巻栗訳(The Insanity of Jones (A Study in Reincarnation),Algernon Blackwood,1907)
「遠い記憶の球体」シーベリー・クイン/熊井ひろ美訳(The Globe of Memories,Seabury Quinn,1937)
「燦めく手と手」井上雅彦
「女優だった」森青花 ★★★☆☆
――ふるさとでは綾部小町と呼ばれていたが、小町娘が集まってくるのが映画会社だ。通行人役。いつも通行人役。今日は社長室に呼ばれた。いよいよクビだろうか。不安がる真奈美が聞かされたのは、お盆映画のヒロイン役に決まったという報せだった。池上金男脚本、内田吐夢監督『牡丹灯籠』。今をときめく佐田啓二の相手役お露だ。初めての読み合わせこそ声が震えたが、その後は順調だった。最後の台詞では、一同が思わず涙した。「この映画はもらった」監督がぽつりと言った。翌日、撮影初日。お露が新三郎を見送るシーンだ。「あぶない!」という声がして、まなみの頭に照明器具が落ちてきた。
『BH85』で日本ファンタジーノベル大賞優秀賞を受賞した作家。第一回『幻想と怪奇』ショートショート・コンテスト応募作の改稿版。実在の映画関係者が登場します。内田吐夢監督による『牡丹灯籠』映画化企画がぽしゃったという事実があってそれを下敷きにしたのか?と思わせる効果があるようです。怪談としては古式ゆかしい怪談です。
「降霊会奇譚」リヒャルト・フォス/前川道介訳(Das Wunderbare,Richard Voß,1908)★★★☆☆
――三十年ばかり前のことだ。ローマに滞在中の私は、ハラルドというデンマーク人の音楽家の青年と知り合った。妙なことにいつも白薔薇が生けてあった。その頃ローマでは心霊術の流行が見られ、ひとりの霊媒が話題になっていた。この女霊媒アスンタ・デ・マルキスの名を初めて聞いたのは、ハラルドの口からだった。ハラルドはピアノを弾きながら初恋の話をした。眼は白い薔薇に注がれていた。幼なじみのメーリッドという娘と十八のときに婚約したが、メーリッドは花の盛りに亡くなり、島で唯一の白薔薇の木も枯れてしまったという。「ぼくは再会を待っています。まもなくその奇蹟が実現するでしょう」「きみはまさかその女霊媒の力でメーリッドに再会したいと思っているのか?」。翌日、私は友人が下宿しているおかみに事情をたずねた。霊媒はハラルドに惚れているという。
『独逸怪奇小説集成』より再録。飽くまで死んだ恋人の霊を愛する男と、男に恋をしてしまった霊媒の悲劇。こういう形で降霊術が描かれるのは珍しいと思います。
「モード゠イヴリン」ヘンリー・ジェイムズ/植草昌実訳(Maud-Evelyn,Henry James,1900)★★★★★
――人生の黄昏になって幸運が舞い込んだ、ある女性の話題になった。それを聞いたレディ・エマが口を開いた。ラヴィニアの身に起こったのは奇妙な出来事だった、と。事情を知っているのだ。……ラヴィニアが二十歳の頃でした。マーマデュークという青年と好き合っているように思えたのですが、ラヴィニアはなぜか求婚を受けませんでした。わたしはマーマデュークに、諦めずもう一度求婚するよう助言しました。マーマデュークはしばらくスイスに滞在することになりましたが、出発前には「ラヴィニア以外とは絶対に結婚しない」と伝えたそうです。旅先ではデドリック夫妻と知り合いになり、よくしてもらっていると、手紙も来たそうです。ようやく帰ってきたときには、デドリック夫妻と一緒でした。夫妻には子どもはいないはずでした。実際、ずいぶん昔に亡くなったそうです。なのに、夫妻は娘のモード゠イヴリンと〝一緒にいる〟と言っていました。「きれいな方でした」写真を見たラヴィニアはそう洩らしました。夫妻は霊媒のところに行って娘と連絡を取り、今ではマーマデュークも、夫妻と同じくモード゠イヴリンのことを考えているそうです。
死んでしまった娘を生きているかのように扱う両親。ここまでならまだわかります。それに共感して入れ込んでしまう男、それに理解(諦め?)を示す婚約者、夢を叶えたからといって再び娘を死なせる両親、関係者が死を迎えてからも架空の家族関係を続ける男……と、どんどん狂気がエスカレートして、でも立ち止まることは出来ないのでしょう。あの時ああしていれば――では済まされない、常軌を逸した観念的な愛の物語でした。
「昨日の友人」相川英輔 ★★★☆☆
――ドアを開けた瞬間、引っ越さなかったことを強く後悔した。「――久しぶり」兼介が立っていた。二年前も同じような格好だった気がする。「……生きてたんだ」「ああ、なんとか。あのさ、よかったら一晩泊めてくれないか」浩平と巧は引っ越していていなかった、実家に顔を出すにはもう少し時間がほしいと、勝手なことを言う。二年前の八月、浩平が借りたレンタカーで海浜公園まで行った。防波堤に向かう途中で、気づくと兼介がいなくなっていた。三人で海に突き落としたのではないかと警察に疑われ、散々な目に遭った。「……あのとき、何があったんだよ?」「理解してもらえないと思う。確かに悩んではいたんだ。でも最近、正解らしきものの輪郭が少しずつ定まってきたんだ。俺さ、あのとき水になりたかったんだよ」「はっ?」
『黄金蝶を追って』の作者。これは特集作品ではない模様。重圧に向き合わず逃げ出して悪びれない駄目人間が、願い叶って(?)逃げ出してしまいます。
「怪奇幻想映画レビュー
因果が巡る物語を作り続けるアイザック・エスバン監督に注目せよ」斜線堂有紀
「アイザック・エスバン監督ならここにモチーフを掛け合わせ、更に捻った物語を作ってくれるだろうと映画の外側の情報まで使って観客に期待させてくれるのだ」というのは、監督の作品を追いかけていて、なおかつ総合的に考察できる人でないと出来ない観方だと思います。
「怪奇幻想短編の楽しみ
華氏九十二度 レイ・ブラッドベリ「熱気のうちで」ほか」木犀あこ
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