孤独なジョニー、弱虫のウーリ、読書家ゼバスティアン、正義感の強いマルティン、いつも腹をすかせている腕っぷしの強いマティアス。同じ寄宿舎で生活する5人の少年が友情を育み、信頼を学び、大人たちに見守られながら成長していく感動的な物語。ドイツの国民作家ケストナーの代表作。(裏表紙あらすじより)
素晴らしい!
ケストナーというのはわたしにとってどうにも微妙な名前であった。気にはなるのだが、面白さがよくわからないのだ。『エミールと探偵たち』『雪の中の三人男』『飛ぶ教室』……。
しらじらしい。という気もする。ユーモアや道徳がわざとらしい。ような気もする。だけど、それが楽しめない決定的な理由ではないような気もしていた。そんな本ならほかにもいくらでもあるのだから。
『飛ぶ教室』を読むのは今回で三度目(それぞれ違う訳本で)となる。これまでケストナーをいまいち楽しめなかったのは、翻訳が原因だったのか!と胸のつかえがすっきり取れた。
ですます調がないだけでもずいぶん違う。テンポがよくて、もたもたとしないから、泣かせ所や落とし所がきちんと生きている。めりはりが利いているおかげで、実務学校生との決闘、ウーリの勇気、禁煙さんとの邂逅、ジョニーの涙、いろいろなシーンがキュッと締まって、わかっちゃいるのにじーんときてしまった。
子どもたちの台詞も、旧訳とくらべるとずいぶんよくなった。白々しいお利口ちゃんだった生徒たちが、洋画の名優たちくらいには生き生きとし始めた。(微妙な褒め方だけど、わたしは映画を通してしか外国の子どもを知らないのだから仕方がない。)
生き生きし始めたのは子どもたちだけじゃない。旧訳では、クロイツカム先生は風変わりでもなかったし、ベーク先生はいい人でもなかった。地の文でそう説明されていたからそうだとわかるだけで、文章から人柄が伝わってくることはなかったのだ。
たとえ原典が名作でも、日本語化された作品が同じように名作であるとは限らない。名作『Das Fliegende Klassenzimmer』が、2006年になってようやく名作『飛ぶ教室』として日本に紹介された。
細かいことを言えば、ちょっと注文をつけたい箇所もいくつかないではない。「美男のテオドール」とかいう呼び名はどうにかならないのかな?と読むたび思う。血塗れメアリとか切り裂きジャックみたいなものだと思えばそれほど不自然ではないのだろうけど、登場するたんびに“フルネーム”なのは違和感がある。こしょばい。「正義さん」なんて呼び方もそう。いっそ「正義先生」とか意訳しちゃだめなのかな。
今は「書き取り」でも「聞き取り」でもなく「ディクテーション」というんですね。初めて目にした言葉だったけど、調べてみたらちゃんと国語辞典にも載ってた。ほへぇ〜。
『Das Fliegende Klassenzimmer』Erich Kästner,1933年。
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