『疑われざる者』シャーロット・アームストロング/沢村灌訳(ハヤカワ・ミステリ文庫)★★★☆☆

 『The Unsuspected』Charlotte Armstrong,1946年。

 ロザリーンが首をくくって死んだ。婚約者のフランシスと、フランシスの叔母ジェーンは、遺書が捏造されたものだと見抜き、ロザリーンが秘書として働いていた元演出家グランディスンを疑うが、証拠がない――。神のようにふるまうことに快感を覚えるグランディスンが、社会的に「疑われざる者」という立場を利用して殺人を犯しているのか――。ロザリーンの死の直前、グランディスンの後見人マティルダが婚約を解消して莫大な遺産を残して溺死していたことに疑問を抱いたフランシスは、マティルダの新たな婚約者を名乗り、新たな秘書として雇われたジェーンとともにグランディスン邸に乗り込むが――。死んだと思われていたマティルダが生きていたことで、計画は思わぬ局面を迎える。マティルダは記憶喪失なのだとフランシスは言い張ろうとするが……。

 アームストロング作品を順番に読もうと思ったところ、マクダフ三部作に続く、これがミステリ第四作でした。

 マクダフ・シリーズがまがりなりにも謎解きミステリで、しかも第三作『The Innocent Flower』でようやく犯人当てとしての体裁が整ってきたと思ったところだったのですが、本書は一転して犯人が初めからわかっているサスペンスです。結果的にはこれがよかったようで、これ以後のアームストロング作品には、明らかな敵から大切な人を守るというパターンが多くなっています。

 ただし本書の場合はその「大切な人」がすでに死んでいるところからスタートするわけで、守るべきは「赤の他人二人+自分たちの命」というのが、サスペンスとしてはやや弱いという印象を持ちました。

 むしろまだ謎解きミステリの体裁が残されていて、少なくとも前半部分は「いかにして疑われざる者の犯罪の証拠を見つけるか」という点に筆が費やされているように見えました。ただしそれも本書の場合は(証人を消すという筋書きを導くための)マクガフィンに近く、明らかになった事実が有罪を決定づける完璧な証拠だとはお世辞にも言えませんし、最終的にはそういう証拠とは無関係に大団円を迎えます。

 後半になると、敵に正体を見破られたフランシスが命を狙われ始めるのですが、ここで面白い点がいくつかありました。

 まずは守るべき者と守られるべき者の立場が逆転するところです。フランシスやジェーンから遠回しに事件を仄めかされ気持が揺れ動いていたマティルダが、失踪したフランシスを探す場面のひたむきさは、アームストロングの真骨頂でした。

 その際に用いられているのが『ヘンゼルとグレーテル』の趣向なのですが、訳者氏曰く、本書にはもう一つ童話が織り込まれていて、それが『みにくいあひるの子』だそうです。ポケミス版では逐一訳されてはいないのですが、グランディはことあるごとにマティルダのことを「あひるちゃん」と呼んでおり、これはマティルダを「みにくいあひるの子」になぞらえて自信を喪失させ思うがままに操ろうというグランディの手口を象徴しているという重要な箇所になっています。

 このように、演出家だったグランディは、人を意のままに操ることに長けていると同時にそれに快楽を覚える人間として描かれています。殺人自体はお金のためと保身のためといういたって普通の動機によるものなのですが、そういう露悪趣味のおかげで、単に「疑われざる者」という以上に不気味で力のある犯人像になっていたと思います。ところがそれ以上に不気味なのが、途中から出てくるプレス夫人です。この人は完全なサディストで、目をぎらぎらさせながらアイスピックを手に拷問を心待ちにしているというとんでもない人です! 怖いよ!

 あまり伏線も散りばめられていない本書ですが、初めのあたりにフランシスとマティルダの結婚を証言する牧師さんが出てきて、「牧師さんが嘘をつくのか?」というのと「マティルダがこの牧師さんに見覚えがあるような気がした」という点が最後まで謎のままだったのですが、どうして見覚えがあったのかという疑問に対する答えというのが、思いもかけない角度からのもので、ちょっといい話でした。『風船を売る男』に端的に見られた、すべての人々に注ぐ著者の視線がはっきりと現れている箇所だったと思います。この文章の最初の方で、証拠探しや聞き取りを、「証人を消すという筋書きを導くためのマクガフィン」と書きましたが、牧師さんに関わる不幸な出来事なんてそれこそ物語の「きっかけ」でしかなかったとしても不自然ではないと思うんです。少なくともミステリ小説的には。けれどアームストロングはそれを単なる「きっかけ」では終わらせませんでした。一度も姿を見せない登場人物が、牧師さんを通して、血肉の通った人間として立ち現れてくる――そんなふうに感じました。

 ポケミス版、文庫版、どちらも訳文はひどく、意味の通らないところもあるので、新訳を期待したいところです。

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