『日本幻想文学大全 幻視の系譜』東雅夫編(ちくま文庫)★★★★☆

 日本幻想文学大全の第二巻。主に怪奇寄りだった第一巻に対し、幻想寄りの作品集です。

「松風」観阿弥世阿弥/野上豊一郎編訳室町時代
 ――あの松は古へ、行平の中納言、此の所へ御下向なり、松風村雨と申す、二人の蜑女を御寵愛なされ候、即ちその二人の蜑女の舊跡にて候。逆縁ながら弔ひて通らうずるにて候。

 謡曲。一夜の宿を借りた家のあるじが、「わくらはに問ふ人あらば」の古歌を「懷かし」いと口にして客人をぎょっとさせるのは、現代の怪談にも受け継がれている作法でした。
 

「化鳥」泉鏡花(1897)★★★★★
 ――愉快《おもしろ》いな、愉快いな。菅笠を目深に被って、蓑の裾が長いから脚も見えないで歩行いて行くのは、まるで猪だ。あの洋服を着た男は、鮟鱇だ。「あんまりお猿にからかってはなりませんよ。そう可い塩梅にうつくしい羽の生えた姉さんがいつでもいるんじゃあありません」と母様がおっしゃる。

 国書刊行会から中川学による『絵本 化鳥』が刊行されていて、そちらもたいへん素晴らしい作品でした。「化鳥」のイメージを視覚化することのむずかしさを難なく乗り越えていました。
 

「牛女」小川未明(1919)★★★★☆
 ――大きな女がありました。おしでありました。牛女と呼ばれていたのであります。いつも黒いような着物をきて、子供と二人ぎりでした。やさしく、おおきくて力の強い牛女も、病気になりました。子供は、死んだ母親が恋しくなると、かなたの山を見ました。すると天気のいい日には、母親の黒い姿を見ることができたのです。

 山に見える牛女の姿は、「牛女のように見える影か何か」だと解釈できるし、りんご畑に飛来したこうもりも、残された人がそれを「牛女の霊魂だと感じた」のだと思えば不思議はないのです。童話とはいえ、そのはずなのです――が、村に牛女が現れた場面だけは完全に怪異だとしか考えようがなく、それが作品に(いい意味で)いびつな印象を与えていました。
 

猫町萩原朔太郎(1935)★★★★★
 ――私の通る道筋は、いつも同じように決まっていた。だがその日に限って、ふと知らない横丁を通り抜けた。いつも町の南にあるポストが、北に見えた。いつもは左側にある町家が、右側に移ってしまった。ただこの変化が、すべての町を珍しく新しく見せたのだった。

 たぶんわたしが最初に「幻想文学」を意識した作品だったと思う。この話には三つの幻視の段階があって、一つ目が麻薬中毒、二つ目が方向感覚の混乱、三つ目が猫町となっているのですが、二つ目の段階で術中にはまってしまった、と言っていいでしょう。その段階があるからこその猫町の場面なのだと思います。
 

「魔術師」谷崎潤一郎(1917)★★★★★
 ――浅草の公園を鼻持ちならないと感ずる人に、あの公園を見せたなら何と云うであろう。「ねえあなた、今夜あの公園へ言って見ようではありませんか」と、彼の女が突然、耳元で囁いたのです。「公園にいる魔術師は、余りに眩く美しくて、恋人を持つ身には、近寄らぬ方が安全だと云うのです。でも恋人のあなたと行くのなら、私も決して惑わされる筈はありません……」

 『書物の王国9 両性具有』で既読。幻妖な魔術師の存在もさることながら、これもまた浅草という「町」の物語でもありました。
 

「木魂《すだま》」夢野久作(1934)★★★★★
 ――俺はどうしてコンナ処に立ち佇まっているのだろう……踏切線路の中央に突立って、足下をボンヤリ見詰めているのだろう……汽車が来たら轢き殺されるかも知れないのに……亡くなった妻のキセ子は、十一になった太郎の頭を撫でながら、「お父さんの云付けを守らなくてはいけないよ。どんなに学校が遅くなっても、線路なんぞを歩いてはいけませんよ……」

 東京創元社の『日本探偵小説全集』と島田荘司編『ミステリーの愉しみ』を読んで古い「探偵小説」にはまっていたころ、鮎川哲也編『殺人列車は走る』で読んだことがありました。ここで木魂とは、もう一つの意識のことで、作中では心霊的な説明が為されています。すべてを失ってしまった人が見た幻に、「よかった」と思ってしまうのがつらい。よかったはずなんてないのに。
 

蜜のあわれ室生犀星(1959)★★★★★
 ――「おじさま、お早うございます。」「あ、お早う、好いご機嫌らしいね。」「このあいだね、雑誌にあたいの絵をおかきになったでしょう。」「あ、画いたよ、一疋いる金魚の絵をかいた。」「雑誌社からお礼のお金が着いたでしょう。あたい、歯のお医者様に行きたいんですから、そのお金も頂戴。」

 講談社文芸文庫の表題中篇集で既読。理想の女人を請い求め続けた犀星がたどり着いた到達点は、擬人化された金魚でした。ゆえに変幻自在、おじさまを翻弄するコケティッシュで小悪魔的な「あたし」の姿は、会話文のみで成り立っている本文と相まって、老作家の妄想といってもいいと思うのですが、そう考える隙を与えない魅力にあふれています。
 

「妙な話」芥川龍之介(1921)★★★★★
 ――知っている通り、千枝子の夫は欧州戦役中、地中海に派遣されていた。それが夫の手紙がぱったり来なくなったせいで、神経衰弱がひどくなり出したのだ。ある日、学校友だちに会いに行くと云い出した。――それが妙な話なのだ。停車場へはいると、赤帽の一人が突然千枝子に挨拶をして、「旦那様はお変りありませんか。」と云った。

 『文豪怪談傑作選 芥川龍之介 妖婆』で既読。幻想と現実を縒り合わせる構成が巧みな、芥川のなかで一番好きな作品です。
 

ひかりの素足宮沢賢治(?)★★★☆☆
 ――雪がどんどん落ちて来ます。風が一そうはげしくなりました。「楢夫、僕たちどこへ来たろうね。」一郎は楢夫の頭をなでてやりました。「死んだんだ。」楢夫の足もはだしでひどく傷ついて居りました。「泣かなくってもいいんだよ。あすこの明るいところまで行って見よう。」

 一郎が「にょらいじゅうりょうぼん」と唱えている以上「光のすあし」を持つ大きな人の正体は歴然としているのですが、説教臭さはなく、白くひかる姿は救いに訪れた化鳥のようでした。またそうした明るさの一方では楢夫の死を予言するような昏く冷たい描写もあり、著者の二つの面を見ることができました。
 

「片腕」川端康成(1963)★★★★★
 ――「片腕を一晩お貸ししてもいいわ」と娘は言った。そして右腕を肩からはずすと、それを左手に持って私の膝においた。腕のつけ根であるか、肩のはしであるか、そこにぷっくりと円みがある。肩の円みを見ていると、私には娘の歩く脚も見えた。

 新潮文庫の短篇集および『文豪怪談傑作選 川端康成 片腕』で既読。犀星「蜜のあわれ」と同様、幻想(妄想)とエロティシズムに淫した、「この作品が好き」と人に言うのが(実は)ためらわれるような危うい傑作です。
 

「Kの昇天」梶井基次郎(1926)★★★☆☆
 ――あなたはK君の溺死について、過失だったろうか、自殺だったろうか、自殺ならば、それが何に原因しているのだろうと、思い悩んでいるようであります。いつ頃だったか、満月の晩です。砂浜で会ったK君は、自分の影を見ていた、と申しました。月光による自分の影を視凝めているとそのなかに生物の気配があらわれて来る。

 K君の狂気と、それを語る語り手の狂気。こうなるともはや間違っているのは自分の方なのではないかと疑いたくなってきます。
 

「父を失う話」渡辺温(1927)★★★☆☆
 ――こないだの朝、私が眼をさますと、父が髭を剃り落としていた。「今日は父さんが港へ船を見物に連れて行ってやる。」「ほんと? 素敵だな!」「……ところで今日お前を連れて行ったところで、お前を捨ててしまうつもりなんだよ。」

 いろいろなアンソロジーで既読。渡辺温の作品はどれも多かれ少なかれ不幸をロマンチシズムで覆い隠したようなところがあるのですが、この作品もひどい話を童話のような衣で包み込んでいました。この作品のアンソロジー収録頻度が高いのは、髭を剃るところに変装という探偵小説的なものを感じるから?でしょうか……。
 

「文字禍」中島敦(1942)★★★★☆
 ――文字の霊などというものが、一体、あるものか、どうか。その頃、ニネヴェの宮廷に妙な噂があった。毎夜、図書館の闇の中で、ひそひそと怪しい話し声がするという。どうしても何かの精霊どもの話し声に違いない。

 同じ著者の「名人伝」や「山月記」にも通ずる内容で、そういう意味では新鮮味はありません。が、「舌の無い死霊に、しゃべれる訳がない」といった妙に理屈っぽい態度、「文字の霊」という理解しがたい発想、楔形文字にまで遡る時代背景といった幻視は、いずれよりも遠くへ連れて行ってくれます。
 

「虚空」埴谷雄高(1950)★★★★★
 ――紗帽山の頂上から目をさげたとき、黄褐色にそまった一本の真直ぐな、非常に高い柱がすっくと遙かに立っていた。その柱はためらうように左右へゆっくりよろめき歩いたが、たちまち凄まじい速度で真横に走りはじめた。「旋風だ!」と、私は自身に叫んだ。

 埴谷版、そして山岳版、「メエルシュトレエムに呑まれて」。旋風の描写のほかにも、森の「樹のひとつが倒れることがあります。(中略)次々に将棋倒しとなってひとつの列に打ち倒れてゆくのです。その響きを森のそとで聞いていると、はじめ遥かな天空の果てから近づいてくる遠雷がずしんと大地を揺りたて(中略)轟々と虚空を走ってゆくのに似ているそうです。(中略)それは数十間、数百間、或ときには数哩にわたって凄まじく倒れつづけて行くそうです。」といった、はっとするような文章があります。
 

「百鬼の会」吉田健一(1955)★★★★☆
 ――我々の廻りに集って来たバアの女達が、スミス君が外国人なのを見て、この頃は日本で聞けなくなったような古渡りの英語で話す。天井まで美人に隠されていては、美人を呼吸しているのも同じで、却ってふわふわした感じになり、辺りまでがしんとして来た。

 これはユーモア小説、ということでいいんだと思いますが、酔っ払いの目を通した非日常も立派な「幻視」であることが証明されていました。怪談や神経衰弱のように異世界への型を踏むのではなく、ふわふわした状態からそのまま百鬼夜行の世界へ誘なわれるのが、却って普通の怪談よりも不気味なことになっています。ゾンビの群れに追いかけられるような不気味さがありました。
 

「摩天楼」島尾敏雄(1947)★★★☆☆
 ――私は眼をつぶるだけで、眼の前に微細な細工を組み立てることが出来る。死んだ母の或る時の表情から、私の想像の中丈に存在している市街のようなもの迄を立ち所に建設したり崩したりできる。私はその市街をこっそりNANGASAKUと呼んでいる。

 ガリヴァー旅行記に記されたナンガサクに由来すると思しき都市を訪れる、意識的な空想旅行。
 

「地下街」中井英夫(1970)★★★★☆
 ――心霊術に凝り出した旭日斎天花の引退興行の通知に、降霊術とあるのが眼についた。死者からの呼びかけがもし可能ならという思いは、米倉に妻の香織の仄白い貌をありありと顕たせたのであった。会場に入ると、天花の姪の天嬢が眼くばせめいたものを送ってくる。

 妻と夫それぞれの一筋縄ではいかない負い目が、催眠術の降霊という形を通して、ようやくすっきりと吐き出されるのを読めば、米倉同様に読者の顔にも「倖せそうなほほえみ」と「満足しきった表情」が浮かんでいるに違いありません。
 

「デンドロカカリヤ」安部公房(1949/1952)★★★★☆
 ――コモン君は急に地球の引力を知覚したんだ。まるで地球にはりついたよう……いや、事実はりついたんだ。なんと、足が植物になっているんだ! ぐにゃぐにゃした細い、緑褐色の、木とも草ともつかぬ変形。

 驚いたことにdendrocacalia crepidifoliaという植物は実在するのですね。となると「デンドロカカリヤさん」と呼ぶのは言ってみれば「人間さん」と呼んでいるようなもので、「コモン(Common)君」と何ら変わりはないわけで、つまりはこれはコモン君がコモン君になった話であるのでしょう。自分が植物だとは誰も気づいていないだけで。
 

「少女架刑」吉村昭(1959)★★★☆☆
 ――呼吸が止まった瞬間から、清々しい空気に私は包まれていた。母が書類に捺印すると、私の体は、二人の手で持ち上げられ棺の中にそのまま納められた。「この死体《ライへ》はまだ死んで二時間ぐらいだね」「研究室の連中、喜ぶぜ」メスはまず私の頬に食い込んだ。

 北村薫『名短篇、ここにあり』で読んだときには傑作だと感じたのですが、再読してみるとそれほどには感じませんでした。やはり初読のインパクトが強烈な分、再読すると期待値と記憶補正が差し引かれてしまうようです。少女の死体の一人称だと思われたものが、いつしか死体と意識が乖離しているのですが、少女はそれを不思議には思わず常に「私」と自称しています。だからこそ、最後が怖い。はっきりとした音を立てて、骨が崩れてしまえば、そんな「私」すらついに消えてしまうのではないかと想像してしまって――。
 

「春の寵児」赤江瀑(1983)★★★☆☆
 ――歩いていると、やがて、出口も、入口も、見つからなくなってくる。それでいい。この路地は、それからがたのしみな路地なのだから。ほら、やってきた。ちょうど君くらいの年恰好だろ、あの少年。絵を描きにやってきたんだな。男の裸像のようだ。そして今度は裸婦のようだ。

 学研〈伝奇の匣〉『赤江瀑名作選』にも収録。思春期のあふれる性欲と妄想を肯定的かつ幻想的に実在化させた作品であり、即物的な「オカズ」に対するアンチテーゼとも言えるかもしれません。しかし冷静になって読み返すとちょっと間抜けではあります。
 

「巨刹」倉橋由美子(1961)★★★★☆
 ――午後、わたくしは古い堂で、昨日のKとの愛撫、純粋に精神的な抱擁を追体験していました。あなたの肉体を憶いおこすことが困難なように、Kの肉体についても刻明な線描をこころみることができません。入念な予告につづくあなたの到着――Kとあなたとの危機的でロマネスクな最初の衝突は、早朝の中門でおこなわれたのでした。

 特に非現実な出来事は起こらないのに、芝居がかった行動を芝居がかった言葉で紡ぐことで、非現実の世界が浮かび上がるという好例です。例えば「わたくしは冷静さのあまり血を失い、あなたのまえにはげしく崩れおちてしまったのでした、とはいえあなたにたいする復讐にも似た加害の愉しさに微笑を浮かべながら。」という文章の意味を正確に理解しようと思うと何だかわからなくなってしまうのですが、むしろ理解を拒むような美しさがあるのも事実です。

  


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