『アンダルシアの友』アレクサンデル・セーデルベリ/ヘレンハルメ美穂訳(早川書房 ポケミス1879)★☆☆☆☆

 『Den andalusiske vännen』Alexander Söderberg,2012年。

 出オチです。プロローグ、激しいカーチェイスと銃撃戦。

 あとは無駄に長いだけでした。

 始まりはグスマン一家とラルフ・ハンケ一家という犯罪組織の対立でした。グスマン一家の息子エクトルがハンケの刺客に轢き逃げされて入院し、そこで出会った看護師のソフィーと親しくなります。

 それに気づいた警察はソフィーに接触して、エクトルの正体をばらし、情報を流してほしいと働きかけます。

 三つ巴の争いに巻き込まれる一般人という面白そうな内容が、一向に面白くなりません。

 何しろ二百ページ近くほぼ何も起こりません。様々な登場人物の視点が入れ替わっているのですが、それぞれのミニマムな描写ばかりが費やされて、一向に物語が動かないのです。

 ときどき動きがあっても、断片的な視点の入れ替わりのせいで盛り上がらないまま次に移ってしまいます。

 キャラクターに魅力があれば各々の視点も楽しめるのでしょうが、ソフィーに岡惚れするラーシュという変態警官が印象に残るくらいで、あとはちんたら行動したり人となりに費やされたりするばかり。ソフィーとエクトルに魅力がないと始まらないのですが、ソフィーが見事に空気なのですべてが白々しいとしか感じられませんでした。

 銃撃された敵をソフィーが看護師魂を発揮して助けたり、エクトルまでがそれに感化されたりするに至っては、失笑しか起きません。

 最後は犯罪組織どころか警察もソフィーもみんな悪になって笑えました。

 三部作の一作目だそうですが、解説にはほぼあらすじしか書いてなく、著者のことや本書のことをもう少し詳しく書いて欲しかったです。

 シングルマザーの看護師ソフィーは、交通事故の患者エクトルと出会った。ひどい怪我にもかかわらず、エクトルの振る舞いは堂々と優美。ソフィーに好意を持っているようで、様々な誘いをかけてくる。ソフィーも家族思いのエクトルに惹かれいくが、出版社の経営者との彼の肩書は表の顔に過ぎなかった。彼に近づいたことで、ソフィーは突如、国際的犯罪組織による血みどろの抗争の渦中に放り込まれる。激しいカーチェイスと銃撃戦をソフィーはサバイヴできるのか? スウェーデンの新鋭が放つクライム・スリラー(裏表紙あらすじ)

  

『赤い橋の殺人』シャルル・バルバラ/亀谷乃里訳(光文社古典新訳文庫)★★★☆☆

 『L'Assassinat du Pont-Rouge』Charles Barbara,1855年

 “フランス版『罪と罰』”というのは単なるキャッチコピーなので措いておいて。

 金のために自分を殺して働いているだけで恩人をすら軽蔑しているというのは、極端ではあるけれど、むしろ大多数の人間に近いようにも思います。芸術に生きている人間こそ稀でしょう。

 一方で、ばれなければ罪を犯してもよいというクレマンの主張は、キリスト教圏の読者が読むほどの衝撃はないようにも思います。哲学というか、ただの犯罪者ですよね。

 実際、信念の人というよりは、なんだか言い訳ばっかりな感じになっちゃいますし。

 ただし異様な高揚に駆られた告白場面には必読の迫力がありました。憑かれたように饒舌にまるまる一章を費やされる告白には、魅入られたように引き込まれてしまいます。『罪と罰』というより『マクベス』を連想しましたが。

 観念的な部分ではなく、飽くまで実録ふうの部分が面白いというのは、著者からすれば本意ではないのでしょうが、仕方のないところです。

 19世紀中葉のパリ。急に金回りがよくなり、かつての貧しい生活から一転して、社交界の中心人物となったクレマン。無神論者としての信条を捨てたかのように、著名人との交友を楽しんでいた。だが、ある過去の殺人事件の真相が自宅のサロンで語られると、異様な動揺を示し始める。(カバーあらすじ)

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 赤い橋の殺人 

『ルピナス探偵団の憂愁』津原泰水(創元推理文庫)★★★★☆

 『The Melancholy of Lupinus Detective』2007年。

 『ルピナス探偵団の当惑』の続編です。『当惑』から数年後、探偵団の一人である摩耶の葬儀という衝撃的な場面から幕を開けます。探偵の最後の事件を描いた作品は過去にもいくつもありましたが、文字通り最後に退場するのがほとんどでしょう。対する本書は最後の事件から幕を開け、過去に遡ってゆきます。
 

「第一話 百合の木陰」(2006)★★★★☆
 ――摩耶の葬儀の日。久しぶりに顔を合わせた彩子、キリエ、祀島の三人は、摩耶が夫・日影の一族から恨まれていることを知った。摩耶の我儘により、日影家の土地は市民公園になり、林の中に曲がりくねった細い道が作らていた。いったい、なぜ? キリエは摩耶から打ち明けられていた秘密を打ち明ける。

 何ものにも増して守りたかったもの。読者はもちろん彩子や祀島も知らなかった摩耶の一面が明らかになります。それはフェアアンフェア云々という話ではなく、高校という狭く短い世界ではたとえ親友でも知らないことの方が多いという現実にほかなりません。論理ガチガチの推理ではなく、摩耶という人間の個性を踏まえての蓋然性による推論は、他人である名探偵には決して解け得ない、友人だからこそできるものです。たとえ恨まれてでも守りたかったものが、最後のひとことでちゃんと叶えられたのだと実感します。
 

「第二話 犬には歓迎されざる」(2006)★★★★★
 ――歴史学石神井教授から誘われ、祀島と彩子は夕食にお邪魔する。教授宅の敷地のなかにさらにフェンスで囲まれた家があるという不思議な構造をしており、フェンスのなかでは犬が吠えていた。小説家の蒲郡が庭師も兼ねてその家を間借りしていて、犬が逃げ出さないための苦肉の策だという。石神井教授と祀島はドードーや妖精や強盗の話で盛り上がっていた。帰途、救急車が走ってゆくのを見た祀島は慌てて石神井家に戻った。すると蒲郡がバットで殴られ足を骨折していた。

 第一話で大学二年のときと書かれていた小説公募が去年のことと記されているので、彩子大学三年の出来事になります。蒲郡とは受賞パーティ以後に再会していたんですね。冒頭からペダンティックな会話が続きますが、ペダントリーの内容ではなく、ペダントリー自体が伏線となっていました。ペダンティックな会話そのものが人間性を明らかにし、真相を暗示していたとは。事件発生前から何かが起こるのを予想する神の如き名探偵ぶりを見せる祀島ですが、生物好きの祀島だからこそ気づけたことで、人は見たいものを見るという強盗の話が、犬の吠え声についての思い込みによって犯人自身にも跳ね返ってきているのが皮肉です。
 

「第三話 初めての密室」(2007)★★☆☆☆
 ――彩子が高校一年のとき、密室殺人事件を解き明かしたことがあった。現場の室内に防音ユニットを組み立て、密室が出来上がったのだ。四年後、合コンの席で聞き覚えのある名前を聞いた。あの事件の犯人の息子だ。事件当時は重視しなかった「事件の翌日にあの人を見た」というストーカーの証言を手繰ってゆくうち、事件の新たな構図が浮かび上がる。

 ストーリーもとっちらかっているし、そのせいでミステリとしての勘所も絞りづらくなっていて、卑怯な犯人を許さない摩耶のキャラクターを描くためだけの作品といった感じです。そうは言っても、「ふたりで可愛い家庭をつくってくれないかな。私、そこに遊びにいきたい(中略)みんなで高校時代のアルバムを眺めて、あんなことがあった、こんなことも、って話をするの」という摩耶の台詞には、これは卑怯だと思いながらもやはりうるっときてしまいます。そんな未来が来なかったことを、読者は既に知っているのですから。
 

「第四話 慈悲の花園」(2007)★★★★☆
 ――ルピナス学園の卒業式は、理事長が動物小屋で殺されて見つかったため延期になった。現場からは赤いワンピース姿の人物が逃げてゆくのが目撃されていた。そういえば入学当初、マリア像の一が動かされているのをキリエが疑問に思っていたことがあったが、祀島はたちどころにその謎を解いてしまう。そして何気ない摩耶の一言から祀島は真相に……。

 ミッションスクール(とそこに囚われた人間)ならではの犯罪が描かれていて、一種の観念の殺人ものです。ともすれば非現実的でしかない動機ですが、洗濯されたワンピースといった細部がそれを補強していました。ただの母校や探偵団のルーツであることを越えて、ルピナス学園という存在が特別な場所として自覚されていて、大人から遡って来たからこそその思いの大切さがわかります。何の変哲もない当たり前の約束が、第一話という未来に戻ることで特別な意味を持ち得ていました。

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 ルピナス探偵団の憂愁 

『紙魚の手帖』vol.2

紙魚の手帖』vol.2(東京創元社

 『ミステリーズ!』改め総合文芸誌として生まれ変わった『紙魚の手帖』の第2号。

「羅馬ジェラートの謎」米澤穂信★★★☆☆
 ――三月のショッピングモールで小佐内さんが謎の存在に気づいたのは、暖房が効いた店内でチョコスプレーがジェラートに沈んだ、その深さからだった。先月、ぼくは小佐内さんに借りを作った。その埋め合わせに何かご希望はないかと尋ねたところ、「なら、ジェラートをごちそうして」。ぼくはジェラートを口に運んだ。「これは、すごいね」。小佐内さんは返事をしなかった。「食べないの?」。小佐内さんは我に返ったように微笑んでひとすくい口に入れた。「おいしい?」「食べやすい」。それはよかった。ところでぼくたちが陣取ったロフトからは、一階のフロアが見渡せる。ぼくはある客の行動が気になっていた。スーツの女性が四人席に一人で座って、ジェラートに手も付けないままだ。

 小市民シリーズ最新作。目次を見て、解説が付いていることを訝ったのですが、読んでみて納得しました。アバーネッティ家の事件ということでした。小鳩くんは推理に夢中になっている一方で、目の前で小佐内さんに起こっていた出来事には気づけませんでしたが、小佐内さんが気づいていたことと小鳩くんの推理がお互い補強し合う形になっているのが理想的でした。その先に悪意とまでは呼べない不誠実(の可能性)が明らかになり、一気に空気は冷え固まります。それにしても、意図せざるとは言え小鳩くん(の推理)が完全に疫病神になってしまっています。直前に小佐内さんから釘を刺されているだけに印象はよくありません。
 

「百円玉」村嶋祝人★★☆☆☆
 ――バイト先の団地に着いた途端、圭介は得体の知れない不安を感じた。「思い出した」小学四年だか五年のころ、この坂道を上っていたとき、女の声がして顔を向けると、D棟の窓の向こうで髪の乱れた女が手招きしている。戸惑っていると、少しずつ女の面相が険しくなって手の動きも大きくなる。女がベランダに出ようとしたので圭介は坂道を駆けのぼった。バイト先はそのD棟の五〇五号室、ゴミ屋敷を片付ける補助だった。休憩中、同じバイトの多田木が新聞紙を差し出した。十三年前、小学生が刃物で刺された事件が載っていた。そうだ、女に声をかけられたのも十三年前だった。それに五〇五号室のトイレにあった足や手すりの跡。もしやあの女が子どもを監禁していたのではないか……。

 第18回ミステリーズ!新人賞優秀賞受賞作。真相と思われるものが本当にただの想像でしかないので、明らかになってもすっきりせずもやもやが残ります。タイトルになっている百円玉の扱われ方にしても、切り傷の跡から容疑者の繃帯に発想を広げるのは飛躍しすぎであまり上手くいっていません。
 

「沈黙のねうち」S・チョウイー・ルウ/勝山海百合訳(Mother Tongues,S. Qiouyi Lu,2018)★★☆☆☆
 ――あなたは発音の試験を終えて、廊下を進む。面談室に入ると、標準アメリカ英語のパンフレットを手に取り、椅子に座る。『話者は多様な話題にたやすく対応できます。音韻?は標準的です』……あなたは急いで「音韻」をスマートフォンの辞書で引く。扉が開いて言語仲買人が入ってきた。「あなたの英語はCグレードです」仲買人はそう言った。あなたの心は沈んだ。Cグレードの英語を売ってもはした金にしかならない。リリアンの将来のためには名門校での優れた教育が必須なのだ。そのためにはお金がいる。「マンダリンを売ることはご検討されましたか? Aグレードなら八十万ドルです」

 話せることも理解できることも格段に減ってしまう――グローバル化が叫ばれ英語が標準語となっている世の中では、英語が第二言語である人間はすでに母語を売っているのと同じ状態を味わい続けているのでしょう。それにしても描き方がストレートすぎて小説的な感興が抑えられているように感じます。
 

「431秒後の殺人」床品美帆★☆☆☆☆
 ――松原京介は一刻も早く妻と離婚したかった。だが沙織は二言目には松原を詰る癖に、いざ離婚の話をすると逃げ腰になった。しかし沙織の不貞が発覚した今、これ以上婚姻関係を続けることは不可能だった。横断歩道を渡り終え、しばらく歩いたところで、頭部にコンクリートブロックが落下し、松原は絶命した。……恩人であるおじさんの死が事故として処理されたことに納得のいかない直行は、祖母から教えられた「六角法衣店」を訪れた。祖母いわく、昔は困り事があると界隈に住む者は六角さんなる占い師に相談を持ちかけたのだそうだ。沙織にも浮気相手の不動産屋にもアリバイがあったが、現場のビルの屋上に残されていた松原のカメラ道具を見た六角は「これは非情な殺人事件だよ」と断言した。

 第16回ミステリーズ!新人賞受賞者による新シリーズ。どう考えても事故としか思えない不可能味あふれる発端は面白そうだったし、占い師という探偵役も偏屈なのはありきたりなれど占いをどう推理に活かすのかという興味はありました。けれど殺害方法を機械トリックに絞り出してから雲行きは怪しくなってきます。狙って落としても難しいであろうものを、機械トリックでやろうとしても無理でしょう。しかも結局はプロバビリティの犯罪の一つだったというのだから、緻密な検証自体がほぼ無意味でしかありません。真相は推理で証拠は占いで、というのが。
 

「天地揺らぐ」戸田義長★★★★☆
 ――「勅額はいかがするのだ!」藤田東湖は制止も聞かず燃えさかる屋敷の中へ飛び込んでいった。その後、東湖の生前の姿を目撃した者はいなかった。東湖を手に掛けた下手人を除いて。……「賑やかな町だな、水戸とは大違いだ」藤田小四郎は曰窓から通りを見下ろし嘆声を上げた。四年前の大地震で被害を被ったとは思えない繁栄ぶりだ。町火消の一団が歩いてくるのが見えた。「四年前、この藩邸が焼けた時も町火消の棟梁が懸命に立ち働いていたそうです」御殿医の息子・穂継が言った。「父の死に立ち会っていた者がおったのか」小四郎は留守居役の豊田藤兵衛にたずねてみた。「な組の竹蔵のことか。お父上の件には仔細があるのだ。田淵の二の舞になりたいのか、詰まらぬ詮索は止めておけ」。翌日小四郎は竹蔵の家を訪ねたが、竹蔵は四年前に辻斬りに遭って亡くなっていた。すると黒幕は政敵の門閥派では――。なおも調べてゆくと、田淵は周りに人のいない状況で転落死したという……。

 安政江戸地震で死亡した藤田東湖の死の真相を息子の藤田小四郎が解き明かす歴史ミステリです。東湖の死自体は母を庇ってということになっているので、謎自体を作りあげるタイプの歴史ミステリということになります。対立する派閥の重要人物の死とあって、陰謀論めいた発想と相性がいいのは間違いありません。二つの死が扱われていますが、どちらも当時の江戸であることを活かしたものになっていました。特に田淵の死は荒技系のトリックが用いられているのですが、江戸風俗を伏線とすることで荒技と感じさせない違和感のないものになっています。東湖の殺害を補強するために勅額という要素を組み込むところに細かいセンスを感じます。
 

「無常商店街」酉島伝法
 

曼珠沙華忌」弥生小夜子★★☆☆☆
 ――曼珠沙華の中で老女が殺されていた。鎖骨から上を残して黒焦げだった。それは八年前、珠楽寺で起こった。まるで恋人の屍を食って鬼になった緋菊という稚児の伝説のような姿だった。住職の善雄は語った。殺された千沙と明尚は双子だった。恋人のように親密な二人が中学三年になった春、寺脇という新任教師がもっともな説教をするという愚を犯した。これに明尚が反発し、寺脇と話をつけると出かけた先で土手から転落死する。千沙の証言により事故とわかったが、寺脇は針の筵だった。やがて寺脇と千沙が心中未遂を起こし、寺脇は死に、千沙は卒業後は愛人として男を転々としたあと故郷に戻ってくる。そして事件が起こった。第一被疑者は隣に住んでいる小説家だった。寺脇の十一歳年下の弟だという。

 第30回鮎川哲也賞優秀賞受賞者。証言者二人がはなから嘘をついているので、事件の真相は何なのかという興味はあり、それは最後まで持続します。ところが謎解き小説的な部分はただ単に二人が嘘をついていましたでおしまいだし、幻想耽美小説的な部分は謎解き部分のせいでまどろっこしくなっているしで、どっちつかずのぼやけた作品になっていました。
 

「乱視読者の読んだり見たり(1)続いている小説と映画」若島正
 コルタサル「続いている公園」「悪魔の涎」と、「悪魔の涎」の映画化『欲望』について。
 

「新世界《ニュー・ワールド》」パトリック・ネス/樋渡正人訳(The New World,Patrick Ness,2009)★★★☆☆
 ――「ほら、見えるでしょ」母さんが言った。「新世界だ」父さんが言って、わたしの肩に手を置いた。わたしは「もう見た」と言って部屋に戻ってドアを閉めた。……両親から上陸班に立候補すると聞かされたときはたしかにわくわくした。でも実際に選ばれてしまうと気が重かった。十三歳の誕生パーティーも出来ないし、卒業式にも出られない。涙がこみあげてくる。美術や数学を教わっているブラッドリーがプレゼントをくれた。「なかを見るのは着陸してからだぞ」。わたしたちの船団が旧世界を発ったとき、先に出発した移住者たちと交信は取れず消息も不明だった。だから、たどり着けなかったんだろうと思っていた。先に出発した入植者がいるなんて、わたしたちには怪談みたいなものだ。惑星軌道に進入すると、画面に明かりのようなものが見える。大気圏に突入する。突然、爆音が鳴り響き、父さんが悲鳴をあげた。エンジンルームに炎が充満し、出入口が封鎖される。「ヴァイオラ、不時着できそうな場所を探して! そのあとで父さんを救い出す!」母さんが声を張り上げる。

 「細菌のせいで女がすべて死に絶えて、生き残った男たちも互いの思考がすべて〝ノイズ〟として聞こえるようになってしまった」惑星〈新世界〉で、最後の子どもであるトッド少年が死に絶えたはずの女の子と出会う、〈混沌の叫び〉シリーズの前日譚、だそうです。シリーズのあらすじはあんまり面白くなさそうなのですが、この前日譚は少女の不安や反抗期による後悔、事故による緊迫感と絶望など、バランスのよい小品でした。
 

ウィッチクラフト≠マレフィキウム」空木春宵★★☆☆☆
 ――来客は〈面影の魔女〉だった。「いらっしゃい。お久しぶりね。ご用件は?」「時が来ました。貴女にお渡しすべき時が来たのです」〈面影〉は片手を差し出した。掌には〈面影〉を〈面影〉たらしめている徴――仮面の刻印がある。……最近になって〈騎士団〉を名乗る連中による魔女狩りが連続していた。

 第2回創元SF短編賞佳作受賞作家。「現代魔女」という発想は面白いものの、SNSとVR技術の普及によるバーチャルな世界や、フェミニズムに落とし込むあたりはありきたりです。
 

「さいはての実るころ」川野芽生★★☆☆☆
 ――男と少女が出会ったとき、彼らは互いのことがまるで理解できなかった。男は彼女に装甲がなくやわらかい生体組織が剝き出しであることに驚いた。少女はといえば彼の膚が緑ではなく褐色で、体から蔓や葉や花が出ていないのが不思議でならなかった。

 幻想小説家・歌人。機械タイプの人間と植物タイプの人間の交流。
 

「刊行告知・旅書簡集 ゆきあってしあさって」高山羽根子・酉島伝法・倉田タカシ絵葉書 架空の土地を巡る旅の書簡集。
 

「犬飼ねこそぎインタビュー 『密室は御手の中』」
 「犯人の用意した偽の証拠ではないか」という疑念をクリアするために「人間による工作の及ばないもの」として地震を採用したという事情からは、なかなか面白そうな気配がします。
 

「新名智インタビュー 『虚魚』」

「辻堂ゆめインタビュー 『トリカゴ』」
 

「追悼・松坂健」小山正・新保博久・白井久明・戸川安宣
 

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 紙魚の手帖 02 

『不機嫌な女たち キャサリン・マンスフィールド傑作短篇集』キャサリン・マンスフィールド/芹澤恵訳(白水社 エクス・リブリス・クラシックス)★★★★★

 『The Collected Fiction of Katherine Mansfield

 不機嫌な女たちという作品が収録されているわけではなく、従来のマンスフィールド観とは一線を画す〈不機嫌な女たち〉というキーワードで編集した日本オリジナル作品集です。作品自体はこれまでの翻訳傑作集と重なる作品が多く、肝心の〈不機嫌な女たち〉というキーワードもさして生きておらず、マンスフィールド作品の印象が一新することはありませんでした。新訳らしく読みやすく、未発表原稿「ささやかな過去」も収録されています。
 

「宴の後」

「幸福」(Bliss,1918)★★★★★
 ――バーサ・ヤングは三十歳だったけれど、それでもこんな瞬間がある。歩くかわりに走ってみたくなる。急にダンスのステップを踏んでみたくなったり、笑いだしたくなったりするのだ。その日の晩餐にはお客を招いていた。安心しておつきあいのできるノーマン夫妻。エディ・ウォレンという若い詩人。バーサが“見出した”ミス・フルトンも。夫のハリーに言わせれば、退屈な女だというが、同意できなかった。

 冒頭で描かれた理由の説明できない幸福感によって、バーサの性格が遺憾なく描写されています。決定的なのは、続く「それが本当に紫の葡萄を買った理由なのだ。果物屋の店先で『絨毯の色と合わせるのに、テーブルに何か紫のものを配置しなくては』と考えた」という文章です。不合理なようでいて、感覚的に理解できもする、こうした感性の絶妙な機微こそ、マンスフィールドの真骨頂でしょう。

 晩餐で招待客を値踏みする厳しい視線は、幸福感に包まれたままの自信に満ちています。けれど揺るがぬそうした自信は、終盤にしっぺ返しを喰らうことになります。こんな単純な、好意を持っている相手をわざと貶すという手口を、見抜けなかったなんて――。幸福感に浮かされているのが少女ではなく三十歳の分別ある大人だからこそ哀しい。
 

「ガーデン・パーティー(The Garden Party,1922)★★★★★
 ――ガーデン・パーティーにはうってつけの天気になった。ローラはパーティーの準備を手伝っていた。天蓋張り職人との会話にはどきどきした。同じ花ばかりが届いたときには何もできなかった。そんなとき、配達人がその話を持ち込んできた。「どうしたの?」「人が死んだんです。お屋敷の下に小さな家がごちゃごちゃしているでしょう。馬から投げ出されて」「ジョージー、こっちに来て」ローラは姉の袖をつかんでいった。「取りやめにしなくちゃだめだよね?」「どういう意味よ?」

 従来「園遊会」の邦題で知られる作品ですが、園遊会というほどご大層なものでもないので「ガーデン・パーティー」は適訳でしょう。温室育ちの少女にとっては何もかも新鮮で、「幸福」のバーサのような幸福感に包まれても不自然ではない年頃です。敏感な心に触れてくるのは何も楽しいことばかりでなく、不幸もまた無防備な心には深々と突き刺さります。ローラがショックを受けたのは、死に間近に触れたからなのか、下層階級の暮らしを目の当たりにしたからなのか、いずれにしても人はいつか無知ではいられなくなるものです。何もかもわかっているというふうなお兄さんが大人です。
 

「人形の家」(The Doll's House,1922)★★★★★
 ――バーネル家に滞在していた老婦人が子どもたち宛てに大きな人形の家を送ってよこした。子どもたちは絶望かと誤解されそうな声をあげた。あまりにもすばらしかった。なかでもケズィアが夢中になったのは、ミニチュアのランプだった。子どもたちは学校のみんなに人形の家を自慢したくてうずうずしていた。「話があるの、休み時間にね」イザベルはみんなに取り囲まれた。けれどケルヴィー家の姉妹とは話をするなと言われていた。

 前二作でも階級意識はそこはなとなく流れていたものの、この作品に至っては露骨に階級の差が描かれています。ケズィアがケルヴィー姉妹を家に招いたのも、無邪気な子どもだからというよりも、本物のランプを自慢したかったからではあるのでしょう。けれど蚊帳の外だったケルヴィー姉妹も、初日のケズィアのその自慢が耳に入っていたはずです。中心となる上流階級の子どもたちからは終始いないものとして扱われてはいても、興味がないわけではありません。それらが集約されている、「見たよ、あのちっちゃなランプ」のひとことが胸を打ちます。

 マンスフィールドの鋭い感性は相変わらずで、「ひと目でどこもかしこも、客間も食事室もキッチンもふたつの寝室も見られるようになった。そう、家を開けるのは、そうでなくては! どうして普通の家は、そういうふうにできていないのだろう? そのほうが、ドアの隙間から帽子掛けのスタンドや傘が二本ばかり並んでいる狭くて冴えない玄関ホールをのぞき込むよりも、ずっとわくわくできるはずなのに」という、子どもならではの視点でありつつ、大人をも納得させてしまうような視点には舌を巻きました。
 

「満たされぬ思い」

「ミス・ブリル」(Miss Brill,1920)★★★★★
 ――輝くばかりの好天だった。ミス・ブリルは片手をあげて毛皮の襟巻に触れてみた。その襟巻の愛らしいこと! その日はかなりの人が出ていた。バンドの演奏も先週よりもにぎやかだし陽気だった。社交シーズンが始まったからだ。彼女の“特等席”にはほかにふたりしか坐ってなかった。品のよさそうな老紳士と、大柄な老婦人だが、がっかりしたことにふたりは何もしゃべらなかった。他人の会話を愉しみにしているのだ。

 これまでの三篇同様、まずはミス・ブリルの目を通したこの世界の幸せがたっぷりと描かれています。ただし「幸福」のバーサが三十歳、「ガーデン・パーティー」「人形の家」の主人公たちが少女だったのに対し、本書のミス・ブリルがオールドミスなのは意図的なものでしょう。主観的な幸福は無慈悲な他人の目によってもろくも崩れ去ります。これも一種の異化と言えるでしょうか。主観の目を通せば少女の幸福も老婆の幸福も変わらないのに、年齢設定を変えるだけで悲劇にもなり得るようです。
 

「見知らぬ人」(The Stranger,1921)★★★★☆
 ――ハモンド氏は熱っぽい眼差しを船にそそいだ。ハモンド夫人が十ヵ月のヨーロッパ旅行から帰ってくるのだ。あんな小さなひとがひとり海を渡り、はるばる旅をしていたとは。そういう女なのだ、ジェイニーは。そういう勇敢さがある。ハモンド氏は甲板に上がるなりジェイニーを抱き締めた。「ようやく会えた。さあホテルに戻ろう」「船長さんにご挨拶しなくちゃ」十分くらいなら我慢しよう。

 愛というよりは依存あるいは束縛に憑かれた男性視点が採用されています。妻が変化したわけでもなく、夫が疑うようなことが妻の身にあったわけでもないのでしょう。ただ単に、自分が十か月待ちわびたのだから相手もそうに決まっている、という思い込みが、夫婦間のズレを生み出してしまったようです。主人公にどこか子どもっぽさが残るという点ではこれまでの四作と変わりありませんが、女性たちがその子どもっぽさゆえに幸福を感じていたのに対し、ハモンド氏は子どもっぽさゆえに苦しみ、しかも相手に迷惑をかけてしまいます。
 

「まちがえられた家」(The Wrong House,1919)★★★★★
 ――ラヴィーニア・ビーンは椅子に腰かけ、慈善事業のためにまた一枚ヴェストを編もうとしていた。その日は朝からしんしんと冷えた。こんなときはゆったりと浴槽に寝そべり、身体を湯のぬくもりにゆだねるのがいちばんだった。そのたびに、ラヴィーニアは思う。お棺に納められるときには、こんな姿勢を取らされることになるのだ、と。ラヴィーニアは編み物を続けて、大きな溜め息をついた。

 確かに死が徐々に近づいている老嬢とはいえ、たわいない空想という点ではこれまでの作品とさして違いはありません。人間の身体に合わせて棺が作られているのではなく、人間の身体が棺におさまるように創られているのだという逆さまの発想も、空想特有の無責任な思いつきだと思えばリアルです。状況が一変するのは、間違いだったとはいえ、現実を突きつけられた瞬間でした。薄々感じてはいながらも見ないふりをしていたのに、他人からぶん殴られたような不意打ちをもろにくらってしまいました。
 

「冒険の味」

「小さな家庭教師」(The Little Governess,1915)★★★★★
 ――女子家庭教師紹介所の人は、彼女にこんなふうに言った。「夕方の船に乗って、乗り継ぎの列車は“婦人専用”のコンパートメントにお乗りなさい。これまで外国にいらした経験はないんでしょう?」船が停まり、タラップを降りると、車掌か駅長がトランクを引ったくって「はい、こっち、こっち」と乱暴に歩きだした。コンパートメントに入れば、フランス人の隣客がちょっかいをかけてくる。

 世間知らずの若い家庭教師が、悪意ある人々に遭遇してショックを受けながら、乗客のうわべの優しさにほだされて、それ以外の人間に悪意をぶつけてしまう愚かな行動を取ってしまいます。騙される人を書きなさいと言われたらこう書くというべきお手本のような人物描写でした。
 

「船の旅」(The Voyage,1921)★★★★☆
 ――フェネラは祖母と一緒に船に乗った。「向こうにはいつまでいなくちゃならないの?」フェネラは父親にたずねた。「しばらくはね。さあ手を出して。一シリングだよ」。一シリング! 永遠に帰ってこられない、ということだ。船が出てからも必死で埠頭に父親の姿を探した。祖母と顔見知りらしい船室係が、黒ずくめの祖母とフェネラの黒いブラウスとスカートを見て、お悔やみの表情になった。

 それとなく描かれてはいるものの、少女の身に何が起こったのかが具体的に明かされるのは中盤も過ぎてからです。少女の不安は父親と離れての長旅だからというだけではなく、ほかに理由のあったことがわかると、一シリングという破格のお小遣いをもらったのは永遠に帰ってこられないからだという微笑ましい描写にも、また違った印象を受けます。旅慣れたおばあちゃまがサンドウィッチの値段に憤慨したり二段ベッドの上段にするすると上ったり、いつもどおりの日常として機能していました。
 

「若い娘」(The Young Girl,1920)★★★★☆
 ――「あなたにヘニーをお願いしてかまわないでしょう?」ラディック夫人はわたしに言った。「この子にカジノを見せてやりたいの」「おしゃべりはそのくらいにして、お母さん」娘はたまりかねたように言った。わたしが弟のヘニーと待っていると、ラディック夫人が娘を連れて再び現れた。「この子、入れてもらえなかったの。二十一だって言ってやったのに。マキューアンさんの奥さんにさそわれて、でもこの子をひとりにしとくわけにはいかないでしょ――」そこで“この子”が顔をあげた。「なんでひとりにしとくわけにいかないの?」

 まぎらわしいのですが岩波文庫や『ちくま文学の森』に収録の「少女」は原題「The Little Girl」で別の作品なのですね。子ども扱いはされたくない、でも大人にもなりきれない、思春期の少女の描かれ方としてはわかりやすく、マンスフィールドならではの要素は薄い作品でした。
 

「勝ち気な女」

「燃え立つ炎」(A Blaze,1911)★★★★★
 ――「マックス、おれはもう少し滑ってゆくとエルザに伝えてくれないか」という夫からの伝言を聞いたエルザは、マックスにたずねた。「で、雪の斜面を満喫してきた?」「そこそこは。ご主人は遅くなるそうですよ」「動きまわるのはやめていただけない、マックス?」「無理です。俺にはできない。もう疲れました」「ちゃんと説明してちょうだい」「あなたにはわかっているはずだ。そっちから誘いをかけといて」

 最初期の作品で、繊細な心理描写というよりも直接的な言動が描かれていますが、恋愛遊戯に耽る女心とそれに振り回される男心がズバリ描き出されているという点、やはり見事です。簡潔にして適確。二人の火花散るやり取りのあとに、コキュめいた夫の描写があるのが笑いを誘います。
 

「ささやかな過去」(A Little Episode,1909)★★★★☆
 ――イヴォンヌはコンサート・ホールをゆっくりと移動していた。男たちの称賛の眼差しと女たちの暑苦しい親しさを、うっすらと感じながら。パリで芸術家を志した父親に奔放に育てられたが、父親の死後は伯父夫妻に引き取られ、淑女としての教育を受け直されたのだ。ジャック・サン・ピエールが舞台に出てきてピアノに向かった。以前と同じ、変わっていなかった。イヴォンヌは楽屋に会いに行った。

 2012年に発見された未発表の原稿のうちの一篇。幸福感に満ちている女性がしっぺ返しを喰らうという点は「幸福」と同じですが、自信に満ちた世間知らずの若い娘と世間ずれした年上のジゴロの描かれ方がやや類型的で、イヴォンヌの青臭さばかりが目立ちます。
 

「一杯のお茶」(A Cup of Tea,1922)★★★★★
 ――ローズマリーに話しかけた若い女は、痛々しいほどに痩せて、赤くなった手で外套の襟元をかきあわせていた。「お、お、奥さま。お茶を飲むお金をいただけないでしょうか?」。ローズマリーは、小説の一場面のように感じた。小説や舞台で見たりしていることを、このわたしが実践したら……「わたしの家にいらっしゃいな。一緒にお茶を飲みましょう」

 持つ者の余裕と優越感と、女らしい気まぐれは、これまた自分大好きな女心によって、あっさりと覆されます。旦那さんは冗談のつもりだったのでしょうが、もとより慈善などではなくただの気まぐれなのですから、たとえ冗談でも嫉妬の目は潰しておくのがローズマリーにとっては正義なのでしょう。
 

「男の事情」

「蠅」(The Fly,1922)★★★★★
 ――もう六年も経つというのに、生きているときのまま軍服を着込んだ姿で、朽ち果てることもなく永遠の眠りについている姿しか思い浮かんでこない。「息子よ……」社長はつぶやいた。そのとき、デスクに置いたインク壺のなかで、蠅が一匹、溺れかけているのに気づいた。社長はペンを使ってすくいあげ、吸い取り紙のうえに落とした。蠅は前肢う動かし翅のインクを拭い落とした。社長は思いつきから蠅のうえにインクを垂らした。

 生き死にに対する理不尽や、人の心の不確かさが、見事に切り取られた作品です。人は一つのことだけをつねに考えているわけではないという当たり前のことを思い知らされます。ただしマンスフィールドが実験小説的な意識の流れ派とは違うのは、きちんと起承転結のある物語になっているところでしょう。

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 不機嫌な女たち キャサリン・マンスフィールド傑作短篇集 


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