『文学少女対数学少女』陸秋槎/稲村文吾訳(ハヤカワ・ミステリ文庫)★★☆☆☆

文学少女対数学少女』陸秋槎/稲村文吾訳(ハヤカワ・ミステリ文庫)

 『文学少女对数学少女』陆秋槎,2019年。

 これまでの二作と比べて訳が格段に読みやすくなっています。訳者の腕が上がったのか、高校生同士の会話劇だと訳しやすいのか。

 ただ内容はこれまで通りイマイチでした。短篇「1797年のザナドゥ」「ハインリヒ・バナールの文学的肖像」はどちらも面白かったので実力はある作家なのだと思うのですが、こと本格ミステリに関しては、真面目すぎるのでしょうか。同じようにミステリ自体を破壊するような作風でも、これが麻耶雄嵩だと人を食った面白さがあるのですが、本書みたいに生真面目に論証されてもなあ……生真面目なのが好きな人もいるでしょうし、好みの問題なのかもしれませんが。
 

連続体仮説(连续统假设,2014)★★☆☆☆
 ――私が編集長になって校内誌犯人当て小説を掲載するようになった。けれど一回目の投書のなかに、私の考えていた解答とは違う正解があったのを見て、賢い人間に原稿を読んでもらう必要性を感じた。思い浮かんだのは同学年の少女だ。私は恐る恐る韓采蘆の部屋をノックした。「実数と有理数はどっちが多い?」。どうにか部屋にあげてもらい、原稿を読んでもらうことができた。『オペラの作曲家がシャワー中に刺し殺され、髪が切断されていた。容疑者は八人。だが残されたいた足跡から二人は除外できる……』。韓采蘆はまたたくまに正解を言い当てた。だがルームメイトの陳姝琳が異を唱えた。「こんな穴だらけの推理、ほんとうに秋槎が考えたの?」

 語り手も『ギリシャ棺の秘密』『シャム双生児の秘密』のタイトルを挙げているように、後期クイーン問題を題材にした作品です。作中作を材料にして、推理小説の不完全性が議論されるなかで、一応は秀才であるらしい二人が数学の天才によって数学上の問題を例に出されながら説得されるという形が取られていました。語り手はやたらとショックを受けていますし、そもそも陸秋槎作品の登場人物はみんな感情表出が大げさなのですが、そこまでショックを受けるようなことでもありません。麻耶作品では作中の人物にとっての現実が歪んでしまうからショッキングなのであって、それに引き替え作中作というフィクションが揺らいでどうしてそこまでショックを受けられるのか。“かもしれない”可能性を排除したいなら著者が証拠の信頼性を保証すればよいとか、読者が判断を下すとき「(犯人が行動するのは)必ず利益のための考えによる」と先に仮定を置いているとか、ミステリ論としてはフツーに面白くはあるのですが。
 

フェルマー最後の事件」(费马的最后一案,2015)★★☆☆☆
 ――国際的な数学の大会の入賞賞品で、フェルマーの人生をたどる旅行が当たった。フェルマーの最終定理を説明するのに、采蘆は犯人当てを用いた。『フェルマーが宿に到着したとき、旧友モンジャン将軍は背中を刺されて死んでいた。椅子の背に埋めこまれたトルコ石には血痕が……』。一、フェルマーの答えは正しいか。二、フェルマーはどのようにその結論を導いたか。采蘆の話を聞くうち、噴水の辺りにたどり着いた。照明と噴水のあいだに同級生が倒れている。幸い息はあったが、全身びしょ濡れで頭からは血が流れていた。

 間違った推理でも正解にたどり着けるという問題が扱われています。フェルマーが生きていた時代の知識ではフェルマーの最終定理は証明できなかったという事実が、采蘆による作中作にも敷衍されていました。解答は唯一ではないのだから作中作のフェルマーがどのように結論を導いたかは何でもよいというのは挑発的です。一方で、外枠の事件の“間違った推理”があまりにもつまらなく魅力がありません。本書収録作すべてに共通する問題でした。タイトルはホームズ譚「最後の事件(最終問題 Le Dernier problème)」に由来します。
 

不動点定理」(不动点定理,2019)★☆☆☆☆
 ――行方をくらましていた采蘆から電話がかかってきた。今はお嬢様・黄夏籠の家庭教師をして洋館で暮らしているという。館には夏籠が父から贈られた大理石の彫像が置かれていた。「夏籠が書いた推理小説はこの彫刻が凶器になるんだよ。秋槎に見せてみる?」「はい。登場人物は身近な人たちで、被害者は私です」。『内側から施錠された室内で、私は大理石で頭を殴られ直後に死亡していた。だれが殺したのか知らない……』。

 トリックの方法と犯人の正体はわからないが、トリックと犯人の存在は証明することができるという議論がされていました。長さも短くもっとも地味な作品でありながら、作中作と現実との繋がりがもっとも強い作品でもありました。導き出された犯人は、その人に対する作者の不安の表れだったというのは、ありきたりではありますが小説としてのまとまりはよいです。
 

「グランディ級数(格兰迪级数,2019)★☆☆☆☆
 ――去年の夏休み、采蘆は私の前から完全に姿を消した。外国に行っていると聞かされた。F大学の推薦をもらっていたので、たっぷりゲームをしようというとき、先輩から電話が掛かってきた。サークルの犯人当てを、書けなくなった出題者に代わって書いて欲しいという。そのタイミングで一年ぶりに采蘆から電話が掛かってきた。私は采蘆と姝琳も誘って喫茶店に向かった。「この犯人当ての答えはただ一つじゃありません」。犯人当てが終わったころ、店のマスターが死体で発見された。イヤホンが片耳からはずれていたが、奇妙なことに、壊れている側を耳につけていた。

 著者自身あとがきで書いているとおり、麻耶雄嵩「収束」が元ネタになっています。ただし多重解決は作中作のみで、現実ではもっとぬけぬけとした解決【※監視カメラの存在】が用意されていました。秋槎と采蘆の友情物語だと思われた作品集ですが、なんと最後に采蘆は放っておかれてしまいました。これがいちばん意外性がありました。まあ友情とは一方通行ではあり得ませんし。
 

「解説」葉新章

 本書には解説が二つ収録されていて、麻耶雄嵩による日本版解説と、葉新章によるこの原書解説がそうです。著者あとがきでも「不動点定理」について「結末で〈日常の謎〉に似た書き方をしている」と書かれてあってピンと来なかったのですが、この解説を読んでようやくわかりました。後期クイーン問題への解答として三種類の方法があり、(1)「無視する」、(2)特殊設定などの「現実離れした要素を導入」したり、「テキストの上位に位置する叙述トリック」を採用する、(3)「〈日常の謎〉の方法を採用することで、本格推理小説を謎解きゲームから解放して日常性や現実感を取りもどし、現実生活における論理の枠組みのなかで問題解決を目指す」ということのようです。こういう考え方は初耳でしたし、普段ミステリの評論など読まないわたしは知りませんでしたが、笠井潔氏が提唱している説のようです。日本では一般的な説とは言えないと思うのですが、中国ではこれが前提として語られているのだとしたら、日本で独自の進化を遂げた新本格のように、中国独自の進化を遂げたミステリというものも生まれそうです。
 

「解説」麻耶雄嵩

 ミステリマガジン2021年3月号のクイーン特集座談会で、ライツヴィルの名はヴァン・ダインの本名に由来するのではという想像を口にして綾辻氏に苦笑されていた麻耶氏でしたが、なるほど単なる思いつきではなく、「おそらく偽の手がかり問題にいち早く自覚的だったのはヴァン・ダインだろう」というような考えに基づくものではあったようです。

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