『あがない』倉数茂(河出書房新社)★★★★☆

『あがない』倉数茂(河出書房新社

 中篇1作と短篇1作を収録。
 

「あながい」(2020)★★★★☆
 ――祐《たすく》が作業していた解体現場に若い男が倒れていた。救急車を呼び、それでおしまいのはずだった。給料日には解体業者の同僚・涼介が、友人のキャバ嬢ミカたちを連れて部屋に上がり込んできた。ミカの同僚・歩美に好意を寄せられるのが疎ましかった。倒れていた男・成島がミカのキャバクラでボーイとして働き始めたと聞いたときにも何も感じなかった。だがしばらくすると成島はあろうことか祐の働く解体業者に転職してきた。従業員の誰もあのとき倒れていたことを話題にしようとはしなかった。「あいつら、クーラーの効いたオフィスで涼んで、幾らくらい貰っているんでしょうね」「辞めるのか」「もっと楽な仕事がいいですね。でも、まだ辞めないです」成島の顔には嘲笑が浮かんでいた。

 これまで主として幻想小説を発表してきた著者による普通小説です。序盤はほんとうにふつう過ぎて、戸惑うところが大きかったです。

 人に触れられるのが苦手なキャバ嬢、いきがっていた祐の若いころ、成島の悪意、祐が買い物と話相手をしている独居老人・嘉平……少しずつ重い要素がこぼれてくるものの、それでもどこかで読んだような物語の枠を出ないと感じてしまいました。

 ところが悪意や悪人という言葉では追いつかないような、成島のサイコパスな一面が明らかになったところから、物語にギアが入り出します。成島に対する得体の知れないという言葉の意味が、「よくわからない」から「絶対に理解できない」にわたしのなかで変わりました。

 また、それまでの回想シーンから、祐の過去の罪とはせいぜい覚醒剤所持だろうと思っていたのですが、ここまで重いものだったとは。

 そしてここから、幻想小説家らしい一面も顔を覗かせます。

 かつて祐を利用していたごろつき橋野と、何の躊躇いもなく知り合いを食い物にしていく成島、どちらもおぞましい悪意という面で似ているのは偶然です。かつて橋野が金を奪った被害者も、祐に謝礼を渡そうとした嘉平も、どちらも金を持った老人なのも偶然です。橋野と金を奪われた老人が既に故人であり、成島と嘉平が生者であるのも、偶然です。偶然ではあるものの、出稼ぎ労働者アジェイが序盤で発した「リ・インカネーション」という台詞が置かれることで、偶然ではなく何か意味があるようにも思えてきます。

 少なくとも祐にとってはかつての過ちの再現なのでしょう。斯くして過ちを償うため、祐はあがないを決意するのでした。

 なぜか帯文が千原ジュニアです。著者がファンなのでしょうか?
 

「不実な水」(2016)★★★★☆
 ――妻はスリップ事故で死んだ。同僚と不倫中だった。妻が亡くなってからは、妻に代わって自分が毎日豆腐を食べている……。新潟で死んだ身元不明人の連絡先に市役所の番号が書かれていたことから、新潟に出張するはめになった。誰にも見送ってもらえないのは死人がかわいそうだというのがアパートの家主の主張だった。ひょんなことから紙芝居をしている姉弟と知り合い、居酒屋で飲み、部屋に泊まることになった。

 作中作(夢)と地の文が溶け合うようなラストが素晴らしい。さてどこまでが物語でどこからが現実なのか、それまでの出来事もすべて疑おうと思えばあやしく思えてきます。上司に言われて受診した精神科医にそれらしい言葉を与えるうちに感覚がおかしくなってくるように、もともとが噓と真の境が曖昧でもありました。

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 あがない 

『マルドゥック・スクランブル The First Compression――圧縮/The Second Combustion――燃焼/The Third Exhaust――排気』冲方丁(ハヤカワ文庫JA)★★★★☆

マルドゥック・スクランブル The First Compression――圧縮/The Second Combustion――燃焼/The Third Exhaust――排気』冲方丁(ハヤカワ文庫JA)

 冲方丁出世作。2003年初刊。

 少女娼婦ルーン=バロットは、作られた自身の登録情報にアクセスしてしまったせいで、専属客の賭博師シェル=セプティノスに殺されそうになる。緊急法令スクランブル-09の使用を認められているウフコックとドクター・イースターによって命を救われ、電子機器を制御する能力を得て甦ったバロットは、法務局への委任手続を了承する。仮陪審はバロット側の有利に終わり、シェルとその雇われ人ボイルドは実力行使に出ることを決めた。バロットは身を守るため、変身能力を有するウフコックやイースターの技術の助けを借りて特訓を始める。ボイルドが雇った殺し屋たちが襲撃を始め、かつてウフコックの相棒だったボイルドも襲撃に加わった……。

 内省的でも気取ってもいない簡潔な文体が心地よい。

 ネズミのウフコックがマスコット的なポジションではなく、対等なバディなのも良い。しかも多くの動物実験がハツカネズミでおこなわれることを考えれば、ウフコックがネズミだというのは実はリアルな設定なのだと思えます。

 対等なのはドクター・イースターも同じで、単なる賑やかしのおちゃらけ科学者ではありません。

 第一部『圧縮』の後半は個性的な殺し屋集団の登場と、彼らとバロットたちの戦闘が描かれていて圧巻です。身体を強化された異能者同士のバトルは、文章であることを忘れさせてしまうほどに、目の前で活き活きと繰り広げられています。

 第二部『燃焼』後半から第三部『排気』前半にかけては、打って変わって手に汗握るギャンブル勝負が描かれます。百万ドルのチップに埋め込まれたシェルの記憶データを手に入れるため三人はカジノに乗り込み、時にウフコックと協力し、最後はバロットが己の観察力と集中力を以て挑むことになります。

 ベル・ウィング、アシュレイといったプロフェッショナルとしての矜恃を持つ魅力的なディーラーも登場するものの、トータルでほぼ一冊分がギャンブルなのはやや間延び気味に感じました。リアルタイムで読んでいれば二部と三部の刊行には一か月の開きがあるので気にならないのでしょうけれど、一気読みするとまたギャンブルか……となってしまいました。

 三部中盤以降は再びアクションに戻るのですが、第一部の殺し屋&ボイルドと比べてしまうと小物ばかりなのは否めず、尻すぼみだな……と思ったところに再びボイルドとの一騎打ちという構成は盛り上がりました。

 タイトルにもなっている市の名前「マルドゥック」とはメソポタミア神話の神様の名前であるようです。

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『プラ・バロック』結城充考(光文社文庫)★★★☆☆

『プラ・バロック結城充考光文社文庫

 親本は2009年初刊。2008年度の日本ミステリー文学大賞新人賞受賞作。

 創元SF文庫から出ている『躯体上の翼』が面白かったので遡って読んでみました。

 喉を割かれて殺されていた殺人現場に臨場した機動捜査隊のクロハは、その場で料金滞納されている貸しコンテナの解錠立ち会いに行くよう命じられる。冷凍コンテナのなかからは十四体の遺体が見つかった。状況から集団自殺であるらしく、死後もきれいな状態でいたがる者たちが冷凍コンテナでの凍死を選んだのだと思われた。遺体の身許は不明なまま、やがてもう一件の集団自殺が明らかになる。やがて遺書と見られる一通のメールが届き、それをきっかけにして遺体の身許はすべて判明した。クロハは遺書に書かれた「記念碑」という言葉に引っかかる。添付ファイルに書かれた数字は何を意味するのか。自殺を主導した首謀者は何者なのか。

 クロハは自殺事件の生き残りを探すが、過去に暴力事件を起こしたと噂される捜査班主任のカガに嫌がらせを受けたうえ、裏社会の人間らしき男にも狙われる。やがて唯一の癒やしである仮想空間の住人から添付ファイル解読のヒントを得たクロハは、記念碑の正体をつかむ。だが完成した記念碑に違和感を感じたクロハは、ついに首謀者の悪意を知る……。

 最初はカガとの対立ばかりでじれったかったのですが、やがてクロハが好き勝手(?)に行動できるようになってからは、ヒーローもののように明快です。事件自体はとんでもなく重くて暗く、主人公も徹底的に打ちのめされますが、それでも読後感は悪くない。

 クロハの姉がいみじくも先天的・後天的を問わず大脳辺縁系の障害だと「悪」を定義したように、犯人は本人も認める人を人とも思わない悪でした。良心なんてないくせに社会に対するエクスキューズとして自分の犯罪に言い訳しているのは、小者なのではなく挑発なのでしょう。ためらいがないぶん強いのだとは思いますが、その強さ・悪賢さは非現実的なほどです。

 主人公の名前クロハ(ハンドルネーム:アゲハ)をはじめ蝶というモチーフが頻出します。記念碑への無意味な嫌がらせに犯人の歪みが表われていました。

 歪みといえばカガもまたあることがきっかけで歪んでしまった人でした。はじめから歪んでいた犯人とは違い、カガは歪んだとはいえ「大脳辺縁系の障害」には至らなかったということなのでしょう。

 その点、終盤に登場する復讐に駆られた人物というのは至ってしまったということなのでしょうか。

 これだけ叩き潰されどん底に突き落とされながら――いやだからこそ再び立ち上がる主人公には力を感じます。続編以降ではさすがにこれ以上の不幸には遭いようがないと思いたいです。

 雨の降りしきる港湾地区。埋め立て地に置かれた冷凍コンテナから、十四人の男女の凍死体が発見された! 睡眠薬を飲んだ上での集団自殺と判明するが、それは始まりに過ぎなかった――。機捜所属の女性刑事クロハは、想像を絶する悪意が巣喰う、事件の深部へと迫っていく。斬新な着想と圧倒的な構成力! 全選考委員の絶賛を浴びた、日本ミステリー文学大賞新人賞受賞作。(カバーあらすじ)

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『戦時大捜査網』岡田秀文(東京創元社)★★★★☆

『戦時大捜査網』岡田秀文(東京創元社)★★★★☆

 昭和十九年十一月、B29爆撃機による三度目の空襲に東京が見舞われた直後、隅田川沿いの倉庫で猟奇死体が見つかった。腹を割かれ内臓を引き出され、胃の内容物が持ち去られていた。死体が男装した女性のものだったころから、当初は変態行為をおこなう夜の女かと思われたが、該当する人間は見つからなかった。戦時下ということもあり捜査に人員を割けぬなか、警視庁特別捜査隊隊長の仙石は捜査一課長の杉原から最後通牒を突きつけられた。

 そんななか第二の事件が起こり、中学校教師の中村弘次が同じく腹を割かれて発見され、谷中署との共同本部が設置された。中村はかつて特高の取り調べを受けていたことが判明し、当時の関係者への捜査が開始された。だがそれを特高に嗅ぎつけられ、捜査権を奪われそうになる。杉原の駆け引きによりどうにか特高との共同捜査が実現するなか、もう一つの殺人事件が明らかになる……。

 戦時下という異様な空気のなか、特捜隊が猟奇事件に挑む『帝都大捜査網』の続編……と言ってもいいのかどうか、時代も進み特捜隊も代替わりしています。

 焼夷弾に対するバケツリレーに懐疑的であるというまっとうな意見を持つことすら反動的と見なされ、冷静な戦略考察すら軍部と対立していれば反体制と見なされる世界です。

 通常であれば体制側と見なされるはずの警察ですら満足な捜査はままなりません。一つには徴兵による捜査員不足であり、一つには捜査よりも治安維持が優先される当時の世相です。

 これは正直、面白いと感じました。時代の空気を描いていると同時に、ミステリの効果にも不可欠な要素となっているからです。捜査員不足である以上、他部署と協力せざるを得なく、広域かつ多様なタイプの犯罪を扱うには効果的です。三件の殺人事件の一件を組織犯的、二件を猟奇犯的に設定することで、組織犯とは断定できないがために特高に事件を横取りされることもなく、またミステリとして動機や犯人像が見えないという効果も生んでいます。

 繰り返される空襲により死が身近なものとなっているなか、容疑者たちの動行と空襲との奇妙な一致という謎も生まれていました。

 もちろん群像劇としての見どころもあり、主人公である特捜隊隊長仙石のほか、人手不足で吹奏楽隊出身から配置転換された三輪間、直感像記憶を持つ電話番兼雑用係の少年警察官西野、いかにも悪の親玉ふうの特高課長葛城、同じく特高ではあっても冷静な五十嵐など多彩な人物が登場しています。

 特高どころか陸軍や憲兵隊まで出てきて、みんな物わかりがよすぎるきらいはありますが、そもそもが真犯人の描いた絵図面のうちだったのであればある程度はスムーズに進むのも計画のうちではあったのでしょう。

 真犯人の思想は実はありふれたもので同じ考え方をする人はどこにでもいそうですが、戦争(と輿論と新聞と軍部の精神論)という状況が整ってしまったせいで、極端な方向に走らざるを得なかったという側面はあります。そのせいで【ネタバレ*1】という逆説みたいな事態が起こってしまったわけですが、似たようなロジックは現実でもままあることではあります。

 東京大空襲の残酷さもたっぷりと描かれていて、真犯人の思想を冷静な作戦として現代にいたるまで飽きずに繰り返しているのがアメリカという国なのだなあとしみじみ思いました。

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*1 (大多数の)国民を守るために(一部の)国民を殺す

 

『アンチクリストの誕生』レオ・ペルッツ/垂野創一郎訳(ちくま文庫)★★★★☆

『アンチクリストの誕生』レオ・ペルッツ垂野創一郎訳(ちくま文庫

 『Herr, erbarme Dich meiner!』Leo Perutz,1930年。

 後の版には「Pour avoir bien servi」という短篇も追加収録されているようですが、恐らくは初版を底本にした本書には未収録です。
 

「「主よ、われを憐れみたまえ」」(Herr, erbarme Dich meiner!,1930)★★★★☆
 ――ロシア内乱時代、ジェルジンスキーは秘密警察の議長だった。レーニン暗殺未遂があり、ツァーリの軍隊で将校だったものは出頭を命じられた。このなかにヴォローシンという暗号解読局長だった者がいた。暗号化された電信がモスクワで傍受され、ツァーリ時代の暗号を知るヴォローシンに解読が命じられたが、ヴォローシンはそれを拒み、処刑前に妻と子に会いに行くことを許された。手紙には返事もなく、若い男と仲良くやっていると風の便りで聞いていたが……。

 話がどういう方向に転がってゆくのかわからないのは単にペルッツの手癖という気もしますが、すべては神の決めた定めの通りなるべくようになると考えれば、この作品に相応しい敢えての構成とも思えます。
 

「一九一六年十月十二日火曜日」(Dienstag, 12. Oktober 1916,1919)★★★☆☆
 ――予備役伍長ピヒラーは前哨隊を指揮中に負傷し、ロシア軍の捕虜となった。外の世界からは隔てられていたので、ピヒラーは完全に己の内にこもった。初等ギムナジウム時代のラテン語を駆使して読みものが欲しいと医者に伝えると、新聞が投げこまれた。ウィーンの新聞で、日付は一九一六年十月十二日だ。ピヒラーはその新聞を毎日繰り返し読んだ。

 掌篇。自分だけの世界に陥らざるを得なかった人間の物語。言葉が通じないし読めないつらさには想像を絶するものがあります。
 

「アンチクリストの誕生」(Die Geburt des Antichrist,1921)★★★★★
 ――かつてパレルモジェノヴァ者と呼ばれていた靴職人がいた。モンテレープレに住む司祭の家政婦と出会い、しばらく二人は仲良く平和に暮らしていた。夜中に女房がふと目を覚ますと、亭主のベッドはもぬけの穀だ。坊主のような男と剣を持った男と顔に火傷のある黒服の男が亭主と話し込んでいた。盗品の売買だと思った女房が亭主を問い詰めると、亭主は弱みを握られている事情を伝えて昔のことを打ち明けた。人を殺してガレー船から逃げてきたのだ。神さまの御心にかなう善いことをすればいいと諭す女房だったが、亭主はあるとき夢を見た。生まれる子どもはアンチクリストだという……。

 以前同人版が刊行されていました。アンチクリストの意外な正体もさることながら、予言をはじめとしたロマンあふれるコテコテの要素にしびれます。信仰心はないのに予言は信じてしまう亭主に、リアルな人のいい無知なおっちゃんの感じが出ていてたまらなくなります。学のある(と思っている)人の言うことを信じちゃうひとは現実にいますからね。聖書の記述という“証拠”もあり、信仰心のある女房も洗礼者ヨハネと聖書作者ヨハネの区別がついていなくて、どんどん不幸に向かって進んでゆくのが悲しい。アンチクリストの正体はロマン溢れる本作に相応しいロマン溢れる人物でした。
 

「月は笑う」(Der Mond lacht,1914)★★★★★
 ――わたしとサザラン男爵が話に興じているうち暗くなってきました。「気味の悪い晩ですね」と男爵が言います。「美しい夜じゃありませんか。雲ひとつない」「ええ、雲ひとつなく、月が下界をにらんでいます。わたしは病を受け継いだ。わたしは月が怖いのです」。男爵の曾祖父は戦場で月に照らされて撃たれました。サザラン大佐は二時間にわたり満月を狙って発砲させました。ただし医者は男爵の発作にさして興味を示しませんでした。それからまた別の満月の夜、まだ帰ってきていない男爵夫人が月の下で馬車を走らせるのを厭いました。

 アンソロジー『書物の王国 月』にも収録されていた名作の新訳です。神経症の発作と、その由来に関する言い伝えを信じ込んでしまう妄想との組み合わせ、というのが現実的な解釈であって、超自然的な要素などないはずなのですが、恐ろしさは一級品です。地の文ではなく、語り手がわざわざ「事件の一部始終を組み立て直して」みているのは冷静に考えると可笑しいのですが、その部分がいちばん怖いのも事実です。シャーロット・ギルマン「黄色い壁紙」のような怖さがありました。
 

「霰弾亭」(Das Gasthaus zur Kartätsche,1920)★★★★☆
 ――フワステク曹長が軍用小銃で己を撃ったとき、銃弾はすぐには止まらずあれこれの災厄を独力でもたらした。曹長は日中は陰気で無愛想で、黙々と任務をこなしていたが、夜になると本領を発揮し、踊り、歌い出す。当時仲のよかったわたしは、曹長の宿舎で若い頃の写真を見つけた。美しい娘が一緒に写っていた。わたしはこの娘を知っている。とつぜん嫉妬の憎しみが湧いた。「親密な間柄だったんでしょうか」「親密だと! 覚えておけ、最上の友ですら隣に立つにすぎない」。数日後、その女性と再会するとは思いも寄らなかった。

 冒頭で描かれた執拗な弾丸の軌跡は、ガルシア=マルケス百年の孤独』や「予告された殺人の記録」のように、定められた運命を強調しているかのようです。かつて自殺を図るきっかけとなった女性と再会することで、過去が甦り、曹長は己を撃つ銃弾に倒れます。規模の大小さえ違えば、よくあること、なのだと思います。十八歳の若造の視点なので何やら大仰で怪奇めいていますが、曹長からしてみれば必然だったのでしょう。
 

「ボタンを押すだけで」(Nur ein Druck auf den Knopf,1930)★★★★☆
 ――このルカーチ・アラダーがハンガリーには恐くて帰れないからニューヨークにおるとでも? 噂では、わしがケレティ博士を撃ち殺したというんです。博士は脳卒中で死んだと鑑定書にも書いてある。あるいはわしは博士を殺――いや、命を呼び出したのかもしれん。とたえるなら、わしはボタンを押したんです。名門出の女房に言われて教養を身につけるため、いろいろな教養を積んだわしは、降霊会にも参加することになりました。

 さて実際に起こったことは何だったのか。語り手の言うことを信じるならば、よくある降霊会ホラーです。一方、噂通り博士は射殺されていて、女房が語り手を習い事に追い出して博士と密会していたことに気づき、語り手がことに及んだ可能性もあります。あるいは降霊会自体は本当で、惨劇の場で浮気現場を目の当たりにして正気を失ったのでしょうか。
 

「夜のない日」(Der Tag ohne Abend,1924)★★★☆☆
 ――チェス中に勝負を放り投げて追い始めた思考が、高等数学の領域へ彼を導くこともたびたびあったが、ジョルジュ・デュルヴァルは発想をわざわざ書きとめたことは一度もなかった。一九一二年に入ると学問とは完全に縁を切った。〈運命〉がデュヴァルとその行く末を思い出したのは、そんなときだった。レストランで夕食をとっているとき、断りもなくステッキと手袋の載った椅子を持っていこうとした客と揉め、決闘することになった。

 知られざる天才の話。実際、埋もれたまま消えてゆく天才も多いのでしょう。
 

「ある兵士との会話」(Gespräch mit einem Soldaten,1918)★★★★☆
 ――バルセロナで、鷗にパン屑を投げているスペイン兵士にカテドラルへ行く道をたずねた。カタロニア語はわたしには少ししかわからない。だがこの若い兵士はスペイン語カタロニア語も使わず、何度か短く、しかし驚くほどの表現力で手を振って、行き方を教えてくれた。この若いスペイン兵は口がきけなかった。

 口が利けないからこそ、言葉にならないからこそ、表現されないことで表現される「憤怒と悲嘆と激昂」が強く心に残ります。

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