『定本 久生十蘭全集 第九巻』久生十蘭(国書刊行会)

 月報は倉阪鬼一郎樺山三英。はからずもどちらも十蘭の改稿について。
 

『真説・鉄仮面』(1954.1〜10)★★★★☆
 ――先王ルイ十三世の王命によりブレヴァンヌ殿の領地から一歩も出たことのないマッチョリ殿は、死の前に一目会いたいという母からの手紙を「あの方」から受け取り、館を抜け出す。「あの方」の密使に連れられて移動中のマッチョリ殿を、国王ルイ十四世の従姉妹「大姫さま」モンパンシエ嬢が見かけて息を呑んだ。「ルイがいる」。遅咲きの恋に目覚めていた大姫さまは、このことをネタにして、青年貴族ロォザン殿との結婚の許可を国王から取りつけようとする。一方、ブレヴァンヌ殿の娘イヴォンヌは、マッチョリ殿に同情して逃がす側についていた。ブレヴァンヌ殿は混乱を最小限に抑えるため、「あの方」アンヌ・ドオトリッシュに謁見するが、そこで思いがけない真実を聞かされる。ルイ十三世が双生児を忌んで一人を遠ざけたことは事実だ。だが実は、双生児でも何でもなかったのだ――と。

 巧緻な短篇もいいですが、こうしたロマンあふれる長篇にも捨てがたい魅力があります。史上名高い鉄仮面の謎に、アンヌ・ドートリッシュマザランに関する噂を組み合わせた作品です。双子の言い伝えをひとひねりした鉄仮面の真相は面白いのですが、意外性を狙うあまりにルイ14世の方の辻褄が怪しいことになってるような気もします(※血が繋がってないのだから、現王とは似ていても先王とはまったく似ていないはず?)。

 あるいは冒頭にある「(ブレヴァンヌの奥方は)たぶん倦怠のせいだったのだろうが(中略)若く美しいうちに死んだ」という幻のような記述は、“これから話すことはお伽噺なんですよ”という宣言なのでしょう。だとすればルイ王の顔について疑問を覚えるのも野暮なこと。

 後半からは鉄仮面は舞台裏に引っ込んでしまい、城塞長官サン・マルス(サン・マール)の奸智と、さまざまな理由から鉄仮面奪回を目論む人々との知恵の応酬が中心になります。鉄仮面の秘密を知っているだけに、鉄仮面が生きているあいだは手厚い保障が約束されるものの死んでしまえば自分の命も危ない――という立場にいるサン・マルスが、自分の利益のためにめぐらす奸計には、『三銃士』のリシュリューのような風格すら漂っていました。
 

「母子像」(1954.3)
 

「ボニン島物語」(1954.10)★★★★☆
 ――天保八年、笑うに耐えた刃傷沙汰があった。田中久太夫という士が、駕籠訴訟にきた手代の無礼を怒って、竹光で斬りつけたという一件である。奥州南部領はたびたび凶荒に見舞われ、貧乏も底が入って、濠端で諸商人の訴訟を受けるところにまで行きついた。

 貧乏藩士たちがあこがれる実り多き無人島。そんな楽園から漂流者が帰国したところ――。ふざけているような大胆なところは他の作品同様なのですが、教訓くさいところが珍しい作品でした。
 

『あたなも私も』(1954.10〜1955.3)★★★☆☆
 ――サト子が叔母の家で留守居をしていると、垣根から男の顔があらわれた。叔母が言っていた療養所にいる人なのだろう。そこへ警官がやって来た。「むこうの久慈さんの家へ、空巣が入りましてね。このへんにモグリこんでいるんだろうと思うんです」。青年がすらりと立って勝手に行ったが、なかなか帰ってこない。警官が海のほうを見ながら叫んだ。「あんなところを泳いでいる」「やァ、崖から飛んだか」。青年はあっ気なく海のなかへ沈みこんでしまった。

 人生を考えあぐねている売れないモデル、他人の家に忍び込んだ事情を話さない青びょうたん、事件に関係があるのかないのかしつこくどこにでも現れる刑事らの人間関係が交差して、いったいどういう事実が飛び出すのかわからない前半から、後半は鉱山や財産といった生臭い話を軸に展開していきます。凛とした女主人公が多い十蘭作品にあって、飄々としつつも蓮っ葉な主人公が異彩を放っていました。
 

「人魚」(1954.5〜8)★★★★☆
 ――甲板に出る通路に、四体の人魚と海神の装飾が壁いっぱいにひろがっている。「この海神の顔、伊井さんにそっくりだわ」玉枝がくすくす笑い出した。「それに人魚の顔、おばさまにそっくり」……伊保子は伊井と玉枝を残して、食堂に行った。戦時中、欧州に残っていた日本人は、抜きさしのならない状況になっていた。川を隔てたすぐ向うに、スイスの町の灯が見えるのに。

 三一版未収録。本書収録の「川波」と同じエピソードをモチーフにした作品で、そのエピソードに「人魚」と「女の業」が印象的に結びつけられています。
 

「海と人間の戦ひ」(1954.12)★★★★☆
 ――この一世紀半ほどの間に、「最悪」というタイトルをつけられた四つの大きな海難があった。英国帆船ジュノォ号。フランス三檣戦艦メデュウズ号。タイタニック号。アメリカ第三艦隊の颱風による海難。帆船ジュノォ号のそれは、「最良にして且つ模範的な海難事件」ということになっている。二等航海士ジョン・マッケーは、仲間をはげまして生きる意欲を支えてやり、最後は二十尺に近い海を泳いで陸地に這いあがる。

 三一版未収録。海難事故を扱った実録もの。主にジュノォ号事件を中心に描かれています。ぶつぎれな感じで終わっているのが気になりました。
 

「ひどい煙」(1955.7)★★★☆☆
 ――商館長のカロンは、禁令に抵触せぬ「たぶん弾丸の飛びださない」非実用の臼砲を鋳造したが、わけもなく看過されてしまった。和流砲術の大家、稲富親子は、井上外記に焚きつけられて、臼砲の実演をする羽目に陥った。

 吉良上野介浅野内匠頭の二役を勝手に頑張っているような、いけずな井上外記こそ困り者。飛ばないように作った大砲を献上するというのも人を食った話ですが、飛ばないとわかっていて無理を吹っかける方も方。実がなく、うわべだけで世の中が動いてしまっているような不幸です。
 

『われらの仲間』(1955.10〜1956.4)★★★★★
 ――建設会社に勤める柳が社長令嬢のシキ子とデートしていると、私服刑事のような男に声をかけられた。前日の草間の転落死は、事故ではなく柳が突き落としたのではないか――。翌日には社長室に呼び出され、柳はどうやら罠に嵌められたことに気づいた。会社に邪魔な草間を殺し、柳を犯人に仕立て上げようというのだ。草間の妹ジュン子から、草間が会社の不正をさぐっていたことを聞き、柳は命の危険を感じて逃亡する。ジュン子の婚約者候補でもある社長の右腕・蓮見が裏で糸を引いているらしいが……。

 三一版未収録。土建ヤクザの“ファミリー”維持のための犯罪、アンタッチャブルな空間としての部落、引き揚げ者たちの生きるためのサバイバルと虐殺――日本の暗部がたっぷり盛り込まれた、サスペンスです。最後にはオカルトじみた巨悪の存在が明らかになるサービスぶり。
 

「雲の小径」(1956.1)★★★★★
 ――旅客機自体が混濁したものの中に沈み込んでしまい、うごめく雲の色のほか、なにひとつ眼に入るものもない。香世子が形容する死後の世界の風景にそっくりで、白川は「ひどく、しみじみとしてやがる」とつぶやいた。死んだ香世子の霊と交遊するように……というよりは霊愛に耽けるようになったのは、もう三年前のことである。

 長篇『氷の園』のエピソードを再利用した短篇版。飛行機上という限られた空間で明らかになる白川の胸の内。
 

「無惨やな」(1956.2)★★★★☆
 ――酒井の殿さま、雅楽頭忠恭は、小大名どもが夢にまであくがれる老中の列にすすんだが、ひっこみ思案のところへ、苦労性ときているので、ほとほとに憔れてしまった。そこで犬塚という用人の言を聞き入れ、姫路に所替えとなった。

 直木賞作品「鈴木主水」などにも通ずる、外人さんたちが「サムラ〜イ」「ハラキ〜リ」と喜びそうな、ずれた武士道の世界。
 

「春の山」(1956.4)★★★★☆
 ――絵葉書には、パリでは毎日のように人生の一大事に逢着している。などと生意気なことが書いてある。周平の住んでいる世界はあまりにも無事で、つづけざまに欠伸がでてとまらなくなる。「こんな陽気に家にばかりいちゃ毒だ。釣りはどうだ」「どうして、みんなでおれを外へひっぱりだしたがるんだ」毎年彼岸の中日に、近県の親分が集まって、邸の奥の囲地で闘鶏をやるのが、久しい以前からのシキタリなっているらしい。

 無為な日々を過ごす主人公が最後につぶやく「ここにも一大事があった」という一言には重みがありました。闘鶏参加者たちも「クスクスと忍び笑い」、花試合も「娯楽」の「祝儀の一番」というだらけきった様子のかげに「一大事」が存在していました。
 

「奥の海」(1956.4)★★★★★
 ――京都所司代の下役に、堀金十郎という渡り祐筆がいた。天保七年の飢饉のさなかに、烏丸中納言のおん息女、知嘉姫さまという蟖たき方を手に入れ、青女房にして長屋におさめた。中納言が引婿の納采をあてにしても、とても憎めるわけのものではない。知嘉姫は、「白飯を、こんなにもたくさんいただけるのでしょうか」といって、ニッコリ笑った。そういう夢のような日がしばらくはつづいたが、西国の米の不熟毛のせいもあって手許がおいおいに詰まってきた。あの夜の笑顔が忘れられない。

 次の「川波」の倫子にしても、本篇の金十郎にしても、失恋をきっかけに人生をはかなんだ一種の自殺で幕を閉じます。すべてを捨て去って陸奥に探しに出かけるのを見れば、思いの深さは明白なのですが、二人とも泰然としていることもあって、最後にいたるまでそのことには気づきもしませんでした。「女心」と「男の意地」の不可思議さを、「貧しい貴族」と「武士」の矜恃に重ねることで、遠い世界の話のようでいて現実的でもあるような、独特の風情がかもしだされています。
 

「川波」(1956.4)★★★★☆
 ――第二次大戦がはじまった七月、思いがけなく豊川に行きあった。そんなところへ、久慈倫子がブラリとバアへ入ってきた。いうまでもなく、ここで豊川と落合う約束だったのだと和田は察した。

 落ち着くべきところに落ち着いた、何とも作り物めいた話です。戦争や運命に翻弄された愛し合う男女の、行き着く先は。
 

「虹の橋」(1956.8)★★★★☆
 ――北川千代は栃木刑務所で服役中の受刑者で、その年の七月に所内で女児を分娩した。受刑者名簿には北川千代となっているが、記名の女性は死亡しているので、当人であろうわけはない。服役しているのは真山あさひという別個の人格なのだが、複雑な事情があって、取調べに対して、充分に立証することができなかったふうである。

 長篇『黄昏日記』のエピソードを短篇に改作したもの。刑務所のなかで生まれたという設定を加えることで、短篇としての完成度が高められています。
 

「一の倉沢」(1956.8)★★★☆☆
 ――正午のラジオニュースで、菱刈安夫は長男の安一郎が谷川岳で遭難したことを知った。救援隊などといわれても、そんなものを組織する宛はなかった。菱刈は両手をひらいて眼の前にかざしてみた。三十代のはじめまでは、ホールドした岩角のぬきさしのならぬ感覚が指先に残っていたものだったが、いまは帳簿の革背のヌルリとした感じしか知らない。「おれの手は死んでしまった……」

 くたびれた初老の男性が、息子の遭難をきっかけに、ふたたび死に物狂いの生気を取り戻す。敵は山であり山に挑み山に勝った。
 

「不滅の花《インモルテル》」(1956.8)★★★★☆
 ――十月の末ごろ、バチニョールの共同墓地に日本人の墓らしいのがあるというので見に行った。台座の横手の落葉の中に、白々と光っているものがある。なんだと思ったら貝細工草の小さな花輪だった。フランスではインモルテルといっている。

 三一版未収録。パリ・コミューンに巻き込まれた日本人の墓を訪れ、身許を確認しようとする研究者の調査。
 

「雪間」(1957.2)★★★★★
 ――伊沢が笠原の別荘の門を入ると、笠原の細君の安芸子と滋野光雄が向きあっているのが見えた。激情をひそめた静の姿勢だと思われる。「これは弱った」ぼんやりと見あげているうちに、うしろから服の襟をつかまれた。その男は「ぬすっとう」と悲鳴をあげて、頭のところを撲りはじめた。

 長篇『氷の園』からは数々の短篇が生まれていますが、これもそんな一篇です。コンパクトにまとめられた分だけ隙なく引き締まっていますね。
 

「呂宋の壺」(1957.3)★★★★★
 ――利休が一国二城に代わると極めをつけた呂宋の壺を、堺の納屋助左衛門が五十個ばかり持ち帰ったのが、太閤さまのころである。今年、家康が、呂宋の壺を二つ三つ寄進しろというようなことをいった。利休や助左衛門は呂宋の壺だといったが、迦知安か暹羅《シャム》あたりの物産だとしか思えない。呂宋に壺があれば文句はないが、さもないと、行方知れずの助左衛門に遭って聞きだすほかない。

 幻を求めて旅をし、幻を手に入れた半生。どことなく「新西遊記」にも似た喪失感・虚無感に襲われる一篇です。
 

『肌色の月』(1957.4〜1957.8)★★★☆☆
 ――「なんなの、あの月の色は」「月がどうしたのよ」「白粉なら肌色の三番ってとこね。黄土色っていうのかな」「いつもの月の色よ……」黄疸だ……久美子の親戚は癌で死んでいた。プランどおりに事が運べば、遅くとも明後日までには宇野久美子という存在は完全にこの世から消えてしまう。湖にブラブラと歩いていると、スポーティな初老の紳士から声をかけられた。「お乗んなさい、こんな雨だ」振りきることもできずに、その晩は老人の家に厄介になった。朝早く湖に出向いたが、ボートがない。老人が釣りに漕ぎ出してしまったのだろう――と思われたが……。

 著者逝去により未完に終わったものに、夫人が補筆して完成させた作品。被害者小説たるサスペンスにふさわしく、主人公まわりでこそさまざまな事件が起こるものの、黒幕の顔は見えません。とはつまり、クセのあるはずの悪役にクセが感じられず、やや物足りないところもありました。
 

「喪服」(1957.7)★★★★★
 ――美沙「穢らわしい。あなたはパパと夫婦生活をしながら、心の中で絶えず裏切りをしていたでしょう」。静江「あなたはどうなのよ。ほんとうに一郎さんと結婚したい気はあるの?」。浜口「なにかあったのか」。八穂「一郎さんがバンド・マスターになるとかいうんで、お祝いの会をやったの。一郎さんたらお姉さまを無視するものだから、お姉さま、癇癪をおこして、えッと階下へ飛んじゃったの」

 短篇「雪間」とまったく同じ材料を使って、まったく異なる家族間の心理劇に仕立てた戯曲です。
 

「いつ また あう」(1957.9〜10)★★★☆☆
 ――夏のおわりのこと、日比谷こうえんを、杉山さんという しらがあたまの けいじが、みまわりにきました。小さな女の子が、ひとりで、こんなところに いるのは ぶっそうだと思い、けいさつしょに つれてかえりました。

 三一版未収録。未完のジュヴナイル。一言も口を利かない少女の身許と事情を明らかにするため、杉山さんが悪戦苦闘して、どうやら誘拐事件らしいと判明したところで断絶しています。
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