『短編ミステリの二百年 1』モーム、フォークナー他/小森収編(創元推理文庫)★★★★☆

『短編ミステリの二百年 1』モーム、フォークナー他/小森収編(創元推理文庫

 『The Long History of Mystery Short Stories vol.1』2019年。

 江戸川乱歩編『世界推理短編傑作集(世界短編傑作集)』の続編とも姉妹編とも補遺編とも言うべきアンソロジーです。その性質から有名な作品も多々収録されていますが、すべて新訳とのこと。もともとは東京創元社ホームページ「Webミステリーズ!」に連載されているエッセイがベースになっており、巻末にはミステリの歴史を綴ったその大ボリュームの評論も収録されています。
 

「霧の中」リチャード・ハーディング・デイヴィス/猪俣美江子訳(In the Fog,Richard Harding Davis,1901)★★★★☆
 ――ロンドンの〈グリル〉ほど審査の厳しい社交クラブはない。「十八世紀ならサー・アンドルーを縛り上げさせていたことでしょう」と黒真珠の紳士が言った。海軍増強法案の成立を阻止するためだ。当の准男爵は探偵小説に読み耽っていた。それを見たアメリカ人の会員が話を始めた。「これはまだ警察しか知らない話です……二日前にロンドンに着いたのですが、ひどい霧のなか一軒家にたどり着きました。居間では若いイギリス人とロシア公女が死んでいて、慌てて外に飛び出し警察に知らせましたが、その家を見つけることが出来ません」

 まずは『世界推理短編傑作集』と同時代の作品です。『千一夜物語』というか『デカメロン』というか、議員を議会に行かせず引き留めるためにアドリブで面白い話をバトンしてゆくという形式が秀逸で、しかも一つ一つの話の内容がちゃんと面白いという稀有な佳作です。しかも枠物語という形式自体にも仕掛けが施されていて、なるほどこれは確かに編者が巻末評論で述べている通り、「やがてはミステリとして改めて読まれるかもしれない〈影の内閣〉とでも呼ぶべき作品群」の一つなのだとうなずけました。
 

「クリームタルトを持った若者の話」R・L・スティーヴンスン/直良和美訳(Story of the Young Man with the Cream Tarts,Robert Louis Stevenson,1878)★★★☆☆
 ――ボヘミアのフロリゼル王子が腹心のジェラルディン大佐とお忍びでオイスターバーにいると、山盛りのクリームタルトを配っている若者が入って来た。理想的な女性に会ったのに資産がないため絶望し、四十ポンドだけ残して散財に励んでいる最中だという。クリームタルトを配るのもそうしたおふざけのひとつだった。四十ポンドは『自殺クラブ』の入会金だ。クラブのエースを引いた者がスペードを引いた者を殺す決まりだった。

 千一夜物語つながりで『新アラビア夜話』の一篇です。古典新訳文庫版で読んだことあり。スティーヴンスンなので当然ながら冒険ものなのですが、「霧の中」を読んでから読むとどんでん返しを期待してしまうため、物足りなさを感じてしまいました。
 

「セルノグラツの狼」サキ/藤村裕美訳(The Wolves of Cernogratz,Saki,1913)★★★★☆
 ――「この城には古い伝説はあるのかな?」という弟の問いに、グエルベル男爵夫人は答えた。「城で人が死ぬと、村じゅうの犬と森の野獣が夜通し吠えつづけるんですって。でもほんとうのことではないの。お義母さまが亡くなったとき、犬一匹、吠えやしなかった」。すると常々無言を貫いていた老齢の家庭教師が言った。「セルノグラツ家の者が亡くなるときのみ、遠近から狼が集い、啼きかわすのです」「ずいぶんくわしいようね」「わたくしは一族の血を引いております。それゆえ一族の歴史にくわしいのです」

「四角い卵(アナグマの目で見た塹壕戦の泥)」サキ/藤村裕美訳The Square Egg (A Badger's-Eye View of the War Mud in the Trenches),Saki,1924)★★★☆☆
 ――塹壕のなかでは前方の敵や戦況より意識を向けさせられるのは目下の泥だ。泥について考えていないとき、兵士の頭のなかを占めているのはおそらく小食堂だろう。ふと気づくと隣に年齢不詳の男が座っていた。「考えたことはありませんか、卵には大きな欠点があるんです」「すぐに古くなるのは厄介だね」「鮮度の問題じゃありません。困るのは丸さなんです。そこで多少なりとも角ばった卵を産むニワトリだけを何世代もくり返せば……」

 こうして二篇並べられてみると、どちらもホラ話であるものの受け手の態度が違うだけ、のようにも思えます。無論「セルノグラツの狼」には事実と信じるに足だけの状況が用意されており、「四角い卵」の方は口から出任せにもほどがあるわけですが。ある出来事が事実であるかどうかが超常現象によるというのは、よく考えると何の証明にもならないのですが、そうした状況に持っていった老家庭教師の(とはつまりサキの)勝ちなのでしょう。「四角い卵」で塹壕についてこってり書いたあとで「虚実とり混ぜた体験談」や「山師や詐欺師の大軍」と記しておきながら、登場したのは三流詐欺師というのが肩すかしですが、そんな三流相手だからこそ語り手があっさりと反撃していて痛快です。
 

「スウィドラー氏のとんぼ返り」アンブローズ・ビアス/猪俣美江子訳(Mr. Swindler's Flip-Flap,Ambrose Bierce,1874)★★★★☆
 ――ジェローム・ボウルズは十一月九日金曜日、午後五時に絞首刑に処されることになっていた。友人だったわたしは根気よく州知事に働きかけ、当日の朝ついに恩赦状を渡された。電報局に駆けつけたが、これから縛り首見物にゆくから打電している暇はないという。駅に向かったが、鉄道員はみんな処刑を見るため立ち去ったという。恩赦を阻むための卑劣な陰謀がめぐらされていたにちがいない。十五マイルを歩くしかない。わたしは最短距離の鉄路をたどった。

 ブラックユーモアつながりで、イギリスのサキに対してアメリカのビアスが選ばれていますが、結果がブラックなだけで、話自体はトールテールと言っていいような内容です。タイムリミットや町の住人の悪意などで盛り上げておいて、最終的には語り手が調子に乗ったのが原因というオチが見事です。
 

「創作衝動」サマセット・モーム白須清美(The Creating Impulse,William Somerset Maugham,1926)★★★★☆
 ――ミセス・フォレスターが『アキレスの像』を執筆することになったこの経緯は、文学史に付された奇妙な脚注とみなされるかもしれない。ミセス・フォレスターは毎週火曜の午後に客間で友人たちを迎えた。お茶を出すのは年齢不詳の女で、おかげで夫人は会話に集中することができた。夫人には実にさまざまな人を惹きつける才能があったが、夫のアルバートは退屈な人物だった。

 評価は高いものの売れない文芸作家が、如何にして探偵小説のベストセラーを書くに至ったかをたどった作品です。語り手が作家のお茶会を訪問した際の、「今日は礼拝がありますか?」という質問が面白すぎます。もの凄く悪意があるのか天然なのか、どちらにしても面白い。それ以外にも、ミセス・フォレスター作品の特徴の一つがセミコロンの配置の妙による面白さだとか、集めてもいない切手収集だとか、意地の悪いくすぐりばかりで楽しめました。ミステリではありませんがミステリに関する小説でした。
 

「アザニア島事件」イーヴリン・ウォー/門野集訳(Incident in Azania,Evelyn Waugh,1932)★★★☆☆
 ――石油会社の代理人ブルックスがレパリッジ少佐に招待されるなど有り得ないことだった。すべてはプルネラ・ブルックスが島に登場してからだった。独身のイギリス人男性のほとんどは故郷に恋人がいると思われており、プルネラの相手候補は三人に絞られた。そんな島の人々を震撼させる事件が起こった。プルネラが誘拐されたのだ。さらには毎週ケニアの男と乗馬を楽しんでいたという事実は、誘拐そのものと同じくらいの衝撃をもたらした。身代金の要求のあと、プルネラから手紙が来た。「お父さま。私は無事で、まあまあ元気です。レコードを送って下さい」

 文学者によるユーモア短篇が続きます。プルネラのやっていることの底は割れているので、仕掛けにニンマリするというよりも、手玉に取られるおばかさんたちをニヤニヤ笑うという読み方をすべきでしょうか。実際、暗号解読のこじつけといい解読者が精神を病んでしまったことといい、容赦がありません。その一方でアメリカ人宣教師の運命まで行くとブラックすぎて笑っていいのやら。
 

「エミリーへの薔薇」ウィリアム・フォークナー深町眞理子(A Rose for Emily,William Faulkner,1930)★★★★★
 ――ミス・エミリー・グリアスンが世を去ったとき、われわれ町のものたちはこぞって葬儀に足を運んだ。生前からミス・エミリーはひとつの伝統であり義務であり厄介物であった。かつて町長だった大佐が一八九四年のある日、つまりミス・エミリーの父が没した当日、今後は町税を免除すると決めた。やがて時代は移り、代表団が屋敷のドアをノックしたが、ミス・エミリーは一行を打ち負かした。ちょうど三十年前、臭気のことで彼らの父親たちを打ち負かしたときのように。それは彼女の父親が亡くなって二年後、彼女の愛人が彼女を捨て去った直後のことだった。そもそも彼女がホーマー・バロンと出歩く姿を見たとき、いずれ結婚するものだとわれわれは取り沙汰したものだ。

 文学者つながりが続きます。これまで瀧口直太郎訳と金原瑞人訳で読んだことがありました。時系列がばらばらになっていることで、【ネタバレ*1】因果関係を気づかせないようになっているのは、ミステリ的な作法というよりも小説の基本的な作法ではあるのでしょうか。代表団を打ち負かしたり、「面とむかっておまえはくさいなんて言えるものかね」といったりしたユーモアも、真相(?)を隠す効果を上げているのだと思います。終わり間際の語り手の言葉によれば、町の人々はエミリーと男のことについて薄々と感づいていたようなので、この語りは語り手による意図的なものですね。王墓の発掘のように静かに繙かれてゆく真実は、だからショッカーというよりも追悼のように感じられました。
 

「さらばニューヨーク」コーネル・ウールリッチ/門野集訳(Goodbye, New York,Cornell Woolrich,1937)★★★★★
 ――ドアの隙間からガスの匂いが染み出てくる。レイフが台所の床に倒れていた。「馬鹿! わたしを置いていこうとするなんて!」。栓を開いたばかりだったのか、すぐに目が開いた。「今日もだめだった」それだけだった。レイフは食事の途中で立ち上がり、どこかに行こうとした。「少しなら貸してくれそうなあてを思いついたんだ」「誰? 前の会社の社長のフロイント? わたしたちを追いつめた張本人じゃない」。帰ってきたのは夜が明けてからだった。異様に長いあいだ手を洗う音が聞こえた。脱いだ上着のポケットに手を入れると、五百ドルが出てきた。

 ウールリッチの代表作。稲葉明雄訳で既読です。妻による最後のモノローグが印象的な作品で、もっとあっさりと最後のシーンにたどり着いていた記憶があったのですが、著者はあの手この手で主人公たちを危険にさらしていました。一般文芸誌の〈ストーリー〉に掲載されたとは言え何だかんだやっぱりサスペンスを捨てきれなかったようです。とは言え服屋の男や駅で話しかける警官など、サスペンス作りが不自然ではないように工夫はされていました。前向きに都会を去る『暁の死線』と、逃亡する「さらばニューヨーク」、正反対のはずなのにどこか似通った印象を受けるのは、どちらも男女二人が分かちがたく結びついているのは一緒だからでしょうか。妻の名前が明らかにされていないことに初めて気づきました。
 

「笑顔がいっぱい」リング・ラードナー/直良和美訳(There Are Smiles,Ring Lardner,1928)★★★★★
 ――四十六丁目交差点にいた巡査は、取り締まりも捨てたものではないと思わせる存在だった。「調子はどうだい、バーニー」「人違いだよ」「おっと失礼。あんな運転をするからレーサーのバーニーかと思った」。ベンの交差点で違反をしても、めったに罰を受けなかった。非番には妻のグレースと映画に行ったり、家でくつろいだりしていた。九月のある朝、青いキャデラックが驀進してきた。怒鳴りつけようとして、運転手の顔が目に入った。息を呑むほど美しい娘だ。「ヘルメットはどうしたのかな。消防署員はそうする決まりだよ」「あなたってお利口さんね。でも約束に遅れてるの」。その娘が通るとき、ベンは車に乗せてもらうようになった。

 解説によれば著者の作品は「ユーモラスな口語の語り口」のせいで「通俗的なスポーツ小説としてのみ読まれた」りしたそうですが、『ベスト・ストーリーズI』に収録されたエッセイ「ぴょんぴょんウサギ球」なんてのはその最たるものだったと思います。この作品の場合、そうした語り口が登場人物のキャラクターとして作品の内容とも密接に結びついていました。著者ならではの作品と言えるでしょう。事件が起こってしまってからのベンの変化を具体的には語らずに、以前にも取り締まられた運転手の口から「あんたに似ている警官だったけど」「よく見ると全然違うや」と言わせることで表現しているのが効果的でした。フォークナー、ウールリッチ、ラードナーと、最後の一文が余韻を残す作品が続けて収められているのは偶然でしょうか。
 

「ブッチの子守歌」デイモン・ラニアン/直良和美訳Butch Minds the Baby,Damon Runyon,1930)★★★★☆
 ――ミンディーズで食っていると、ハリー・ザ・ホース、リトル・イザドール、スパニッシュ・ジョンの三人が入ってきた。「ビッグ・ブッチの住まいはどこだ?」。ブッチの家に連れて行くと、ブッチが楽な恰好をして、傍らの毛布の上にはすやすや眠る赤ん坊がいた。石炭会社の会計係がハリーのダチで、協力して偽の現金強奪事件を計画した。ああだこうだと話し合ううち、ビッグ・ブッチがかつてはプロの金庫破りだったことを思い出した。だけどブッチは断った。「金庫破りはもう時代遅れなんだよ。それに今夜は女房の代わりに子守をしなくちゃならない」

 同年代のジャーナリスト出身のユーモア作家ということで、リング・ラードナーと共に名前を挙げられていました。強盗という重大犯罪が、冗談なのか真面目なのかわからない軽妙な語り口のまま進んでゆきます。どこかで誰かがツッコむべきなのですが、誰もツッコまないのでズレたまんまで行くところまで行ってしまう不思議なおかしみがありました。
 

ナツメグの味」ジョン・コリア/藤村裕美訳(The Touch of Nutmeg Makes It,John Collier,1941)★★★☆☆
 ――わたしの務める鉱物学研究所の図書室に新顔の男が座っていた。統計屋なのは一目瞭然だ。誰かが後ろを通ると机の上に身をかがめた。午前の中ごろには錠剤を水に溶かした。わたしとローガンが声をかけてみると、どうやら仲間に飢えていたが不安神経症が強くて行動に起こせなかったらしい。男はJ・チャプマン・リードといった。ある日、友人の新聞記者が図書室に顔を出し、リードを見て驚いた顔をした。「肉切り包丁殺人事件を憶えていないのか? 状況から有罪はほぼ堅かったが、動機がないんだよ」

 編者の評価は高く、世評も高い作品ですが、いまいち良さがわかりません。タイトルの意味が動機の謎とともに最後に明らかになる構成はスマートですが、サイコというカテゴリにくくってしまうと途端に真相が古びてしまいます。くくってしまうわたしの読み方が悪いのですが。ナツメグとメースの風味に大きな違いはないということは、違いのわからないド素人に怒る偏執狂のように見えて、その実は違いをわかっているつもりで通ぶっているリードの偽物ぶりを暴いている、ということでしょうか。実はさらにヤバイ人というオチでした。
 

「短編ミステリの二百年」小森収

 ホームズ物語の背景に当時の不況が描写されていることを知り、そこから映画『スティング』にも話を広げるのが親切です。「まだらの紐」よりも「くちびるのねじれた男」の方が面白かったというのはよくわかります。

 19世紀後半のイギリスでは影響力のある貸本屋のせいで三巻本が主流だったというように、ここでも社会状況が解説されています。

 本書には収録されていない「奇妙な味」について一章が割かれています。(コリアは該当しないみたいです)。「奇妙な味」とは何か説明するのはやはり難しいようでした。「放心家組合」と『ウジェーヌ・ヴァルモンの勝利』のことが大半を占めています。

 サキについて綴った部分やモーム赤毛」の結末について、「それまでの物語のキイパースンから、彼を見ていた別の登場人物にフォーカスを当てることで、角度を変えた結末をつける」という指摘は、これから出てくる作品にも有効そうです。一人称なのに語り手が見ていないはずの場面も描いている「なまくら一人称」という呼称に笑いました。

 クリスティについて、ミス・マープルとパーカー・パインの思考法の類似や、クリスティの人物描写への批判は初期の短篇に対するものだという指摘や、連作短篇を書くときコンセプトを決める傾向があるといった指摘にはうなずけるものがありました。「四階の部屋」という短篇が、「事件が起こっているところに、ポワロが居合わせる」という、わたし好みのスタイルなので、これはいつか読んでみたいです。『クィン氏の事件簿』は「訳者にめぐまれることがな」かったので「もう少し先で読み返すことにします」と先送りされていました。この時点では創元推理文庫の『ハーリー・クィンの事件簿』新訳版は刊行されていませんでした。のちの巻で触れられることはあるのでしょうか。

 フォークナーのあとはフィッツジェラルドを経てウールリッチに触れられていました。収録作も「さらばニューヨーク」ですし、本書では文学者として採用されている、と見ていいようです。

 ここまでが序章で、ウールリッチからが第一章となっていました。

 コリア「夜だ、青春だ、パリだ、月も照ってる」を、編者は「気の違ったフィッツジェラルド」と評しています。むかしの自分の感想を確かめると、立川談志筒井康隆の名前を出していました。

 本書最終章はロアルド・ダールで締められています。恐らくは編者がサキやコリアほどにはダールを買っていないことや、邦訳に恵まれていることなどからでしょうか、ダールの短篇作品は本書には収録されていません。

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*1 臭気や失踪などの

*2 

*3 


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