『刑事コロンボ完全版』vol.1 DISC 1(ユニバーサル)★★★★☆

 刑事コロンボ廉価版の1枚目。

「殺人処方箋」(Prescription: Murder,1967)★★★★☆
 ――結婚十年になる精神科医レミングは女優のジョーンとの浮気がばれて、妻のキャロルに離婚を切り出されて名声と財産も失う危機に陥った。サプライズの結婚記念旅行を計画していたのだとその場はごまかし、後日ブルーのドレスを持ち出し、手袋をはめ、キャロルの首を絞めた。ジョーンにキャロルの変装をさせ、喧嘩したふりをしてジョーンだけを飛行機から降ろした。

 刑事コロンボ一作目(シリーズ前の単発作品)。ピーター・フォークが若くて味わいもかわいげもありません(^^;。一話目にして対決相手は精神科医です。疑い深くてねちっこいコロンボと理性的な犯人の診察室での対決シーンは見ものでした。「殺人犯にしてもです、頭はいいが素人ですからね、一ぺんこっきりしか経験してないわけです。ところがあたしらにとって殺しってやつは仕事でして、年に百回は経験してます」というコロンボの台詞は名言ですね。倒叙としては異色作で、アリバイ崩しでもなければ犯人のミスでもなく、コロンボによる手を変え品を変えの「ゆさぶり」が魅力となっています。
 

「死者の身代金」(Ransom for a Dead Man,1971)★★★★★
 ――弁護士のレスリーは夫のポールを殺し、誘拐を装って身代金の要求を受け取った。やがて電話がかかってきて、夫の声で身代金を頼まれた。コロンボは妻が夫の無事を確認しなかったことを不審に思う。レスリーは指定された夜中にセスナ機で身代金の受け渡し現場に向かう。やがてポールの死体が発見される。継子のマーガレットはレスリーこそが犯人だと確信していた。

 シリーズ開始前のパイロット版。肝心のトリックに使った道具をコロンボの目の前で説明する犯人に、むしろ観ているこちらの方がドキッとしてしまいました。どのような証拠をもとに逮捕するのか、コロンボも諦めかけ試聴者も忘れかけたころ、犯人の方からそれと自覚せずに証拠を持ち出すよう仕向けるコロンボの機知に感心しました。犯人の人間性も活かしたうえでの罠が見事です。物語の過程はもちろんなのですが、決め手の切れ味が鋭いと、やはり観終わったあとに強い印象が残ります。
 

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 刑事コロンボ完全版 vol.1 

『南十字星共和国』ワレリイ・ブリューソフ/草鹿外吉訳(白水Uブックス 海外小説永遠の本棚)★★★☆☆

 『Земная ось』Валерий Яковлевич Брюсов,1911年。
 

「地下牢」(В подземной тюрьме,1901-1905)
 ――征服された軍司令官の娘はスルタンの大宰相になびこうとしなかったため、地下牢に入れられた。牢番に犯され、殴られたが、マルコという青年受刑者と恋に落ちた。

 幻想味は薄く、貴賤間のロマンスです。身分というものが絶対的に存在することが前提になっている時代と世界のお伽噺でした。
 

「鏡の中」(В зеркале,1902-1906)
 ――わたしは幼いころから鏡が好きでした。ところがあるとき鏡の中でわたしの姿をした女が、傲慢な挑戦をこめてわたしを見つめていました。不意に、鏡のうちの女が立ち上がりました。気づけばわたしは鏡の中でした。

 鏡に対する語り手の感受性が、昏いながらも光っていました。「精神病医の記録より」と副題されているとおりの結末を迎えます。
 

「いま、わたしが目ざめたとき……」(Теперь, когда я проснулся,1902)
 ――わたしはそれと知りつつ眠っている状態が好きだった。夢の中でわたしは女たちを陵辱し、殺人をおかし、また刑吏にもなった。だがわたしを救ってくれようとした友人たちが、妻を紹介してくれた。

 前話に引き続いて狂気の作品が置かれています。
 

「塔の上」(В башне,1902-1907)
 ――わたしの夢みたのは、どこやら海のほとりにある騎士の城郭であった。

 再び「夢」。
 

「ベモーリ」(Бемоль,1903)
 ――アンナ・ニコーラエヴナは文房具店「ベモーリ」の売子だった。夕方になると店の主人が姿を現し、客寄せが下手だといってアンナを責めるのだった。アンナは自分のお気に入りをいい場所においてやった。

 これまでは「夢」だった「自分だけの世界」が、今度は現実のお店という形をとります。当然ながら自分だけのわがままが通るわけもなく、自分の世界の外から見たお店は、別の世界のものでしかあり得ませんでした。
 

「大理石の首」(Мраморная головка,1903)
 ――わたしだって若いころは面白おかしく暮らしたものです。その女はニーナという小役人の女房でした。やがて夫といっしょに南部に行き、病死したということです。その後、錠前を直すために呼ばれた家で、大理石の頭像を見かけたのです。

 語り手は自己解説していて、自覚的な分だけ、まだ狂人ではありません。
 

「初恋」(Первая любовь,1904)
 ――ぼくの初恋は違ったものだった。はっきりいうと、愛情が全然なくって、憎しみがあっただけだ。

 人と違うアピールみたいで微笑ましい。
 

「防衛」(Защита,1904)
 ――わたしは未亡人のエレーナ・グリゴーリエヴナに恋患いしていました。吹雪の日、エレーナの屋敷を訪れ強引に泊めてもらいました。すると自分の姿がなくなった彼女の夫に似ていることに気づいたのです。わたしは夫の恰好をして、彼女の寝室に向かいました。

 本書のなかにあるとむしろ異色な、オーソドックスな怪奇譚です。とはいえ、無論これもまた語り手が第三者から聞いた話、という形を取っているので、怪異の真実性は保証されません。
 

南十字星共和国」(Республика Южного Креста,1904-1905)
 ――南十字星共和国は、いまを去る四十年前、南極諸地方に存在した鉄鋼工場のトラストから生まれたものである。共和国の首都は「星の都」と呼ばれ、極地点に位置していた。そこで「自己撞着狂」が伝染性を帯びるに至った。

「姉妹」(Сёстры,1906)
 ――ニコライは恍惚と苦悩によって三人の姉妹に蜜蝋のように結びつけられていた。結婚したばかりのリージャは恥じらいをふくんだ女性だった。だがたちまちにしてリージャのいまひとつの顔が出現する。

「最後の殉教者たち」(Последние мученики,1906)
 ――あの蜂起の日、ぼくはアダマンチイにたずねた。「これをどう考えているんだね」「最後通牒だと思っている。三千年にわたって存在してきた新世界が崩壊するんだ」

 滅び三部作とでも言いたいような、崩壊の作品たちでした。
 

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『親指のうずき』アガサ・クリスティー/深町真理子訳(ハヤカワ・ミステリ文庫)★★★★☆

 『By the Pricking of My Thumbs』Agatha Christie,1968年。

 正確に言えば「積ん読」ではありません。大好きなトミーとタペンス・シリーズは全部で5冊しかないので、わざと大事に取っておいたのです。これで残るはあと1冊……。

 クリスティーの巻頭言がうれしい。読者も作者もトミーとタペンスが大好きなんですね。

 舞台は前作『NかMか』からぐっと時代は進んで、二人とも初老の域に達しています。探偵ごっこも懐かしい思い出、トミーの叔母さんのお見舞いに行った先で、タペンスは一枚の絵を見かけます。どこかで見たことがある――クリスティー文庫ではない旧版のカバーイラストにはその絵(らしきもの)が描かれていて、不安感をあおります。何気ない違和感――。晩年のクリスティーの得意としたところであり、読者としても仰々しい謎よりもむしろ好奇心をそそられるところです。こういう下世話な興味の惹き方のうまさを、わたしは勝手に「クリスティーのおばちゃん趣味」と呼んでいますが(^^;

 かくしてトミーが秘密機関学会(?)に出かけている間、タペンスは絵に描かれた場所を見つけようと単身調査に出かけます。いや~第7章最後の引きがうまいですね。一気に空気の温度が変わりました。

 冒険もののトミーとタペンスらしい、探偵が歩けば手がかりに当たる展開や、タペンスの聞いた言葉の意味の取り違えといったクリスティーらしい反転の構図など、後半の面白さはさすがです。大がかりな犯罪組織の構図が明らかになったあとで、真の真相は身内の犯罪だったという流れも、普通であれば尻すぼみになってもおかしくないのですが、トミーとタペンス流の大きさとクリスティー流の身近さの両方を味わえる結果になっていました。

 タペンスが「でもわたしだって年寄りだ」「もう年をとったわ、わたしは」と独り言つシーンは、長年のファンからすると何だか寂しいものがあります。事件の真相と相まって、物悲しい雰囲気になりかけたところを、このシリーズらしい明るいシメの言葉でトミーが結んでくれました。

 タイトルは『マクベス』より。

 トミーとタペンスは冒険心旺盛な初老の夫婦。今は亡きエイダ叔母のいた養老院を訪れた時、タペンスは叔母の部屋に掛かっていた一幅の風景画に胸騒ぎを覚えた。絵の中の運河のそばの淋しい家に見覚えがあったのだ。そして今、絵の所有者ランカスター夫人が失踪した! タペンスは、変に親指がずきずきして何か悪いことが起こりそうな予感に襲われる……おしどり探偵トミーとタペンスが縦横無尽に活躍する女史後期の佳作(カバーあらすじ)
 

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『完全な真空』スタニスワフ・レム/沼野充義・工藤幸雄・長谷見一雄訳(国書刊行会)★★★★☆

 レム作品のなかでもかなり有名な、架空の書物の書評集です。

 まずはヤラレタ!と思ったのが、序文自体がすでに書評という体裁になっていることでした。本書『完全な真空』の序文が、レムの書いた書籍『完全な真空』についての書評になっているのです。ここまで徹底しているとは思ってもみなかったので、それだけでうれしくなってしまいました。

 ほかに『オデュッセイア』を下敷きにした『ユリシーズ』に対し、『ギルガメシュ』を下敷きにした『ギガメシュ』を評した作品は、その書評自体が「『ユリシーズ』評論」のパロディのようにもなっていて、これまた凝っています。

 序文で「大作の概略を示す草案」と書かれた作品の一つである、「親衛隊少将ルイ十六世」は、ルイ十六世時代に憧れる元ナチ将校が怪しげな知識をもとにアルゼンチンに自らの理想とする国家を建設する、という、実際に読んでみたくて仕方がなくなるような歴史小説です。

 「とどのつまりは何も無し」は、「~はない」という否定だけで書かれた問題作を扱った書評です。

 最後には嬉しい驚きが。訳者あとがきさえも書評の形が取られていました。
 

   

『桜は本当に美しいのか 欲望が生んだ文化装置』水原紫苑(平凡社新書)★★★★☆

 桜は本当に美しいのか――なかなか挑発的なタイトルですが、実際に万葉集のころには桜の歌よりも萩や梅の歌のほうが多いという事実もあるそうです。

 本書は、歌人である著者が、歌集を中心とした文学作品に詠まれた桜の意味の変遷を読み解いてゆく作品になります。

 白眉は『古今集』を論じた章でしょう。ある意味では撰者による意図的な桜の意味の転換を、真名序から始めて収録順に順番に見てゆく手順には、説得力がありました。万葉集には見られなかった「散る桜の美」が登場するのがエポックメイキングです。業平の「さくら花ちりかひくもれおいらくのこむといふなるみちまがふがに」について、「自然に相対している」万葉のころとは異なり、「人間の心の中にのみ散り乱れる」「美の通貨」であると断じているところなどは、著者の読みが光ります。

 その後は『新古今集』を例外とすれば、時代との関わりというよりは作品論作家論のようになってしまいますが、現代の桜ソングにまで言及しているところに目配りが感じられました。とはいえ、ポピュラーソングの桜は、新学期=出会いと別れのウェイトが大きいと思うのですが。

 宮内卿の歌、「花さそふひらの山風吹きにけりこぎ行く舟の跡みゆるまで」「あふさかや梢の花を吹くからに嵐ぞ霞む関の杉むら」はいいですね。
 

   


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