『世界幻想文学大全 幻想小説神髄』東雅夫編(ちくま文庫)★★★★★

 怪奇編『怪奇小説精華』に続く、幻想編。こちらも既読の作品以外を読みました。

「天堂より神の不在を告げる死せるキリストの言葉」ジャン・パウル/池田信雄訳(Rede des toten Christus vom Weltgebäude herab, daß kein Gott sei,Jean Pauls,1796)★★★★★
 ――わたしが教会堂の中へ歩み入ると、影たちが心臓の代りに胸を鼓動させていた。と、気高い人の姿が祭壇に天降った。死者たちは声を張り上げた。「キリストよ! 神はいまさぬのでしょうか?」その人は答えた。「神はいない」

 死者たちに「神はいない」と伝えた死んだキリストから、生きている語り手に告げられる「祈るがよい」の言葉が、まさしく箴言・黙示そのもので、これだけ格式のある神秘体験を経験しようものなら、信仰のない人間でも危うい、と思えるほどの厳粛さに満ちていました。
 

「ザイスの学徒」ノヴァーリス山室静(Die Lehrlinge zu Sais,Novalis,1799)★★★★☆
 ――人間がその感官のもろもろの対象を(自然という)一つの共通の名称で呼び、それを自己に対立せしめるには、長い年月を要したにちがいない。同様にわれわれの内面は徐々に分割され、錬磨によって分裂する。もし後世の人が、その精神の分解した色彩をふたたび混ぜあわせて、もとの単一な自然状態を組み立てるとすれば、それは病的な素質のためであろう。

 怪奇小説編にはルキアノスの小説が採られていましたが、これはギリシアの哲学問答を模したような、「この世を神秘的に見るいくつかの方法」および「ロマン派の心得」。「自然の中にいると(中略)貞淑な花嫁の胸にいだかれているよう(中略)正真正銘の自然主義であるだろう」というような話にはついていけませんが。
 

「金髪のエックベルト」ルートヴィヒ・ティーク/今泉文子訳(Der Blonde Eckbert,Ludwig Tieck,1797)★★★★★
 ――エックベルトの妻ベルタは幼い頃に森で魔女と暮らしていたが、あるとき宝石を生む鳥を盗んで逃げ出し、エックベルトと結婚した。友人のヴァルターにその話を聞かせたエックベルトは、ヴァルターが宝石を狙っているのではないかと疑い始めた。【※ネタバレ 魔女の犬の名前を知っていたヴァルターを疑ったエックベルトはヴァルターを射殺すが、妻も憔悴して命を落とした。それから誰も彼もがヴァルターに見えるようになり、やがて魔女と出会ったエックベルトは、ヴァルターは魔女の変身した姿であり、ベルタは幼いころ養子に出した妹であったと、魔女の口から聞かされ、発狂する。

 コテコテのメルヒェンの形を取りながら、そこに近代的な「罪の意識」を導入した作品、ということになるのでしょうか。最後にどどどっと明かされる人物相関が何だか歌舞伎みたいで面白かった。登場人物三人しかいない(^^;
 

「黄金宝壺」E・T・A・ホフマン/石川道雄訳(Der goldene Topf, ein Mährchen aus der neuen Zeit,Ernst Theodor Amadeus Hoffmann,1814)★★★★★
 ――大学生アンゼルムスが老婆の売る林檎籠をひっくり返し、「この餓鬼め、玻璃の中へ跳び込んでしまえ」と罵られた。その後アンゼルムスが紫丁香花《ライラック》を見つめていると、小蛇が鎌首を延ばし、身体中が紫電に撃たれたようになった。※ネタバレ リンドホルストの許で筆写の仕事をもらったアンゼルムスは、リンドホルストの娘セルペンチナに恋をする。だがアンゼルムスに恋をする教頭の娘ヴェロニカは、老婆に頼んでアンゼルムスの心を自分に惹きつけようとし、罠にはまったアンゼルムスは玻璃壜に閉じ込められてしまった。だが老婆は戦いに敗れ、無事に壜から出たアンゼルムスはセルペンチナと結ばれ、幻のような生活を送る。

 この大全のなかでも指折りの名訳でした。見ての通りの古風な文章なのですが、それでいてリズムよくスピード感にあふれていて、「黄金の壺」がこれほど面白い作品だったのかと目を瞠かされました。

 ――「殺して呉くれ、殺して呉れ!」と余りの恐ろしさに叫ぼうとしたが、其の叫声は最早ただ微かに喉頭《のど》で鳴る、断末魔《いまわ》の声に過ぎなかった。

 ――此の瞬間、不図アンゼルムスには、セルペンチナの愛を贏《か》ち得ると云う事は、彼が此れから取りかかる筈の骨の折れる大事な仕事の褒賞であるかのように思われた。
 

「ヴェラ」ヴィリエ・ド・リラダン/齋藤磯雄訳(Véra,Villiers de L'Isle-Adam,1883)★★★★★
 ――恋は死よりも強し。その日の朝、ダトール伯爵は、愛慾の夫人、色青ざめし花嫁、ヴェラ、望み絶えし彼女を横たえたのであった。「レーモン」と伯爵は静かに言った。「おれも奥方も疲れてしまった。晩餐は十時頃にしてくれ」 その晩から異常な生活は始った。それは恐るべき蜃気楼を創造することであった。

 ヴィリエ・ド・リラダンといえば、頽廃と耽美であり、この作品もその最たるものであると同時に、『幻想文学入門』で触れられていた現実と異界の境界の曖昧さの好個の例とも言えるでしょう。そしてまたピランデッロ「ヘンリー四世」のような揺るがせない観念が描かれた作品でもあります。「ヘンリー四世」は現実を見つめることを拒みましたが、ダトール伯爵は最後に現実の方から手を伸ばされます。この作品の結び方として完璧だと思います。
 

「アウル・クリーク橋の一事件」アンブローズ・ビアス/中村能三訳(An Occurrence at Owl Creek Bridge,Ambrose Bierce,1890)★★★★★
 ――一人の男が手首を縛られ鉄橋の上に立っていた。死刑執行人たちがライフルを構えて立っている。「両手さえ自由になれたら、首の縄をふりほどいて河に飛びめるんだが。水にもぐれば弾丸は避けられるし、泳いで岸にたどりつけるだろう」

 視点が変わるところが意識の区切り目、だと考えていいのでしょう。我に返って首の縄をはずした途端に襲ってくる痛みや、水にぶつかって平べったくなった弾丸など、くどいほどに現実味のある詳細な描写は、なるほど語り手が男の「心」に詳細に分け入っていたからこそなのでした。
 

「精」フィオナ・マクラウド/松村みよ子訳(Cathal of the Woods,Fiona Macleod,1896)★★★★☆
 ――カアルはキリストの教えを伝えるために異教の部落を訪れたが、女酋長アルダナと出会い、恋を知った。やがてカアルは森の精の一人デオンと出会い、精の仲間になりたいと思った。

 こうした神話系ファンタジーは好みではないのですが、それにしてもこれはすごい。その後の歴史を見れば異端を徹底的に弾圧したキリスト教(の神)を、本来の慈愛に満ちた神として描いているのには驚きました。森の精を受け入れるのはもちろん、海豹さえもが「神の子」であるのです。
 

「白魔」アーサー・マッケン/南條竹則(The White People,Arthur Machen,1899)★★★★★
 ――聖者は失った天からの贈り物を取り戻そうとする。罪人は自分のものではないものを手に入れようとする。この少女の手帳が罪の実例だ――わたしは月のほんとうの名前やアクロ文字を知っていた。その日散歩に行った場所には、人が笑ったような岩がごろごろしていた。わたしは乳母にいろいろなことを教えてもらった。

 マクラウド「精」に出てきた精とは対極の、悪としての精霊が描かれます。日記に書かれていたのは、多感な少女が幻視した空想に過ぎなかったのか、それとも何かが実際に存在していたのか、そもそも本当に悪と呼ぶべき存在なのでしょうか。「パンの大神」もそうでしたが、マッケンは異教の神をあっさりオカルトに取り込みますね、潔い。【※ネタバレ 少女は乳母に教わりポルターガイスト現象を起こし、ニンフたちと交わった。エピローグ。少女は岩場で死体で見つかった。実際に見た岩とはローマ時代の彫像だった。多感な少女の目にそう映っただけの出来事だったのか、現実に何かが存在していたのか、それはわからない……
 

「光と影」ヒョードルソログープ/中山省三郎訳(Свет и тени,Фёдор Сологуб,1894)
 

「大地炎上」マルセル・シュオッブ/多田智満子訳(L'Incendie terrestre,Marcel Schwob,1892)★★★★★
 ――かくて電光閃く一夜、災厄の徴が天から落ちるかと思われた。隕石のただならぬ落下が眼にも明らかとなり、光の糸が降りそそぐのである。この天と地の炎上を前にしてひとつの遁走が行われた。二つの小さな体が物狂おしく走ってゆくのである。

 たった六ページに収められた、世界の終わりと始まり。信仰の話から始まって、いったい何事かと思う間もなく、世界が真っ赤に染められ、そのなかを走ってゆく小さな少年と少女が目に見えるようです。
 

「なぞ」ウォルター・デ・ラ・メア紀田順一郎(The Riddle,Walter de la Mare,1923)
 

「衣装戸棚」トーマス・マン/実吉捷郎訳(Der Kleiderschrank,Thomas Mann,1899)★★★★☆
 ――衣装戸棚の中にだれかが立っているのである。「お話をしてあげましょうか。」と不意に彼女は静かな含み声でいった。この時以後、彼は毎晩毎晩、彼女を衣装戸棚の中に見出して、その話に耳を傾けた。

 死期の近いことを医者に告げられ、困っている他人にも無関心を貫く男が、旅先で見つけた自分だけのシェヘラザード。作中で語られている「お話」は一つしかありませんが、アルプレヒト・ファン・デル・クワアレンが聞いたであろうほかのいくつもの話に心が惹かれます。
 

「バブルクンドの崩壊」ロード・ダンセイニ/佐藤正明訳(The Fall Babbulkund,Load Dunsany,1907)★★★★☆
 ――わたしはいった。「今こそ立ちあがり、脅威の都バブルクンドを見よう」出会った旅人は奇妙なことをいった。「先に行きなされ。バブルクンドがまだあるときに生きていながら、見ずに終わるのは口惜しいことですからな。それからただちに逃げ去るがよろしい」

 旅人が語る理想郷の子細と、邪神を奉じて滅び去ったその顛末。ロード・ダンセイニは『ペガーナの神々』では独自の神話体系を生み出していましたが、この作品もまた一都市の滅びを描くスケールの大きな話でした。
 

「月の王」ギヨーム・アポリネール/窪田般彌訳(Le Roi-Lune,Guillaume Apllinaire,1916)★★★★★
 ――道に迷った私は、音楽に導かれて洞窟の奥の扉に着いた。そこには若者五十人あまりが坐っていて、テーブルと椅子は天井から吊してあった。狭い廊下を進むと、猥らな落書きが見つかり、部屋の内部では器具をつけた青年たちが過去の美女たちと情事を果していた。

 レーモン・ルーセルロクス・ソルス』を思わせるような奇っ怪な光景に目を眩まされながら読み進めてゆくと、むしろ奇妙であることも当然(というか必然)であったのだと腑に落ちました。「月の王」という題名にはそういう含みもあったのですね。
 

「剣を鍛える話」魯迅竹内好(鋳剣,魯迅,1927)
 

「父の気がかり」フランツ・カフカ池内紀(Die Sorge des Hausvaters,Franz Kafka,1919)★★★★★
 ――一説によるとオドラデクはスラヴ語だそうだ。別の説によればドイツ語から派生したものだという。どちらの説も頼りなさそうなのは、どちらもが正しいというのでもないからだろう。だいいち、どちらの説に従っても意味がさっぱりわからない。

 まるで円城塔のような文体に驚きます。改めて、カフカ、すごい。「オドラデク」という「何か」をめぐる何ごとか。そして父の気がかりとは、それが何なのか、ということではないことを知らされるにつけ、唖然とします。思えば「変身」もそんな感じでした。
 

「沖の小娘」ジュール・シュペルヴィエル堀口大學(L'Enfant de la haute mer,Jules Supervielle,1928)
 

「洞窟」エヴゲーニー・ザミャーチン川端香男里(Пещера,Евгений Иванович Замятин,1920)★★★★★
 ――氷河、マンモス、荒野。そして黒い岩のなかの洞窟。洞窟のようなペテルブルクのこの寝室の中心に神がいる。貪欲な洞窟の神――鋳鉄の暖炉――がいる。「ねえマルト、書斎にはまだ薪があるんでしょう?」とマーシャがたずねた。

 内戦中の晩秋のロシアの極寒が氷河期の洞窟になぞらえられて――というよりも、その二つが重なって癒着しているところに、不安を抱えた夫の胸中が溶け出し、現実と譬喩と妄想が境目なく渾然一体となっている作品でした。それにしても奥さんは暢気すぎるような。
 

「クレプシドラ・サナトリウムブルーノ・シュルツ工藤幸雄(Sanatorium pod Klepsydrą,Bruno Schulz,1937)★★★★☆
 ――「父は瀕死なのですか……」「こちらでは過去の時間をあらゆる可能性ごとに再活動させるのです」と博士は答えた。翌日、父は微笑を浮かべていった。「実は、ここで店を一つ借りたのさ」私は表に出てみた。ここの女たちは完全にまっすぐ歩く。黒い犬たちがひしめき合う。

 サナトリウムで起こっている事象は現実のものではあり得ないのに、閑散とした様子やぞんざいな描写が妙に精緻なために、延命治療や末期患者や療養待遇の問題が噴き出している現実のサナトリウムのように感じられて、少し怖い。
 

アレフホルヘ・ルイス・ボルヘス牛島信明(El Aleph,Jorge Luis Borges,1945)★★★★☆
 ――詩人のカルロス・アルヘンティーノ・ダネリが立ち退きを要求された。「あの家の地下室には、アレフがあるのです。あらゆる角度から見られた地球上のすべての場所が、混乱することも融け合うこともなく凝集している場所です」

 ボルヘスといえば無限であり、本篇では地球上のすべてが直径二、三センチメートルに収められてしまいます。語り手をのぞいている無数の目と、二ページに渡って羅列される景色の数々だけでも、その気の遠くなるような凄さが充分に伝わってきます。

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