『我が名はアラム』サローヤン(福武文庫、三浦朱門訳)

 サブカル系の雑誌とかではなく、文芸ものの単行本でここまでひどい本は初めてだった。誤字・脱字が多い。訳者が最低(訳文が最低、解説の日本語が最低、解説の論旨が最低)。

 文章についちゃ人にどうこう言えるレベルじゃないけどさ。でも本書の訳者はお金もらって仕事してるプロなんだから、もうちょっとどうにかしてほしい。

 「第一、僕の最初の記憶は馬のそれであり、」それってどれだよ? ああ、記憶のことかい。

 「少なくとも近所の人の考えでは、僕たちの祖国である昔の国、アルメニヤ人なのであった。」せめて「昔の国、アルメニヤの人間なのであった。」とかにすべきでしょう。でも仮にそうしたところで、「誰が」アルメニヤ人なのか、前後の文章を読んでも不明。

 「両親はアルメニヤ系の移民であったが、アルメニヤ人は今世紀の初めに、トルコの暴政によって、国外に移住する者が多かったが、彼の両親もそのような一人であったのであろう。」「両親はアルメニヤ系の移民であった。」で文章を切ってはいけない理由はない。というか切らなきゃ変。

 「人生に対する苦々しく思う気持が強くなったようで、」→「人生に対して苦々しく思う気持が強くなったようで」あるいは「人生に対する苦々しい気持が強くなったようで」。

 「その時代の空気を吸って成長した若者が現実に絶望して、自分たちを「失われた世代」と呼びたくなるのも当然、という共感はあった。しかしもし彼らが失われたと感ずるなら、その声はもっと弱々しいものではないだろうか。彼らのように時代に積極的に反抗するだけの活力を残しているなら、失われたという言葉に含まれる絶望とは無縁だ、という印象を拭うことができなかった。」無茶苦茶である。そもそも「失われた世代」というのが「Lost Generation(=迷子の世代)」の誤訳なのに、誤った訳語を元に云々いわれても……。しかも何について文句を言っているかといえば、作品内容とその呼称が合わない、というただそれだけのこと。「怒れる若者たち」という呼称の方がふさわしい、だそうで。作品そのものを批判する根拠はいっさい示されていない。要は自分の嫌いなものに八つ当たりしてるだけって感じ。

 サローヤンのある短篇について、「だからといって、この若者に鬱屈するものがないではない。それをバイク屋の商品をただ乗りして、太平洋に沈む夕日を眺めることで発散するというのがイキだと思った。それまでどこか野暮臭いと思っていたアメリカ文学が、はじめて成熟し、洗練されたものになってきた、という印象をもった。」だってさ。このひと、ロスト・ジェネレイションの作家として、ヘミングウェイスタインベックしか挙げていないんだけど、カポーティもフィツジェラルドも読んでないんだろうか。それとも自分の論旨に都合が悪いからわざと言及しなかったのか。絶望と洗練の見本みたいな作品だと思うんだけど。
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我が名はアラム

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