『釈迢空歌集』折口信夫/富岡多恵子編(岩波文庫)

 『海やまのあひだ』より。「かそけし」「さびし」て言い過ぎだよね。俳句みたいな味わいの歌が多い。
 

「かの子らや われに知られぬ妻とりて、生きのひそけさに わびつゝをゐむ」

 結句の「わびつゝをゐむ」の意味がわかりません。。。

 一連の「島山」連作は、まるで三十一文字で書かれた旅日記のようです。
 

「網曳きする村を見おろす阪のうへ にぎはしくして、さびしくありけり」

 ありがちと言えばありがちながら、賑やかな蜑たちを遠くから見ている「わたし」のさびしさ。
 

「目のかぎり 若松山の日のさかり 遠峰《トホミネ》の間のそらのまさ青《ヲ》さ」

 これは一つ前の「みどりいきるゝ」があるからこそ映えますね。
 

「田向ひに、黒檜《クロビ》たち繁《シ》む山の崎 ゆたになだれて、雨あるに似たり」

 「黒檜」は別名「クロベ」、「ゆたに」は「ゆったりと」。もこもこ且つしだしだっとした葉をしています。
 

「むぎうらし ひとつ鳴き居し声たえて、ふたゝびは鳴かず。山の寂けさ」

 この歌は字空きと句読点が効果的に使われています。空白「 」、読点「、」、句点「。」の順番で徐々に溜めが作られてゆき、「。」でぴたっと止められたところで、「山の寂けさ」と言い切り。その「寂けさ」の何と深くて広いことでしょうか。
 

「あさ茅原 つばな輝く日の光り まほにし見れば、風そよぎけり」
 

「啼き倦みて 声やめぬらし。鴉の止《スマ》へる木は、おぼろになれり」

 声が聞こえなくなったことで存在自体が消えてしまったかのように、目の前の世界がかすんで見えなくなりました。このあとの歌を読めば現場に「霧」や「闇」があるのはわかりますが、それがなくともこの歌だけでそのことが伝わってきます。(※もちろん上の句と下の句につながりはない――のだと思います。句点がある以上は、そこで切れている。声がやんだから鴉が、そして木がおぼろになった――のではなく、「声がやんだらしい」、それはそれとして「木はおぼろになったね」と捉えるべきなのかもしれません。)
 

「人も 馬も 道ゆきつかれ死にゝけり。旅寢かさなるほどの かそけさ」

 この歌のすごみは「ほどの」の三語に尽きます。詞書きにあるように「峠毎に、旅死にの墓がある」のです。
 

「春のあらし 静まる町の足《ア》の音を 心したしく聞きにけるかも」
 

「直面《ヒタオモテ》に たゝひ満ちたる暗き水。思ひ堪へなむ。ひとりなる心に」

 これは能の「直面《ひためん》」ではなく、「直面《ちょくめん》」の意味なのでしょう。以下、暗き水面の歌が続く。どうやら「水」とは「川」のようです。
 

「水の面《オモ》の暗きうねりの上あかり はるけき人は、我を死なしめむ」

「水のおもの深きうねりの ゆくりなく目を過ぎぬらし。遠びとのかげ」

「闇夜の 雲のうごきの静かなる 水のおもてを堪えて見にけり」
 

「をとめ居て、ことばあらそふ声すなり。穴井《アナヰ》の底の くらき水影」

 一瞬、語り手がどこにいるのか視点がわからなくなりましたが、「穴井の底」とは詞書きにあるように「降り井の底(漏斗状井戸の底)」であって「井戸の底」ではないのだと、しばらくしてからようやく気づきました。
 

「をちかたに、水霧《ミナギラ》ひ照る湍《セ》のあかり 龍女《リュウニョ》のかげ 群れつゝをどる」

「光る湍の 其処につどはす三世の仏 まじらひがたき、現身《ウツソミ》。われは」

 続けて読むと、水飛沫に月明かりが照ってきらきらと光り、それが後光のようにぼんやりと浮かびあがり、そこにいるはずのない仏を幻視していると錯覚しそうです。
 

「ふるさとはさびしかりけり。いさかへる子らの言《コトバ》も、我に似にけり」

 こんな一般受けしそうなノスタルジックな歌も詠むんだと意外な思いがしました。
 

「まれ\/は、土におちつくあわ雪の 消えつゝ 庭のまねく濡れたり」

 とうぜん母を失くした涙を解けた雪になぞらえているわけですが、雪は「まれまれ(=ごくたまに)」なのに、庭が「まねく(=たくさん)」濡れている、という事実に、絞り出すような悲しみの深さが感じられました。
 

「島山のうへに ひろがる笠雲あり。日の後の空は、底あかりして」

 結句の「底あかり」というのが言い得て妙です。迢空の造語ではなく、実際にある言葉なのでしょうか。

 大正八年「蒜の葉」〜「かの少咋の為に」までの連作は、富岡氏の解説によると、女を追って鹿児島にいる教え子を叱りに行った体験がベースになっているそうです。でも「まず旅費を調達すべく別の教え子のいる会津まで行き」なんて……、言われなきゃわかりませんよ(^_^;。
 

「昼さめて こたつに聞けば、まだやめず。弟子をたしなむる家刀自のこゑ」

 まるで狂歌みたいな、オチのある一首。
 

「おのづから 覚め来る夢か。汽車のなかに、夜ふかく知りぬ。美濃路に入るを」
 

「陸橋の 伸しかぶされる停車場の 夜ふけ久しく、汽車とまり居り」

 連作を通して読めばこれは旅情でも何でもなく、母の死に臨んで詠んだ歌だということはすぐにわかるのですが、これだけ読むとどんな状況の夜汽車の旅にも則してしまうような、普遍性を勝ち得ています。
 

「ま昼の照りきはまりに 白む日の、大地あかるく 月夜のごとし」

「ま昼の照りみなぎらふ道なかに、ひそかに 会ひて、いきづき瞻《マモ》る」

「ま昼日のかゞやく道に立つほこり 羅紗のざうりの、目にいちじるし」

 「夏相聞」は日中の白い光が印象的な作品。続く「鑽仰庵」では張り詰めたような夜の歌が続く。
 

「十方の虫 こぞり来る声聞ゆ。野に、ひとつ灯を守《モ》るは くるしゑ」

「更けて戻る夜戸のたどりに 触りつれば、いちじゆくの乳《チ》は、ふくらみて居り」

「刈りしほの麦の穂あかり昏《ク》れぬれど、いよよさやけく 蛙子《カヘルゴ》は鳴く」

「刈りしほの麦原のなかは 昼の如《ゴト》明り残りて 蛙鳴きゐる」

「さ夜|霽《バ》れのさみだれ空の底あかり。沼田の瀁《フケ》に、蛍はすだく」

「暁《アケ》近き瀁田の畦《クロ》の 列並《ツラナ》みに 蛍はおきて、火をともしをり」
 

さみだれの夜ふけて敲く 誰ならむ。まらうどならば、明日来りたまへ」

 最後の歌は「まらうどならば」とは言いつつ、恐らく100%客人ではない。風か何か(鼠?)をわざとこのように歌ったのでしょう。
 

「除夜の鐘つきをさめたり。静かなる世間にひとり 我が怒る声」
 

「大正の五年の朝となり行けど、膝もくづさず 子らをのゝしる」

 なぜ怒っているのかが気になる。
 

「山めぐり 二日人見ず あるくまの蟻の孔に、ひた見入りつゝ」

 一瞬さり気なく読み過ごしてしまいましたが、二句目の七音が怖すぎます。
 

「あかときを 散るがひそけき色なりし。志摩の横野の 空色の花」

 響きが定家の「横雲の空」を思わせたので気になった一首。どちらも暁の歌ではあります。
 

那智に來ぬ。竹柏《ナギ》 樟の古き夢 そよ ひるがへし、風とよみ吹く」

 古来いくたりもの人が何百年にもわたって訪れた聖域。かれらの願いを見つめつづけた竹柏・樟の夢が、一陣の風によってはらはらとひるがえります。ひるがえった夢の一つ一つにそれぞれの物語が詰まっていて、このたった三十一文字のなかに千一夜物語よりも膨大な数の物語が含まれているスケールの大きなところが大好きな歌です。

 『春のことぶれ』
 

「前《サキ》の世の 我が名は、/人に な言ひそよ。/藤沢寺の餓鬼阿弥《ガキアミ》は、/我ぞ」

「わが姉の/心しまりに物縫ひて、/ゆふべの窓に、/今日は 居にけり」

「山がはの澱の 水の面の/さ青《ヲ》なるに/死にの いまはの/脣《クチ》 触りにけむ」

明治天皇御製)「年どしに思ひやれども、山水をくみて遊ばむ夏なかりけり」
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  ・ [bk1]


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