『ネルーダ事件』ロベルト・アンプエロ/宮崎真紀訳(早川書房 ポケミス1883)★★☆☆☆

ネルーダ事件』ロベルト・アンプエロ/宮崎真紀訳(早川書房 ポケミス1883)

 『El caso Neruda』Roberto Ampuero,2008年。

 私立探偵カジェタノ・シリーズの第6作にして代表作。カジェタノ最初の事件です。依頼人ノーベル文学賞も受賞したチリの国民的詩人パブロ・ネルーダキューバ人の友人である医師を、同じキューバ人であるカジェタノに探してきてほしいと頼まれます。

 ネルーダは私立探偵としてほぼ素人のカジェタノに、シムノンのメグレものを読んで探偵とはどんなものかを覚えるよう命じます。この時点では果たして本気なのか皮肉なのか赤毛連盟パターンなのかわからないのですが、確かにメグレものには聞き込みをしているうちにいつの間にか真相が明らかになっているようなところがあるので、人捜しのハードボイルドにはうってつけかもしれません。

 実在の詩人ネルーダは、社会主義政権の政治家としても活躍しながら病に倒れ、軍事独裁クーデターによって排斥されるという生涯を歩んだ人物で、本書はそのクーデター直前の時代が舞台なので、当然ながらネルーダは病に冒されています。死期が近いのが依頼の理由の一つでもありました。本書ではネルーダは女にだらしないクズとして描かれています。

 やがて医師探しが終わり結果報告をするカジェタノに対し、ネルーダは意外な事実を打ち明けます。意外といってもクズエピソードが増えただけなのでさして意外ではありませんし、大物にはありがちな話です。けれど依頼する理由がまたクズな理由【※ネタバレ*1】であり、徹底してクズであるという点では筋が通っていました。とは言えこの時点では打ち明け話が事実かどうかも怪しいところではあったのですが。

 それにしても、クズかどうか以前に、このネルーダの造形はひどいですね。むやみやたらと詩的な表現をつぶやくステレオタイプな詩人キャラで、ノーベル賞作家も形無しです。

 結局、依頼にそれ以上の裏はなく、後半はただただネルーダの独りよがりで個人的な事情のために人捜しが続けられることになります。行く先で秘密警察らしき人物に脅されたりはするものの、基本的には行き当たりばったりに都合よく人づてに相手をたどることができ、なぜかロマンスもあり、どんどんつまらなくなってしまいます。

 かつての不倫相手やカジェタノの元妻が政治のために闘っているのに対し、ネルーダは大使の任務からも逃げ元妻たちも捨ておいていつまでも昔のことを引きずっているしょーもない抜け殻です。そういう対比こそあるものの、ドラマチックでも何でもなく本当にただの駄目な人に過ぎません。チリの偉人の人間的な部分を暴くということなのでしょうけれど、日本人にはどうでもいい話でした。

 いい話でも何でもないはずなのですが最後がいい話ふうに終わるのも気持ち悪く感じました。前半の雰囲気はよかったんですけど。

 南米チリで探偵をしているカジェタノはカフェで、この稼業を始めるきっかけとなった事件を思い出していた。それは1973年、アジェンデ大統領の樹立した社会主義政権が崩壊の危機を迎えていた時のことだった。キューバからチリにやって来たカジェタノは、革命の指導者でノーベル賞を受賞した国民的詩人ネルーダと出会い、ある医師を捜してほしいと依頼される。彼は捜索を始めるが、ネルーダの依頼には別の目的が隠されていた。メキシコ、キューバ東ドイツボリビアへと続く波瀾の調査行。チリの人気作家が放つ話題作。(裏表紙あらすじ)

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*1 障害持ちの娘など娘ではない。不倫相手に産ませた健常な娘を探して来て欲しい。娘こそ永遠の命なのだ。

*2 

*3 

『一週間のしごと』永嶋恵美(創元推理文庫)★☆☆☆☆

『一週間のしごと』永嶋恵美(創元推理文庫

 『НЕДЕЛЬКА』永嶋恵美,2005年。

 扉の題名がロシア語なのは、恐らくロシア民謡「一週間」(テュリャテュリャテュリャテュリャリャ♪)にちなみます。

 あらすじから想像するような青春サスペンスではありませんでした。

 どうして主人公たちを高校生にしてしまったのでしょうか。非常識な行動をしても小学生や少年探偵団ならまだ納得もできたのに。主人公の姉をおかしなキャラにして、エキセントリックでバカだからこういうこともありですよ~というのでは、あまりにご都合主義で安易でしょう。

 主人公の姉・菜加がたまたま見かけた幼い子どもを親切のつもりで誰にも無断で自宅に連れ帰ってくるという馬鹿な行為さえしなければ事件に巻き込まれることはありませんでした。せめて導入くらいは不自然なのをやめてほしかったです。愛すべきキャラクターならともかく、ほんとうにバカでウザくてイライラします。

 探偵役である隣の同級生・恭平も、何の根拠もなく「集団自殺がもし自殺でなく殺人だったら……」とか言い出しますし、すべてがいい加減で適当でミステリどうこう以前に小説としての態をなしていません。西日本と東日本の違いなのかもしれませんが、「土肥=トイ」「水上=ミナカミ」で「ドヒ」「ミズカミ」が少数派であるというわけのわからない常識を振りかざされても困ります。地名ならともかく苗字としては珍しくもないでしょうに。もしも菜加の馬鹿さ加減を表すエピソードのつもりだったとしても恭平の視野の狭さの証明にしかなってませんし、ミーナとミコのミスディレクションのつもりだとしたら不自然すぎてお粗末です。

 しかも警察に行かない理由が、きらいだから……。相手が集団殺人犯だと想像したうえで子どものわがままにつきあうつもりなら初めっから助けるなよ。

 そんなゆるゆるな筋とマンガチックなキャラクターにもかかわらず、ユーモアというわけでもなくガチガチの凶悪犯罪が描かれているのがまた、ミスマッチを通り越して脱力ものです。ストーリーの辻褄を合わせようとか作品の完成度を高めようという発想自体がないのでしょうね。

 プロが書いたとは思えないような、雑でひどい出来でした。

 優等生だがほかに取り立てて特徴のない高校生の恭平。彼はある日曜日、直情的でお節介な幼なじみの菜加に呼びつけられ、一方的に相談される。何でも拾ってしまう癖のある菜加が、昨日渋谷の雑踏で母親から置き去りにされた幼児を連れてきてしまったのだ。なぜか自分の名前すら言おうとしない幼児を、恭平たちは僅かな手掛かりを元に、然るべき場所に送り届けようとするが……。(カバーあらすじ)

  

『幻想と怪奇』9【ミステリーゾーンへの扉 「奇妙な物語」の黄金時代】

『幻想と怪奇』9【ミステリーゾーンへの扉 「奇妙な物語」の黄金時代】

「A Map of Nowhere 08:「歩いていける距離」のホームウッド」藤原ヨウコウ

「ファンタスティック・マガジン 1940s〜1960s」
 

「ブレンダ」マーガレット・セント・クレア/森沢くみ子訳(Brenda,Margaret St. Clair,1954)★★★★★
 ――ブレンダ・オールデンは、少し時代遅れの潔癖な寄宿学校の、模範的な生徒だった。休暇を過ごしているモス島の森を歩いていたブレンダは、鼻をつく腐敗臭を嗅いでその源を突き止めることにした。男の姿が目に入った。浮浪者でも避暑客でもない。肌は灰色で、油脂のかたまりからできているかのようだった。手に死んだ鳥を握っている。次の瞬間、男がブレンダのほうへ手を伸ばしてきた。ブレンダは身を翻して走った。ブレンダは男を採石場に誘い込むことに成功した。男は採石場の斜面を這い上がろうとしたが、うしろへ滑った。這い上がろうとしては、また滑った。「出られないんでしょう?」からかうように言って、家に戻った。翌朝早く、ブレンダはチャールズに会いに行った。「おもしろいものがあるのよ」「興味ないね」。夕方、採石場に行くと、男はまだそこにいた。

 思春期特有の肉体や心や家族や社会への違和感、あるいは人間そのものへの不信感。そういった諸々の感情を、人ならざる存在そのものに心を通わせるという手法で描いています。それにしても森の男が不気味でおぞましく、瞬間的に怖気を震わずにはいられません。とは言え作品内では人に害なすものかどうかもわからないのですから、そういった感覚自体が偏見と言えば偏見なのでしょう。これが例えば余所の町からきたジゴロあたりであればそれこそよくある話です。余所者どころか人外になるだけで恐ろしい話になるものです。
 

「生命体」リチャード・マシスン夏来健次(Being,Richard Matheson,1954)★★★★★
 ――八月に車でニューヨークへ行こうなんて正気じゃなかった。補修中の幹線道路から迂回路に入ってからもう何時間も抜けだせずにいる。「ガソリン・スタンドがあるわ。水がもらえるか訊いてみましょ」マリアンが言った。「ガソリンもいくらか」レスが燃料計を見ながらつけ加えた。「ガソリンかい?」スタンドのわきに停まったレッカー車から、男が問いかけた。「満タンにしてくれ。それと、冷たい水を」「ここにはない。家まで来てくれ。水を汲んでくるまで動物園でも見てりゃいいさ」。男が古びた家の玄関を上がって行くのを見て、二人は檻の方へ向かった。なかを覗きこんだ。檻のなかにいたのは人間の男だった。「なんなの、これ?」「知るもんか。逃げよう」。だが車の前には男が立ってショットガンで狙いをつけていた。ゼラチン状のものが動きを再開した。〈それ〉は蠢きだした。

 異星の生命体との直接の対決ではなく、生命体に脅迫されている男との対決にすることで、超常的なSFではなくサイコホラーのテイストを有している二重性が魅力でもあります。いま読むと、男の妻への愛情にマシスンらしさを感じたりもしました。
 

「代役」レイ・ブラッドベリ/植草昌実訳(Changeling,Ray Bradbury,1949)★★★★☆
 ――彼女はストリキニーネの瓶に雑誌をかぶせた。ハンマーとアイスピックはもう隠してある。準備はできた。ドアがノックされ、男が言った。「素敵な夜だね、マーサ」。どうして疑うのだろう。それはほんの些細な、言葉にできないほどのちょっとしたことだった。「気がかりでもあるのかい、マーサ」「なにも」彼女は言った。あなたの、なにもかもが、と思いながら。「レナード、あなた四月十七日の夜にアリス・サマーズと〈ザ・クラブ〉に行ったって話してくれなかったのね」「そうだったかな」「でもあなたはその頃、わたしと一緒にいたじゃない」彼女はキスをした。違う。ほんの少しだが、変わっている。彼がコースターを取りに行っている隙に、マーサは彼のグラスにストリキニーネを落とした。先週、マリオネット株式会社の新聞記事を読んで、彼といるときに感じる淋しさの理由に気づいた。等身大の、機械仕掛けで動く、人間と見分けのつかない人形。

 噓を吐くなら最後まで吐き通してよ、とはよく言われることですが、浮気よりもひどい、空っぽの現実でした。自我とか尊厳とかいったもの自体が溶けて消えてしまったような虚無感に見舞われてしまうのも、やむを得ないことでしょう。
 

「小さな世界」ロバート・ブロック/植草昌実訳(It's a Small World,Robert Bloch,1944)★★★★☆
 ――今夜はクリスマス・イヴ。クライド・ヒルトンはプロッパー玩具店でふだんより忙しい仕事を楽しんでいた。ポケットの中には婚約指輪が収まっていた。視線の先のカウンターの中にいるのが、その指輪を渡す相手グウェン・トーマスだ。玩具店のドアが開き、大男が入ってきた。黒いコートをはおり、黒い瞳に宿る輝きは燃える炎のようだ。大男には小さな男の子の連れがいた。玩具店に来て顔が明るくならない子供など見たことがない。だがこの子は無表情だった。「三輪車を包んでもらえるかな」大男に言われてクライドはいったん店の奥に引っ込んだ。戻ってみると、グウェンが消えていた。服だけが床に積み上げられていた。床に落ちていた書き置きに気づいた。グウェンが書き残したものだろう。「サイモン・マロット 四九五四 アーキモア・コート クライ」。クライドはその住所に乗り込んだ。

 ミクロの世界からの脱出と戦いというエンターテインメントに徹してくれるのがブロックらしいところです。恐ろしいシチュエーションであるにもかかわらず、わくわく感もあり、ある意味で安心して読めました。
 

「無銘の「異色」たち」木犀あこ
 児童書の『意外な結末』シリーズがサキやジェイコブズや欧米のフォークロアなどの翻案だと知って驚いたという話から、「異色作家たちが新たな読者を得るには「無銘」でなければならないのかという葛藤がある」という話に。
 

「馬巣織りのトランク」デイヴィス・グラッブ/岩田佳代子訳(The Horsehair Trunk,Davis Grubb,1946)★★★★☆
 ――マリウスは一週間近くも伏せっていた。体内ではチフスが猛然と暴れまわっていた。八日目の朝、全身が燃えたつかのような異様な感覚を覚えた。階下の台所で妻のメリーアンがマッチ棒を折る音が、はっきり耳に届いた。マリウスは月末には職場に復帰していた。だがあれだけ悪意の塊だった人間が、どうすればさらに悪くなれるのかと、誰もが首をひねった。九月のある午後、マリウスはふと、あれをまたやってみようと考えた。秘訣は深い眠りに落ちそうなときに寝椅子から立ち上がるだけだ。それで体から離れられる。妻の声が聞こえてきた。「もう行ってちょうだい、ジム。あの人に見つかったらどうするの」「もう我慢できないんだ。今夜じゃダメなのか? ルイビル行きの蒸気船に乗れば、もうあいつの仕打ちを我慢しなくていいんだ」「わかった、いくわ」「九時に波止場で」相手の男は若かった。メリーアンはかつてマリウスには見せたことのない笑みを見せていた。マリウスはルイビル行きの船の乗客名簿を見て、ジムという乗客のとなりの部屋を予約した。

 幽体離脱ネタというと、たいていは「戻れない」ところに勘所がありそうなものだと思っていたので、ベタななかにもちょっとした意外性がありました。そもそも病気で寝込んでいるという状況からこの展開に持っていくストーリーテラーぶりに独特のものがあります。計画を実行するなら暗闇だろう、暗闇で気づくなら手触りでだろう、というところから採用されたであろうタイトルも変わっています。
 

「ピアノ教師」ジョン・チーヴァー/宮﨑真紀訳(The Music Teacher,John Cheever,1959)★★★★☆
 ――すべて抜かりなく準備できているようだと、帰宅したシートンは感じていた。結婚して十年になる今もジェシカはことのほか愛らしいと思うが、この一、二年、二人のあいだに妙に重苦しい空気がたちこめていた。わざと料理を焦がして夫への不満を表しているかのようだった。だが思いついたのは、二人がまだ恋人同士だった十年前によく行ったレストランでのディナーに連れ出すことぐらいだった。それもベビーシッターが来られなかったために失敗に終わった。シートンはもう少し頑張ってみようと思い、土曜の午後、トンプソン夫妻を自宅に招待した。あまり乗り気ではないことはなんとなくわかった。帰りがけにジャック・トンプソンがシートンにきっぱりと告げた。君の家庭がどういう状態か、見ればわかるよ。趣味を持ったほうがいい。ミス・デミングのピアノのレッスンを受けることをお勧めする。

 魔女というのを譬喩ではなく文字通りの魔女だと捉えることもできますが、実際のところは女だからこそ女のことを知りつくしている性悪婆であったのでしょう。決定的な何かがあったわけではないのに何かがおかしくなってしまった夫婦の仲は、特定の何かがあるわけではないからこそ修復が難しいのだと思います。現実だと余計に状況が悪くなりそうではありますが、毒をもって毒を制すようなやり方がどうやら功を奏したようです。
 

「おかしな隣人」シャーリイ・ジャクスン/伊東晶子訳(The Very Strange House Next Door,Shirley Jackson,1959)★★★★★
 ――噂話はしない。わたしにとって我慢ならないものがあるとすれば、それは噂話だ。隣の家のことを考えると頭にくる。バートン一族がやっと出ていくと――村の連中のせいだと思う――あの頭のおかしい人たちが引っ越してきた。おかしいことは家具を見るなりわかった。店から家に帰ろうと隣家の裏庭を横切ったところ、メイドが裏庭で地面に穴を掘っていた。「こうして地面に膝をついているのは今夜の食事を作るためなのよ」と言って見せたのはドングリが一個だった。「でも、食料雑貨店で買った鶏肉はどうするの?」「ああ、あれはわたしの猫用なの」まさか。猫のために鶏を丸ごと一羽買う人なんている? なんにせよ、隣の人たちが鶏肉を食べなかったのは確かだ。うちの台所の窓から向こうの食卓が見えるのだ。

 ジャクスン得意の自分がおかしいと気づいていない人の一人称かと思わせておいて、もしかすると隣人の方がおかしいのではという描写もあってどうなるかと思っていると、それでもやはり語り手たちがおかしくて、いくら余所者に排他的な田舎にしても度を越しているのではないか――と、どちらともつかない不安な気持ちになってきます。田舎でのんびり暮らそうとした魔女一家が、排他的な村人たちから思わぬ拒絶される話だと思えば辻褄は合うでしょうか。とは言えそれも村人の主観でしかありません。蜘蛛の巣のカーテン
 

大自然と魔術を操る、もう一人の異色作家」小山正
 マシスンやボーモントと比べると無名ですが、『ミステリーゾーン』人気エピソードの脚本を書いていたアール・ハムナー(・ジュニア)について。第3シリーズ「狩りの最中突然に(84)」「ピアノの怪(87)」、第4シリーズ「夜の女豹(109)」、第5シリーズ「指輪の中の顔(133)」「車は知っていた(134)」「黒い訪問者(138)」「連れて来たのはだれ?(150)」「水に消えた影(156)」。玉石混淆
 

「歩いていける距離」ロッド・サーリング/矢野浩三郎(Walking Distance,Rod Serling,1960)★★★☆☆
 ――彼の名前はマーティン・スローンで、三十六歳。世界をこの手に握っていながら、週に三回は泣きたい気分を味わっている。スローンは窓から外を見つめながら、少年の頃のことや、故郷のメインストリート、ウィルスンさんのドラッグストアのことなどを思い出していた。ふと、考えた。車に乗って出かけよう。途中、ガソリン・スタンドで点検を頼んだ。『ホームウッド 一・五マイル』という標識がある。「歩いても行ける距離だな」マーティンはドラッグストアに入った。すべて記憶にある通りだった。二十年たってもまったく変わっていなかった。十一歳のとき名前を彫ったパビリオンの柱もある。一人の少年が今しもなにやら彫りつけている。マーティンは少年に歩み寄り、そこに二十五年前の彼自身の顔を見た。

 文春文庫『ミステリーゾーン』からの再録。第1シリーズ「過去を求めて(5)」の小説版です。『ミステリーゾーン』でこのあと量産されることになる過去へのノスタルジーものですが、その最初期のものとして結構よい作品だった記憶があります。が、文章で読むと、さすがに主人公の行動に違和感を感じてしまいます。
 

「だれもが死んでいく」ジョージ・クレイトン・ジョンスン/浅倉久志(All of Us are Dying,George Clayton Johnson,1961)★★☆☆☆
 ――彼は見知らぬ新しい町に入り、ホテルの前に車をとめて、外に出た。「サム!」と声が呼びかけた。大柄な男が手をさしだして近づいてくる。彼の反応は自動的だった。その手を握りしめて、「また会えてよかったよ」と熱をこめていった。ホテルに入ると、彼を見た女店員から愛想のいい微笑が消えた。「フレッドじゃない? よく帰ってこれるわね」

 第1シリーズ「顔を盗む男(13)」の原作ということですが、原案と言った方がいいでしょう。意図的に顔を変えているというよりは、誰からも誰かに間違われる顔をした男の話です。悪党ですらない小悪党の最期は惨めなものでした。『ふしぎの国のレストラン』より再録。
 

「行き止まり」マルコム・ジェイムスン/三浦玲子訳(Blind Alley,Malcom Jameson,1943)★☆☆☆☆
 ――フェザースミス氏はとにかく虫の居所が悪かった。生まれて初めて心臓発作も起こった。もう一度若さを取り戻したい。フェザースミス氏が会いに行った魔女マダム・ヘカテの要求は、彼の魂ではなく全財産だった。寝台車の中で目を覚ました。快適なはずの列車が激しく横揺れしている。しかも次の駅で寝台列車は切り離された。そうだった。四十年前じゃ直通の寝台列車などめったにあるもんじゃなかった。それに変わっているのは服装だけで、自分自身はまるで変わっていなかった。

 第4シリーズ「再び故郷へ(116)」原作。映像版もひどいものでしたが、原作に至っては契約すらも満足に出来ないお粗末ぶりです。それを考えると、映像版は悪魔がうまく裏を掻いた【※ネタバレ*1】ように改善されていました。
 

「パール・ジャコビアンの赤ちゃん」チャールズ・ボーモント/植草昌実訳(The Child,Charles Beaumont,1951/2013)★★★☆☆
 ――サミュエルスン夫人はどう切り出そうか迷っていた。「今日、パール・ジャコビアンに会ったの」「ねえ、パールはどこに行こうとしていたの? 三人目の子が死んでしまったあと、彼女を見かけた話ははじめて聞いたわ」「ベイカー先生の診療所に行くって、笑って答えたわ」「もしかして……」「勘ぐるのはよしましょう。あのと、パールはもう子供をつくれない体になった、と先生に言われたのよ」。……ベイカー医師は受話器を耳に当てた。「パールが産気づきました」トム・ジャコビアンがの声がした。「落ち着きなさい。きみの勘違いだ」「陣痛を起こしてるんです」「わかったよ、トム。診ればわかるだろう」

 古典的な○○怪談です。かまびすしい奥さまたちの噂話が中心に描かれていて、パール・ジャコビアン本人は直接には登場しません。それだけに、最後になって姿を見せるあの存在が効果的でした。
 

「『ミステリーゾーン』エピソード一覧」

「ナポレオンの帽子」イヴリン・ファビアン/高橋まり子訳Napoleon's Hat,Evelyn Fabyan,1955)★★★★☆
 ――わたしたちが住んでいたのは、十八世紀に建てられた小さな館《シャトー》だった。家から離れた畑を越えてさらにその先に広がる松林の手前に、その小屋はあった。理由は忘れたが弟とわたしはそこを〝黒い足の家〟と呼んでいた。怖くてたまらなかったものの、好奇心が薄れることはなかった。毎日がとても気楽で、わくわくすることばかりだった。わずか一年後、わたしが九歳の誕生日を迎えたあと、あらゆる価値が一変する出来事が起きてしまった。ドイツ人の家庭教師がやってきた。幌つきの馬車からノイベルク先生が降りて、母がわたしたちを紹介した。母と先生がいなくなってから、弟の顔が青ざめていることに気づいた。「大変だ、ソランジュ。あの人、目玉が白っぽかった」「あんた、やけに礼儀正しくしてたわね」「怖かったんだ」「まだ何もわからないわ」「ナポレオンと同じ帽子をかぶってた。かっこいいなあ!」

 姉弟のところにやって来た外国人の家庭教師――。典型的な余所者=人ならざる者の恐怖が漂う物語でした。幸せだった世界に割り込んで来た高圧的な異分子は、たとえ化け物でなくともそれまでの日常を脅かす恐ろしいものです。果たして彼女は本当に化け物なのかどうか――それを本人や直接的な恐怖ではなく、帽子の有無でずらしてみせるのがやけに記憶に引っかかって残ります。
 

「精巧な細工」キャサリン・M・ヴァレンテ/貝光脩訳(A Delicate Architecture,Catherynne M. Valente,2009)★★★☆☆
 ――菓子職人だった父は毎晩、綿菓子でわたしの枕をつくってくれました。それだけではありません。家財の多くは飴細工でできていました。でもプラムの砂糖漬けを食べるためのフォークはツバメの骨でできていたので、奇妙な塩辛さが舌に残ったものでした。どうしてなのかとわたしがたずねると、父はこう答えました。砂糖というものが生きた植物からつくられている、ということを、おまえはつねに心に留めておかなければならない。砂糖をつくってくれる子どもたちが流す汗は、塩の味がするんだ、と。わたしは父によく、母はどこへ行ってしまったのか、とたずねました。「ウィーンに住んでいたころ。皇妃さまを満足させることなどできない三流職人が、世界でいちばん純粋な砂糖を手に入れた。わたしはその砂糖びんを譲り受け、煮つめてお嬢さまの形をした型に流しこみ、オーブンに入れた。一、二時間でおまえの焼き上がり、ってわけだ」

 『孤児の物語』の著者による、おとぎばなしがテーマのアンソロジー寄稿作。さしずめ「本当は怖いおとぎばなし」といった態の作品でした。
 

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*1 見た目は若返ったが内臓までは約束していない。

*2 

*3 

『芥川龍之介選 英米怪異・幻想譚』澤西祐典・柴田元幸編訳(岩波書店)★★★★☆

芥川龍之介選 英米怪異・幻想譚』澤西祐典・柴田元幸編訳(岩波書店

 芥川が英語読本に採用した全51編のなかから、選りすぐって新訳した作品集。
 

「I The Modern Series of English Literatureより」

「身勝手な巨人」オスカー・ワイルド/畔柳和代訳(The Selfish Giant,Oscar Wilde,1888)★★★★☆
 ――子供たちは学校帰りに巨人の庭で遊んだものでした。七年ぶりに帰ってきた巨人は、庭で子供たちが遊んでいるのを見て、「俺の庭だぞ」と言って追い出してしまいました。身勝手な巨人だったのです。やがて春が来て国じゅうが花や小鳥であふれましたが、巨人の庭だけは冬のままでした。ある朝、巨人が目覚めると、子供たちが木々の枝に座っていました。木々はうれしくて花をつけています。「俺はなんて自分勝手だったのか!」

 『幸福な王子』より。子どもが明るさの象徴で、子どもを慕って花や小鳥がやって来るところに、心が温まります。子どもの姿に変じていたり、死後に花が咲いたりと、芥川が仏教譚に改作したのかと勘違いしかけましたが、ワイルドのオリジナルでした。
 

「追い剥ぎ」ダンセイニ卿/岸本佐知子(The Highwaymen,Lord Dunsany,1908)★★★★☆
 ――追い剥ぎトムは独りぼっちで首に鎖を巻かれて永遠に風に揺られる身となった。風がびょうびょう吹いていた。とある酒場で三人の男がジンをすすっていた。この三人ほど義理堅い友はいなかった。そしてその厚い友情を受ける男とは、鉄の鎖につるされて風雨に揺れるいくばくかの骨だけであった。夜が更けて三人が向かったのは、大司教が眠る墓地だった。墓地のはずれに三人は大急ぎで穴を掘った。

 別訳は『夢見る人の物語』所収。埋葬するのかと思ったら墓穴を素通りして、いったい何だ?と思わせたあとのブラックなユーモアが爽快でした。
 

「ショーニーン」レディ・グレゴリー/岸本佐知子(Shawneen,Lady Gregory,1910)★★★★☆
 ――男の世継ぎが欲しい王様は、賢者の長の言葉に従い、お妃様に魚を食べさせました。妃は男の赤ん坊を産み、料理女も男の赤ん坊を産みました。二人はあまりにそっくりなので、妃は料理女の息子ショーニーンに出ていくように言いました。ショーニーンが桶屋の山羊の番をしていると、巨人に見つかってしまい、戦いが始まりました。

 アイルランド伝承集からの一篇。初訳。民話や伝承(の翻訳)にありがちな無味乾燥さがなくて、波瀾万丈の英雄譚を堪能できました。男版シンデレラのようなエピソードもあり、興味深い。最後にはいきなり語り手が出て来て驚きました。
 

「天邪鬼」エドガー・アラン・ポー柴田元幸(The Imp of the Perverse,Edgar Allan Poe,1845)★★★☆☆
 ――経験に基づき帰納的に考えたならば、骨相緒もひとまず天邪鬼とでも呼ぶ他ない或る逆説的な何物かを、人間の生来的原初的原理の一つとして認めざるを得なかったであろう。この話をしたのは、何故私が足枷を嵌められこの死刑囚独房に棲んでいるのかを貴君に説明する為だ。ここまでくどくど述べなければ、私の事を狂者と片付けたかも知れぬからだ。

 著者自身がくどくどと書いていますが、さすがにいま読むとくどいんですよね。「モルグ街」にもそういうところがありましたが、まだ小説の型が今ほど定まっていなかったので、語る前にそれだけの準備が必要だったのでしょうけれど。怪奇小説「黒猫」「告げ口心臓」現実寄りの変奏です。
 

「マークハイム」R・L・スティーヴンソン/藤井光訳(Markheim,R. L. Stevenson,1885)★★★★☆
 ――「また伯父様の陳列棚からお持ちいただいたんですか?」「今回は買いに来たんだ。とある婦人にクリスマスの贈り物をしたい」マークハイムは店主に答えた。「この手鏡などいかがでしょう?」「鏡? 本気なのか? 歳月だの犯した罪だのを映し出してくれる良心の手先だぞ」マークハイムは襲いかかった。店主はどさりと倒れ込んだ。……「金を探しているわけだね」訪問者が入って来た。「何者だ?」

 恐怖、言い訳、回想――人を殺してしまったあとに押し寄せる様々に入り乱れた感情のあと、ようやくのことで悪人の良心がドッペルゲンガーとなって現れ、対話を始めます。(実際のところはわかりませんが)こうした混乱のあとの良心の葛藤というのがリアルなように感じられます。そして簡にして要を得た最後の一文により幕が下ります。
 

「月明かりの道」アンブロース・ビアス/澤西祐典訳(The Moonlit Road,Ambrose Bierce,1907)★★★★☆
 ――父から「至急帰省せよ」という電報を受け取りました。母が無惨に殺されたというのです。動機も犯人も皆目見当もつきません……/俺は今日まで生き延びた。ある晩、俺は卑しくも妻の貞操を試そうとした。翌夕に帰ると妻に告げて、その実、夜明け前に帰宅した。闇の中へ逃げ去る男の姿が見えた……。

 殺人事件をめぐり三者三様の話を語るという形式が、芥川「藪の中」の元ネタになった作品です。ただし「真相は藪の中」な芥川作品とは違い、この作品の眼目はポウの諸作やスティーヴンソン「マークハイム」のようなところにありそうです。
 

「秦皮の木」M・R・ジェイムズ/西崎憲(The Ash-Tree,M. R. James,1904)★★★★☆
 ――マザーソール夫人は魔女として絞首刑に処された。領主サー・マシューの証言が決め手だった。「あの屋敷は客を迎えるだろう」死に際して夫人が口にしたのは無意味な言葉だった。数週間後、屋敷を歩いていたサー・マシューは秦皮の木の幹を上下している生き物を見た。クローム牧師は誓った。栗鼠にしては、肢が四本より多かった、と。翌日、サー・マシューはベッドで絶命していた。外傷も毒物の痕跡もなかった。

 古典的な怪談の代表らしい地に足のついた筆致で進みながら、最後にとんでもなくおぞましい怪異が待ち受けていました。アレの持つ生理的な気持ち悪さが最大限に活かされていました。
 

「張りあう幽霊」ブランダー・マシューズ/柴田元幸(The Rival Ghosts,Brander Matthews,1883)★★★★☆
 ――エリファレット・ダンカン青年の母の家系が代々所有してきたセーレムの古屋敷には幽霊が取り憑いていた。主人の前には現れず、歓迎されざる客にだけ出現し、誰も幽霊の顔を覚えていなかった。そんなダンカン青年が父方のスコットランドの男爵位を継ぐことになり、男爵家に取り憑いていた幽霊もくっついてきた。その日から屋敷に居着いた幽霊と男爵に取り憑いた幽霊が喧嘩するようになった。

 初訳。アメリカの母方の屋敷に取り憑いた幽霊とスコットランドの父方の家系に取り憑いた幽霊という取り合わせが秀逸です。屋敷から離れていれば取りあえずは幽霊二体のバッティングは避けられるわけですが、幽霊二体と直面せざるを得ない事情が、婚約者の女性による男気を見せろという理不尽で下世話な要求であるところが笑えます。そんな笑える話に相応しく、微笑ましい結末を迎えました。
 

「劇評家たち あるいはアビー劇場の新作――新聞へのちょっとした教訓」セント・ジョン・G・アーヴィン/都甲幸治訳(The Critics Or, A New Play at the Abbey: Being a Little Morality for the Press,St. John G. Ervine,1913)★★★☆☆
 ――「駆け出しの記者がやるのが劇評家だ。だから僕がここにいるのは転落なのさ」「今回の劇は悲劇だって聞きました」「悲劇なんて現実で充分だ。どんな話だい」「全然理解できない。初めに見えたのは舞台を歩き回る幽霊でした」「いやいや幽霊じゃないよ。イェイツは幽霊が嫌いなんだ」

 初訳。アイルランドで上演された『ハムレット』を劇評家が酷評するという諷刺です。というか諷刺なのか、憂さを晴らしているだけなのか。
 

「林檎」H・G・ウェルズ大森望(The Apple,H. G. Wells,1896)★★★☆☆
 ――「こいつを始末しないと」客車の隅に座っていた男が唐突に言った。「これは知恵の木の林檎だ。すばらしい知識――これをきみにやろう」乗客はヒンチクリフ氏に言った。「しかしそういう話は寓話だと思っていました。あなたの話では――」

 嘘だとか、知恵があっても不幸になるだけだとか言いつつも、やっぱり気になる――というあるある話に、知恵の実の入手の幻視場面がミックスされています。
 

「不老不死の霊薬」アーノルド・ベネット/藤井光訳(The Elixir of Youth,Arnold Bennett,1905)★★★★☆
 ――その男は不老不死の霊薬を売っていた。簡単に騙される酒呑みたちを相手に瓶一本を六ペンスで売る男である。「紳士淑女の皆様、私は百一歳ですが、霊薬のおかげでぴんぴんしております。ご覧あれ」突然声があがった。「ブラック・ジャックだ! 捕まったぞ」殺人犯は一晩身を隠したのち、番小屋に連れて行かれるところだった。「我が霊薬を一杯飲むといい」「俺は一文なしさ」そのとき若い女が駆け出てきた。

 初訳。〈五つの町〉を舞台にした一篇。香具師の挑発もひどいですが、それに応えるブラック・ジャックも悪党の貫禄があります。それだけに若い女のけなげさが際立っていました。これしかないという結末でした。
 

「A・V・レイダー」マックス・ビアボーム/若島正(Max Beerbohm,A. V. Laider,1916)★★★★★
 ――イギリス以外でなら、流感で弱っていようが同じホステルで過ごす二人の人間が言葉を交わさないのは無理な話だ。だがひょんなことから言葉を交わし、二人とも手相を信じていることがわかった。レイダーは語った。十四年前、自分は人を殺したのだと。鉄道に乗り合わせた同乗者の生命線は誰のものも途切れていた。列車を止めるべきだった……。罪の意識に苛まれるレイダーに、私は自分の考えを伝えることにした。

 初訳。怪談の体裁を取りながら実は皮肉な話でしたが、実際のところどちらが真実かはわからない……はずでしたが、オチが強烈です。そうせずにはいられないのでしょうね。稀代のストーリーテラーです。
 

「スランバブル嬢と閉所恐怖症」アルジャーノン・ブラックウッド/谷崎由依(Miss Slumbubble-- and Claustrophobia,Algernon Blackwood,1907)★★★★☆
 ――ダフニ・スランバブル嬢は神経質なご婦人で、男性を過剰に意識した。そのうえ火事を恐れ、鉄道事故を恐れ、狭い空間に閉じ込められることを恐れた。例年のように女性専用車両に乗ったが、不安は去らなかった。スランバブル嬢は不安の原因を探し始めた。窓の外を見て、切符を、所持金を確かめた。窓のそばへ行った。窓枠は動かなかった。閉じ込められたのだ!

 初訳。ブラックウッドは出来不出来の差が激しいのですが、この作品はかなり面白い部類に入ります。タイトルにも「閉所恐怖症」と書かれてあるしネタをばらしたうえで語り口で読ませるタイプの作品かと思ったのですが、もうひとひねりありました。何だかんだ言いつつ根っこは怪談作家なのでしょう。
 

「隔たり」ヴィンセント・オサリヴァン柴田元幸(The Interval,Vincent O'Sullivan,1917)★★★☆☆
 ――ウィルトン夫人は店に入った。ヒューが戦死して以来会った占い師はこれで十人目だ。だが彼女が求めている慰めは一人として与えてくれない。過去の話など聞きたくない。もしも誰かが、まだ終わりじゃありませんよ、あの人はどこかにいるんですよと言ってくれたら……。

 初訳。芥川は戦死者の幽霊というところに新しさを見出していたようですが、いま読めばオチも含めてごくオーソドックスな(そして少し切ない)怪談です。
 

「白大隊」フランシス・ギルクリスト・ウッド/若島正(The White Battalion,Frances Gilchrist Wood,1918)★★★★☆
 ――「フーケ少佐、報告によれば突撃開始から塹壕までのあいだ連絡が取れなくなったとか。中尉の話では、見たというのです――」「塹壕攻撃に四十秒の遅れが出た。敵軍はほぼ殲滅された」「遅れには原因があったのですね?」「信じてもらえないだろう――この目で見た私すら信じられない。だが証拠に子供たちがいる。山のようなドイツ兵の死体も――攻撃していたのは――かつての戦友たちだった。そして女たちはみな、亡き夫の顔を見たんだ」

 初訳。前話と同じく戦争にまつわる幽霊譚です。人質となった子供たちの命を守るために戦死者の幽霊たちが銃を使わずに敵を殲滅するというエピソードは、戦場が舞台の怪談実話にも類例がいくつもありそうなよくできた話で、幽霊を信じていないわたしでも、死が身近な場所でならこういうこともありなんと思いたくなるほろりとする話でした。
 

「ウィチ通りはどこにあった」ステイシー・オーモニア/柴田元幸(Where Was Wych Street?,Stacy Aumonier,1921)★★★★☆
 ――四人の男と一人の女がワグテール亭で飲んでいた。きっかけはドーズ夫人が、亡くなった伯母がウィチ通りのコルセット店に勤めていたと述べたことだった。「ウィチ通りってどこにあったんです?」「キングスウェイだよ」「ウェリントン通りに入ってく道だよ」「失礼ながら、教会の前を通っていた狭い路地だよ」喧嘩になった挙句、ならず者が黒人を殴り殺して立てこもった。

 初訳。よくあるすれ違いの笑いや結末のわからない作品かと思っていたのですが、思いも寄らない方向に転がってゆきます。立てこもりと惨劇に発展するだけでもすごいのですが、それも裁判の布石に過ぎず、そこで弁護士の話になるという展開でした。もちろん「ウィチ通りがどこにあったのか」こそが主役なわけですから、そこから外れないかぎりストーリーは突拍子もない方が面白いのには決まっているのですが。
 

「大都会で」ベンジャミン・ローゼンブラット/畦柳和代訳(In the Metropolis,Benjamin Rosenblatt,1922)★★★★☆
 ――彼女は百貨店のショーウィンドウのなかに座っていた。頭上の看板には「笑わせた方々に賞品あり」と書かれている。今朝この田舎娘が来店し、仕事をくださいと頼むのを見て支配人が思いついたのだ。今朝、百貨店で仕事をもらえると聞いたときには心が弾み、手紙で故郷に知らせようかとさえ思った。昨晩のぬくもりは跡形もなく蒸発し、「蝋人形」は心のなかで何かが沈むのを感じた。

 都会にまみれ傷つく若者を描いた掌篇です。顔のけいれんの意味するものが、見る者によっては本人の感情とは別の意味に思えてしまうところが皮肉で残酷です。あの場面があるからこそ、少女がいっそう際立っていました。
 

「残り一周」E・M・グッドマン/森慎一郎訳(The Last Lap,E. M. Goodman,1907)★★★☆☆
 ――ウィトリー医師は一刻も早くその場を離れたかった。夫のほうは娘がよくなるという希望はとうの昔に捨てていた。妻のほうは何があっても本当はなんにもないと信じ続けるだろう。医師は両親に代わって告知することになった。「手術を受けることになりそう?」というイザベルに、「手術してもいいことはありませんから」と医師は答えた。「私に残された時間は?」。医師は一瞬言葉を失った。

 初訳。母、父、娘が、三者三様に死を受け止めます。大人を尻目に娘がいちばん自分の死に向き合って見つめていることに胸を打たれます。けれどいい話では終わりません。誰よりも俗物なのは医師でした。
 

「特別人員」ハリソン・ローズ/西崎憲(Extra Men,Harrison Rhodes,1918)★★☆☆☆
 ――川沿いの人々は夕方、単独で村を通り抜ける騎行の人物を見たと言う。ミセス・バカンは窓辺に立って、ジョージがまもなく戦争に行くことを考えていた。そのとき男がドアをノックした。「道に迷いました。この前ここに来たときから何年も経っています」「あれがプリンストンにつづく道です」「プリンストン。もちろんそうだ。イギリス人と戦って打ち負かしたところだ」

 初訳。ミステリーゾーン風の作品です。時代を考えれば本作の方が何十年も早いのですが、それだけに今となっては陳腐になってしまったのが悔やまれます。
 

「ささやかな忠義の行い」アクメット・アブダラー/森慎一郎訳(A Simple Act of Piety,Achmed Abdullah,1918)★★★★★
 ――その晩ナグ・フォン・ファは老女を殺した。何一つ悔やんでない。山場は老女殺害ではなく、ファニー・メイ・ハイの笑い声だった。ファニーは彼の妻だった。中国人の結婚だったことから、住民があれこれ噂した。ファニーは目が青く金髪だったがそれ以外はどう見ても中国人だった。子を産まぬから離縁したユン・クワイに代わって男の子を産んでくれるだろう。威厳たっぷりに結婚を申し込んだ。「もちろんお受けするわ、黄色い吊り目のおデブちゃん」

 初訳。誇張された中国人の風習によって、風が吹けば桶屋が儲かるような『予告された殺人の記録』のような思いも寄らない結末がもたらされます。あながち誇張でもないのでしょうか。現代日本の目から見ると、忠義というより体裁・体面という方が近いのですが、それが人の命よりも重いという前提の文化として描かれているため、それこそ忠義のような揺るぎなさを感じます。
 

「II 芥川龍之介作品より」

「春の心臓」ウィリアム・バトラー・イェイツ芥川龍之介(The Heart of the Spring,William Butler Yeats,?)★★★☆☆
 ――老人が瞑想に耽りながら、岩の多い岸に座っている。其傍には少年が座っている。二人のうしろには修道院がある。「御師匠様、此長い間の断食はおやめになさいまし。」「己は全生涯を通じて、生命の秘密を見出そうとしたのだ。己は数世紀に亘るべき悠久なる生命にあくがれて、八十春秋に完る人生を侮蔑したのだ。明日、黎明後に、己は其瞬間を見出すのだ。」

 不老不死を夢見る老人の愚かな望みと、自然のもっとも美しい時期と時間が対比されています。
 

「アリス物語(抄)」ルイス・キャロル芥川龍之介菊池寛共訳(Alice's Adventure in Wonderland,Lewis Carroll,1865)★★★☆☆
 ――兎がチョッキのポケットから懐中時計をとりだして、急いで走っていきましたとき、思わずアリスは飛起きました。すぐにアリスは兎の後をつけて、穴に入っていきました。穴の底の広間には四方に扉がありましたが、すっかり錠がかかっておりました。けれども低いカーテンの後には、約一尺五寸位の、小さい扉がありました。そこで鍵を穴に入れて見ますと、しっくり合いましたので、もうアリスは大喜びでした。

 言わずと知れた『不思議の国のアリス』の、芥川訳と思われる冒頭二章の抜粋。
 

「馬の脚」芥川龍之介(1925)★★★☆☆
 ――脳溢血で頓死した忍野半三郎は支那人のいる事務室に来ていた。「人違いですね。だが三日前に死んでいて、すでに脚が腐っている」。現世に戻そうにも、代わりの脚がないため、仕方なく馬の脚をつけることにした。半三郎は他人にばれないように常に長靴を履くようになった。

 『文豪ノ怪談ジュニア・セレクション 獣』で既読。

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『プラヴィエクとそのほかの時代』オルガ・トカルチュク/小椋彩訳(松籟社 東欧の想像力16)★★★★☆

『プラヴィエクとそのほかの時代』オルガ・トカルチュク/小椋彩訳(松籟社 東欧の想像力16)

 『Prawiek i inne ezasy』Olga Tokarczuk,1996年。

 『逃亡派』の邦訳で知られるポーランドノーベル文学賞作家の出世作

 プラヴィエクというポーランドの架空の町の出来事が、短いエピソード=一章の連なりで綴られています。なかでもミハウとゲノヴェファ夫婦の一族の生涯が中心となっています。

 冒頭でいきなりミハウは徴兵に取られてしまい、残されたゲノヴェファがミハウ出兵後に妊娠に気づくところから物語は始まります。ユダヤ人の若者との不倫、帰還したミハウ、娘の成長に対する父親の複雑な思い、障害もちの長男の誕生、娘の結婚などのありふれた出来事に混じって、水霊やキノコの菌糸の視点で綴られる章まであって、マジック・リアリズムのような空気を漂わせています。

 ミハウ家以外のエピソードに目を向けても、“魔女”クウォスカ、悪人のような、幻想的とも言える内容がつねに当たり前のように存在していました。

 当初から戦争の影は差していたとはいえ、飽くまでプラヴィエクのそとで起こっていた出来事が、前線という形で押し寄せてところで、空気は一変したかに思えました。軍人は一家に余計な知識をもたらしに来たようにも見えました。けれどそれからも、一家や村は何も変わらず続いてゆきます。ゲノヴェファが死に、ミハウが死に、娘のミシャや息子のイズィドルの代になっても、『百年の孤独』のような崩壊がもたらされることはありません。まるで本書そのままの世界が、現在も続いているような――。

 獣になった悪人や、世界と村を分かつ境界、庭の植物との交わりなど、印象に残る場面がいくつもありました。

 ポーランドの南西部、国境地帯にあるとされる架空の村プラヴィエク。そこに暮らす人々の、ささやかでありつつかけがえのない日常が、ポーランドの20世紀を映しだつとともに、全世界の摂理を、宇宙的神秘をもかいま見させる――「プラヴィエクは宇宙の中心にある。」(帯紹介文)

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